18.記憶の欠片
リラント地方に入ったのは、王都を出てから五日後のことだった。
そこまで行くともうすっかり周りは緑しかない。
私は初めての光景に目を奪われていた。
「わぁ……本当に緑が多いですね!あっ、あれはリス……?可愛い。一瞬しか見えませんでしたが、とても小さいのですね。そしてすばしっこい!また見れないかしら……」
「今のはハタリスですね。リラント地方ではよく見かけますよ。この辺は、山が多いので特に」
「そうなのですか……!王都では見たことがなかったので、とても嬉しいです。あんなに小さくて……可愛らしい……」
ほんの一瞬しか見ることが叶わなかったが、あの小ささとつぶらな瞳はしっかりと目に焼き付いている。
難しいだろうが、手に乗せたらもっと愛くるしいだろう。
私は頬に片手を当てて、リスに思いを馳せた。
「動物というものはとても可愛いですね……。先日見た、放牧中の牛も人懐っこかったですし」
「髪を食べられてませんでしたか……?」
「子牛なんて、とっても無邪気で可愛らしくて!」
「蹴られてましたよね」
「羊も可愛らしくて、あんなにふわふわだと思いませんでした……!」
「体当たりされそうになってませんでした……?」
ヴェリュアンの突っ込みを気にせず、私はこの数日の間に見かけた動物のことを思い出す。
それこそ、教育係やお父様に知られたら眉を寄せるどころの騒ぎではないが、ここには幼い頃から私を知るメイドと従僕、護衛騎士、そしてヴェリュアンしかいない。
特に、私は幼少期、とてもお転婆だったようで、強く咎められることはなかった。
私は、羊の毛の手触りを思い出しながらヴェリュアンを見た。
「バジルに頭突きされそうになって、庇ってくれたのはヴェリュアンでしたね。先日もお礼を言いましたが──改めて。ありがとうございます。助かりました。私であれば、彼の頭突きには耐えられなかったでしょうから」
あの牧場で飼育されている羊はみな、羊飼いの趣向でハーブの名前をつけられているらしい。
それもまた、親近感が湧いた。
私はハーブの香りが好きだからだ。
私が笑って言うと、彼はため息を吐いた。
「笑い事ではありませんよ。あの時は本当に肝が冷えました。もし怪我をされたらどうするのですか」
「アンナと同じことを言うのですね。でも、大丈夫です。ダンスレッスンでは、何度となく足をくじいているのですよ?怪我など今更です」
「そうではなくてですね」
「分かっています。私が怪我をしたら、周りの人間が叱られる、ということでしょう?ちゃんと気をつけています。怪我をしても、黙っていればいいのです。あざなどは、放っておけば消えますし、足をくじいても冷感効果のあるハーブを練り込んで貼り付けておけば──」
「そうではなくて!ああもう、シドローネ。あなたは、シャロン公爵家の一人娘で、王家に連なる家柄の方なのですよ。私などに言われずとも理解しているかと思いますが、あなたはとても尊い御身なのです。あなたには……自身の大切さ、というものを理解していただく必要があります」
「あら……」
どうやら、本心からそう思っているらしい。
結構な勢いで窘められる。
真っ直ぐに、真摯にそう注意されては──私も笑ってはいられない。
居住まいを正して、彼の言葉に答えた。
「確かに──私の家柄は、ロザリアンの中でももっとも格式が高い、と言っていいでしょう。でも、私本人にはそこまで価値はありません」
「シドローネ」
「ヴェリュアン。ひとの価値というのは、肩書きや身分ではなく、中身の質。つまり内容で決まるものだと私は思うのです。例えば、やたら身分が高くても、行っていることがそれに伴わなければ、そのひとに価値はないと思います。史実を紐解いてみても、暴虐な権力者はいつの世も、処刑されるのが常ですし」
「……そうでは、なくてですね」
ヴェリュアンが、なにやら疲れたように呻いた。
私はちらりと彼を見てから、また窓の外に視線を向ける。
「ヴェリュアン、そろそろ着きます。もう少しで、シャロン公爵家が所有する別邸の管理人、ザックス・リベルアの邸宅です」
ザックス・リベルアはこの地を治める領主でもある。
リラント地方は、シャロン公爵家が有する領地だが、お父様は王都から離れられないので、それぞれその地に縁ある権力者に統治を任せているのだ。
ザックス・リベルアの邸宅に到着すると、ザックスと思わしき人物が、玄関口まで出迎えに来た。
先んじて先触れを出していたので、私たちの到着時刻を見越して待っていてくれたのだろう。
(リスに見蕩れて、時間を取らなくて良かったわ)
もし馬車から降りてリスを探索し始めでもしたら、きっとザックスを待たせることになっていただろう。
いや、さすがに先触れを出している以上──そもそも旅の途中で、動物を見かけたからと言って馬車をとめ、自然を楽しむほど、我を忘れているつもりはないけれど。
先にヴェリュアンが降り、彼の手を借りて私も馬車から降りた。
ザックスは目を細めながら私を見て言った。
「シドローネお嬢様!お久しゅうございますなぁ」
「……久しぶり?」
目を瞬いて言うと、彼は満足そうに頷いた。
「ええ。覚えていらっしゃいませんか?お嬢様は十年前──」
「会話途中、失礼いたします。ザックス、お嬢様とヴィネハス卿は長旅のため、疲れていらっしゃいます。すぐにお部屋の案内と、入浴の準備を」
アンナが、割り込むように彼に言う。
それで、彼がザックスで間違いないということを私は知った。
(十年前に……?)
私には、十年以上前の記憶が無い。
だけど、幼少期にここを訪れたことがある、ということだろうか。
これは後で、アンナに尋ねよう。
そう思っていると、話を遮られたザックスは、目を白黒させながら頷いてみせた。
「は、はぁ。かしこまりました。デボラ、ベラード!お嬢様がたを部屋に案内なさい」
ザックスが背後を振り向いて呼びかけると、後ろに控えていた女性と男性が前に進み出た。
背の高いザックスの影に隠れて、気が付かなかった。
私が目を丸くしていると、ザックスが微笑んで言った。
「うちの息子と、娘です。ご滞在中の世話は、ふたりにお任せください」
「デボラです」
「ベラードです」
ふたりが、丁寧に頭を下げる。
それを見て私もはっと我に返り、頷いて答えた。
「シドローネ・シャロンです。こちらが、私の婚約者、ヴェリュアン・ヴィネハス卿。明日には出立しますが、滞在中、面倒をかけます」
「いいえ」
短く答えたのが、デボラだ。
長い、艶やかな黒髪は、同性の私ですらどきりとする色っぽさがある。
「滞在中、ご不便がないよう──誠心誠意、尽くさせていただきます」




