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52/66

52.始まりはキスから

紙を持ち上げて、四番目の項目を示して見せると、彼が驚いたように私を見た。

いたたまれなくて、恥ずかしくてどうにかなりそうで。

私はまつ毛を伏せて、彼を見ることなく彼の返答を急かした。


「よろしい、ですね……!?」


「え、だけど」


「はい、か、いいえ、で答えてください!」


羞恥心が振り切って、強めに尋ねると彼がまたびっくりしたように目を見開く。

美人は、そんな顔をしていても美人だ。

まつ毛が長い。

群青の瞳は、開け始めた夜明けの空の色にもよく似ている。

それからヴェリュアンは、驚いたまま、私に気圧されたように頷いた答えた。


「はい…………」


「よし。では、交渉成立ですね!今からこの契約はなかったことにします!」


私は自分の羞恥心を押し隠して高らかにそう宣言すると、ひといきに白い紙──契約書を縦に割いた。

ぴり、という乾いた音が鳴り、すぐにそれは二つに裂けた。

私はそれを数回繰り返して、完全に契約書がただの紙片になったのを確認してから、それをテーブルに置いた。

置き所が無くなった手は、自分の膝の上に。


「…………では、今から私たちは普通の夫婦です。そして、今日は新婚初夜です」


「…………うん」


彼も、ようやく私の言いたいことがわかったのだろう。

真剣な眼差しで、真っ直ぐに私を見つめている。

先程とは違う緊張が走り、私は深く息を吸った。


「……ずっと、言えなくてごめんなさい。あの時……私の誕生日に会った時。言葉が上手くまとまらなかったの。何を言えばいいのか分からなくて、私は何を言いたいのかも分からなかった。……ただ、応えたい、と思った。──烏滸がましい考えかもしれないけど。あなたに、あなたの気持ちに、応えたい、と」


「……うん」


私は、そっと彼の手に触れた。

彼の手は、ひんやりと冷たかった。

私も、緊張に手足が冷たくなっている。

互いに冷たい手で触れながら、私はその手を持ち上げた。

騎士だからだろう。

彼の、細長い指先には、いくつも剣だこができていた。剣を握るものの手だ。

手も、ゴツゴツとしていて固い。

私とは、どこまでも違う。

私は彼の手に触れて──その指先に口付けた。

ヴェリュアンが息を飲むのが分かった。

だけど私はそのまま、まつ毛を伏せて言葉を重ねる。


「……あなたが、好きです。……あなたに、惹かれています」


「──」


「ずっと……。ずっと、私のことを想っていてくれてありがとう。私を忘れずにいてくれてありがとう。私を……探してくれて、ありがとう。……私は未だ、過去の記憶を思い出せていませんが、それでも今、あなたを愛しい……と思う気持ちは、確かなものだと思います」


「シドローネ」


ぐっと手を引かれて、そのまま抱きしめられた。

レモングラスの香水の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。

彼の手は、少し、震えているように思えた。


「……俺の、自己満足なんじゃないかと思った。きみはもう、俺のことなんて忘れて、ほかの男と想いを交わしてるかもしれない。そう思ったことも、一度や二度の話じゃない」


「……忘れてしまって、ごめんなさい」


「いや……俺も、すぐにきみが、きみだと気付かなかった。それに、きみの場合は──」


ヴェリュアンはなにか言いかけたが、しかしその先を続ける気はないようだった。

私の髪に触れ、眉を寄せ──苦しそうに、笑う。


「俺は今、すごく嬉しいんだ。きみに触れることを許された。きみの心に触れることを、許された。……俺の想いは、多分、十年の月日の中で変わってしまったのだと思う。昔のように、ただ、きみが好き、という感情だけではなく──もっと、執着めいたものになった。俺はもう、きみを手放せない」


「……すごい、愛の告白、ね?」


恥ずかしくて、少し茶化すように言うと、彼もまた照れたようにまつ毛を伏せた。

だけど発言を撤回することはなく──真っ直ぐに、私を見つめる。

ほんのり、目尻は赤く染まったままで。


「真実だよ。……俺の、本心だ」


視線が絡み、どちらともなくまつ毛を伏せる。

そして──ゆっくり、自然な流れで、私たちは二度目の口付けを交わした。

一度目は、口端だったし、口付けと言っていいのかは分からないが、キスをしたのは、これで二回目だ。

触れるだけの口付けだったが、それは丁寧で優しくて、心が温まるような触れ合いだった。


とても、優しくて、あたたかい。

この時間がとても幸せで──幸福だ、と思った。


彼が、ヴェリュアンが、私を想ってくれているのが分かるから。

だから、口付けひとつで、こんなにも心が満たされる。

こんなにも、心が揺れるのだ。

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