37.「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ハーブティーを飲んで、アンナが下がって。
部屋には私ひとりとなる。
燭台を手に、彼の訪れを息を詰めて待つ。
どうしてか、時間が経てば経つほど、緊張感が増していった。
どれほど時間が経っただろうか。
蝋燭の減り具合からして、そんなに長い時間は経過していないようだった。
それでも、私にはとても長く感じたが──。
控えめに、扉がノックされる。
私はその音を聞いて、足音を忍ばせながら扉に向かった。
錠を開け、扉を薄く開くと、そこにはヴェリュアンがいた。
彼の手に燭台はない。
「……燭台もなしに歩くのは、危ないのでは無いですか?」
ちいさく尋ねると、彼が苦笑する。
時間を置いたことで、彼もまた考えの整理が出来たのだろうか。
先程までの張り詰めたような空気感はなく、少し柔らかな雰囲気になっていた。
それでも、いつもとは様子が違うのだが。
きっと、私も。
互いにぎこちない沈黙を重ねたところで、私は彼に言った。
「入ってください」
「……ありがとうございます」
彼が囁くように良い、するりと部屋に入ってくる。
私の横を通る時、ぽつりと彼が言った。
「人目を忍んで夜に逢瀬を重ねるのは、初めてのことです」
「そうですか」
「こうも……緊張するものなのですね」
独り言のようにヴェリュアンが言う。
私は彼の言葉の真意が気になって、眉を寄せた。
ソファを勧めると、彼が首肯し、腰を下ろす。
私もまた、彼の対面に座った。
「本題に入りましょう。ヴェリュアン、あなたはなぜあの契約を──。いいえ、違いますね。私が聞きたいのは……具体的に、あの契約のどの項目を、無効にしたいのか。契約事項は、四つあったはずです」
手元に契約書がないので確認できないが、四項目を頭に思い浮かべる。
テーブルに燭台を置くと、ほのかな灯りが彼を照らした。
もう夜も遅いと言うのに、未だ彼は、髪を結んだままだった。
「……全てです。俺は、あの契約書そのものを無かったことにしたい。……虫が良すぎる、ということはよく理解しています」
彼の声も、先程よりゆっくりとしていた。
先程の彼は、話す、というよりも語る、と言った方が正しいように感じたが、今の彼は私と話す余裕があるように見えた。
もっとも、先程は限られた時間内に話そうとしたことで、ああいった話し方になってしまったのかもしれないが。
それでも、時間を経たことで、心境にも変化があったのでは無いかと思った。
契約書そのものを無かったことにしたい。
その言葉の意味を考えて──考えようとして、私は困惑した。
そして、ほんの少し躊躇いながら、それでもくちびるを湿らせて、ようやく言葉にする。
「それは……夜の、いわゆる夫婦の行為を、あなたは私に望む、と?」
「そう思っていただいて構いません」
「わかりません。あなたには、想う方がいるのですよね?先程も、その方のことをずっと、今も想っているとあなたは言った。あれは嘘なのですか?」
「嘘ではありません。シドローネ、聞いてください。……たしかに俺の行動は、あなたからみて誠実さに欠けているように見えているのかもしれません。いや、実際、俺は誠実ではないのでしょう。彼女に対しても……あなたに対しても。それでも、俺はあなたも……そして彼女も、失いたくないと思った」
「…………」
細く、息を吐く。
そうでないと、ほのかに燻った怒りを逃がすことが出来なかったから。
私は、できる限り──落ち着いた声を出そうと試みた。
「そうですか。……あなたの、想い、とやらは…… そんな簡単に変わってしまうものなのですね」
「それは」
「残念です、とても。私は初めてあなたに会った時、あなたの気持ちを聞いた時──素敵だな、と思ったのですよ。それは本心です。ずっと変わらない、大切な想い。あなたはずっとそれを大切に慈しみ、守ってきたのでしょう?あんなにも……大事に、さも大切なのだと、そう言わんばかりだったではないですか。あなたの言う想いは、そんな軽いものだったのですか」
硬い声で、私は彼を問い詰めた。
彼は最初、私との結婚を嫌がった。
彼女──彼の想い人のためなら、聖竜騎士を辞しても構わないという様子だったのだ。
それなのになぜ、どうして。
突然私を望むという話になるのだろうか。
彼も結局、ひとりの男性ということなのだろうか。
私の強い言葉に、彼は反論を持たないようにまつ毛を伏せた。
苦しそうな顔をしているが、納得できないものは納得できないのだから仕方ない。
婚約者が、白い結婚をやめたいという。
本来ならそれは喜ぶべきことなのだろう。
シャロン公爵家のことを考えても、直系の子が生まれるのだから喜ぶべきことだ。
だけどそれでも、私はどうしても素直に喜ぶことが出来なかった。
(やはりやめたい?契約をなかったことに?私も、彼女も失いたくないから?)
ばかにしている。
私も、その彼女のことも。
それに、言葉だけ切りとって見れば、彼はただ私と関係を持ちたいだけのようにも思える。
それが、腹立たしい。
裏切られたように感じる。
彼だけは、ヴェリュアンだけは、無条件に信じても良い男性だと思ったのに。
異性愛はなくとも、夫婦の絆は、信頼は持てると、そう思っていたのに。
それすら、仮初のものだったのだろうか。




