38.探していた女性
それが、腹立たしい。
裏切られたように感じる。
彼だけは、ヴェリュアンだけは、無条件に信じても良い男性だと思ったのに。
異性愛はなくとも、夫婦の絆は、信頼は持てると、そう思っていたのに。
それすら、仮初のものだったのだろうか。
ヴェリュアンは言葉を探すように──私に言われっぱなしだったが、やがてちいさく息を吐いた。
「あなたの言うとおりです。俺は、あなたと過ごすうちに、自分でも気が付かない間に、あなたに惹かれていました。だけど俺は、それを自覚することを無意識に拒んでいたのです。それは、彼女への、裏切りになるから、と」
「…………」
「だけど、そこまで責められることでもないはずです。そもそも俺は、彼女と恋人ではない。それどころか、十年前に会ったきりなのですから」
「え……そう、なの」
初めて会った時の彼の言葉を思い出す。
『ただ、彼女──あるひとを探すために必死になっていたら、いつの間にか爵位を得ていただけの話』
それを聞いて、過去、恋人と離れ離れになったという経緯があったためにそう話しているのかと思った。
だけどまさか、恋人ですらなかったなんて。
それに、先程も聞いたが十年前とは結構な昔だ。
十年前といえば、ヴェリュアンは六歳。
彼は、六歳の時に会った女性を探しているのだろうか。それも、想いを伝えることなく別れることになった女性を?
それは何とも──いじらしいな、と思った。
そして、こうも思った。
十年前に会った女性のことを、彼は十年間探しているのだ。幼い初恋を、実らせるために。
「そうですか……」
私は、ちいさく呟いた。
十年。それはあまりにも長い。
彼が十年、その感情を抱いていたことの方が、よほど珍しい。
恋に愛に溢れている社交界で、その想いを抱いたままでいられるなんて。
「……ごめんなさい。さっき、私はとてもあなたを責めてしまったけど……私が言うことではありませんでした」
『私も、彼女も失いたくない』という彼の発言を聞いて、頭がカッとなった。
それはあまりにも都合がいいのではないか、と思って。
だけど彼も言ったとおり、私は彼を責める立場にはない。
たとえ、その彼女であったとしてもできないだろう。
なぜなら彼女とヴェリュアンは恋人という関係でもなければ、十年前に会ったきり、だというのだから。
誰も彼を責められない。
もし彼が責められるのだとしたら、彼以上に不義理を果たしている社交界の面々はみな処刑にされてしまうだろう。
それは分かっている。
理解している。
それでも、感情はうまく飲み下せない。
法的に問題は無いからと、誰も責めないからと、だからといって『あら、そうなのね』と受け入れることは、私にはできない。
「聞いてください。シドローネ。私は、シドローネという女性に惹かれました。でも確かに、彼女に、アリアドネに惹かれたのも、また事実です」
「アリアドネ……?」
急に私の真名が出てきたので、困惑する。
(あ……そういえば)
彼はやけに、アリアドネという名前を気にしていた。
社交界でその名を持つ女性は何人いるか、と尋ねられた時のことを思い出す。
『……知り合いにもその名を持つひとがいるので。少し気になっただけです』
あれはもしかして、彼の想い人のことを指していたのか。
今更ながら、答え合わせをしたような気持ちになった。
私が沈黙していると、彼が顔を上げた。
群青の瞳は、薄暗い部屋の中でいつもより暗く見える。
それでも、力強い光を宿して──彼が言った。
「公爵家の方々は、あなたに過去を……記憶を思い出させることを避けたがっている。ですが俺は……俺は、シドローネ。…………きみに、思い出して欲しい……」
ぽつり、呟くような声だった。
「思い、出して……?」
困惑した声が出る。
彼は、私の言葉に頷いて答えた。
「……十年前、俺が出会い、この十年間ずっと探していた【彼女】は──きみだよ、アリアドネ」




