始業式!④
俺は迷わず、そのうごめく黒い影に最強の武器である殺虫剤を射出する。
「うおっ!」
殺虫剤にその黒い影が鋭く反応する。クローゼットの床を素早く駆け巡るも俺もしつこく殺虫剤を噴射する。するとその黒い影は途端に、クローゼットの中に置かれた小さなタンスの壁を登り始める。
「おい……なんか新聞紙的なのないのかよ」
「いやよ、それで殺して」
「は、なんでだよ」
「潰したら汚ないからよ!」
「ったく」
俺は、仕方なく殺虫剤を噴射し続ける。さすがにゴキブリの方も堪らなくなってきたのか、少しだけ動きが鈍くなってきた。しかしながら最後の足掻きなのか、その小さなタンスの二段目、少しだけ開いていた隙間へとその影がーー
「いっ……いやっ!!」
引き出しの中へと潜り込んだその瞬間。南つばさは俺の前に急に割り込み、そして開いていた引き出しを勢いよく開け放った。後ろにいた俺は、南つばさの身体に押される形で後ろのベッドに倒れ込む。ベッドからの淡い洗剤の香りが鼻腔を包んだと思ったら、いきなり視界が真っ暗になった。
「どこ! ねぇ! どこいったあれ!」
「…………」
「もうマジ汚ない! 許せないわ!」
「…………」
俺も馬鹿じゃないから、この視界を覆ってるものが何かは分かった。この薄さと形状、おそらくあいつのパンツだ。あいつが途端に反応したのはこの為だったのか。確かにゴキブリが下着入れの中に入ったら嫌に決まっている。だから中身を放り投げたのだろう。
「いないじゃない! どこ行ったのよまじで!」
「…………」
「ねぇあんたもちゃんと探してって……何してんのよっ! 変態!」
途端、頬に鋭い衝撃が走った。え、俺なんか悪い事したっけ……? 揺れる視界の中、そんな言葉が脳裏を巡る。ぼやける視界にうっすらとレースのついたピンクのパンツが見える。あぁ、やっぱり俺の予想は的中していた。一応弁解するしかないか。俺のプライドの為に。
「不可抗力だっての……」
「分かってるわよそんなの!」
分かってんのかい……。ならビンタすんなよな……。南つばさは目を充血させ、恥ずかしさと気まずさの入り混じった瞳で俺を見つめる。俺は頬の痛みに気を取られつつも、ベッドからゆっくりと身体を起こした。
「……」
そこら中に、こいつの下着が散乱している中、部屋のドアの下で、足掻くゴキブリの姿があった。殺虫剤の効果が効いてきたのだろう。もうあの様子なら時間の問題に違いない。
「ドアのとこだ」
「え」
俺の指し示す方を南つばさは見る。俺と同じく、弱ったその黒い影の状態に少し安堵したようだ。しかし、さすがだなぁこいつ。菜月の奴とブラジャーの大きさが全然違う。天は二物を与えずって言葉が嘘に思えてくるよなこれは……。顔も身体も一級品で、いやでも一方でそれを帳消しにする性格の悪さも手に入れてしまったのか。ってこれ以上、見てるとまたビンタでもされそうな為、
「ほら、目瞑っててやるから早く片付けろよ」
「え……ええ」
「ったく……」
「気持ち悪いからあとで全部洗濯するわ」
「あぁそうかい」
ガサゴソと下着を集めてる音が聞こえる。つか俺、よーく考えたらこいつのベットにずっと座ってるけどそれに関しては特に何にも言ってこねぇんだな……。てっきり嫌がってくるかと思ったのに。
「良いわよ目を開けて」
「ああ」
しばらくして目を開けると、部屋は元の状態に戻っていた。そして、ゴキブリの方も完全に息絶えたようだ。
「これで良いか?」
「部屋の外にちりとりがあるから、キッチンのゴミ箱に捨ててきて」
「もうやれるだろ」
「いやよ。気持ち悪い」
「本当、パシリ扱いだな」
俺はベッドから立ち上がり、部屋の外へ出る。すると確かに箒とちりとりのセットが立て掛けてあった。俺はそれを手に取り、その死骸死骸をすくう。そして階段を降って一階のリビングに入る。
「あら、退治できた?」
「はい、色々ありましたけど」
「さすが、男の子ね」
「あの、ママさん……」
スーツ姿のまま、パソコンをしているママさん。よし……。こんな物を持ってアレだが、伝えるチャンスは今しかないか。
「ん、なに?」
「僕、今こんなですけど、本当は圭ちゃんなんです」
「え、そうだったの?」
「僕、蒼井恭二って名前で、バイトの時に渡した住民票と同じ名前です」
「言われてみれば確かにそんな名前だったわね」
「すみません。なんか話の流れ的に切り出せなくて……」
ママさんは物珍しそうに俺の事をじろじろと見ながら、
「圭ちゃんの時は凄い可愛いのに、男の時はかっこいいのね」
「言われた事ないです……」
「ただ、凄い変わりようね。これじゃ気付かなくて当然だわ」
「すみません……」
「ふふ、別に責めてないじゃない」
「いや……」
俺は念の為、
「あの、つばささんはこの事は……」
「ふふ……もちろん、分かってるわよ」
「ありがとうございます」
「でも、男の子としてもつばさと友達になってくれたなんて、嬉しいわ本当に」
「あっちは友達と思ってるかは分かりませんけど……」
「思ってるわよ。あの子素直になれないだけだから」
「そうですか」
微笑むママさんを他所に、俺はキッチンへと向かい、指示されたゴミ箱にその死骸を捨てる。これでパシリの仕事も終わりだな。
「あら、もう帰るの?」
再度リビングを抜けようとした所、ママさんに話しかけられた。
「そうですね」
「ご飯、食べてったら?」
「いえ大丈夫です。家にもあるんで……」
「そう」
「つばささんに最後顔出して、帰ります」
「良いのよ別に。私が居るからって」
「いえ」
「別に部屋に聞き耳も立てないし、シャワーも使って良いし」
「いや何言ってんるんですか!」
「ふふふ」
ママさんは俺の顔を見てにっこりと笑う。俺はママさんのいじりに赤面しつつ、会釈をしてリビングを抜ける。
「そうだ。ちょっと待って」
ママさんに呼び止められる。逃してくれよ……。
「ほらせめてお礼に、お菓子でも食べてって頂戴」
「お菓子……ですか」
「さっさ取引先からもらったのよ。つばさも好きだと思うし二人で食べて」
ママさんが立ち上がり、キッチンの冷蔵庫から、お菓子の箱を俺に渡してくる。それはあまり甘い物に興味のない俺でも何となくは知ってる有名なチョコレートのお店の物だった。まぁ、ママさんとしてもゴキブリ退治のお礼がしたいのだろう。俺は素直に受け取る事にした。
「あ……ありがとうございます」
「ちゃんと、つばさにも上げてね。あの子、甘いもの好きだから」
「知ってます」
「ふふ」
俺はそのチョコレートを受け取り、再度二階へと上がっていく。




