再縁
私は魚だった。ある時は猿だった。またある時は二本の鎌を持ったオス蟷螂だった。
一匹のメス蟷螂が私の小さな体を取り押さえている。繋がった生殖器に、私の精包がゆったりと時間をかけて移動している。彼女が口を開き、私の網翅目に向けて歯を突き立てた。
視界が黒く塗りつぶされる。白い光が網膜を焼いた。
生まれたばかりの私が大きな声で泣いていた。
汗で肌を浸した女が愛おしそうに抱きかかえている。
私は女を母と呼んだ。母は私を慈しんだ。接吻をし、頬を撫で、背中を包み、寝る時も片時も離れようとしなかった。私は母の第二の人生だった。
それは私が幼年期、少年期と十代の終わりを迎えようとも続いた。私は母ではなかった。だが母は私を愛した。束の間、私は母の傍から離れる決心をした。
決心は母の制止の声では揺らがなかった。母の傍から離れた私が得たのは、六十数年の自由と孤独の探究であった。私が私の思考を持ち、地位を確信できた。私には私がいればよかったのだ。母の縛りから解き放たれた私は、謂わばメス蟷螂から逃げ出したオス蟷螂が如くである。
社会に飛び出て、スーツを身に纏い十数年が経った。三十も半ばに入った私に一つの着信がきた。母の危篤の報せだった。動揺した私は手にしていた携帯を落とした。拾いあげたそれには、入り組んだヒビが走っている。
五時間に渡って駆けつけた病室には、老いさらばえた母がいた。
白いベッドに横になっている母が座るように言う。私はベッドの横に置かれた丸椅子に座った。私の手の甲を優しく撫で、今までどうしていたのか等々の質問を投げてきた。投げられた問いに、間を置きながら答えていく。
しばらくすると、母が沈黙したまましわがれた両手で顔を抑えた。どうして帰ってこなかったのか、親不孝者、わたしが可哀想じゃないのか。私の心をかき乱すのに十分な、巧みな言葉ばかりが並べられる。
次に口にされる言葉を私は知っている。私の手を掴み、涙ながらに言うのだ。「お前はわたしの言うことを聞かなきゃいけないよ」わかってるよ、母さん。私が笑顔で返す。
母が私の手を握っている。薄い皮が張り付いた手で、どこにも行かないでと握っている。
手を重ねると、母の目尻を涙が濡らした。
私がいなくなれば、この人は泣くだろう。きっと、死ぬまで泣くだろう。彼女は愛情深い人だった。
口を開いて、閉じた。
結局のところ私と母は同じだ。どれだけ苦痛を、嘆きを訴えようと、私を自分の苦痛で縛り付けようとする。苦痛を使って相手を制御しようとする。私はその制御が思い通りにならないから逃げようとしている。
私は立ち上がった。恐怖した。病室のベッドに横たわった母を置いて外に向かった。
息が上がる。ここにはいられない。私は母から逃げ出した。
己の住まいに戻り、変わらぬ日々を過ごした。伴侶を作り、子を産んだ。母の死亡を人づてに聞いた。私には関係がなかった。
子を育み、愛した。娘は私の第二の人生だ。満足する生涯を送ってほしかった。
歳を重ねてから産んだ娘は体が弱かった。手間のかかる子だ。眠れない日々だった。
一つ物を食べれば吐き出した。好き嫌いが激しく、何を食べるにも顔を顰めた。私は娘を愛していた。正しい生活をしてほしい一心で叱りつけた。
苦労しない生き方をしてほしかった。塾に通わせ、勉学に励ませた。私の苦労を知らないで文句を言う娘に腹が立った。怪我をすれば、体調を崩せば「私に迷惑をかけないで」と言った。私がどれほどの苦労をしているか、娘は知るべきだった。
私が娘を愛しているなら娘も同様に私を大事にするのが当然だからだ。
ある日、娘が家から出て行った。
理解ができなかった。私は混乱した。あれだけ愛したのに、何が不満だったのだろう。私は多くの努力をしたし、娘は言うことを聞かなかった。努力を怠ったのは娘だ。
私は連日努力をするように言いつけた。電報は何一つ返ってこなかった。
疑問ばかりが頭の中をぐるぐると回った。どうやったら娘が言いつけを守るのか、わからなかった。
努力したのだ。だから私から連絡を取るのをやめて娘を待った。
娘が言いつけを守らないで十年以上が経った。
次に顔を会わせたのは私が心労で倒れた時だった。病室で会ったあの子はまだ子どもだった。つらつらと言葉をかけ、私の悲しみを伝えた。娘はうんうんと頷く。
私はこんなにも愛しているのに。
娘の手の甲を撫でる。穏やかな顔で、私の手の上に娘が手を重ねた。涙が流れた。己の感情が言葉にならなかった。愛してほしいのだ。与えた以上の愛で。
娘は私の手から離れると、その日以降訪れることはなかった。私は独りだった。
時が経つ。体は衰える。意識が朦朧とした。薄い布団の上で目蓋を下ろす。
全身の痛みで目を覚ました。肉厚のある通路を、大きな頭で持って道を作っている。
押し出されるように光の穴に吐き出される。赤い肉壁をすり抜けて、白い光が視界を焼いた。触れた外界が濡れた皮膚を乾かす。驚いた私は口を開く。
おぎゃあ おぎゃあ
おぎゃあ おぎゃあ
おぎゃあ……
「……可愛い子」
どこかで見た黒髪が、大口を開く私を愛おしそうに見つめていた。