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56.十一年前に出会った男の子

「ここは……?」


彼に案内されたのは、足元も危ないような崖先だった。

ここに来るまで、結構な下り坂だったので、転ばないようにするのも一苦労だ。

ドレス姿で山道を歩くのは思った以上にたいへんで、躓きそうになる度に、ヴェリュアンに支えてもらっていた。

崖の向こうは、また山になっているようだ。

もともとひとつの山だったのが、土砂崩れで地形が変わったのだろうか。

そんなことを思いながら、あたりを見渡す。

微かに水の音がするので、この下は川になっているのだろう。


「あまり近付くと危ないから、気をつけてね」


ヴェリュアンがしっかりと私の手を繋ぐ。

陽は既に沈みかけているので、もう日傘はいらなかった。日傘はアンナに預けていた。

崖から、少し離れたところで足を止める。

ヴェリュアンに繋がれた手は、少し痛い。

微かな痛みを感じるけれど──しかし、彼の手が僅かに震えているのを感じて、私はそれを言うことが出来なかった。


「ここで……きみは、出会ったんだ」


「出会った……?」


誰とだろう?

ヴェリュアンとは、先程の草原で出会ったと聞いた。

それなら、一体誰に……。

そう思って尋ねると、ヴェリュアンが私を見る。

どこか辛そうな、悲しそうな──。

痛みを覚えているような、顔。

彼がそんな表情をする理由がわからなくて、瞬く。

困惑する私に、彼が言った。


「……ブランに。きみは、昔、ブランに会ってるんだ。俺と、一緒に」


「え──」


それは思いもしない言葉だった。

驚く私に、彼がまた、手を握る。

痛みを覚えるけれど、やはり痛いとはいえなかった。

だってそれくらい、きっと彼は深く──後悔、している。

痛みを、覚えているのだろう。

過去の出来事に、なにか、心を痛めている。

それが何なのか、それまでは分からなくて、ますます私は混乱した。


「……きみが、物盗りに襲われたのは、この少し向こう」


彼が視線を向けた先は、今しがた私たちが登ってきた道だった。

帰りは、上り坂になるだろう。

ここに来る時は、下り坂だったが──。

は、と気が付いた。


「……ここに、逃げて?」


思い当たったことを口にすると、彼がまた、頷く。


「俺はまだ子供で……。きみを守ることなんて出来なかった。……きみを守れなくて。……しかもきみは、俺に──」


ヴェリュアンがまつ毛を伏せる。

とても、辛そうな声だった。

聞いているだけで、胸を掴まれるような。

慰めたいのに、私は彼を慰める言葉ひとつ、持たない。


「……ごめん。記憶のないきみに言うなんて、ただの自己満足に過ぎないことは理解している。でも……ずっと、謝りたかった。俺のせいで……きみは……酷い目にあった。……記憶を無くすくらい、怖い思いをしたんだ」


「──ヴェリュアン、それは」


過去の出来事を、私が記憶を無くすきっかけとなった事件を詳細にひとから語られるのは初めてだった。

事件後、記憶を失ってから──周りは誰一人、事件について詳しく話そうとはしなかった。

恐らくあれは、お父様にそう命じられていたからだろう。

私が不用意にその出来事を思い出さないように。

きっと、彼の話を聞けば──なにか、思い出すだろう。

予兆のようなものを感じ、彼を呼んだ時だった。


「お話中、失礼します、お嬢様」


背後から声をかけられて、振り返る。

そこには、腰を折った護衛騎士が頭を下げている。

未だに困惑して、頭は上手く回らない。

私は空返事で答えた。


「え、ええ。……どうかした?」


尋ねると、騎士が顔を上げる。


「……一雨来そうですので、お早めにお戻りください。アンナは既に馬車に戻り、支度を整えております」


言われてみれば、確かにアンナの姿が見えない。

私は彼の言葉に頷いた。


「ええ、分かっ──」


不意に、視線を横に向けた時。


丘の上──私たちが、ここに来る途中、通った道の先で。

従僕と騎士が、立っていた。


ただ、それだけのこと。

公爵家に手配された彼らは、常に私とヴェリュアンの身の安全に気を配ってくれている。

今だって、少し離れたところで私たちを警備している。それだけのことなのに。

どうしてか、心臓がどくん、と嫌な音を立てた。


(この……景色……)


いや、光景?

これを──私は、知って……。


時間が止まったような感覚だった。

いやに心臓の音が早い。

私だけ世界に取り残されたような感覚になる。

いやに神経が鋭くなったような感じがして、自分の呼吸が鮮明に聞こえる。


私……わたし、は。

この光景を……知って、いる。


(でも……あの時は……)


そうだ。あの時は夜だった。

陽が暮れてしまって、あたりは暗くなって。

それで。

今のようにあの丘に、ひとが、立って、いて──。

火が、燃えていた。

あれは、松明だ。


『私はいいから、あなたは逃げて!』


『っ……!』


『早く!逃げて!』


悲鳴のような声を振り絞った。

早く、早く、逃げなければ。

逃がさなければ。

私だけじゃない。

彼まで、巻き込んでしまうことになる──。

そうだ。そうだった。


私はあの時、初めて自身の迂闊さを痛感して──。勝手な行動をとった自分を、呪った。

いくら後悔しても、あの場では意味がなかった。


何度も、何度も、転んだ。

この下り坂で。

暗闇の中、走った。

彼が手を握って先導してくれたけど、彼らに回り込まれて──。


崖先に、追い込まれた。


光に埋め尽くされたかのように、眩さが爆発したかのように。

記憶が、光に焼かれた。

それは、なぜ忘れていたのか不思議なほどの、鮮明な記憶。

夏の日。

虫の音が聞こえた。

太陽の陽射しを浴びた。


あの時の私は──。


あの頃の、私は。

ただ、無邪気に。

守られることを当然のように甘受し、世の中を何も知らずにいた、無知で、愚かな少女だった。


それを知ったのは──私は、守られていたのだと知ったのは。

あの日の夜。

私が、記憶を失うきっかけとなった出来事。


物盗りに襲われた──あの時になって、ようやく私は知ったのだった。


「──、……ぁ、あ」


光で視界を焼かれたかのように、私は意味の無い言葉を零した。

咄嗟に口を覆う。


『私はきっと、聖竜騎士と結婚するわ!』


『アリアドネは聖竜騎士が好きなの?』


『好きなのは聖竜騎士じゃなくて聖竜だけど……。でもいずれ結婚するのだから、似たようなものなのかしら』


雨が降っていた。

雷の光が見えた。

声が掻き消えてしまうほどの土砂降りで、何度も手は滑り、数回目にしてついに、繋いだ手は離れてしまった。


いくつもの記憶が重なって、過ぎ去っていく。

その度に、私は過去の出来事をひとつひとつ、思い出していた。

はぁ、と吐いた息は震えていた。


『俺、聖竜騎士になるよ』


『え、あなたが?どうして?』


『どうしても何も、別にいいだろ。……アリアドネは、聖竜騎士と結婚するんだろ?』


『そうだけど……。でも、聖竜騎士になるのは難しいわよ?国内でもふたりしかいないんだから』


『俺が三人目になるよ』


そうだ。

あの草原で、真剣に将来の話をしたのは──ヴェリュアンだった。


桃色の髪の、女の子のように可愛い顔をした、少年。


それが、十一年前。

私が出会った──男の子。


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