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「緋翠?どうした?」
ソファーに緋翠を降ろし離れようとした藤哉だったが、緋翠はぎゅうぎゅうに抱き付いたまま微動だにしない。腰を折った中途半端な姿勢で立つ藤哉は、少し考えて、改めて緋翠を抱き上げた。
「っ…。」
驚いたのか、藤哉の耳元で小さく息をのむ気配がした。その様子に口許だけで笑って、藤哉はソファーに腰を降ろすと緋翠を横向きのまま自身の膝に乗せた。動きを見せない緋翠をそのままに、藤哉はその華奢な背中をゆっくりとたたく。
ローテーブルの向かいにも2人掛けのソファーがあり、その先にあるガラス戸の外では未だに激しく雨が降っていた。しかし雷雲は遠退いたようで、時折強く空を光らせるが、腹の底を震わせるような音はほとんど聞こえなくなっていた。
ふと、自分達が座るソファーの背もたれに、ブランケットが掛けられているのを見つけた。何とか手を伸ばせば届きそうな位置だ。
取ろうかどうか藤哉が悩んでいると、ゆっくりと緋翠が上体を起こした。
「…落ち着いた?」
そっと問い掛けながら、緋翠の顔色を見るも、観察するまでもなくその顔は青白い。さっきまで真っ赤になっていたのが嘘の様だ。相当具合が悪いに違いない。
しかし、寝かし付けようと思った藤哉が口を開くより先に、緋翠がポツリと言った。
「キスして…。」
「…へ?」
一瞬何を言われたのか理解できず、間抜けな声が出た。
「もう一回キスして。」
「…何で?」
今度は言われたことを理解して、藤哉は冷静に返した。
酷い顔色をして『キスして。』とは、一体どんな意図があって言っているのか。
「今度はちゃんと出来るから。」
「…出来ないよ。」
「…出来る。」
「出来ない。」
「っ、できる。」
「できっ、んっ…。」
終わりの見えない押し問答に、段々藤哉の声は低くなり、逆に緋翠は口調を強める。そうして遂には、緋翠が藤哉の唇を自身のそれでふさいだ。
熱いと感じるくらい、温かな感触だった。
「……満足した?」
「っ!」
緋翠にとっては。
押し問答していた時とひとつも変わらない、冷静な顔の藤哉がそこに居た。
「そんな酷い顔色して、冷たい唇で、一方的にキスされたって、全然嬉しくない。気持ちいいわけない。」
「……。」
冷静さを通り越して、冷たさすら感じる声でそう言われ、緋翠は言葉を失くして唇を引き結ぶ。
それを見た藤哉はゆっくりその身体を抱き寄せた。
三度藤哉の腕の中に収まった緋翠は、初めて自分が"寒い"事に気が付いた。
「急にらしくない事言って、らしくない事して、どうしたの?」
「…、…ウチに来て、着替える前に…。何て言うか、藤哉…"我慢"したでしょ?」
ポツポツと、緋翠は自分の思いを語り始めた。
しかし、いきなり突つかれたくない話題に触れられて、今度は藤哉が口をつぐむ。けれど、緋翠は止まらない。
「私もあの時、期待しなかった訳じゃないけど、チャンスを逃したのは、多分私だったから…。でも、さっきは藤哉"我慢"しなかったし、私もちゃんと気付いたから。…なのに、わたし…っ…。」
言葉を詰まらせ、藤哉の肩にぎゅうぎゅうにしがみついて、緋翠は喉の奥から絞り出すように続ける。
「わたしっ…くるしくて…。」
「うん。」
「ちゃんと、こたえたかったのに…。」
「うん。」
「っ…いきが、できなくてっ…ごめっ「ごめん。」…?」
緋翠の言葉に、藤哉の言葉が重なった。
「ごめんね。」
「…どうして…?」
藤哉の肩から顔を上げ、ほとんど同じ目線にある黒い瞳を、潤んだ緑の瞳が不思議そうに見つめる。
「俺が"我慢"出来ずにがっついたから、緋翠が息できなくなったんだよ。緋翠のせいじゃない。」
「……?」
全く意味がわからない。とでも言いた気に小首を傾げる緋翠。その拍子に、片方の目からコロリと涙が一粒こぼれ落ちた。
「っ~~!」
それを見た藤哉は息をのみ、そして自身の頭を抱えた。
(言ってる意味が全然伝わってない!!全部俺のせいなんだけど分からないからって首傾げてるの可愛い!泣かせてゴメンなんだけど、可愛いが限界突破して俺の理性飛ぶからヤメテ!いや俺が悪いんだけどさ!!)
「あーーもう!!」
「ひゃっ!?」
突然大声を出して顔を上げた藤哉に、緋翠が小さく悲鳴を上げる。
それすら可愛い。などと不謹慎な事を考えながら、藤哉は先程見つけたブランケットを引っ掴んだ。
そして間髪入れずに頭から緋翠に被せて抱き締める。
「っとうや…?」
くぐもった声が耳元で名前を呼ぶが、この腕を弛めることは出来そうもない。
藤哉は耳まで赤くなっていた。
(『ちゃんと答えたい。』って、つまり、"そういうこと"でしょ?)