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番外編:川島信道の夏休み③

「はい、お待たせ。信道くん」

「あっ……ありがとうございます」



お盆に載せられた麦茶が、信道の前に差し出される。信道は妙な緊張感を流したく、それをぐっと一口仰いだ。



「疲れたでしょ。うち駅から遠いんだよね」

「いや全然っ大丈夫っす。自分歩くの好きなんで」

「元気だね、信道君は。働いてるときもそうだけど」




対面に座ったハルが、じっと信道の事を見つめている。ハルの香水の匂いが信道の鼻腔をくすぐるが信道は、




「ちょっとすいません……。トイレって」

「あうん。うちユニットバスだから、そのまま洗面所抜けてお風呂場まで行っちゃって」

「わかりました」



信道は立ち上がり、キッチンへと戻るともう一つ扉があった為そこの中に入る。洗面所だ。小さな一人暮らしの洗濯機に、奥には風呂場も見えている。すると信道は扉の鍵を掛け、そのまま風呂場へと抜けずに、洗面台の前で立ち止まる。




「ハルさん……」




洗面台自体には特に変わった状況は見受けられなかった。歯ブラシもヘアゴムもメイク落としも全てハルの物だ。しかしそれでも信道の疑念は収まらず、左右の鏡に手を掛け、鏡の裏側にある収納スペースを確認する。





「やっぱり……」




中には男物の髭剃りが入っていた。信道はそれに触れる。すると手に少し水滴が付いた。見るに使われてまだそんなに時間が経っていない物である事に間違いは無かった。信道はそっと鏡を元通りに閉める。そして用を足した後、部屋へと戻っていた。




「すいません……お待たせしました」

「ううん、全然」




ハルは先程と何も変わらずに信道の事を見つめる。信道はそっとハルの前に座ろうとすると、




「待って、信道君……」

「え?」




その瞬間ーー




ハルは信道をベットへと押し倒す。覆いかぶさるとハルのサイドの髪の毛が信道の顔に触れた。黒いブラウスの隙間からその小さな胸の谷間が垣間見え、信道は慌てて視線をそらした。




「良いよ……信道君……」

「い……いや」

「最初からそのつもりだったんでしょ?」





ハルは信道の耳元でそう呟く。信道の心臓が大きく高鳴りその脈打ちがハルにも伝わったのか。




「ほらドキドキしてるじゃん……」

「いや……その…そのつもりではあったんすけど……」

「緊張してるの……? じゃあ私が緊張解いて上げる……」




ハルが信道の頬を掴み、ゆっくりと自分の唇を近づける。背けていた顔を向けられた信道は否応なしに、ハルを直視した。不気味な程に綺麗な瞳が間近に迫る。すると信道は不意に悟ってしまう。ハルは別に誰でも良かったんだと。俺は丁度良い男として利用されているのだと。



「ドキドキしてるね……」




ハルの唇が信道へと重なる寸前ーー




「やめてください」

「え……」

「やめてください」



信道は顔を掴む手を払い除ける。すると、ハルも察したのか、自然と二人の体は離れていく。起き上がった後にハルは言った。



「なんで……? 信道くん」




信道は自分でもよくわからない心境の中、やや苦笑しながら、



「なんか……嫌だったんす」

「……」

「ハルさん……俺の事……馬鹿にしてるのが伝わって……」

「なにそれ……」



ハルの顔が一気にこわばる。信道はすぐに言わなきゃ良かったと後悔するが、後にも引けなくなったため続けるしかなく、




「なんか……ここでハルさん抱いたら、ハルさんが一生男を見下す気がして……よくわかんないすけど……俺はハルさんにそんな風に思ってほしくなくて……」

「……」



部屋には二人の息遣いすら聞こえないほどに無音だった。気まずさも全て、遮ってしまうかのような静寂だった。




「自分……ちゃんと、ハルさんを好きにさせるっす……。ハルさん……本当は彼氏いるんすよね」

「うん……」

「なら、もう帰ります。今日楽しかったす。また明後日」



そして信道は立ち上がると静寂の中ひとり、部屋を後にした。





★☆★☆★☆★





「かぁーっ!」




風呂上がり、信道は一人自室のベッドに倒れ込んだ。




「…………」



枕に顔を埋めながら信道は思う。なんで、ヤッておかなかったんだよ俺……。変な見栄なんて張りやがって馬鹿じゃねえのか。バイト仲間の間でも美人と評判のあのハルさんだぞ……。何やってんだよ……。せめて、キスの一つくらいしておけばよかったぜ……。




「あーあーもう……」



なんか恭二みたいな訳のわかんねえ事しちまった……。高校生らしく本能に従っておけば良かったのに何だよ俺……。




「…………」




信道はあの時のハルの顔を思いかえす。あの悲しそうな、どうでも良さそうな視線を。




「なぁ、お前だったらどうしてたよ……恭二」




俺も案外、お前みたいに変な所でこだわりのある人間かも知れねえ。彼女以外とはやりたくないってか? 馬鹿じゃねぇのか俺……。こんなチャンスもうこの先、一生ないかも知れないのに何で俺は……。




「はぁ……」



いや、何度思い返しても無理だ。あんな目をされたら。あんな冷たい瞳をされたら。上手く言葉に出来ないけど、あそこで流されてたら俺は俺を許せないだろう。何故許せないのか? 分からない。けれどもなんか嫌なのだ。自分が安くなったような。変なプライドと言われればそれまでではある。いや、プライドなんて物でもない。あの時はただの意地だった。そう意地だ。あれは俺の男としての意地に違いない。俺のしょーもない意地だ。こうしてウジウジと悩む俺のダサい意地だ。




「恭二……お前なら分かるよな……」




信道は眠りに落ちつつ、今日の事を考える。しかし全くもって答えなど出なかった。けれどもそんな中、いくつか確信出来たこともあった。それは自分が、ハルさんの事を嫌いになれないという事。そして、ハルさんがどうしても悪い人間には思えないという事。なんて事を思いつつ、信道は深い眠りに落ちていった。

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