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車道側から、歩道の境目に立つポールを飛び越え、出来るだけ早く走る。
少しでも立ち止まろうものなら、押し潰さんばかりの圧を傘越しに感じた。前方も足下も視界不良で全然進んでいる気がしない。焦りとも苛立ちともつかない気持ちが沸いてくる。
「藤哉!」
どこからか名前を呼ばれて、少し傘を上げるとすぐこそこの軒下に緋翠が立っていた。
シャッターの上げられたガレージの下に居るようで、藤哉は慌ててそこに駆け込んだ。
「藤哉。大丈夫?使って。」
「ありがとう。助かる。」
あらかじめ用意していたらしいバスタオルを渡されて、ありがたく使わせてもらう。
結局2、3分走っただけでズボンの裾は変色し、肩先は濡れて、髪も湿気で張り付く有り様だった。
ざっくり髪を拭いてかきあげ、衣服の水気を粗方拭って藤哉はやっと一息ついた。
「あ、そうだ。咄嗟に持ってきたんだけど、コレ…。」
バスタオルを肩に掛け、藤哉はカーディガンの下、シャツの胸ポケットから車のアッパーボックスから持ってきたものを取り出し、改めて検分する。
喘息用の吸入器と薬だった。
「緋翠が普段から持ち歩いているのと同じ型だし、薬も合ってると思うんだけど。…えっ、あの…どうかした…?」
自身の手の中でコロコロと形や成分を確認して、ようやく顔を上げて緋翠を見た藤哉はギョッとして動きを止めた。
もう1枚持っていたバスタオルをぎゅうぎゅうに抱き締めて立ち尽くしている緋翠は、今にも泣き出しそうな程目元を赤くし、けれど頬や唇は血の気を失い小さく震えていた。
「ー、…くるって…。…こんなっ、ー…あ…ッ……」
「緋翠。大丈夫。大丈夫だから、息して、ゆっくり。」
まるで溺れているかのように、必死に口を開き、言葉を伝えようとして、けれど息を詰まらせる様子に藤哉は緋翠を抱き寄せて、背中をさする。
硬く強張った身体は座らせることも出来ず、逆に腰を支え依りかからせる。
「大丈夫。ゆっくり息を吸って。吐いて。大丈夫。」
(これは、喘息よりも過呼吸になりかけてる。)
電話をして、切って、それからずっとここで待っていたのかもしれない。
酷い雨音と、縦横無尽に吹き荒む風。鳴り止まない雷。『10分で行く』と言ったのに、10分経っても来ない自分。
とても、とても、心配させてしまったのは想像するまでもなく現状が証明している。
何とも言えない苦い気持ちが込み上げてきた。
幸い藤哉の声は聞こえているようで、ゆっくり背中をたたきながら声をかけていると、緋翠の呼吸も徐々に落ち着いてくるのが伝わってくる。
ふと、腕の中の重みが増した。
まだ震えているものの強張りは解けたようだ。
「…どうして来たの?…こんな、おおあめ、なのに…。」
小さく、少し震える声で緋翠が呟くように問う。
その言葉に、藤哉もまた呟くように答える。
「安心してくれたら良いなって思ったんだ。
大雨で、暴風で、雷で、停電したりして。そんな中で1人で居たら不安だろうなって思って。」
いつの間にか、大きく肩で息をしていたのが治まってた。
すっかり体重を預けられた事で、腰を支えている左手に持つ吸入器が、緋翠の肩越しに藤哉の目に写る。まるで壊してしましそうなくらい、指が白くなるまで強く握っていた。
「緋翠がいつも『大丈夫』って言うのは、ちゃんと大丈夫なんだってわかってる。…でも、『いつも大丈夫』なわけじゃない。」
「…うん。藤哉は…いつも『心配させて』って言ってくれる。」
藤哉の胸元から顔を上げた緋翠は、その広い肩にちょこんとあごを乗せた。
ようやく喉を空気が通るのを実感する。
「でもそれは、俺が勝手に押し付けてるだけだ。押し付けたくせに、こんなに心配させて、不安にさせてたら、俺…全然頼りがいないじゃん…。」
藤哉の中に込み上げた苦い気持ちは"後悔"そのものだ。
この天気の中一人で居る緋翠が心配で、少しでも安心してくれたら良いと思って押しかけた。けれどそうする事で、更に緋翠が不安を抱えてしまっては意味がない。
気が付けば吸入器は床に転がっていて、呼吸が落ち着いたばかりの緋翠を強く抱き締めている自分がいた。
「藤哉。」
耳元で柔らかい声が呼ぶ。
バサリと足元に何かかが落ちて、藤哉の背中にそっと腕がまわされる。
「ありがとう。」
「…、…意味がわからない。」
不服そうな、不機嫌なような、くぐもった声が返ってきた。緋翠はふと吐息だけで笑い、更に言葉を重ねる。
「来てくれてありがとう。」
そっと背中を離れる優しい腕に、藤哉もぎこちなく腕を離す。
見上げた藤哉の顔はどこか不安気で、悲し気で。いつになく硬い。
見下ろす緋翠の顔は、温かみを取り戻してなお、表情は優れない。少しだけ微笑んだ顔すら藤哉に負けず劣らず悲し気だった。
「…ごめんね。臆病で…。
『大丈夫』ってだけじゃダメって分かってるけど、『助けて』ってちゃんと言いたいけど、でも、…っ、…こわくなっちゃうっ…。」
微笑んでいた口元が、目元が。強張って、歪んで、綺麗に澄んだグリーンアイがゆらゆらと揺れ動く。
「ひすい……。」
強く抱き締める。
何と声をかければ良いのだろう?
深く自分を見つめて、凛と背を伸ばし、ただひたむきに前を向く彼女が、彼女自身を『臆病』だと言う。
藤哉の後悔も謝罪も、自分の弱さのせいにしようとしている。これでは本当に、自分がここに居る意味がない。
ーーーーいや。そうじゃない。
「じゃあ言って。」
「…え?」
「今。俺に。『助けて』って言って。」
グッと腕の中で息を詰める気配がした。
藤哉の胸元にぎゅうぎゅうに顔を埋めて、押し黙る。そうして少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
「ーーーとうや、……たすけて…。」
「いーよ。」
基本的に自分で何でも出来て、実際ほとんどの事を自分でこなしてしまう彼女は、その優秀さと生来の内面的不器用さが相まって『助け』を求めることは苦手で、けれど一度も『助け』を求めずに生きていくことなど誰にも出来ない。
そんな中で、彼女は誰に助けを求め、実際に助けられただろう?
『怖くなる』程に助けを求められない彼女は、どれ程の孤独と葛藤に耐えてきたのだろう?
それを思うと自分は『助けられる』存在でいたい。いつだって、何度だって。