40.あなたが、私に教えてくれますか
「違っ……!」
彼が慌てたように声を上げた。
私は、彼の言葉を遮るようにさらに言葉を続けた。
「何が違うの?あなたは、十歳の少女をずっと……十六になってなお、想い続けていたのでしょう?私の疑問は、当然のものだと思うけど」
性的嗜好はひとそれぞれだと言うけれど、彼が関係を結びたいのが、十年前の私であるなら、彼の求めには応えられない自信がある。
もはや私は、十歳の少女ではなく、二十を迎えた娘なのだから。
私の攻撃性を孕んだ言葉に、ヴェリュアンがたじろぐのが見える。
なにか言おうとして、だけどそれは言葉にならなかったのだろう。
言葉を探すようにしばらく彼は固まっていたが──やがてぐしゃり、と結われていない緋色の髪を無造作に掻き乱した。
「分かって言ってるよね……!?」
「何を?」
「俺が……!その……契約を」
彼は妙にまごつきながら、視線を逸らした。
暗闇の中でなお、その目尻が赤く染っているのを見て、私は満足した。
「契約ではわかりません。はっきりと仰って」
「……怒ってる?」
「何を?」
「いろいろ……。突然話して、混乱させたことに対して?」
彼は疑問文で答えた。
それでいて、それしかないと思っているような声だった。
なるほど、十年前、私と彼がどんな関係だったのか、どれほどの期間一緒にいたのかは分からないけれど──彼は私のことをよく理解しているようだった。
十年前、彼と私が会っていたというのは、やはり本当のことらしい。
今になって、強く実感する。
「俺が……未来を、と考えたのはシドローネ。あなただ。アリアドネ──彼女のことももちろん好きだった。でも多分、それは愛ではない。──幼い恋だったんだ。俺は、十年前に約束した彼女と会うことは考えていても、明確にその先を想像したことはなかった。……十年を経て、彼女がどう想像しているかも分からなかったし、そもそも俺を覚えているかもわからなかったから」
「つまり?」
「今すぐどうこう、ってわけじゃない。ただ、長い目で見た時に──きみと、家族になりたい。……そう思って、契約はなしにしたいと……そう思った」
「……あなたは、私がアリアドネだから私を好きになったの?それとも、シドローネとして出会った私を……?」
単純な疑問だった。
彼は、まるで十年前に出会った私と、今の私が別人であるかのように区分するから。
私に記憶はないけれど、彼にとって私という人物はひとりのはずだ。
ヴェリュアンは、少し困ったような顔をしたが、やがてわずかに苦笑した。
「……俺は不義理なんだ。彼女に……。アリアドネに。彼女を想っている。忘れずにいると誓ったくせに……きみに惹かれていた。俺は、今誰を好きなのか、想っているのか、分からなくなる夜もあった」
「…………」
「きみの質問の答えは、後者だよ。俺は、シドローネを好きになった。アリアドネだから、きみを好きになったんじゃない。十六の今出会ったシドローネ、という女性に惹かれたんだ。……共に、いたいと思った」
彼は、そこで言葉を区切ると、今度こそ席を立った。
そして、私の前まで歩くと、跪く。
緋色の髪が、ふわりと、胸元に広がった。
「だから、考えて欲しい。俺との、未来を」
「…………」
私は、自身の指先を強く握る。
未来を──彼との未来なら、既に私も望んでいる。
だけどきっとそれは、彼が望むものとは違うのだろう。
「私は……」
ぽつり、言う。
蝋燭の火が揺れる。
蝋燭の減り具合から、結構な時間が経過していることを知った。
暗い室内の中、私は独白するように静かに言葉を重ねた。
「私は、恋愛感情というものが分かりません」
「…………うん」
「だから、あなたに……あの時。他に想うひとがいる、と言われた時、『これは使えるかもしれない』と思ったのです。あなたには失礼な話かもしれませんが……私は、チャンスだと思ったのです」
「うん」
「ひとを愛さなくても……いえ、異性愛を持たずとも、夫婦の関係を築ける。私は……この歳まで、恋愛感情というものを持ったことがありません。周りの友人たちは、多かれ少なかれ、社交デビューをすると、恋愛感情というものを抱くようです。ですが、私は彼女たちの言うような感情を抱いたことはありません。……胸が苦しくなるような、甘酸っぱい感情、とか。視線が絡んだだけで、胸がときめいて、どうしようもなくなる、とか」
彼女たちが話していたことを一部抜粋すれば、ヴェリュアンがあからさまに困惑した様子を見せた。
彼女たちの表現について、彼も思うところがあるのかもしれない。
男性と女性では、異性愛への感情の抱き方が異なるのだろう。
面食らった様子の彼には気付いていたが、私らさらに言葉を続けた。
「私は彼女たちの話を聞いて……なんだか、危ない薬の効能みたいだな、と思いました。そして同時に、その感想を抱いた時、私は痛感もしました。とことん、私には恋愛というものは向いてないのだと」
「それは」
なにか言いかけた彼を制止するように、私は彼の名を呼んだ。
「ヴェリュアン」
顔をあげれば、彼もまた私を見ていた。
彼は、わずかに眉を寄せ──困惑した様子を見せている。
部屋には、私とヴェリュアンのふたりきり。
ふたりしかいない室内は、とても静かだ。
暗く、静かな──夜の気配が濃厚な室内で、私は彼を見た。
私と、ヴェリュアンは十年前に出会っていたらしい。
そして──そこで、何があったのか、私は知らない。
記憶のない私は、過去、彼とどんなやり取りを交わしたのか、どういう関係だったのか、全く分からない。
推察するだけなら可能だが、それは真実とは限らない。
むしろ、真実ではない可能性の方が高いだろう。
(知りたいと、思っていた)
十年以上前の記憶を失ったまま、生きて、私は死ぬのだろうか。
過去の思い出も、記憶も、全て忘れ去って、無かったことにして生きていくのだろうか。
そう考えていたのは、ちょうど昨日のことだった。
私も──可能なら、記憶を取り戻したい。
過去の思い出を、ふたたび、思い出したい。
そう思っているのだ。
私は、ヴェリュアンを真っ直ぐ見つめた。
「……あなたが、私に教えてくれますか」




