5
一方、洗面室を出た緋翠は薄暗い廊下をリビングに向かって歩いていた。
真っ直ぐ行き、正面の扉を開けばリビングだ。扉を開け後ろ手に閉めた途端、緋翠は両手で顔をおおって座り込んだ。
(顔が熱い。心臓が痛い。苦しい。)
これは過呼吸じゃないし喘息の発作でもないけど、息が苦しい。
心臓がバクバク言っている。
(……キスされるかと思った…。)
大丈夫だと頷いたあの時、藤哉もホッと安心して肩の力を抜いたのがわかった。頬を包む両手も離れていくと思ったが、緋翠の予想に反してその手は動かず、藤哉はじっと緋翠の目を見て動かない。
そんな藤哉を不思議に思いながらも、緋翠も珍しい彼の様相を呑気に観察していた。
湿り気を帯びた髪を適当に後ろに流しているので、いつもはよく見えない形の良い額や輪郭がよくわかる。
冬が終わる頃に髪を切ったので、まとまりきれなかった毛先から時々ポタリと雫がこぼれて、頬を伝い肩や床に落ちていく。
ーーーポタ……
「ーっ…。」
何気なく眺めていた一粒の雫が、緋翠の唇に落ちてきた。
互いの身長差から、緋翠は普段藤哉を見上げているし、今も彼自身の手で上向かされている。
しかし、今日はいつもより上を見上げていることに気付いた。
距離が、近い。
金粉が散った様な、星空の様にも見える黒い瞳や、濡れて束になったまつ毛がよく見える程だ。
「…藤哉…?」
無意識にその名を呼ぶと、ハッと目を見開いた藤哉が両手を離し、一歩後退した。
着替えてくるように言われるがまま自室を目指してリビングまで来たが、歩いているうちにだんだん羞恥心に見舞われて、今に至る。
(この後どういう顔して会えばいいの…?)
付き合って数カ月経つが、別にキスするのは初めてではない。
ファーストキスが藤哉だったのは間違いないが。
そんな藤哉が、いや、恋人が、あんな顔で見つめて近付いて来ておきながら、何事もなく終わらせるなど、お互いその気じゃなかったにしてもあれはどう考えてもそういう雰囲気だったはずだ。
そう考えてしまえば、まるでキスされるのを期待していたかのような考えにまた顔が熱を持った気がした。
(…あの時声をかけなかったら、キスしてた…?)
いや、あの時の藤哉の反応を見る限りそんなつもりはなかったように思える。
どちらにしても、一人で考えても仕方のない事だ。
「…はぁ…。」
一つのため息と共に見切りをつけて、緋翠は自室へ向かう為に階段を登った。
緋翠が自室で着替えていると、パッと廊下の電気が明るくなったのに気付いた。
試しに自室の電気を点けてみると、問題なく明かりが点く。どうやら電力が復旧し、藤哉がブレーカーを上げてくれたようだ。ならばもう着替え終わっているかもしれないと、緋翠も手早く着替えを済ませ、ブランケットを片手に部屋を出た。
吹き抜けになっている2階からリビングを見下ろすが、藤哉の姿は見えない。
トントンと足早にリビングに降りてみてもやはりその姿はなく
(?…コーヒーでも淹れてようかな…。)
そう思い、カウンターを回り込んでキッチンに入ると電気ケトルをセットする。
コンロもIHなので、どちらにしても電気が必要だから、こういう時は少々困るが仕方がない。
カセットコンロもあるが、取り出す前に電力が復旧して助かった。
コーヒーメーカーにフィルターをセットした時、リビングから声がした。
「この辺の電力復旧したみたいだってさっき母さんからメッセージ届いてて。勝手にブレーカー上げちゃったけど…。」
緋翠が渡した青いスウェットの上下姿の藤哉が、キッチンカウンターの方に来ながらそう言った。
さっきの雰囲気などまるで気にした素振りも、空気もないその様子に少しホッとしつつ、緋翠も何もなかったように口を開く。
「ありがとう。おかげでコーヒーが淹れられそう。ソファーで待ってて。」
「いいよ、手伝う。」
そう言って藤哉は勝手知ったる何とやらとでも言うように、緋翠愛用の深い青と白のグラデーションが綺麗なマグカップと、橘家で藤哉専用になってしまった、本来は来客用の白地に赤いラインの入ったマグカップを用意する。
それを見た緋翠は小さく肩をすくめると、何も言わずにフィルターにコーヒーを入れ、藤哉はケトルからお湯を注ぐ。
ゆっくりとコーヒーが抽出されていくのを二人で眺めていると、藤哉が口を開く。
「愁さんから何か連絡あった?」
「ううん。まだ何も。」
時刻は12時を回りつつある。
外は朝より弱まったものの、変わらず雨が降り続けていて、風はガタガタと窓を鳴らす。
雷雲は離れていったのか、時々思い出したように光るが雷鳴は聞こえなくなっていた。
「桃花さんは大丈夫?」
「うん。ウチも電気は戻ったし、一度父さんから連絡もあったって。帰れるかはまだわからないみたいだけど、概ね通常通りだって。」
「そっか、良かった。」
少しだけ表情を和らげる緋翠に癒やされつつ、藤哉は着替えた後の洗面室での出来事を思い出して遠い目をした。