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16.名ばかりの婚約者ですが

「……~~~ッ!?」


自分で差し出しておきながら、いざ匂いを嗅がれるとどうしようもなく恥ずかしくなった。

彼のくちびるが、鼻先が、今にも素肌に触れそうだった。

僅かな吐息を感じて、彼が呼吸していることを知る。

つまり、それだけ私の手首と彼の口元が近いことを意味していて。


──一気に頬が熱を持つ。


今度は私が全身強ばらせ硬直していると、しかしそれには気がついていない様子のヴェリュアンが静かに頷いた。


「……ああ、確かに。少し甘いですが──ラベンダーの香りがしますね。これは、白檀(サンダルウッド)ですか?それとも──」


「ば、バニラです。バニラの精油を少し多めに……。あの、そろそろ手を離していただいても……?」


指摘すると、そこでようやく私の手首をがっしり掴んでいることに気がついたらしい。

ヴェリュアンは慌てた様子で私の手を解放した。

思わず、胸の前で手首を掴む。

彼に触れられたところの感覚は、未だ鮮明に残っている。


異性に素肌を触れられたのは、これが初めてだった。

ダンスの時だって、触れられるのは肩や腰、レース編みの手袋を着けている手のひらのみ。

こんな些細な触れ合いですら動揺してしまう自分を情けないく思いながらも、私は短く息を吐いた。


「……申し訳ありません、つい。ご自身で調合されるのですか?」


気まずい空気を払拭するためだろう。

彼が、話題を探すように尋ねてきた。

このままギクシャクするのは私も嫌だったので、頷いて答える。


「はい。令嬢として恥ずべきことであることは理解しているのですが」


「こう言ってはなんですが、私は元々平民ですし。貴族のご令嬢が香水をご自身で作るくらい、何とも思いません。しかし、常々思いますが貴族というのは何かと制約の多いものなのですね……」


ため息混じりに彼が言うので、私は苦笑した。


「貴族には様々な特権があります。民を導き、民の上に立つ。貴族として、その立場による利益を得ているのなら、その立場に見合った行動をすべき、と私も思っています。つまり、貴族の義務ノブレス・オブリージュというものですね。……たかが貴族の娘に過ぎない私が偉そうに言うことでもありませんが」


ノブレス・オブリージュを正確に果たしているのは、貴族の当主である私の父だったり、爵位を持ち、領地を治めている人間だ。

私はただ、令嬢としてもとめられた姿を演じているだけに過ぎない。

そう思って苦笑していると、しかし、ヴェリュアンはなぜか私を真っ直ぐ見てきた。

それに少し、困惑する。


「あ、あの……?」


「ああ、いえ。失礼しました。……思えば、私はあなたと今まであまり話すことがなかったな、と思いまして。私は、あなたをあまりにも知らない。貴族のご令嬢というものはもっと、悠々自適、といいますか、好きなように……といいますか。あまり物事に縛られているイメージがありませんでした」


呟くように彼が言う。

物事に縛られているイメージがない。

それは、彼が抱く【貴族令嬢】のイメージだろう。

そしてそれは、平民が思う貴族像と言ってもいい。

私は、脱いだままだったレース編み手袋を嵌め直した。

ちら、とヴェリアンが私を見る。

まるで、探るように。

それは、叱られることに怯える子犬のようでもあって、思わず笑みがこぼれてしまう。


「すみません、気分を害しましたか」


「いいえ?素直な方だな、と思いました。以前も思いましたが……。ヴェリュアンは、とても素直に感情を表すのですね。素敵なことだと思います」


静かに言うと、彼は石を飲んだように固まった。

だけどやがて、大きくため息を吐く。


「……貴族らしくない、ということでしょうか」


「らしいか、らしくないか、の二択で言えば確かにそうでしょうね。でも私は、貴族らしいから魅力がある、とは思いません。特にあなたは、平民から聖竜騎士爵を叙爵されましたし……。であれば、あなたにはあなたらしさがあって()いかと思います。言ったでしょう?あなたに不足しているところは私が補う、と。私たちは夫婦になるのですから。ね?」


顔を覗くように下から見つめ上げる。

突然のことに驚いたのか、彼は少し戸惑った様子を見せたが、やがて躊躇いがちに言った。


「……何もかも、あなたに任せるのは」


「ですから、折半、ということで。私にできることは私が。あなたにできることはあなたが。互いに、できることをしましょう。私にできないことでもあなたが。あなたができなくても私が。そうして、うまくやっていければいいと思うのです」


私が言うと、彼は私をじっと見つめた後──気が抜けたように笑った。


「ふ……。なんだかあなたには驚かされてばかりです。貴族のご令嬢にもこんな方がいるとは思いませんでした」


「それは、褒め言葉と受け取ってもよろしくて?」


「もちろんです。私はもっと貴族のご令嬢は高圧的で──いえ、すみません。もっと……押しが強く、その」


夜会で囲まれたことを思い出しているのだろう。

私はくすくす笑った。

扇があれば扇で隠すのだが、生憎旅には不要だと持ってきていない。

私は手で添えるだけに留めて、微笑みを浮かべながら彼を見た。


「大人気ですものね」


「いや、人気というよりあれは」


「私は──てっきり、ヴェリュアンも女性に囲まれて満更でもないのでは?と思っていたのですが、もしやあまり気乗りしないのでしょうか」


私が夜会の折で見かけた彼のことを思い出しながら口にすれば、彼が勢いよく言った。


「気乗りしないどころか……!!」


しかし、大声を出したことに気まずさを覚えたのか、取り繕うように咳払いをひとつ。

彼は長い緋色のまつ毛を伏せ、言葉を選ぶようにして口を開いた。


「…………」


それにしても──こうして近くで見ても、彼が綺麗な顔立ちをしているとよく分かる。

その繊細な美貌は、彼が望む望まないにしろ【貴族らしさ】があり、立ち居振る舞いさえ完璧に身につけば、誰も、彼が元は平民だと思わないだろう。

そう思っていると、彼がちらりと私を見て気まずそうに言葉を続けた。


「失礼。ですが、私は遊び慣れた吟遊詩人でもなければ、一夜の戯れを楽しむ旅人でもない。言葉遊びに聡い貴族でもありません。それに──あなたという婚約者もいます」


「そうですね。それにあなたには、想い人がいらっしゃるのでしたね。失言でした。ごめんなさい」


そうだ。彼は想い人がいるのだとあの夜会で会った時にはっきりとそう、言っていたでは無いか。

それを思い出して言うと、なぜかハッとしたように彼が顔を上げる。

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