33.初恋の相手は 【ヴェリュアン】
「ふふ、嬉しいわ。アリアドネと……シドローネと、またあなたに会えるなんて」
公爵夫人、エリザベスはそう言うと、上品に笑った。
口元に手を添えて、瞳を細めてヴェリュアンを見る。
彼はそんな彼女の近くに用意された椅子に腰掛けた。
ハンナは、静かに壁際に控えている。
公爵夫人に長年仕えているだけあって、所作に無駄なものがない。
今も、ふたりの会話が聞こえない位置で待機している。
もっとも、大きな声で話せば聞こえてしまうだろうが。
公爵夫人は、どこか懐かしむようにヴェリュアンを見ていた。
「……公爵夫人は、」
「あら、お義母様、と呼んでくださっていいのよ?ヴェリュアンさん」
「…………」
茶目っ気たっぷりに言う夫人は、肯定以外の返答を受け入れる様子はなかった。
それに石を飲んだように固まったヴェリュアンは、だけどやがて、ぎこちなくその名を呼んだ。
「お義母……様」
「ええ、ええ!とてもよろしいわ。ヴェリュアンさん。それで、何かしら。シドローネについて?あの娘、すっかり大人っぽくなったわね。あのひとから毎年肖像画をいただいてはいるのだけど、やっぱり話してみると全然印象が違うわ。ヴェリュアンさんも、そう思ったのではなくて?」
「シドローネのことですか?」
「そうよ。昔はお転婆で、無茶ばかりして……公爵家の娘だというのに、ワンピースを泥だらけにして帰ってきたこともあったの」
くすくす、と夫人は上品に笑う。
シドローネと同じ青色の髪が、ゆるくカーブを描いて揺れる。
「それは……今の姿からは想像もつきませんね」
「あら?ヴェリュアンさんは知っているはずよ。何なら、あの時のいちばんの犠牲者……じゃなくて、連れ回されていたのはあなたでしょう?アリアドネ……シドローネが、無茶を言ってあなたを困らせたみたいで、ごめんなさいね。ずっと思ってたのよ」
「は……?俺…………?」
夫人の言葉に、ヴェリュアンは固まった。
見事に、石のように硬直した。
夫人相手に「は?」とは無礼にも程があるが、それ以外の言葉が出てこない。
頭は真っ白だ。
(連れ回されていた……俺が?)
そのフレーズだけが、やけに頭に残った。
あの夏の日。
ヴェリュアンは、突然現れた青髪の少女に連れられて、様々なところに行った。
それは、大人に危ないから行くな、と言われていた滝だったり、迷いの森と言われている場所だったり。
彼女──アリアドネは、珍しいものが大好きで。
特に、花や草など、目にしたことがないものを見れば、必ずそこで立ち止まった。
動揺し、息を飲むヴェリュアンに気づかないまま、夫人がころころ笑う。
「アリアドネったら、将来はあなたと結婚するって言って……。子供の約束だと思っていたのだけど、まさか本当に叶えてしまうなんて。ふふ、素敵な話だわ。あの時のアリアドネはほんとうに……ほんとうに、楽しそうで──…………。ヴェリュアンさん?」
そこで、ようやく夫人はヴェリュアンの様子がおかしいことに気がついたのだろう。
首を傾げて彼を見る。
だけど、ヴェリュアンは答えられなかった。
『きっと、聖竜騎士と結婚するんだから!』
怒ったように言う彼女を見て、聖竜騎士というものになろうと思った。
当時は、聖竜騎士がどういうものなのか、彼にはよくわかっていなかった。
『髪には、魔力が宿ると言われているのよ。だから、あなたが本当に聖竜騎士を目指すと言うなら──これを』
彼が聖竜騎士を目指すと言うと、彼女は嬉しそうにはにかんで、それから、彼女がいつも身につけていたリボンを、彼に託してくれた。
それが、いつも彼が使っている青のリボンだ。
点と点が、繋がっていく。
いや、前から薄々、その可能性に気がついてはいた。
だけど、確信はまだないと、自らその可能性を否定していた。
なぜなら──もしそれが、ただの仮定に過ぎず。
ほんとうの【アリアドネ】が現れたとしたら。
どうすればいいか、分からなかったから。
過去の記憶だけを頼りに、それだけを大切に、慈しみ、それだけの想いで素直に彼女を抱きしめられる自信は、もうなかった。
きっと、どこかで引っかかる。
自分は、思い出だけを追い求めて──ただ、それに拘っているのではないか、と。
シドローネと接する度に、彼女の素の性格を知る度に。
知らず知らずのうちに。
自分でも気が付かないほどに──心を、傾け始めていた。
だけどそれは、アリアドネへの裏切りになると、彼は意図的に自覚することを避けた。
だけど、それは、きっと正しい行いではない。
もし、ほんとうにアリアドネが彼女でなく、ほかの人間が『私がアリアドネよ』と出てきて。
彼女と結ばれたとしても──それは、きっと、偽りで、自分の感情すら誤魔化した上で成り立つものだ。
そして、そんな歪な感情は、ハリボテの関係は、いずれ瓦解するのが相場と決まっている。
いつかくる【終わり】を意識しながら、その日を少しでも後にする努力をする毎日など、虚しすぎる。
アリアドネにも、シドローネにも失礼だ。
彼は、誤魔化していた感情を、自身の狡さを、姑息さを自覚した。
ヴェリュアンが動揺し、思いもしない事実に衝撃を受けていると。
夫人が、ヴェリュアンをじっと見つめた。
「……どうか、したの?」
それにようやく、ヴェリュアンは我に返る。
慌てて顔を上げて、そして何を言えばいいかわからず、言葉を飲み込む。
そんな彼を心配そうに見ていた夫人だが、やがて、訳知り顔で何度か頷いて見せた。
「そうよね。あなたたちは若いのだから、まだまだ悩むし、考えることもたくさんあるでしょう。たくさん悩んで、考えて、きっと、遠回りもして。無駄な時間だと、後から思うようなこともあるでしょう。でも、その無駄だった時間すら、きっと、そこに辿り着くために必要な道だと私は思うの。それが分かるには、とても、それこそ私くらいの年齢になってからだと思うけど……でも、急がないで。急いで出した答えには、きっと、本心でないものも混ざってしまうから」
夫人は、瞳を細めて、やけに優しい顔で言った。
ヴェリュアンは、戸惑った。
彼の両親は、もう亡くなっている。
それは流行病によるものだったが、両親が亡くなって以降、彼にこうして優しく諭してくれたひとは──女性は、今までいなかった。
夫人は、まるでヴェリュアンを自身の子のように慈愛のこもった瞳で見つめた。
「老婆心からとやかく言ってごめんなさいね。でも、これは、親の欲目かもしれないけど──アリアドネは、彼女は、誰かのために優しく出来る娘なの。あなたには、それだけ知っていて欲しい……というのは、やっぱり親の欲目かしらね」
くすくす笑う夫人に、ようやくヴェリュアンは金縛りが解けたように、息ができるようになった。
そして、ようやく思考も回り出す。
強ばって、絡まりあっていた糸が解けるように、言葉の整理がつく。
「……十年前の夏の日。俺……私と、同じ時を過ごしてくれたのは、彼女ですか?」
そうだ。
聞きたいのはずっと、それだった。
夫人の言葉に、頭が冴えた気持ちだった。
ヴェリュアンの真っ直ぐな視線を受け、夫人は静かに頷いた。
「ええ。……そうよ。あの頃はあの娘は、アリアドネ、と名乗っていたようだけど。偽名のつもりだと、言っていたわ。真名を名乗って偽名も何も無いでしょうにね」
 




