表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

眠る鯨の腹の中

眠る鯨の腹の中2~朝の散歩~

作者: 相上いろは

 旧東京綯交(ないまぜ)特別地域ろ区三丁目二番十四号。

 築百七十年弱のマンション『鯨の腹』はそこにあった。


 綯交特別地域。通称、綯域(とういき)

 僕、神神楽(かみかぐら)珱太郎(ようたろう)が、綯域にある『鯨の腹』に引っ越してきて、二日が経った。


 陽が少し差し込み始めたそんな時間に、のそのそとベッドから身を起こす。


 あくびを一つ。


 身を起こし、カーテンを開ける。

 うん、空は、晴天。青天。良い天気だ。

 昨日は空、ずっとオレンジだったからな。やっぱり、青が落ち着く。


 綯域は、現在確認されているだけでも、十二の異世界が綯い交ぜになっている地域である。

 その為、天候などの色々なことが、複数の世界の影響を受けている。


 常に夕焼けみたいだった昨日の空は、悪くなかったけど、時間が感覚的に判らなくて、少し困った。


「さて、と。散歩の支度、しようかな」


 空の色を堪能してから、僕は、身支度を始める。




 昨日、この近所の商店街をざっとミケさんに案内してもらい、営業時間や売っている物、飯屋の内容なども教えてもらった。そのついでに、商店街付近は特に自警団が力を入れているし、店側も防犯には力を入れており、他所よりも安全だと教わった。

 併せて、一昨日僕を襲った連中は、ただの近所の不良だったとも教えて貰った。彼らはあの後、自警団に回収され、近隣の家を傷付けたことでこっ酷く叱られたのだと。しっかり反省して頂きたい。


 ミケさんに説明を受けながら回った感じ、商店街で物を売っている店は、食材や総菜、菓子やお弁当などの食料品を取り扱う店はおよそ全体の三割に近かった。食材については色々、魚や木の実や、ゲル状の何かや、まぁ色々あるので、興味は湧いた。が、調理法などさっぱり判らないので、普通に、お菓子などを買った。

 ……特定の調理をしなければ、あるいは特定の調理をした場合、毒になる食材というのも、あるらしいので。さすがに怖くて、調理済みのしか買う気になれない。


 ミケさんオススメの酒のつまみに良い串焼きというのもあったけれど、半生のサンショウウオという感じで、怯んで、買えなかった。いつかリベンジをするつもりだ。


 他には、衣類、雑貨類が一割ずつ、残りの五割は家具類、娯楽用品、電化製品、ガスが整備されてない為の薪や着火剤といったキャンプ用品に近い物、護身用と思われる武器類、防具類など、多種多様。

 銃器の様なものからナイフなどの刀剣に近い武器、見た目で使い方がピンと来ない武器など、様々な物があり、一つ二つ欲しい気持ちもあったけれど、安くは無かったし、ミケさんは武器には詳しくないと云うことだったので、また別の機会に、誰かに助言を貰いながら、選ぼうと思った。


 商店街には大変活気があり、歩いているだけで、それなりに、楽しかった。

 まぁ、喧嘩している人と、それを囲んでヤジを飛ばしている現場を三回見掛けたので、治安が凄く良いとは、云い難そうだけども。そう云う場面でミケさんが居てくれると大変心強い。


 またそんな中、レストランの前を通り掛かった際に、此処で骨々(こっこ)さんが働いているのだと教えて貰った。

 見れば、なかなか渋く、総煉瓦造りにも見える洒落た店構え。外にメニューが出ていたので見てみたところ、料理のジャンルは判らなかったけれど、洋風に見えた。また、全面的に結構良い値段する料理店だった。

 一昨日骨々さんが作ってくれた料理がやたら美味しかったと思ってはいたけど、なるほど、かなり有能なシェフだった様子。

 初日に堪能できて、本当良かった。また食べたい。




 それは、それとして。


「ふぅ」


 寝巻きを脱ぎ、洗濯籠に放り込むと、顔を洗った。

 そして歯を磨こうとした時に、控えめで遠慮がちなノックが聞こえてくる。


「うえ!? 早い! い、今往きます! すみません!」


 応じると、慌てて歯を磨き、支度を整え、走って戸を開ける。


 そこには、武丸(たけまる)さんが居て、深々と頭を下げていた。

 武丸と云う勇ましい名前ではあるけれど、和服を着こなす、長身でプロポーションの良い女性である。


「申し訳御座いません。焦らせてしまい、お手数をお掛け致しまして」

「いえ、いえ! 僕がお願いしたことですし、僕助かってますので、気にしないで下さい! というか、大変お待たせしました!」

「いえ。ですが、そう云って頂けますと、あの、気が楽になりまして」


 お互い、少しの間、ペコペコとする。


 朝の散歩がしたい。それは、僕が云い出したお願いだった。



 僕は散歩が好きだ。でも、引っ越し初日、僕の不用心さの所為で襲われたということもあり、一人での散歩はしばらく、怖いので、やめておこうと思っていた。


 しかし、例えば朝なら、平和なのではないか。昨日、そんなことを武丸さんに質問したところ、そうとも限らないのでお供しますと、武丸さんは食い気味に提案してきてくれた。

 悪いかなと思って遠慮し掛けたのだけど、どうにも武丸さん自身が朝の散歩をしたかったとのことで、ではお願いしますと。



 そして今日、今、早く起き過ぎたかなと思っていたけれど、既に武丸さんは、この様に準備万端であった。

 あんな控えめなノック、起きていなかったら、静かでなければ、危うく聞き逃すところだった。


 ……いや、待てよ? 僕が気付いていなかっただけで、既に随分長いことノックしてたとか、ないよね?


「あの、付かぬ事をお訊きしますけど、武丸さん、何時から玄関に居たのですか?」

「さて。では早速、散歩に参りましょう。あまり時が経つと、美都様の朝食の支度もありまして」


 はぐらかされる。


 え、マジで何時から居たの!? 云い難いくらい早くから居たの!?


 大変気になったし、申し訳ないとも思ったし、あと少し怖かったけれど、答えてくれなさそうだったので、訊き出すのは諦めることにした。




 階段を降り、エントランスを避け、外庭に通じる道へ向かう。


「ん?」


 その途中の薄暗い廊下で、何やら不自然なものが一瞬目に入った。

 目を凝らしてみたところ、天井から逆さに吊るされてる女性が見えた。


「ヒェ!?」


 思わず軽く悲鳴を上げ、跳ねた。

 あぁ、ビックリした!


「た、武丸さん! なんですかあれ!」

「あぁ、彼女も此処の住人で御座いまして」

「え、あ、そうなの!? なんで逆さ吊りなの!?」


 何か、生贄に捧げられたとか、そういうのかと思ってしまった。


「彼女は、変わった寝方を良くされる方で……しばらく旅行に出ておりましたが、そうですか、帰って来られたのですね」


 うんうんと、武丸さんは頷いている。

 逆さ吊りで眠ることを、変わった寝方の一言で済ませて良いものだろうか。


「色々と気になるところはありますが……旅の疲れで、帰ってきて此処で寝ちゃった、ってことですか」

「えぇ、と……いえ、そういう面もあるかも知れませんが、遊さんは定期的に、廊下でお休みになられまして」

「な、何故?」

「さぁ……」


 特に、廊下で寝る許可をもらってるわけでもないんですね。

 酔っ払って部屋まで辿り着けないみたいなものなのか、廊下までが彼女にとってのテリトリーということなのか、やや気になるところ。


「よくあんな寝方で、熟睡できますね……おや?」


 よくよく見ていて気付いたけれど、身体は逆さ吊り状態なのだけれど、服や髪は、重力に逆らう形で整っている。


 はて、どうなっているのだろう。

 少し怖いけれど、どの様に吊っているのか、どうして服や髪が翻っていないのか、興味が湧いたので、寝姿を観察することは失礼だとは思ったけれど、近寄って見てみることにした。


 近付いて見てみると、体や衣服を細い糸で巻いて固定しており、衣服も姿勢も安定させていた。そして見上げてみれば、おそらく彼女の旅行用荷物であろう物も、天井に糸で固定されていた。

 なんか、蜘蛛に捕らえられた餌という様相。


 しかしそんな有様でも、彼女はすーすーと、穏やかに寝息を立てている。


 加えて、大事なことに気付く。この女性は武丸さんに負けず劣らず、ナイスなバディだった。しかし、こちらは洋装だ。ロングなスカートだ。紐で縛られて蕾みたいになってるけど。


 深い意味はないが、実に目の保養になった。


「彼女は、私や美都様、神神楽さんと同じ世界の出身で御座いまして」

「え、そうなの? じゃあ、普通の人間……じゃ、ないよね、この寝方。もしかして、彼女も武丸さんと同じ?」

「はい、妖怪変化の類に御座いまして。詳しい話は、今度本人が起きている時にでも」

「そうですね」


 そうか……案外、妖怪って多いんだなぁ。蜘蛛、かな? 蜘蛛だよな?


 流石に起こすのも悪いかなという話になり、挨拶は諦めて、武丸さんと歩き出そうとした。

 その時に、もぞもぞと、彼女は体を揺らした。


「んん……」


 そう云って、閉じていた目が、ピクリと動いた。そしてそのまま、下に向けて背伸びをする。


「んっ。あら、あらぁ。武丸ちゃん。お久しぶりですね。お久しぶりだわ」


 と、それ以上には目を開かず、彼女は話し始めた。

 殆ど開いてる様に見えないが、しっかりと見ている様子。これが、糸目というやつなのだろうか。


「あら? 私もしかして、廊下で寝ちゃった?」

「ええ、グッスリと、で、御座いまして」

「あらあらぁ」


 彼女は少し恥ずかしそうに、頬に手を添えた。

 そしてそれから、吊るされたまま、体ごと僕の方へ向いてくる。

 思わず身が震えた。


「あら? あらぁ。あなたは新顔さん? 初めまして。私は(あそび)。遊ちゃんって呼んでね」


 ニコニコと笑う遊さんに怯みながら、大人っぽい容姿と裏腹な口調に若干面くらいながら、僕はどうにか挨拶を返す。


「は、初めまして……神神楽珱太郎と、申します。一昨日に此処に引っ越して」

「あら?」


 突然声を上げて僕の言葉を遮ったかと思うと、遊さんは自分の身体に巻き付いていた糸をプチリと切り、くるりと回転して鮮やかに着地する。

 と、次の瞬間、跳ねて、僕の顔を両手で掴んで、覗き込んでくる。


「あらあらぁ?」

「ひぃ!?」


 ほ、捕食される!?

 一瞬で間合いを詰められて、パニックを起こし掛ける。


 遊さんは僕の顔を掴んだ状態で、少し角度を変えたりしつつ、ジッと僕の頭を観察する。


「遊さん、何をしておりまして?」

「んー、ちょっとね」


 武丸さんの問い掛けに、遊さんは雑に返答をする。もし食われそうになったら、武丸さんに助けて貰えると思いたい。

 と、顔を正面に戻した後、遊さんは僕の顔をグイッと近寄せた。


「あなた、もしかして、珱太郎ちゃん? 珱太郎ちゃんよね?」

「は、はい? あ、は、はい、神神楽、珱太郎、です」


 改めて返事をすると、顔を左右から挟んでいた手が、少しだけ圧を増した。


「ぶぎゅ」

「珱太郎ちゃん! 珱太郎ちゃんだわ! あぁ、ようやく、やっと……何、此処に来るの? 此処に住むの? あの子も? あぁ、それならそうと、きちんと教えておいて欲しかったわ! 珱太郎ちゃんのいけず!」

「な、な、何を!?」


 手がパッと放されたかと思うと、ギュッと抱き締められる。

 顔の位置が胸の位置に納まり、若干天国だが、混乱は拡大するばかり。


 なんだ、何をこの人は云っているんだ。何のことを云っているんだ。何て胸が柔らかいんだ。


「えっと、神神楽さんと遊さんは、お知り合いでして?」

「い、いえ、初対面、の、はず、ですが?」

「あら、初対面じゃないわ。私は珱太郎ちゃんを探す為に綯域に来たんだから!」

「へ?」

「え?」


 僕と武丸さんの驚き声が重なる。


「だ、だって、僕が此処に引っ越してきたの、一昨日ですよ!?」

「遊さんが綯域に越してきたのは、十年前では?」

「あら。もうそんなに経ちますか」


 その返事をしながら遊さんが僕の頭を放したので、僕はようやく天国から解放された。

 ちょっと惜しいとか思ってない。


「そっか、まだなのね。でも、珱太郎ちゃんは、思い出してこない? 記憶の片隅に残ってたりしない? 私のこと」

「す、すみません、ごめんなさい……人違い、では?」


 また顔をズイッと近寄せながら訊いてくるけれど、生憎と、誠に残念ながら、僕は遊さんと会ったという記憶は、少しも持っていなかった。


「あらぁ……むぅ。残念。残念だわ! 折角、ようやく会えたのに! まぁ、でも、我慢して待ちます。その内に思い出してくれるって約束だものね。残念だけど、待ちますわ!」

「や、約束?」


 一通りまくしたてると、どうやら遊さんは満足した様子で、天井に張り巡らした糸を解き、荷物を手に持つと、清々しい笑顔を僕と武丸さんに向けた。


「ふあぁ……それじゃあ、まだ寝不足だから、部屋に戻って改めてお休みするわね。起こしてくれてありがとう、武丸ちゃん。珱太郎ちゃんは、頑張って私のこと思い出してね。お土産、後で渡しに往くわ。それじゃあ、また後でね」 


 そう云うってから、鼻歌を歌いながら、遊さんは自室へと帰っていった。


 まるで、嵐の様な人だった。


「あの、神神楽さん、本当に、知り合いではないので?」

「……大分自信がなくなってきましたが、知り合いでは、ないと思うんです、よねぇ。誰にでもああいう態度、ってわけじゃないんですよね?」

「はい、あの態度は、初めてお目に掛かりまして」

「なるほど」


 たぶん、悪い人じゃなさそうだから、僕を騙そうとしているわけではないと思う。だから、誰かと勘違いしているんだと思うけど……僕の名前を呼んでいたし、何が何だか、さっぱりだ。




 思わぬ足止めがあったものの、大いに疑問は残ったものの、僕と武丸さんは、改めて朝の散歩に出発した。


 澄んだ空気は爽やかで、実に散歩日和。


 僕の横を淑やかに並ぶ武丸さんは、けれど気付くと駆け出してしまいそうな、そんな雰囲気を放っている。目が、初めて会った時の美都さんほど、キラキラと輝いていた。

 今もし、武丸さんに尻尾が生えていたとしたら、さぞ振り回されて居るのだろうな。


 そこでふと、武丸さんに首輪をして散歩してるイメージが浮かんで、眉間を殴る。


「どうしまして?」

「いえ、邪念が、なんでもないです」

「?」


 いかん、さっきの遊さんの見せてくれた天国の所為で、若干脳に魔が差している。

 武丸さんをキョトンとさせてしまったので、ここは一つ、話を変えよう。


「それは、それとして、ですね。武丸さん、なんだか楽しそうですね」


 少し早足気味なところを指摘してみる。

 すると、ビクンと武丸さんの体が跳ねた。


「……い、いえ、そんなことは、あるのですが……あの、あまりはしゃいでは、はしたなく御座いまして、その」


 視線が宙を大遊泳。

 精々照れる位かと思っていたけれど、思わぬ方向に刺さった様子だ。それにしても、正直者だ。


「別に悪いことだとは。僕も朝の散歩、好きですし」

「!」


 武丸さんの目が、キラリと光った気がした。

 しかし、それが一瞬消え、しかしまた灯り、消え、灯る。


「……武丸、さん?」

「あ、あの、いえ、そうではなくて」

「あ、はい」


 混乱中のご様子だった。


 それからしばし待っていると、キッと、意を決した様子でこちらを向く。


「あ、あの、神神楽さん。もしよろしければ、三日に、いえ、二日……しゅ、週に一……二回でも、あ、朝の散歩に付き合っては……」


 うん、数字の変動っぷりに葛藤が判る。


「あ、はい、僕で良ければ幾らでも。こうして守って頂いてるわけですし」

「本当で御座いまして!?」

「うおう!?」


 顔が急に近付いてきて怯む。

 彼女は元犬らしいけど、目鼻くっきりしてて、本当に美人さんだなぁ。ときめいてしまうじゃないか。


「え、えっと、雨とか、用事がある日以外なら、喜んで」

「ありがとうございます! このご恩は忘れませんので!」

「恩義を感じるのはさすがにまだ早いかと! というか僕も恩返しのつもりなんですけど!」


 お互いに、恩を着合う。


「そういえば、こうして護衛して貰っている状況で云うのも変かもですが、武丸さんってお強いんですね」

「いえ、それほどでも。私はあくまで、自分の身を守れる程度の技量で御座いまして」


 その返答に、僕は複雑な顔をした。

 武丸さん程度強くならないと、身を守れないということなのだろうか。武丸さんが平均値なのだろうか。不良を圧倒した以上、かなり強い方だと思っていたいのだけど。

 というか、かなり強い方だと云って頂かないと、僕の弱さが際立ってしまうことになる。弱い自覚はあるけれど、あまりに平均以下過ぎると、些か凹む。


 そんな焦りは一旦呑み込む。


「でも、この前、蹴りで数人を薙ぎ倒してたじゃないですか。蹴り技が得意なんですか?」

「技、という程でもないのですが、不作法ですが、蹴りは得意で御座いまして。あとは、符術を少々」

「符術?」

「はい」


 そう云って、武丸さんは手品の様に、手元に札を一枚取り出して見せた。


「こちら、で、御座いまして」

「あぁ、お札! お札で、どう戦うんですか?」

「あまり直接的な戦闘には向かないのですが、結界を張ったりと、色々と便利なので御座いまして」


 云いながら、武丸さんは札をスッと仕舞う。

 お札を使うのか。なんか、忍者みたいだ。どういう使い方をするのだろう。今度ちょっと見せて貰いたいな。


「すごいですね! そういえば、ハクリさんもお強かったですよね」

「はい。『鯨の腹』では特に、遊さんとハクリさんとミケさんがお強いかと」

「へぇ……遊さんも」


 ミケさんは、なんか強そうだなと思っていたけれど、遊さんも強いんだ。

 ちょっと意外。


「遊さんって、そんな強いの?」

「そうですね、妖怪としての歴が、私よりもずっと長く御座いまして」

「へぇ」


 武丸さんって、百五十年くらいだったよな。

 ……遊さん、一体何歳なんだろ。


 訊いて怒られなさそうなら、今度訊いてみようと思った。


 そんな雑談をしながら、人通りもまばらな朝の道を、穏やかに散歩していた。

 だが、のんびりと歩いて、ろ区の五丁目に入り込んでしばらく経った頃、そろそろ『鯨の腹』へと引き返そうかなどと話をしていた時。


 急に、カーン、カーンと、耳を突き抜ける様な甲高い音が響いた。

 耳を打つ音に、うるさいと思うや、突然何処からともなく、声が上がる。


「神災注意! 神災注意!」


 良く通る声が、同じことを繰り返す。すると、それに続く様に、応じる様に、同じ事を云う声が増える。

 これが何かの警報だということは判った。けれど、何の警報なのか、何に注意をするべきなのかが、僕には判らなかった。


「な、なんですかこれ!?」


 武丸さんに問い掛けると、武丸さんは、ひどく真剣な顔をしていた。


「神神楽さん、神災についての知識は?」

「神災!? 神災って、女神の一撃のことですか!?」

「いえ、それとはまた……すみません、でしたら、今はお静かに。後ほど説明を」


 すると、慌てる僕を、武丸さんはシッと指を唇に添えて制してくる。

 それから武丸さんは、辺りを油断なく見渡しながら、耳に手を添えた。


 しばらく同じ言葉が響いた後、また一度、カーンと音が鳴る。すると、声が一旦止む。


「推定、九から八級、地上を移動中! ろ区四丁目七番付近! 五丁目方面に移動中!」


 音がした前後で、声の内容が変わった。


「ろ区の五丁目って」


 今、僕らがいる丁目だ。


「神神楽さん、説明は後ほどとさせて頂きまして……災害がこちらに向かっておりまして。ひとまず、身を隠しましょう」

「災害が、向かって!?」


 向かってくる災害って何!? さっき云ってた九から八級ってやつ!?


「こちらの方に向かってきていると思われますが、まだ私にも全然……いえ、いけません! こちらに真っ直ぐ向かって!」

「な、なに、なにが!?」


 戸惑っていると、足の裏をビリビリと走る振動を、感じた。

 思わず僕は足下を見る。


「これは!?」

「神神楽さん、前を!」

「え!?」


 僕が顔を上げた時、道をこちらに迫ってくる、一軒家ほどの背丈の、何かが見えた。


 何か。異形。化け物。

 ムカデの足をすべて、巨大な人の腕に付け替えた様な、そんな、化け物。


「……っ!」


 あまりの気味の悪さに、顔が引き攣り、悲鳴も上げられない。

 化け物は速度をまるで緩めず、まっすぐこちらに向かってくる。その速度は、少なくとも僕が走る速度よりも、ずっと速い。


「ひっ」


 僕が身体を硬直させて、そんな悲鳴をようやく発した時、武丸さんが僕のことを抱え、横のマンションの敷地に飛び込んだ。

 そして僕を立たせると、懐から札の様なものを数枚取り出しながらムカデの方に向き直り、それを投擲する。


 ピシリピシリと、腕の付け根に命中したところが見えた。


 次の瞬間、武丸さんが忍者が印を結ぶ様に手を合わせる。


(ふん)っ!」


 ボンッと小さな音がした。


「この程度では効果ありませんか……準神災、九級!」


 そう武丸さんが叫ぶ頃には、ムカデは僕らの視界を走り過ぎていき、小さく足音……手音を響かせている程度となっていた。


 僕はムカデと遭遇した時からずっと硬直していたが、呆然としていたが、ふぅと武丸さんが息を吐いたのを見て、ゆっくりと再起動が始まった。


 頭の中で、先程の状況を整理する。

 鮮明に思い出し、身が震えた。


「……な、なん、な、なんな、なんなんですか、あれは!?」


 ようやく言葉を発せるほどに頭が整い、緊張が解れると、僕は武丸さんに強くそう訊ねた。

 そして、急速に激しく鳴る鼓動に、思わず胸を痛める。嫌な汗が、顔と背中を伝った。思わず、涙が出た。


 正直なところ、めちゃくちゃ怖かった。いや、今もまだ、怖い。すごく怖い。


「あぁ、すみません神神楽さん、あれは、神災と呼ばれておりまして」

「神災!? 九級とか八級とか、云ってましたよね!? あ、あんなのが、あんなの、良く出るんですか!?」

「そ、それほど頻度良くは、出ないわけでも、ないですが」


 その素直な返事に、背筋がゾワッとした。

 そして今、初めて、この綯域に来たことを、心底後悔していた。




 武丸さんに送られて『鯨の腹』に帰り、僕は自分の部屋に戻った。

 本当は神災のこととか色々訊きたかったのだけど、その余裕が今の僕にはなくて、一刻も早く部屋に戻りたかったので、玄関まで送ってもらった。


「は、はぁ……はぁああああ」


 長い長い溜め息を吐いて、玄関で靴を脱いだ直後に、僕は前のめりに倒れ込んでしまった。

 無事に帰ってきたことで、どうも、力が抜けてしまったらしい。


 ……なんだ、あれは。なんなんだ、あれは。


 思い出すだけで、冷や汗が出る。吐き気を催す。


 平和な青空の下、人よりも全然巨大で、周囲であれに対する警戒警報が延々響き渡る異常な存在。

 この綯域をして、警戒せざるを得ない異常事態。


 武丸さんが居なければ、道で突っ立っていたら、僕はあれに踏み潰されて居たのだろうか。

 それとも、捕食でもされたのだろうか。


 そう思うと、身体が震える。


 怖い。その気持ちは、今でも全然薄まらず、心の中にへばりついている。


 ただ、腑に落ちないことなのだけど、部屋に戻って落ち着きを取り戻していくに従って、頭の中が整理されて往くに従って、段々と、あれは何なんだ、どういうものなんだと、僕の内に、あれに対する興味が湧き始めていた。


「……さ、流石、綯域じゃないか」


 僕は僕が思う以上に、結構メンタル強いのかも知れない。


 あんな異質がある。あんな異常がある。

 やはり、来て良かった。ここなら、僕の知りたいことも、鎌鼬についても、あるいは、判るかも知れない。判らないまでも、対処方法が見つかるかも知れない。


 僕は、それを、先程感じた恐怖と共に、喜んだ。


 しばし突っ伏してから、起き上がると、コーヒーを淹れて、棚から昨日商店で買ったクッキーを取り出す。


 居間に移動して、クッキーを一枚、頬張る。ソフトな歯応え、からのハードな甘さ。

 原材料はバターと砂糖だけなんじゃないか、という様な強烈な逸品。脳に刺さる甘さ。ブラックコーヒーとよく合う。

 体にすごく悪そうだと思うけど、ハマるなぁ、これ。どこの世界のお菓子なんだろう。


 グイッとコーヒーを一口。


「ふぁ!」


 苦みで口の中がスッキリとした。


「落ち着いた! ガツンと落ち着いた!」


 カップをコンと机に置く。

 それから、大きく溜め息。


 あれは、神災とは、一体何なのだ。


 脳裏に浮かぶ、先程のムカデ。


 あれは、道から外れた僕らのことを見向きもしなかった。あれはただ、道を、道の通りに歩いていただけだった。


 神災は、人に興味がないのか? だとすれば、それほど恐れるものでもないのか? めっちゃ怖いけど。

 そして、それから、級って何だ? 大きさか?


「んんん……」


 頭を抱える。

 しかし、まず判るわけがないなと思い、コーヒーを飲む。


「よし、整理付いてきた。訊こう、武丸さんに」


 まず間違いなく、知っている人が居るのに、悩んでいるのは時間が勿体ない。

 そう云うわけで、僕はさっそく玄関に向かい、戸を開ける。


 開けたら、そこに、武丸さんが居た。


「あ! あ、あの、大丈夫で、御座いまして?」

「あれ? 武丸さん。丁度良かった」

「武丸だけじゃなくてですね!」

「あれ!? 美都さんまで!?」

「です!」


 ドアの影から、美都さんまで現れた。

 なぜ外に二人が。待ち構えられて居たのだろうか。朝の様に……いつから!?


「え、なんで、いつから!?」

「ん? 武丸が、珱太郎さんが初めて準神災を見て、怯えてるって云うので、慰め……励まし? なんか、そういう、大丈夫ですよって、しに来ました。今来たばかりですよ」

「あ、そうなんですか……それは、どうも」


 確かにビビりまくったわけだけど、そんなふうに心配されると、それも見た目が幼い美都さんに云われると、なんとも恥ずかしいなぁ。


「でも、僕はもう大丈」

「先程は危険な目に遭わせてしまい、いえ、私の注意不足であれほど近くに。本来ならもう少し警戒出来ていたものを、私が浮かれてしまっていたばっかりに」

「珱太郎さん、神災に遭遇されたんですよね? 驚きました? 驚きますよね? 確かに怖いと思いますが、でも、『鯨の腹』を、綯域を出られたりとか、考えてないですよね!?」

「あ、えっと、僕は大」

「神神楽さん、以後は私が、しっかりとお守りを致しまして。ですので、どうか、ご容赦を」

「私、同じ世界から来てくれた珱太郎さんと、もっとお話したいです!」


 大変、話を聞いてくれない!


 この後、二人が自分の思うままに言葉を吐き出すのを聞き、吐き出し終えて落ち着いてから、僕の方はもう大丈夫だと、引っ越す気はないと伝えた。

 そして、玄関先で話しているのもあれなので、部屋の中へ二人を招く。


「正直、確かに怖かったです。何あれ、って今でも思ってます。ですが、あれが何か、どういうものか、それを知ることが出来たら、ずっと安心できると思うんです。というわけで、説明してもらえますか? 今からそのお願いをしに往こうと思ってたんです」

「おー、珱太郎さん、なかなか肝がふ(・)わってますね」

「据わって、で御座いまして」

「なかなか肝が据わってますね」


 云い間違い指摘されて、しれっと云い直す美都さんほどではないかと。


 すると、こほんと、武丸さんが咳払いをした。


「では、簡単に、説明をさせて頂きまして」


 そう云うと、指を三本立てて、指折り説明をしてくれた。


 一つ目、神災の発生地点、発生時間は不明。発生頻度は、ろ区全体で平均して週に1~2回ほど。

 二つ目、神災の危険度は十級から一級まであり、ほぼ無害な準神災クラスの十級から、女神の一撃と同等の大神災クラスの一級の範囲で割り当てられ、発生する神災は十級と九級がほとんど。

 三つ目、発生を確認した際、発見者の報告から即時警報が発令され、神災の位置と移動方向、推定危険度がアナウンスされる。


 説明を受けて、神災警報を聞き逃すと命を落としかねないということがよく判った。


 なるほど、話を聞いた上で、しっかり怖いな。

 もう少し、こう、怖さが抑えられる情報はないのだろうか。


「なんか、遭遇したらこうしたら良いって対処法とかは。こういうの持っていた方が良いとか」

「逃げる、で御座いまして」

「珱太郎さんは逃げて」


 三十六計逃げるに()かず。

 うん、じゃあ、素直に逃げます。


「判った。じゃあ、その、発生時間や場所は不明ってことだけど、そもそもあれって、なんなの?」

「私は知らない」

「さぁ、なんなのでしょうか」

「おっと」


 綯域の住人も知らない何かの様だ。自然災害みたいなもんなのかな。

 うん、怖さしか得られないな。


「じゃあ、そうだ、級。級について教えて下さい。あれって、例えば今回の、さっきのムカデって九級とか、準神災とか、武丸さん云ってましたよね」

「あ、珱太郎さんが会ったの九級だったんですね!? 十級じゃなかったんですか!? 武丸と一緒で良かったです!」


 突然、美都さんが驚いた声を上げて、先程以上に僕の心配をしてくれた。


「武丸、死者は出たの?」

「いえ、今回は。怪我人は八名ほど出たと聞いておりますが」

「あ、やっぱり死人って出るんですね……」

「はい。九級以下では滅多に亡くなる人はおりませんが、八級以上となれば、数人は」


 ()()(おど)しではないとは判っていたが、怪我人とか死人とか云われると、改めて頭に重く響いて、ゾクッとする。

 どう怪我をしたのか。あの手に掴まれたのか、それとも、ただ進路にいて踏まれたのか。あるいは、それ以外か。


「あくまで目安ですが、十級から一級までは、この様な感じだとだけ、ご認識を」


 そう云って、武丸さんは十段階の危険度を教えてくれた。


 十級、準神災。ほぼ無害。

 九級、準神災。移動するだけのもの。

 八級、準神災。生き物や物を認識はしていないが、攻撃を仕掛けてくることがある。

 七級、準神災。生き物や物を認識し、攻撃を仕掛けてくる。

 六級、神災。九級と同じだが、自警団では退治が難しい。

 五級、神災。八級と同じだが、自警団では退治が難しい。

 四級、神災。七級と同じだが、自警団では退治が難しい。

 三級、準大神災。綯域の広範囲に大きな被害が及ぶ。

 二級、準大神災。綯域全体に近い範囲で大きな被害が及ぶ。

 一級、大神災。他の世界にも影響が及ぶ超世界規模の災害。


 この内、大神災後に観測されたのは、今のところ五級までだそうだ。

 また、六級と五級はそれぞれ一体ずつ観測されただけに止まるのだというが、五十年以上に一体だけ観測された五級の破壊によって、へ区の一部では、数百人という死傷者が出たのだという。


 準神災と神災の違いが、要するに、どうにかできるか、できないかという話ということだが。要するに、今朝見掛けたムカデについては、自警団が討伐可能だった、ということになる。


 ……マジで?


「と、ところで、今朝のムカデは……退治されたんですか?」

「えぇ、五丁目の自警団が討伐したと聞いておりまして」

「へぇ」


 なるほど。俄には信じ難いけれど、そうか、倒せるものなんだ、あれ。

 妖怪退治、みたいなものなのかな。そういや日本にも巨大なムカデの伝説あったしな、山包み込んじゃうような巨大な奴。


 そういうのを考えると、武器は刀剣や弓なのか、あるいは現代風に重火器を用いたのか、別世界のなんかこう、術とか法とかそういう(すごく)(ふしぎ)な力なのか。

 自警団などという名ではあるが、その名の印象よりも、ずっと武力的な組織と見るべきだろうか。


 想像が付かない。興味は尽きない。


 確かにすごく怖いけれど、僕の好奇心は、恐怖を少しだけ上回っている。

 まだ此処に、住んでいたいと思っている。僕もなかなか、度し難い。


 でも、だからこそ、死なない様に、細心の注意を払わなければならない。気を付けよう。


「どう、で、御座いまして? 綯域外と比べれば、やはり神災の分、危険だとは思いますが、神神楽さんは」

「出て往きませんよね? 出て往かないって云ってましたよね?」


 二人に、心配そうな目で、ジッと見られる。

 こういう経験、覚えがなくて、ちょっとドキドキする。


 じゃなくて。


「大丈夫です。引っ越しません。綯域に興味がありますし。神災にも興味がありますし。そりゃ、此処で命を狙われたりとか、『鯨の腹』が崩落したりとかしたら、アレですけど」


 それに、自分の世界から逃げてきた場所な訳だし。此処からまた逃げるとなると、それはそれで、とてもしんどい。


 僕がそう答えると、二人は、ほぅっと息を吐いた。安心してくれた様子。

 僕のことを、こんなに心配してくれる女性が二人も居るのだ。両親祖父母には悪いが、此処が、僕には今、一番居心地が良い。


 ……その両名が、祖父母よりもずっと歳上という点と、純粋な人間ではなさそうという点には、目を瞑ることとする。


 差し当たり二人には安心して貰ったし、僕は僕の興味のまま、今しばらくは、綯域で暮らしてみよう。


 好奇心は猫も殺すと云うけれど、猫は九回生き返ると云うけれど、一回も生き返れない僕は、好奇心に殺されない様に、精々注意をすることにしよう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ