テスちゃんとクリスタさんとカナコ〈4〉
ふう、すう。ふう、すう。
やさしくて、やわらかい音が繰り返されていた。
アルマさんに息を吹き込むカナコ、カナコの息を受け止めるアルマさん。
カナコは、アルマさんの中で呼吸をしている。
見つめるあたしは、胸の奥がじんじんと震えていた。
涙が、沢山溢れていたーー。
♡=♡=♡=♡=♡
ちゅ、ちゅ、ちゅう~っ!
処置が終わって目を覚ましたカナコは、アルマさんを見たとたん大泣きをした。
『お母さん、お母さん~っ!』
「騒々しいぞ、落ち着くのだ」
アルマさんが身に纏う臙脂色の服の胸元にぴたっと貼り付くカナコを、アルマさんはそっと掌で包み込んだ。
「其処、俺の場所……。」
バースさんが切なさそうに呟くのが可笑しかった。でも、笑顔は続かなかったの。元気になったとはいえ、カナコはねずみのまま。
バースさんとアルマさんは、カナコがねずみの姿になった理由を訊きたいはず。
先ずは名前と年齢。出身地はあたしが暮らす惑星レチェルに住まいがあるロクム・シティ。教養を専攻している大学生だけど、公認の能力者。
カナコと出会ったきっかけを経ての今を、あたしはおふたりに一生懸命説明した。
バースさんは、アルマさんは、あたしの話しを一言も漏らさずに耳を澄ませてくれた。
「テリーザ・モーリン・ブロン。そなたは、我々の世界の時の刻みと平行した世界の住人。そして、今の時の刻みは世界と世界の融合によるもの。またしても《奴ら》は時と世界を操作した……。」
おふたりは、カナコがねずみの姿になった理由を訊ねる。と、思っていたら語るだろうの“本人”はアルマさんの掌の上で寝息を吹いている。
アルマさんの言葉は、あたしにとっては難しくて、凄く重みがあるように聞こえた。
「その通りだ、アルマ。だが、今回は訳が違う。何故ならば、カナコが姿を変えられてしまった。そして、テスと巡りあった。ちっとやそっとでは解明できない何が蠢いている」
バースさんは、アルマさんよりうんと怖い顔をしていた。さっきのバースさんとまるっきり、雰囲気が違う。
闘う。
バースさんの目付きは、あたしにそう見えた。
「カナコを元の姿に戻す。先ずは、その手掛かりを探るのが優先だ。テリーザ・モーリン・ブロン、そなたがカナコと共に現れた場所から追跡を始める」
きっと、凛々しい顔をするアルマさんは、あたしの掌の上にカナコを乗せた。
「今、カナコを護れるのはそなただ。頼むぞ、テリーザ・モーリン・ブロン」
とても大切な役目。あたしがおふたりのお子さんであるカナコを護ること。
カナコの未来は、あたしの動きかた次第で決まってしまう。
こんなとき、クリスタだったらどんなことを言うのだろう。
クリスタに会いたい。
あたしは、カナコを掌に乗せたままでクリスタのことを考えていたーー。
◇=◇=◇=◇=◇
クリスタ・ロードウェイは、猛烈に後悔していた。
たった一匹のネズミの為に、テスをパジャマのままで外へと追いやってしまった。急いでテスを追いかけたものの、姿を見失ってしまった。
ちゃんとテスの話しを聞いてあげたらよかった。外へと飛び出たテスのあの格好では、間違いなく誰もが驚きを隠せない。
ーーああん、どうしよう。クリスタに選んでもらったパジャマを、汚してしまった~っ!
テスは今頃そう言いながら、何処かを彷徨っているに違いない。
と、思いに浸っているクリスタだったが、はっと、我に返るのであった。
視線が矢鱈と浴びせられている。一般人に注目をされるのは、職業柄が付きまとってのこと。街を歩いている時は、頻度が高くなる。
微笑んで手を振るサービスは付き物だ。しかし、今一つ反応が薄い。
ーーなんじゃ、こりゃあ~っ!!
テスを追い掛ける際にモップを握り締めていた。気付くクリスタは、モップを地面に叩きつけるように手離すのであった。
クリスタに注目をしていた人集りは、蜘蛛の子を散らすように去っていく。ぜいぜいと息を切らせていると、妙な音と光の点滅にクリスタはかっと、眉を吊り上げる。
「無断撮影はお断りしている。よって、厳しい対応をとらせてもらう」
クリスタは一度は捨てたモップを拾って“照準”をモップの先端で捉えるをした。
「ほう、初対面の相手にいきなり腕ずくでの応対。武人というのは、矢鱈と血気盛んなものだな」
クリスタはむっと、顔をしかめた。
「やい、お兄さん。あたしはこう見えても職業はファッションモデルだ。格闘技は、あくまで体力強化と体型維持の一環で取り入れているっ!」
銀縁丸眼鏡で細面の短髪、服装の色をグレーと茶と黒の取り合わせで控え目な印象を与えている。
クリスタは、違和感を覚えた。眼鏡の奥にある凍りついた目付きが風格とそぐわない。
この男は、何者だ。パパラッチならば、相応な服装で機材を抱えている。カメラのシャッター音とフラッシュが焚かれた光はこの男からだったにも関わらず、それらが見当たらない。
油断を許せない、隙を与えてはならない人物。奴に関わる者は必ず“闇”に落とされる。
奴を野放しにしてはならない。クリスタは直感したのであった。
ーー姐さん、待てや。あんさんがいてまうことをする必要はないで。
ーーそやそや。そやつをぼこぼこにするんは、わいらにまかせるんや。
「手を出すな。こいつは、あたしの獲物。おまえたちの手を借りずとも、十分に始末出来るっ!」
独特な喋り方で何時も一緒。今、目の前にいるふたりを、クリスタは知っていた。
アダムとディー。
ふたりは公認能力者。彼らの素性は、テスを介してだが知っていた。間がいい具合の現れが妙だったが、クリスタは彼等の促しを断った。
「あかん。あんさんが太刀打ち出来る相手ではないで」
「姐さんは非能力者や。武器でどうにかなると思うのは、危険な考えやで」
「自分に降りかかった火の粉を払い落とす。それのどこがいけないのだっ!」
クリスタはぐっと、モップの柄を強く握りしめる。
『しゃあない。ディー、姐さんを大人しくさせるで』
『よっしゃ、アダム。あれなら、姐さんの動きを封じられるさかい』
さっきと違って、ふたりが直立不動になっている。
クリスタは、彼等の思念波での会話に気付いていなかった。
「なあなあ、姐さん」
「黙れっ! 何べんも同じことを言わせるなっ!!」
「ほな、姐さんの足元にいるのは何やねん?」
ニヤリと、笑みを湛えるアダムをクリスタが拒んでいると、ディーがくいくいと地面へと指先を差していた。
すりすり、のそのそ。
無数の足、頭部から伸びる1本触角は黄色。翠の胴体の側面に黒の斑点が横一列に並ぶ物体。
「よっしゃっ! 姐さん、動きを止めてもうた」
「姐さん、ひっくり返ってしもうた。威力、ありすぎちゃう?」
「心置きなく、標的さんとやれるさかい」
「そやな、そっちがわいらの目的だったちゅうねん」
「きっちりと、仕事をこなさせてもらうさかい。あんさん観念しなされ」
アダムの視線は、先程までクリスタが狙いを定めていた“標的”に向けられていた。
「面白い。パスポートを所持していたサンプルを追跡していて、能力保持者と遭遇。しかも、ふたり。気が変わった、先ずは貴様らを回収しよう」
「けったいなことを言うてはる。どうや、アダム」
「わいらの素性を一発で見抜いたさかい。ディー、相手さんもただの人とちゃう」
「そう言うことや。あんさん、覚悟しいや」
「その前に相手さんの名前を聞くんや」
「好物と苦手な物を聞くは、どないする?」
「気になる異性もおりはるのかも。どや、あんさん?」
「……。さっきの提案は白紙に戻す。貴様らを回収しても研究所が持ちこたえない。現にこのオレでも虚量範囲が満杯状態」
「残念やな。なら、あんさんの名前だけでも聞かせて貰うさかい」
「ジュー=ギョインだ。オレは、貴様たちが暮らす世界とは違う世界から、サンプルを追ってやって来たーー」
「あ。相手さん、具合わるぅしおった」
「抵抗する前に、相手さんから汲まなく情報を掻っ払うで」
アダムとディーは、顔面蒼白でしゃがみこむ男に近付き、捕らえようと腕を伸ばしていた。
ーーはい、残念でした……。
男の悍ましい声と同時に、アダムとディーは手首に違和感を覚えた。
「油断してしもうたっ! なんちゅう奴やっ!!」
「何するんやっ! ああ、姐さん。丁度よく目を覚ましよった。逃げるんや、テスはわいらがちゃんと探したるっ!!」
「おっと、その装置は貴様らでは解除出来ない仕組みになっている。強引に取り外そうとするならば、貴様らの思考は永遠に《我ら》によって操作される。つまり、装置を着けた瞬間から貴様らは《我ら》の監視下に置かれたのだ」
アダムとディーは、手首に填められた輪っかを取り外そうと藻掻いていた。不運なことに、蟲の襲撃に倒れたクリスタが、起きてしまった。
「だから、言っただろう。こいつは、あたしの獲物だとな……。」
クリスタはモップを握りしめて柄の先を地面に押し付けると、男を睨み付けたーー。