ちょっと待って、源九郎くん 〈はじめの話し〉
九藤 朋様著『おれ、源九郎』より、元気でお茶目なこにゃんこ、源九郎くん登場です。
妻が、猫を飼いたいとせがんだ。
僕達の間に、子宝はまだ恵まれていない。夫婦水入らずの暮らしに寂しさはないが、妻は何かが足りないと、燻っていたのだろう。
「飼おう」が、するりと出てこない。妻は、僕の訝しげな顔から悟ったらしく「もう、いいよ」と、冷たく尖る口の突きをした。
いつもなら会話を弾ませながらの夕食だが、黙々と食卓を囲むのがどうも息苦しい。
「あっちに行って」
就寝時は、もっと冷たかった。寝床で添い寝する妻が、僕を蹴飛ばして拒む。
僕は結局、妻に甘いのだ。飼う猫について勤務する大学での学生、または職員に交渉してみると、妻の耳元で囁く。
妻は僕に振り向く。そして、僕の頬に口づけをすると「すうすう」と、寝息を吹くのであった。
“おあずけ”のままなのが哀しいが、妻の笑顔を見るためなら我慢しよう。
次の日は、妻との“結び”をかけての。もとい、夫婦円満の為の交渉を大学校内で決行した。
しかし、誰もが良い返事をしなかった。僕の口から“猫を飼いたい”と突かれるのが意外だったのだろう。
「先生、若い奥さんがいるのでしょう? しかも、私と変わらないほどの歳の」
ひとりの女学生が僕を睨み付けた。あれほど“先生”と、弾む声で僕を呼んでくれていたのに、僕が世帯を持ってしまったと知ってしまったとたん、態度が矢鱈と冷たくなってしまった。
僕の結婚が、これほどまでに波紋を広げていた。いや、猫を飼いたいだけで何故、こんなに心が折れるのだ。
やはり、考えが甘かった。妻には、どうやって言い訳をしよう。そして、財布の中もしっかりと確認をしなければならない。
日没してしまった。校内の講義準備室で資料作成に、学生からの提出物に目を通す。仕事はできるだけ家に持ち帰りたくないと、僕は校内に残ることが結構ある。
妻へのお土産は、決まっている。そう、妻が願う“仔猫”だ。しかし、時間が時間だけにあって、帰り道に寄ったペットショップは閉まっていた。
猫を“買う”のは、後日に改めて出直す。その時は妻に飼いたい猫を選ばせよう。そうだ、妻のご機嫌取りに肉まんを買って帰ろう。
にゃん。
僕の後ろから、鳴き声がする。ああ、猫だ。僕は堪らず夜道での歩きを止めて、振り向いた。
『おじさまが手にする肉まんを、ひとつおれっちにくださいな』
僕は“同調の力”を備えている。人や動物の気持ちを読む能力のことだ。普段は抑制しているが、疲れが溜まっていると今のように“力”が無意識に発動されてしまうのが厄介だ。
緑色の瞳が、ビー玉みたいにくるくるとしている。艶やかな毛並みは口元、お腹、手と足が白く他は焦げ茶色。ちょっと失礼と、抱っこして性別を確認したら立派な雄だ。
猫は僕が抱えている肉まんの袋に鼻でつんつんと突いていた。本当に食べたいらしく、口の端からよだれが垂れている。
「キミ、賢そうだね。僕はタクト=ハイン。キミのことをもっと知りたい。だから、キミの名前を教えて」
「おれ、源九郎。そうだ、タクトっち。おれは実に賢い思春期真っ只中の美猫だ。ふうふう、はふはふ。うまい、うまいっ!」
猫は、源九郎くんは、僕から貰った肉まんを両前足で上手に抱えてかぶりついた。自分の頭くらいの大きさの肉まんを、源九郎くんは食べきった。
源九郎くんは、人間の言葉をちゃんとわかっている。違う、源九郎くんは、はっきりと喋っていた。
「『タクトっち』?」
「実にうまい肉まんだったにゃ。ふかふかの皮、ごろりとした、脂身の塊がまぶされているあんの歯応え。いっぺん食べたらやめられないっ!」
源九郎くんは、肉球に貼り付く肉まんの皮を「ぺろり」と、舌ですくって咀嚼した。僕に愛くるしく緑色の瞳を向けて、遠回しの“おかわり”を催促した。
僕の心に火が着いた。これで、財布の中身が護られた。違った、僕は源九郎くんに、交渉をした。
三食昼寝付きで、僕の家に住み込む。はっきりと言えば、源九郎くんが僕と妻の“飼い猫”になることに。
「タクトっちの奥さん、グラマーなの?」
まあ、一応。妻は、妻のお母さん譲りの顔立ちだ。気立て、根も同じくだ。
「おれ、喜んでタクトっちの家に住む。ところでタクトっちの奥さんの名前は?」
「カナコ……。」
源九郎くんの、煌めく眼差しに叩きのめされたーー。
***
僕が我が家に連れて来た、源九郎くんは育ち盛りと称していた。
「いただきます」
行儀よくて、食べっぷりが気持ち良い。妻のカナコが振る舞った料理を、源九郎くんはすっかり食べてしまう。
「ご馳走さまでした、美味しくいただきました」
礼儀正しいのにも感心した。空になった食器をカナコと一緒に洗うをしてくれた。
妻は、カナコは、いつになったら気づくのだろう。
猫の源九郎くんが、普通に喋っていること。やることなすことが“人”そのものだと、いうことに。
「頼むよ、源九郎」
「任せて、カナコしゃん」
どうみても、カナコが源九郎くんを良いように使っている。待ってよ、源九郎くん。そんなにほいほいと、頼まれ事を受け入れないで。
「タクトっち、手を出さないでくれ。これは、おれの戦いなのだ」
何かを被らせて、言っている。別の何かが聞こえた気がする。源九郎くんは「きっ」と、顔をしかめて、スリッパを右の前足で掴んでいた。
そう、源九郎くんは一匹の黒い害虫討伐をカナコに頼まれた。名前を言うのは止めておくが、僕の足元でじっとしている黒光りの“象”へと、源九郎くんはそろり、そろりと近づいていった。
ーーほ、わったぁああっ!!
「すぱんっ」と、スリッパの底が床に叩きつけられる衝撃音が何度も響く。源九郎くんは、苦戦していた。あっちの方向、こっちの方向と“敵”はちょろちょろと素早く逃げ回っていた。あ、源九郎くんの攻撃が僕の褄先に命中した。
「はあ、はあ」
源九郎くんの息遣いが荒くなっていた。足取りもふらふらとしている。それでも、源九郎くんは諦めきれずにいたのだろう。スリッパを握りしめながら、匍匐前進で“敵”を追い続けた。
今度こそ、仕留められる。動きを止めた“敵”に源九郎くんは「どぉおりゃああっ!」と、叫んでスリッパを大きく振りかざした。
がさがさ、がさがさ。
虚しくも、黒光りの“象”はタンスの裏側へと逃げていってしまったーー。
九藤 朋様の、大切なお子さんをお預かりしての物語は、続きます。
源九郎くん、よろしくお願いします。
朋様、本編に於いてのご協力、ありがとうございます。




