番外編:川島信道の夏休み⑧
「私も行く。はぐれちゃいそうだし」
「う……うっす」
信道は不意に握られたその手に、あの日のデートの記憶を思い出す。それは信道にとってあまり思い出したくない記憶でもあった。信道は横目でハルを見つめると、ハルも慎重に信道の表情を覗き込んでいた。そして視線が交錯すると、ハルはゆっくりと握っていた手を離す。そして、横に並んで歩いていく。
「確かに凄い人っすもんね」
「うん、食べられちゃうよこれ」
人波を避け砂浜に若干足を取られながら、二人は出店まで進んでいく。唐揚げの列は幸い空いていた。信道は財布を取り出して、
「塩と醤油、どうします?」
「醤油かなぁ」
「ですよね」
「うん」
「すいません。唐揚げ六個入り醤油味で!」
店員が威勢の良い返事をして揚がっていた唐揚げを再度、油の中にへと入れていく。
「揚げ直してくれるみたいっすね」
「凄いにんにくの匂い……」
「ハルさん、にんにくの皮剥き早いっすよねそういえば」
「まぁ、プロだからね私」
「店長よりも早いっすもんね」
「信道くんは遅いよね、キッチン側なのに」
「メインはドリンクと洗い場っすから」
二度揚げされた唐揚げがカップに盛られ店員から手渡される。信道は受け取るとカップから揚げたての熱を感じる。そして二人はメインの砂浜の方へと再び戻りつつ、
「美味しそう〜。ねぇ先食べさせて信道くん」
「良いっすよ」
信道はカップをハルへと差し出す。カップに入った竹串でハルは唐揚げを取り、唐揚げを頬張る。
「んーー! めっちゃ美味しい! 熱々!」
「良かったっす」
頭上の空はもう完全に日が沈んでいる。ハルの美味しそうな顔を見て、信道は嬉しくなる。そしてハルから竹串を受け取ると信道も唐揚げを取り、口の中へと入れた。醤油の香りと揚げたての油の香りが鼻を抜けると信道も、
「うっま! めっちゃ美味いっすねこれ!」
「ね!」
ハルも嬉しそうに信道の方を見る。信道は止まらずもう一口唐揚げを口に入れる。
「何時から開始だっけ?」
「19時半っすね」
ハルは、バックからスマホを取り出した。そして少し操作した後、ハルは少し驚いた様子で信道に、
「えやば信道くん」
「なんすか?」
「今、この会場に圭ちゃんいるみたい」
「まじすか」
圭と聞いて、さすがに信道は少し驚いてしまう。
「なんかつぶやき君で流れてきた」
「好きなんすか、圭ちゃん」
「うん、結構好き。可愛いじゃん」
「まぁ可愛いすね」
「てか信道くんが知ってるの意外。女子しか知らないと思ってた」
「自分、一回渋谷で会ったことあるっす」
「え! まじ! 超凄いじゃん。どうだった」
「上げてる写真まんまで超可愛いす。でも背は思ったより高いっすね」
「あぁ聞いたことある。圭ちゃん実際見ると背高いって」
信道から出た圭の話にハルは興味津々だった。
「えーなんだ信道くん。圭ちゃんに会った事あるのなら教えてよ」
「いや、ハルさんが圭ちゃん好きだなんて知らなかったすから」
「うちら世代ならみんな好きでしょ圭ちゃん。あはは」
「そうなんすね」
二人で会場の前列の方へと戻りながら、
「でも、こんな人混みじゃ絶対分からないね」
「そうっすね」
「会いたい? 圭ちゃん」
「いや……良いっす」
ひと月程前、渋谷で圭と会ったのが信道にはもう随分前に感じられた。併せてハルさんでも知ってるほどの知名度を持っている圭に改めて驚きつつ、そんな人と仲の良い南つばさや、恭二がどこか恐ろしく感じた。そして会場の前列の方まで進んで行った所に丁度、花火大会のアナウンスが流れた。
『只今より、第40回お台場花火大会を始めます』
「始まるね」
「楽しみっす」
運営からの言葉の後、大砲の音が聞こえる。そして、
「綺麗……」
「凄いっす……」
体に伝わる、花火の振動。七色の輝く光の発散。最初の大きな一発を皮切りに、怒涛の勢いで次から次へと花火が打ち上がっていく。打ち上げ花火だけではなく、地上から吹き出す花火も無数にある。8月の終わりの空に、七色の光が無数に拡散していく。
「…………」
頭上を見上げるハルの横顔を信道はそっと見つめる。端正な横顔に、綺麗に結ばれてたポニーテール。その大きな瞳には花火の残像が映っている。もう会えないと思ったハルが隣にいる。ハルが今どう思ってこの花火を見上げているのか、信道には分からない。あるいはどうとも思っていないのかも知れない。ただそれでも信道は嬉しく思う。こうしてハルともう一度会う事が出来たから。共に花火を眺める事が出来たから。信道は改めて、煌めく夏の夜空を見上げる。花火の音に心臓の音が重なる。三尺玉の大きな光が夜空を裂く。そして、恭二に謝らないといけないなぁなんて思う。最後の最後にこの高二の夏が素晴らしい物になってしまったから。この恋の結末がどうであれ、好きになった人と一緒に花火を見れたのだ、これ以上の事はない。最後の最後に青春らしい事が出来たな、と、花火を眺めつつ信道は感じた。
★☆★☆★☆★☆
花火大会が終わり、運営より終了のアナウンスが鳴り響いている。浴衣姿の周りの客も駅へと向かう。そんな喧騒の中、信道はハルへと話しかける。
「終わっちゃいましたね」
「ね、なんか一瞬だった」
「どうでした?」
「凄い綺麗だった。信道君は?」
「綺麗でした。やっぱり近くで見ると凄いっす」
頭上には夜の帷が降りており、会場の明かりが人混みを包む。蒸し蒸しとした空気が周囲に満ちており、時折り海風が頬を撫でる。
「帰りますか、俺らも」
「うん」
人波に乗って、信道とハルも駅の方へと歩いていく。ゆっくりと一歩一歩進んで行くにつれて、信道の胸にこれでもう会えないかもな、なんて気持ちが芽生えてくる。しかし、それでも信道は今日決めた事を思い出す。何があっても堂々としていようと決めていた事を。
「ハルさん……」
「ん?」
「楽しかったっす。自分」
「うん。私も」
「なら良かったっす。へへ……」
信道は軽く健やかに微笑んだ。ハルが楽しんでくれたのなら万々歳だと感じて。前の公園での時のような、あんな最期よりは100倍増しだと思った。前方は渋滞になっており中々、歩きを進められない。
「ねぇ、信道くん」
「はい」
「信道くん、怒らないんだね」
「何をっすか?」
ハルは真っ直ぐと前を見つめたまま、
「プレゼント、返した事」
「あぁ、あれっすか。あれは傷付いたっす」
「……」
「でも、そんな怒るほどでも無いっすよ、はは」
前方の渋滞はあまり進まない。もう会えないかも知れないしと、信道は以前伝えた言葉をもう一度、
「言ったじゃないすかハルさん。自分いつまでも待ちますって」
「うん……」
「自分からしたら、こうやってハルさんと遊べるだけで幸せっす。怒るとかそんなの考えもつかなかったす」
「そっか」
もしかしたらこれが最期かもなと思うが、それでも堂々と信道は微笑む。最早自分には何の選択肢もないのだから、せめて男らしくと。
「私さ、彼氏と別れたんだ」
「そうなんすね」
「別れたら、嘘みたいに全く好きじゃなくなっちゃった」
「はい」
「けれど、信道くんの事もやっぱり好きじゃない」
「はい。それで良いっす」
堂々と堂々と、そんな言葉を信道は何度も心の中で呟いた。10年後の自分からだせぇと思われないようにと、懸命に。
「進まないね、列」
「そうっすね、仕方ないっすけど」
夜風に潮の匂いが微かに混じる中、ハルは横にいる信道の事を見上げた。
「ねぇ、私なんかで良いの?」
「もちろんっす」
「あんなに酷い事言ったじゃん」
「あれは効いたっす」
「プレゼントも投げたじゃん」
「痛かったす」
「そんな私でも?」
「もちろんっす」
信道の返事にハルはクスッと笑った。その顔を見て信道も微笑む。そして信道は言った。
「自分、ハルさんの事好きなんで。それだけっす。自分が捧げられる物なんてそれしか無いっすから。だから待つっす、ハルさんの事」
「……」
ハルは微笑んだまま、しばらく言葉を返さなかった。するとまた行列が進み出し、二人も再度歩きだす。
「あーあ、本当全然好みじゃないのに信道くんの事」
「えーー」
その瞬間、ハルは信道と手を繋いだ。ぎゅっと力強くハルは信道の手の平を握りしめる。
「信道くん、ずるいよね。年下のくせに」
「信じる道を突き進むって書いて信道っすから」
「それ、他でも言ってるでしょ。慣れてる」
「ばれたすか」
「ふふ……」
いつもなら、腹が立ってしまう駅までの行列も、今だけは気にならない。ずっとずっと、この列が続いて欲しいと信道は思う。
「はぁ……うん……負けちゃった私。信道くんに」
「……」
「ううん、この花火大会に誘った時点でもう負けてたのか……」
「ハルさんが負けてたら自分なんて出会った時から負けてます」
「なにそれ、ふふ」
繋がれた手の平を夏の夜風が包んでいく。街灯の灯りに照らされる中、二人は何となく見返し合う。
「良いよ。信道くん、付き合ってあげる」
「……」
「ねぇ、聞いてる?」
「っっしゃっぁあああああああっ!!!!!」
周囲の人々が驚いて振り返る。慌ててハルが、浴衣の袖とそのポニーテールを震わせながら、
「ちょっと! 喜びすぎ!」
「すいません。嬉しすぎて」
「もう、途端に高校生感出さないで」
「すいませんっす」
繋がれた手の平から、信道の嬉しさがハルにも伝わり、ハルもなんだか嬉しくなる。そして改めて、負けちゃったなぁ私この人に、と思った。
「本当、あんまり好みじゃないのに……どうしちゃったんだろ」
「自分はハルさんの事、最初から好みっす!」
「それずるい。信道くん得じゃん」
ハルは信道を睨んで見せるも、信道は嬉しさを隠せない。ハルは少し呆れつつ、
「はぁ……。でもこれ……絶対、私の方が大好きになっちゃう奴だ。なんか分かる」
「そこは安心してください。絶対に僕の方がずっと大好きなんで」
「うん、期待してるね。信道くん」
「うっす!」
一生に一度の高二の夏。川島信道は新しく出来た恋人と共に、駅までの道を歩いていく。恋人同士になったその手の平の暖かさを、互いに確かめ合いながら。




