ピースアウト
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俺と妹は外に出るとき、親からガスマスクの着用を命じられる。空気が汚染されているかららしい。だけど、そのわりには友だちはフツウに暮らしている。だからうちの家の言いつけが間違っているのではないかといつも考えさせられる。そもそも我が家の「ガスマスク着用」は宗教に根差したものだ。俺も妹もその宗教は胡散臭いと思っているのだけれど、熱心な信者である両親にそんなことは言えない。俺はいい。妹が不憫でしかたがない。きれいに違いない外の空気をめいっぱい吸うことができないのだから。
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小学六年生、小学四年生、俺と妹はそんな年頃。妹が嫌と言えば別々になるのだろうけれど、いまのところ、俺たちは同じ部屋。赤いスカート姿の妹が部屋の真ん中にぺちゃんと座り、「おにいちゃん」と俺を呼んだ。なにかそれなりに真剣な話をしたいとき、妹はこんなふうに少しだけ強い口調で呼びかけてくる。となると真面目に相手をしてやらなければいけないのだ。たった二人のきょうだいなのだから。
「おにいちゃん、おにいちゃん」
早く早く目の前に座れと急かす妹である。俺はあぐらをかいた。正面の妹は「えへへ」と笑い、いきなりもいきなり、「好きな男のコができてん」と嬉しそうに言った。俺は目をぱちくりさせた。いつもいつも事あるごとに「ウチはおにいちゃんのおよめさんになんねん」とか言っていたくせになんとも尻軽なことだ。だが、フツウに思考するとじつにめでたい事象である。つい俺はばんざいまでしてしまった。
「すごいやんか、一美。そかぁ。ついに我が妹にも好きな男ができたかぁ」
「そうなんよ、そうなんよ」妹・一美は「うふふ」と笑う。「すごいやろぉ。ウチにも好きな男のコくらいできんねんで?」
「うん、せやさかい、そりゃすごいし、そりゃめでたい。おにいちゃんは心の底から応援したるぞ」
「うん、おおきにね。せやけど、ね、おにいちゃん……」一転、暗い顔をする一美である。「ウチはどうせ『ガスマスク』やし、見向きもされへんはずなんやよ……」
「ガスマスク」。
一美が殊更強調したそれは、一美、ひいては俺の学校でのあだ名である。
「一美はこないかわいいのになぁ」
「せやろ? おにいちゃん、せやろ? なあんて、えへへ」
照れ臭そうに笑った上で、一美は肩を落とした。
「ウチもお兄ちゃんもつらい立場やよねぇ」
「そないなこと、おとんとおかんの前では絶対言うんちゃうぞ」
「せやけど、ずっとこのまんまなん、嫌やん?」
「まあ、そうなんやけどな」
「おにいちゃん、メッチャ美男子やのにね」
「おまえかてメッチャ美少女やぞ」
「あはははは」
「あははははは」
二人揃ってしゅんとなって、深いため息をついた。
「ウチらってある意味、すごいよね。外では顔、晒したことがないんやもん」
それは幸せなことではないだろう。
不幸なことであり、今後もずっと続いていい事実ではないはずだ。
「せやけどな、ウチな、おにいちゃん、外は少し怖いねんで?」
「俺かてそうや」
くどいくらいに両親からその旨、説かれてきたのだ。99%、だいじょうぶだとはわかっていても、1%の不安はある。外でガスマスクを取ってしまえば、両親が言うとおり、苦しんで苦しんで、ほんとうに死んでしまうのではないか――。
妹が立ち上がり、机の上のガスマスクを手にして戻ってきた。妹はごついそれに花や果物のアップリケをつけて、最大限、可愛く見せようとしている。涙ぐましい努力だ。正直どれだけ可愛らしい物で彩っても、ガスマスクはガスマスクでしかない。こんなに無愛想で不格好な装備を強いる宗教がまともなわけがない。ここは無政府状態の共産国家なんかではないのだ。
正直言って、ガスマスク姿の少女から想いを告げられて「うん」と首を縦に振る男子がいるとは思えない。そんな光景、想像もつかない。だから今夜も妹は俺のベッドの中に入ってきて俺の胸にすがりついて、「おにいちゃん、おにいちゃん」と呟きながら、すすり泣くのだ。不憫でしょうがない。なんとかしなければならない。
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同じ宗教を信じる仲間はいて、俺にも知り合いがいる。二丁目の美智子おばあちゃんだ。早くに旦那さんを亡くして、以来、近所に住む息子さんがたびたび様子を見に訪れているらしい。美智子おばあちゃんはガスマスクだ。息子さん夫婦はそうではない。息子さんはいつかどこかのタイミングで事の本質――真実に気づき、ガスマスクをやめたのだろう。美智子おばあちゃんは「汚い空気なんか吸って、不潔だねぇ」と息子さんを悪く言うようだと聞いた。でも、おばあちゃんだって矛盾には気づいているのだと思う。少なくとも息子さんは外の空気を吸って身体を悪くするなんてことにはなっていないのだから。
その息子さんが、息子さん夫婦が殺人事件の被害者になったのだという。
ある日の朝刊に、そう掲載されたのだ。
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お父さんとお母さんがおかしくなった。美智子おばあちゃんの息子さん夫婦の記事を見て以来、なんだかとってもおかしくなってしまった。いままでも厳命だったのにさらに厳しくガスマスクの装着を要求してくるようになった。だから、わかった。小学六年生の俺でもなんとなく悟る部分があったのだ。美智子おばあちゃんの息子さんは、その奥さんも含めて、問題の宗教とまだ関わりがあったから、ガスマスクの着用を拒んだせいで殺されたのだ。宗教の、それはもう怖ろしい、殺人部隊に。
俺はくどいくらいに怖ろしいと感じた。ガスマスクをつけることを嫌がっただけで殺されてしまうのだ。怖くないわけがない。妹の一美もそれは察したみたいで、さすがに怖くなったみたいで、なのに冷静に、大人みたいにおとなしく泣いた。「ガスマスクには恋もゆるされへんのかなぁ……」って。
聞いた途端、俺は憤りを覚えた。
違う、それは違う、違うぞ、一美。
恋愛は自由だ。
おまえが誰かを好きになるのは自由だ。
そんなの自由に決まってる、ガスマスクをはずすことだって自由だ。
今夜も部屋に二人きり、向き合いながら、俺は愛しい妹の話を聞いてやる。
「なあ、一美」
「おにいちゃん、なあに?」
「好きな男に、告白したいやろ?」
「えっ、えぇっ、なに、突然」
「したいやろ?」
「それはまあ、うん、そうやけど……」
「どこでしたい?」
「……えっと」
「わがまま言うて、ええぞ」
せやったら、山の上の丘の鈴蘭畑!
一美はそう言い、だったら俺はその場を設けてやろうと決心した。
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手を尽くして、いろいろと調べた。一美の想い人もきちんと調べ、夜、月夜、月夜の下、鈴蘭畑の中で、物心がついて以来初めてのことだろう、一美に外でガスマスクを脱ぎ払う機会を作ってやった。野暮かもしれないとは思ったのだけれど、俺は一美と彼女の想い人が向かい合う場面を見届けることにした。
想い人の名はユズルくん。なんとも奥ゆかしい名だ。一美はユズルくんのまえで、いざ、いよいよ、ガスマスクを取った。さらさらとした長い髪が風に揺れる、なびく。闇夜にあって白い鈴蘭たち、鈴の音は聞こえないけれど、彼らもきっと、自由な空気を見た一美のことを祝福している。
ちょっとおませな話ではある。一美とユズルくんは抱き合った。ユズルくんはもとより一美のことを悪く思っていなかったのだろう。ガスマスクの奥の素顔をきちんと見極めていてくれたのだ。嬉しいことだ。兄として、こんなに嬉しいことはない。
――突然、銃声、銃声だろう――軽い感じの銃声が連続した――。
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村を過ぎ、街にまで駆け下り、俺たちは路地裏に身をひそめた。
レンガの壁に背を預けしゃがみ込み、絶体絶命ではあるものの、俺は「冗談やろぉ、ははっ」とまだ軽口を叩くことができる。
「一美。教団の奴らは本気や。不穏分子のことはきちんと殺すらしい」
「不穏分子? 不穏分子ってなに?」
「俺らの様子が最近おかしいって、おとんとおかんが本部に連絡してたんや」
「まさか、そんなん、当てずっぽうもええとこやん。っていうか、子どもを売ったん?」
「尾行までされてる以上、そうとしか説明つかへんやろが。まいったな。俺はへた打ったらしい」
親に売られても驚きはしない。
子どもへの愛情を重んじる以上に敬虔な信者であることを良しとしてもおかしくない。
そんな両親はせいぜい地獄の業火に焼かれてほしいものだとは思うけれど――。
「せ、せやったら、おにいちゃんだけでも逃げて? 助かって? おにいちゃんはガスマスク、つけてるんやし。きちんと話をすればゆるしてもらえるやろ?」
俺は「おまえかて持ってるやんか」と言い、笑った。ガスマスクを取る。目を閉じて、大きく息を吸った。湿っぽい匂い、腐った水の臭い、でも、空気は悪くない。むしろ空気はうまい。やっぱりうそやんか、おとん、おかん、外の空気吸ったら死ぬとか、カンペキに嘘やんか。――ま、いまはそないなこと、どうやかてええんやけど。
「このままやと三人ともやられてまう。俺はおまえら二人だけは生かしたい」
「えっ、そんなん、おにいちゃん」
「ガスマスク、つけろ。おまえが言うたとおりや。まだ役に立つかもしれへん」
俺は一美にそう言った。
俺自身が持っていたマスクはユズルくんにつけさせた。
俺は路地裏から飛び出した。
マシンガンを構えているガスマスク連中の前で両手を広げた。
途端、撃たれた。
――銃弾は頬を掠めた。
「ホンマに小学生のガキまで殺すんかい、ワレらは!」
偉そうに言ってやると、左の太ももを撃たれた。崩れ落ちそうになるところをこらえる。シャレんならんマネしてくれるやんけと思いつつも、その場でなんとか踏ん張る。
胸を撃たれても、俺はそう簡単には意識を失わなかった。
最後の最後まで生きようとした。
死に際、俺が心の中で叫んだ言葉なんて決まっている。
一美、ユズルくん。
どうか幸せに――。
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ユズルくんが調教した牧羊犬のボーダーコリーはほんとうに快活でよく働く。羊をまとめ、管理する様は見ていてじつに爽快だし、その規律正しい動きには感動すらさせられる。
私を縛りつけていた「ガスマスクの教団」は、五年ほど前にいよいよ検挙され、完全に解体させられた。いくらなんでも危なっかしすぎたのだから、もっと早くにそうなってもよかった。そうあれば、私の大切なおにいちゃんが死んでしまうこともなかったはずだ。でも、終わってしまったことを言い出してもしかたがない。私のおにいちゃんは十二歳という幼い命を散らして、散らして――私とユズルくんを守ってくれた。
午前中の作業を終えたユズルくんが帰ってきた。「あつーい!」と大きな声で言うと、麦茶を要求してくる。しかたないなぁと思いながら私はいつもどおりお望みの品をジョッキに注いで、出してやる。ぐびぐび飲んでユズルくんはにっこり笑う。「今日も幸せだなぁ」というのは彼の口癖だ。
――ウチね、おにいちゃん、息子におにいちゃんと同じ名前をつけてんよ。息子のことを誰よりも愛してあげたいんはもちろんのことやけど、まだまだちっちゃい子どものうちに死んでしもたお兄ちゃんのことは愛し足りへんかったっていう思いもあるから、せやったら一緒にまとめて愛したろっ、て。だいじょうぶ。ユズルくんもおにいちゃんのこと、大好きやよ。
ウチらはしっかり暮らしてる。
メッチャ幸せです。