テスちゃんとクリスタさんとカナコ〈10〉
いつか、この日がやってくる。
わかっていたけど、やっぱり哀しい。
テス、やっと手と手を繋げたね。
いつものように、わたしを抱っこしてるつもりだけど、やめようね。
思い出は、胸のうちにそっとしまうの。
テス。わたしたちの、ないしょの内緒をこっそりと埋めにいこうーー。
♡=♡=♡=♡=♡
見上げる空は、マリンブルー。
ふんわりと草の匂いが混じる風を、あたしは頬いっぱいに受けた。
うん、カナコ。今日は楽しくいこうね。
思い出は、楽しく。楽しくをいっぱいに。
楽しく、楽しく。
ぽろぽろ、ぽろぽろ。
今、目の前にいるのはカナコ。この子が、本当の姿のカナコ。
瞳の色は空と同じ。髪はふわふわの暁の色。
ちっちゃい、ちっちゃいねずみだったカナコは、おしゃまな女の子に戻った。
よかった、本当によかった。
掌の上に乗せられなくなったのが寂しいと、涙をぽつぽつ溢したーー。
*=*=*=*=*
アダムとディー、クリスタがいっぺんにもとの“世界”に帰った。
クリスタは、今頃テスの帰りを首を長くして待っている。テスだって、クリスタに会いたがっている。
わたしといえば、ねずみの姿がすっかり板についてしまったらしく、気ままに過ごしている。
タクトが、とろっとろにやさしい。
向ける瞳がてろってろに垂れて、わたしを掌の中にもふっもふと包んでくれる。
もとの姿なんて、どうでもいい。タクトに甘えられるなら、この姿が役立つ。
「カナコ、おまえのおうちはこっちだ」
お父さん、余計な一言だよ。あ、わたしをタクトから引き離した。
がしゃん。
お父さんのばかーっ! わたしを完全に“ペット”扱いにして、しかもケージの扉に鍵を掛けた。
もう、頭に来た。こんなところから、抜け出してやる。
はあ、はあ。
このケージ、意外と頑丈な造りだ。柵の隙間に頭を突っ込ませている姿が辛い。
疲れた、そして眠い。
「カナコ、首を絞めてます」
「脱走しようとして、疲れはてたのだ。タクト、ケージの中に押し返せ」
いっ! タクト、お父さんの言うことを本当にしてる。いだだだぁあ~っ! あ、前歯が柵に引っ掛かった。
「ぷ、間抜け面」
「バースさん、これだとカナコが本当に命を落としてしまいますよっ!」
ちゅ、ちゅうぅううっ!
タクト、ありがとう。タクトは指先でケージの柵をぐにゃりと抉じ開けて、わたしを助けてくれたーー。
♡=♡=♡=♡=♡
カナコと一緒にいるのは楽しい。
ちっちゃい前足で抱えたチーズをもぐもぐと、咀嚼する。肩によじ登りそびれてつるりと、あたしの胸の谷間に落ちて、見ていたタクトさんが顔を真っ赤にする。
そうそう、こんなこともあったわ。
バスルームから悲鳴が聞こえたの。それも、タクトさんの。びっくりして様子を見にいったアルマさんが、ずぶ濡れになったカナコをタオルで包んで部屋に戻ってきた。
一番大変な思いをしたのはタクトさん。お冠状態のバースさんにどんなに理由を言っても不純だと突っぱねられて、お気の毒としか言いようがない。
ねずみとはいえ、カナコはバースさんの娘。だから、バースさんからしてみればタクトさんが全面的に悪いという結論に至った。
それ以来、タクトさんとバースさんは険悪になった。見ているあたしでも辛いほど、ふたりは何かにつけてぶつかり合いをした。
カナコはもっと酷かった。だって、バースさんがカナコを飼い鳥用のケージに閉じ込めちゃうの。
一番良いのは、カナコが元の姿に戻ること。カナコだって、解っている筈よ。
ケージの中でばったばったと飛び跳ねるカナコに、あたしは指を咥えて見るしか出来なかった。
「カナコに掛けられた“変化の力”を解除する。方法が解っていたら、とっくにだ」
カナコのお母さんのアルマさんは、機嫌が悪かった。あたしは涙が溢れそうなほど落ち込んだ。
気のせいか、みんなが冷たい。バースさんにちょっと声を掛けただけなのに「むっ」と、顔をしかめられる。タクトさんなんて、目を合わせてくれない。
もう、帰りたい。クリスタが待っているロクム・シティに帰りたい。
メイプルシロップがたっぷりかかる、ホイップクリーム添えのふわふわのパンケーキはこっちの世界でも作れるけれど、味が微妙に違う。
自分がいる世界が恋しい。今頃になって、ホームシックになっちゃった。カナコをそっちのけにして、あたしはクリスタのことばかりを考えるようになった。
これ以上、みんなと一緒に過ごせない。あたしはみんなが寝静まっている隙に、建屋から出るを決めた。
未知の世界でいく宛はなく、真夜中の野原でぼっちぼちと足取りを重くした。気を取り直してずんずんと、歩いた先に森が見えた。
偶然にもカフェらしき建物がある。しかも、明かりが灯されていて。あたしが暮らす世界のオープンカフェ、モッフルの森のような外装に心が踊った。
お腹はペコペコ、喉がカラカラ。お財布の中は重いから、大丈夫。
あたしは「からん」と、ドアベルを鳴らした。内装もモッフルの森とそっくり。あ、あの隅のテーブルに座っちゃおう。
テーブルの上に置かれていたのはメニュー表。ではなくて、一枚のカード。
〔今すぐ、食べられます〕
どういうこと。もしかしたら、食べたいものを思い浮かべただけで、びっしりと料理を出す不思議なテーブルかも。あら、向こうの座席にもカードが置いてあるわ。
手を伸ばして、カードを捲る。
〔ゆっくりと、食べられてください〕
食事を堪能することよね。それなら、大得意よ。ふんふんと、鼻歌を混じりで美味しそうな食事を沢山思い浮かべながら、テーブルの上に指先を這わせた。
ほええ、指先がテーブルにくっついてしまった。ああん、どうしよう。まるで接着剤みたいに頑丈な引っ付き方。
ーーふん。本当にこんな罠に引っ掛かるとはな。望み通りに、食べられるのだ……。
今の声は、店員さん。ちょっと、接客の態度が物凄く悪いわよ。挨拶なし、無愛想。おまけに上から目線はお客さんに失礼でしょうっ!
「聞こえなかったのか。テリーザ・モーリン・ブロン。直ちに食べられたまえ」
「ぱちん」と、指が鳴る音がした。
あたしは「ぞくっ」と、身震いした。指先に乗る鑢のようにざらりした感触と、後ろから吹く生温い空気。見上げた白くて尖った照明灯は、牙そのものに見える。あ、真っ暗になっちゃった。
やっと、頭の中がはっきりとした。
あたしは、食べられない。
食べられるのは、あたし。
クリスタ、あなたに帰れない。あたしは、うんと遠いところに旅立ちます。
さよなら、クリスタ。さよなら……。
ーーテス。朝食が出来てるから、冷めないうちに食べて。
ドアをノックする音、低めのアルトの声。
今日はクリスタと、待ちに待った遠出をする。
クリスタが作った朝食を美味しく食べて、服装は山ガール風にコーディネート。
登山列車の車窓から見える、赤や黄色と彩る山の樹木。
日帰り立ち寄り湯で、お肌はつるっつるのすべっすべ。
クリスタとの遠出は叶わず、あたしはひとりで旅立つ……。
ちゅう、ちゅううっ!
……。ほええ?
『テス、ごめんなさい。だから、目を開けて』
つんつんと、頬がくすぐったい。
『よかった、テス。気がついたのね』
ずきずきと、頭が痛い。うっすらと目蓋を開くと、カーテンの隙間から溢れる陽の光に照らされた、ねずみさんが見えた。
くるくるとした、青い瞳と暁色の毛並みのねずみさんのおつむに、指先をそっと乗せた。
「……。カナコ、あたしは大丈夫よ」
あたしはベッドの上に横たわっていた。
あたしは【クニ】の北にある、森に迷いこんでいた。森の中にあったオープンカフェ風の建物は、あたしの記憶で創られた形。象らせたのはあたしだと、アルマさんが教えてくれた。
「テス。おまえをひとりにして、すまなかった。言い訳になっちまうが《奴ら》の窖に突入することが出来た」
バースさんが、哀しそうなお顔をされていた。
バースさんは戦われていた。世界と世界の融合を引き起こした《奴ら》を叩きのめすという使命で動かれていた。
あたしは“まやかし”に囚われていたから、バースさん達が《奴ら》をブッ潰す状況を見ていない。だけど、バースさん曰く。それでもあたしは無意識に能力を発動させていたみたい。
あたしはまわりが見えないほど、クリスタのことばかりを考えていた。クリスタの処に帰りたいと、気持ちをつのらせていた。その感情が能力になっちゃったのかしら。
バースさん達のお役に立てた、それで十分です。でも、ご褒美は欲しい。
あたしはカナコを掌の上に乗せて建屋の外に出ると、東の空にぽっかりと浮かぶまぶしいお日さまを見つめる。
年の始めの日の出に願い事をするように、あたしは太陽に祈った。
今すぐカナコを元の姿に、カナコを女の子に戻して。
「かふり」と、欠伸がでちゃった。しっかり寝ていたのに、眠たい。
「テス、よだれが垂れている」
ほええ? 見られていた。あたし、立ったまま寝ていたのね。ああん、何ナニ? 腕が重くて堪らない。
「テス。抱っこはもう、いいよ」
「すとん」と、朝露で濡れた草地を踏み締める音がした。
「……。はじめましてじゃないけど、はじめまして。あたしは、テリーザ・モーリン・ブロン。あなたのお名前は?」
ーーカナコよ、テス……。
朝焼けのような髪、空と同じ青く澄んだ瞳の“カナコ”と手と手を繋いだーー。
*=*=*=*=*
テス。わたしの友達になってくれて、ありがとう。
お父さん、お母さん。うんと困らせてごめんなさい。
たぬ。違った、タクト。わたし、ねずみのままがよかった。
わたしが元の姿に戻ったとたん、いつものタクトになっちゃうんだもん。
眉間にシワをよせるのが気に入らない。勉強、勉強と耳にタコが出来るほどの小言にうんざり。あ、デコピンしたっ!
「テスさん、カナコに気をとられていたら関門が閉じてしまいますよ」
ぶーぶーぶー。
いっ! タクト、本気で脚の脛を蹴った。
「タクトさん、あたしがうしろ髪ひかれます」
そうよ、テス。たぬ、じゃなくて、たぬ、たぬ……。
「テス、タクトはタヌキよ」
ごん。
タクトの手加減なしでの拳骨はヤバい。
「バースさん、止めなくていいのですか?」
「ほっといて構わない。なあ、アルマ」
お父さん、笑っている。お母さんもだ。
「カナコ、テスを困らせるのではない。さあ、ちゃんと挨拶をするのだ」
お母さんに言われちゃったら、どうすることもできない。
わたしはテスとお別れをしたくない。色々と誤魔化しても、やっぱり目の前の現実は避けられない。
野原にぽつんと、大きな樹木。その幹にぽっかりと穴が空いている。
テスだけが潜れる関門だった。
うさぎを追って穴に落ちたら不思議の国という、おとぎ話のようね。と、テスはにっこり笑った。
「テス」
「うん、カナコ」
わたしはテスの掌に指先を乗せる。この掌の上にわたしは乗っていたのだと、思い出を溢れさせた。
もう一度、もう一度。どんなに思っても、わたしはねずみの姿にならなかった。
テスをぎゅっと、抱きしめて。テスにおつむをなでなでされていたら、涙がぶあぶあと滝のように溢れ落ちた。
ーーカナコ。ばいばい、またね……。
テスは「すとん」と、穴の中に褄先を突っ込ませて「するり」と、落ちていった。
ごと、ごと、ごん。
ーーいたーいっ! たすけてー、クリスターッ!!
穴の奥から、テスが叫んでいたーー。
ご拝読、ありがとうございます。
〔テスちゃんとクリスタさんとカナコ〕のお話は、おしまいです。
加純様、キャラ登場及びエピソード案のご協力。素敵なFA、心より感謝を申し上げます。