【6 ティッシュ・ペーパー】
ティッシュ・ペーパーが海賊になるまでのことはほとんどわかっていない。5年前、イレットをはじめとする10人ほどの仲間とともに現れ、手近な海賊団を強襲、首領を倒してその海賊を乗っ取ってはまた別の海賊を襲いということを続け、1年足らずで南洋群島でも指折りの海賊にのし上がった。もちろん、いつも勝ちというわけではない。時には手痛い敗北もあったが、いつの間にか人数と武器を揃え復活した。その不死身ぶりには他の海賊も「どうやって人と武器を集めているんだ」と首を傾げるのを通り越して恐れを抱いたほどだ。
一時は輸送船より海賊を襲う方が本業ではないかと言われた彼らだが、3年前から他の海賊同様、ピニミの商船を襲うことが主流となった。最初は乗っ取り同様に首領に収まった彼に対し不満を持つ海賊達もいたが、部下に対する面倒見が良く、信頼を勝ち取っていった。
当然ながら他の海賊は面白くなく、彼に対しては、ピニミの対海賊衛士隊より他の海賊との戦いの方が多かった。3年前、ウメコブ海賊団のとの戦いで彼は魔導師の火炎魔導の直撃を受け、髪がチリチリに焦げてしまった。この髪は薬でも治癒魔導でも治らず、以後、彼は「チリ髪のティッシュ」という異名を持つようになる。
今回、ティッシュ捕獲に成功した衛士隊の対海賊殲滅戦も他の海賊が情報を流したせいと言われている。
「町議会は何を考えている?! これで奴を釈放したら、他の海賊たちにも舐められるぞ」
「これは決定したことです。夕方前にはこちらに到着するので、それまで余計な手出しはするなと」
苛立ちを隠さないアルテュールに、報告する衛士もつらそうだ。
「決まった以上は仕方がないでしょう。劇場の海賊達に早く教えたらいかがです。それで少なくとも、ティッシュ到着までは人質に危害を加えないはずです。私も、人質の関係者たちに教えてきますよ」
ベルダネウスがファルトを伴い本部を出る。
「釈放を認めるとはね。意外だったな」
ファルトがあくび混じりにぼやく。ベルダネウスも同じだった。時間を稼ぐために釈放すると答えることはあっても、実際に釈放することはないと思っていたのだ。
「ディファードの家族を案じたかな」
「海賊と戦うからは当人たちも覚悟はしていたはずだ。釈放することで相手に隙を作って一気に突入、勝負を決めるつもりなのかもしれない。だったらそのうちその命令が来るだろう」
控え室でティッシュ釈放決定を告げると、関係者たちからは安堵と戸惑いの声があがった。
「これで海賊達も人質を釈放するんですね」
「いつ釈放するかはわかりませんけどね」
「信用できるのか? 相手は海賊だぞ」
「わかってますよ。でも、信用するしかないじゃないですか!?」
人質が助かるかも知れないとの喜びが一通り済んだ後は、不安と罪悪感が頭をもたげてくる。
「でも、これでやつらが力を取り戻したら、もっと犠牲者が増えるんじゃ」
「それを心配するのは我々の仕事だ」
入り口にだっている衛士が声を上げた。
「あなたたちは余計なことを考えず、人質にされた身内の無事な姿を喜べば良い。助けた人達が喜ばなくては私たちも張り合いがない」
自信ありげな衛士の言葉に、皆の顔から緊張が緩んだ。
「良い衛士だ」
ベルダネウスが微かな声でつぶやいた。
「良い知らせです。外の仲間から連絡がありまして。ピニミ議会はティッシュ・ペーパーの釈放を決定しました」
舞台上から観客席の人質たちに向かって、イレットは舞台挨拶のように説明した。
「うそです!」
ディファードの妻・サルシーラが毅然として言い放つ。
「捕まえた海賊を釈放するなどありえません。そんなことをしたら海賊を図に乗らせるだけです。このような事件を何度も起こすことになるでしょう」
「議会の事情は知りません。ただ、彼らは釈放を選んだのです。命が助かるのだから喜びなさい」
「助けてくれるの?」
人質の1人が半信半疑で聞くと
「もちろん、海賊は政治家と違って約束を守ります。ただ、私たちも逃げる都合上、お行儀良く釈放というわけにはいきません」
正面扉が開く音がして、何か重いものを転がす音がする。
何事かと皆が振り返ると、海賊たちが樽をいくつも回しながら入れてくる。
「何だあれは?」
「すぐわかります」
彼らは樽を観客席の外側の通路にほぼ等間隔に並べると、大きな木槌で蓋をたたき割った。まるで祝い酒を振る舞うように。
しかし、開くのと同時に流れ出た匂いは酒ではなかった。
「油!?」
ルーラの言葉にイレットが頷く。
「別に皆さんを油まみれにしようとするわけではないので、その点はご安心を」
と言われて安心する人質は1人もいない。
「この階に油を流します。ここからは見えませんが、外の通路や、2階、3階も同様にね」
「僕たちを劇場ごと焼き殺すつもりか?」
オーキンスが怒り混じりに声を上げた。今まで比較的おとなしくしていた役者たちだが、これには驚いた。
「あなたたちの命を取る気はないと言ったでしょう。説明しましょう。
彼らはティッシュを釈放、ここに連れてきますが。私たちは彼を受け取ったら、ここに火を放ちます。逃げ出す状況を作るためにね。しかしご安心を。周囲には衛士隊が大勢取り囲んでいます。ここが燃えはじめれば突入しますよ。あなたたちを助けるためにね。
あなたたちは素直に助けられれば良い。私たちはその間に退散します。もちろん衛士隊は私たちに注目するでしょうが、それよりも人質の救出や消火を優先するはず。私たちを相手にするのは限られ、しかも火に囲まれた状態では冷静な判断も出来ないでしょう。
こちらはこの建物を出てからの逃走経路を確保し、そのための準備も万端です」
「どんな逃げ方よ?!」
「あいにく、それをここでしゃべるほどお人好しではありません。ただ、あなたたちが衛士隊に助けられ、外の肉親らに抱きしめられている頃、私たちは悠々とここを離れているだろうということです。火を消すのを最優先として動く衛士隊を尻目にね。
他に質問はありませんか? あっても答えませんけれど」
まるで馬鹿にしているような言い方だが、ルーラは黙って聞いていた。
イレットは忘れているかも知れないと思ったのだ。ここにはまだジェムがいることを。ファルトが一瞬でも感覚共有をして油の匂いに気がつけば、彼らの手口を読み取ることはたやすい。少なくとも、事前に人材を用意することは出来る。
それに先ほどルーラがイレットに飛びかかったのは、ジェムを助けるためだけではない。彼らがポンチョの下に着ているものを明らかにするためだった。そして間違いなく、それはジェムを通じてファルトに、外の衛士隊に伝わっているはずだった。
日が傾く頃、劇場を囲む見物人は数を増していた。
正式な発表はないものの、どこからかティッシュ釈放の情報が流れたらしい。
早めに仕事を終えた人も集まってきた。増員された衛士達が野次馬の整理をしている。さすがに彼らを押しのけてまで劇場に接近しようとする野次馬はいない。どんな形にしろ突入、決着が近いことが感じられ、それを見たいが巻き込まれるのは嫌だという空気が野次馬たちを覆っている。
「まもなくティッシュ・ペーパーを連れた馬車が到着する」
控え室に勢揃いした衛士達を前に、アルテュールが静かに、重く語る。
衛士隊の中には、約束通り突入班に参加を許されたベルダネウスとファルトもいる。2人とも衛士隊の制服姿だった。着慣れていないせいか、2人とも制服姿が似合わない。
「人質の解放と同時に引き渡すよう交渉はするが、イレットが素直に応じる可能性は低い。良くて人質の一部解放だろう。
我々のやることは、劇場に突入、人質の安全確保及びティッシュを含む海賊たちの拘束だ。突入のタイミングは人質の受け渡し直前を考えているが確定ではない。状況に応じていくらか前後する可能性がある。各自持ち場についたら、いつでも突入できるようにしておけ。
突入後はかまわん、海賊たちは全員切り捨てろ」
いきなりの殺害命令に、衛士達が息を飲んだ。
「生かしたまま捕らえたいが、そんな余裕は無い。劇場に潜り込ませた魔導師の使い魔から得た情報によると、奴らは劇場内に油を撒いている。おそらくティッシュを手に入れると同時に火を放つつもりだろう。脱出のための混乱と、我々の手数を削ぐためだ。
奴らはティッシュを受け取るまでは火をつけない。だからこそ、その前に突入して勝負をつけたいが、さすがにそれは困難だろう」
皆が小さく頷いた。海賊たちも馬鹿ではない。それぐらいは事前に予想しているはずだ。
「皆に言っておく。中の海賊たちは、衛士隊の制服を着ていることが判明した」
小さなどよめきが広がった。
「奴らはおそらく、火を放った後に衛士隊のふりをして混乱を大きくし、そのまま劇場から脱出するつもりだろう。燃える劇場から、危険だからと野次馬を遠ざけるふりをする。仲間の海賊と戦うふりをしながら外に跳びだし、そのまま逃亡する。手段はいくらでもある。
こちらが少数精鋭ならお互い全員の顔を覚えることも出来るが」
目の前の突入隊衛士達を見回す。その数ざっと30人。劇場の大きさと人質の救出、海賊の対応など各役割を考えるとこれぐらいの人数になってしまうのだ。その上、初対面の者も多い。
「この数では難しい。ましてや実際に突入したらかなり混乱するだろう。そこで目印を用意した」
聞きながらファルトが噴き出すのを懸命に我慢している。
嫌な顔をしながら、アルテュールはテーブルの木箱の蓋を開けて中のものを取り出した。
衛士達の目の前に広がるのは、全裸の女性柄。ベルダネウスが売った生地で作ったタスキだった。
「突入時には全員これをつける。これをつけていない衛士は、海賊の変装だ。容赦なく叩きのめせ」
「それをつけるんですか?!」
皆が露骨に嫌な顔をした。
「そうだ。我慢しろ、私だって本音は嫌だ!」
「目印だったら、赤とか青とか、別の色でも良いではありませんか?」
もっともだと皆が頷く。だが、
「奴らが立てこもっているのは劇場だ。衣装部屋には様々な色や柄の生地や衣装がある。奴らが事前に情報を得たら、同じものを用意する可能性がある。戦いの最中では、多少の違いがあっても気がつかない可能性がある」
「海賊の仲間は先ほど捕まえたのでは?」
「仲間が1人であるとは限らない。事実、さきほどサークラー教会で2人のことを調べようとした男が現れた」
ベルダネウスとファルトを指さし
「捕らえようとしたが逃げられた。おそらく中の海賊から連絡を受けたものと思われる。方法はわからんが、やつらは外の仲間と連絡を取る手段を持っている。だが、この柄なら情報が漏れても奴らが同じものを用意する心配は無い!」
「そりゃ無いでしょうけど!」
「任務だ、耐えろ! それとこのことは突入まで秘密だ」
「恥ずかしいからですか?」
「そうだ! ……いや違う。極秘情報だからだ。わかったな」
言われるまでもなかった。皆がこのことは絶対、誰にも話すまいと、報告書にもぼかして書こうと心に決めた。この時、衛士達の心は1つになった。
ファルトだけが腹を押さえて声を殺して笑っていた。
1台の馬車が衛士隊に囲まれて劇場に到着したのは、それからまもなくだった。
鉄板で補強され窓1つないため、中に誰が、何があるのかもわからない。だが今は中にあるものは皆がわかっていた。
劇場正面に馬車は止められたが、扉は開かない。
馬車を出迎えたアルテュールが挨拶すると、劇場に1人進む。
「イレット・ブレイズ。聞こえるか、私はピニミ衛士隊第1大隊長アルテュールだ」
良く通った声が劇場にぶつけられる。
「お前たちが希望するティッシュ・ペーパーを連れてきた。聞こえていれば返事をしろ」
しばしの沈黙。もしかして、奥にいて聞こえていなかったのではと、アルテュールがもう一度声を上げようとした時、正面扉がゆっくりと、少しだけ開いた。
《聞こえています》
イレットの声だ。しかし姿は見せない。前のように映像もなしだ。
《ティッシュを連れてきてくれましたか。それでは彼を中へ》
「待て。人質の釈放が先だ」
《わかっています。釈放なしにあなた方が彼を解放してくれると思うほど図々しくはありません。しかし、全員を釈放するほどまぬけでもありません》
その様子を、ベルダネウスは東側通用門そばの民家で聞いていた。まだ女体柄のタスキは着けておらず、手には突入後、ルーラに渡す精霊の槍が握られている。
合図があれば、彼はここに割り振られた他の衛士と共に通用門から一気に内部に突入、人質救出を行う手はずだった。
この組は7名で、突入後、海賊相手の4人と人質救出の3人に分かれる。ベルダネウスとファルトはもちろん救出組だ。
「おい、あまり離れるな。見つかったらどうする?」
2人と行動を共にする救出班の1人が割って入った。わざとか偶然か、彼は先のアルテュールとの戦いの際、ベルダネウスが剣を奪った衛士で、名をジャコと言う。先のことがあってか、ベルダネウスに向けられる言葉少し棘がある。
「すみません。一度ティッシュ・ペーパーの顔を見たくて」
「衛士隊の詰所や酒場に、似顔絵入りの手配書が貼られているだろう」
「わかっていますが、やはり実物を見たくて」
実際、同じ理由でここにいる野次馬は多かった。
「俺も見てぇなぁ」
通用門そばで魔玉の杖を手にうずくまっているファルトがつぶやいた。彼は今、劇場内の使い魔ネズミ・ジェムと感覚共有の最中である。
彼らが突入する予定の通用門は、荷物の搬入にも使われるせいか観音開きでかなり大きい。劇場主のメタルから合鍵を渡されているが、扉は内側から把手同士が堅く細紐で結ばれているため開かない。
そこで突入前に、ジェムに紐を囓切らせるのだ。
紐で結んで安心しているのか、海賊たちの姿は付近にない。ジェムは扉を駆け上がり、把手にたどり着くと紐の下側をかじりはじめた。ここなら切れても紐は落ちないので、そばに来ない限り海賊たちにはバレない。
「ちくしょう……油の匂いがきつい」
海賊たちは通用門周りにも油を撒いていた。その匂いがジェムを通じて彼の鼻にも刺激を与えてくる。それも大変だが、扉にも油がかけられているので滑る。ジェムが5本の足の爪でしっかと体を支えて紐をかじり続ける。
なお、別の西側通用門と裏門はすでに同じやり方で扉の把手を結ぶ紐は囓切っている。
「……よし」
噛み切れた紐を残し、ジェムを人質たちのいる観客席に戻して感覚共有を解くと大きく息をついた。慣れているとは言え、自分と意識が別の場所というのは疲れる。
「ダンナ、ティッシュとやらは出てきたか?」
それでもベルダネウスの横に来る彼の姿にジャコもあきれ顔だ。
交渉はアルテュールの予想通り、ディファード妻子と役者をのぞく人質の半分を解放してからティッシュを引き渡すという形で落ち着いた。
「半分か。これでルーラが解放されたら、俺達突入する理由がなくなるな」
苦笑いするファルトに、ジャコが腰の剣に手を伸ばす。
「ご安心を、約束ですから人質救出のための突入には参加しますよ」
「そうそう、ちょっとばかりやる気がなくなるだけで」
「ファルト、そういうのは思うだけにしろ。それに、私が奴らならルーラを解放しない」
「解放したら、その足で突入班に参加しかねねえからなぁ。中の情報も知っているわけだし、人質に残していた方が得策か」
「一番安心できるのは、ルーラを死体にして返すことだろうがな」
自分で言って、ベルダネウスは口を閉ざして目を細める。
「確か、海賊たちは皆殺しにしても良かったんだな」
自分に言うように先ほどのアルテュールの言葉を確認する。
その瞳に不穏な光を感じたファルトは、彼の肩を軽く叩き
「ま、そう言うのはそうなってから考えようぜ、ダンナ。悪いことは後回しにするもんだ」
「……そうだな」
言いながら軽く首を回した。頭の中の気持ちを脇に追いやるように。
衛士達が馬車の扉の鍵を開けようとしている姿を2人は見ながら、ふと真顔になり
「ダンナ、そろそろ考え始めても良いんじゃねえか」
「そろそろというと?」
「奴らの目的さ」
「目的など、ティッシュ・ペーパーの釈放だろう」
ジャコが割って入った。
「かもしれないですが、どうしても奴らの目的は違う、あるいはそれだけではないと思われるんです」
「どういうことだ?」
「この立てこもり。連中が人質を取ったものの逃げ損ねてここに逃げ込み、立てこもった。っていうんなら俺だって素直に取ったさ」
ファルトが答える。
「だがこいつは明らかに計画を立てて実行したもんだ。少なくとも、今のところは奴らのもくろみ通りに進んでいると見ていいんじゃねえか」
「だろうな」
「こんなところに立てこもって、奴らにどんな有利があるんだ? 時間が経てば経つほど周囲を囲む衛士の数は増え、準備も整う。好き好んで自分に不利な状況を作る計画なんて聞いたことねえ」
「時間が無かったんだ。ティッシュ・ペーパーは死刑が確実だ。刑が実行される前に救出しなければならない」
「いえ、そう簡単に実行はされませんよ。少なくとも、衛士隊にとって、彼の口からいろいろ聞き出したいことがあるはずです。
海賊は表に出る人達だけではありません。生活用品や武器の調達、海賊行為をしていない時に世話をしてくれたり傷の手当てをしてくれる人達の確保。手に入れた商品を金や他の商品に交換する相手などがいるはずです。海賊を殲滅するには、そういった支援者をつぶさなければならない」
「でないと次から次へと海賊が現れるからな。ティッシュ1人をつぶしたところで意味がねえ。ダンナの言うとおり、本気で海賊をつぶすつもりなら、そういう連中の情報を吐かせるまでは死刑にしねえよ」
どよめきがあがった。
劇場前の馬車の扉が開き、ティッシュ・ペーパーが姿を現したのだ。
本来ならすぐに配置に戻るべきなのだが、好奇心の方が強かった。ベルダネウスもファルトも、戻るどころか首を伸ばしてティッシュを見ようとする。
「……こいつは……」
2人とも続く言葉が出てこなかった。
手配書には肩から上しか描かれない。海賊の親玉と言うことで何となく大柄な男だと思い込んでいた。
実際のティッシュは、小柄ではないが、特に大柄でも無い。しかし、二人が絶句したのは体の大きさではない。
来ているのはネズミ色の囚人服で、仕立てられてから一度も洗濯をしていないのでは無いかと思うほどゴワゴワで、あちこちに黒く変色した血の跡がある。
それを着ている本人は一瞬手配書の顔と一致しなかったほど、顔は青黒く腫れ上がっていた。頬には焼きごてを当てたと思われる火傷の跡がある。
チリ髪の異名の元となったチリチリの髪は半分なくなり、血がこびりついていた。抜け落ちたと言うより、力任せに髪を引きちぎったようだ。
両腕には手枷はなかった。だが右腕はだらりと垂れ下がったまま動くことはない。見ると、内側を向いていなければいけないはずの掌が外側を向いていた。
歩く姿も異様だった。右足は普通なのだが、左足は本来曲がるはずのない方向に向いたまま、足と言うより弱々しい杖のように体をよたよたと支えている。
(これが、ピニミが国の応援を頼まなければ倒せなかった海賊なのか)
野次馬たちが思わず呆然とした。
「ひでぇな」
ファルトがつぶやいた。
「ありゃ、拷問しただけじゃねえ。その後、まったく治療をしていねえ。手足が折れたまま固まっちまってる。ああなったらどんな強力な治癒魔道でも治せねえ」
「片手片足が無事なのは、食事や歩行を自力で何とかできるようにしておくためだろうな」
なまじ両手両足を折ってしまえば、嫌でも介護をしなければならない。しかし片手片足が何とか動けば。
片足でよたよた歩きながら牢獄を進み、片腕だけで食事をし、トイレで用を足す。そんなティッシュの姿を、看守達がニタニタしながら眺めている。そんな様子が目に浮かぷ。
「捕まえた海賊をどうしようが勝手ってわけか。女だったら毎日看守や他の囚人達に犯され、孕まされては腹を蹴られて堕ろすの繰り返しになるんだろうな」
実際ピニミに限らず、女の罪人が監獄から出てきたときには誰が父親かもわからない子供を孕んでいた。なんてのはこの世界ではよくある話だ。生まれた子供も、父はわからず母は罪人ということで周囲から白い目を向けられる。
「だが、やはり海賊の頭だけはあるな。目に力がある」
ふらつきながらも自分の足で歩くティッシュ。ふとベルダネウスの目が合った。
彼にはティッシュが笑ったように見えた。
「ダンナ、もしかして議会がティッシュを釈放したのは、この体のせいじゃねえか。いくら気が強くても、こんな体じゃ……」
「相手の動きを封じるには、捨てられない重い荷物を背負わせるのが一番ということか」
ベルダネウスの精霊の槍を握る手に力がこもる。
「突入準備だ、行くぞ」
東の通用門まで戻るその背中にジャコが
「1つ聞きたい。中の人質はお前の護衛と聞いた。護衛を助けるために自分から危険に飛び込むのは逆じゃないか。私たちに任せて、自分は外で待っていれば良いだろう。護衛のために自分から危険に飛び込むなんて馬鹿げている。お前は剣士でも戦士でもない。ただの自由商人だ」
「護衛だからです。ルーラは私が危険に陥ったとき、身を挺して守るのが仕事ですよ。その彼女がいなくなったら、危険なときに誰が私を守ってくれるんです? 私の安全のためにも、彼女を助けないと」
「は?」
意味がわからずジャコが首を傾げた。
「ダンナは捻くれているのさ」
ニヤニヤしながらファルトが答える。
「素直に『惚れた女が捕まっているから、自分の手で助けたい』って言えば良いのに」
「ファルト、報酬減らすぞ」
「あ、ウソウソ。ダンナは雇った人をみんな等しく大事にしてくれる優しいお方です」
配置に戻ると、女体タスキを身につける。女性の裸体が描かれたタスキを着けた衛士が数名、真顔で身を潜めているというのは異様な光景である。
「……さっきはすまん」
ジャコがつぶやく。
「しかし、それでも我々を信じて任せて欲しかったな」
正面からどよめきが伝わってくる。劇場の扉が開かれ、人質とティッシュの交換が始まるのだ。
人質の肉親達が期待と不安の顔で建物から出てきた。
誰もが解放されるものの中に自分の大切な人がいることを願って
《ティッシュ、すみませんが出迎えは出来ません。自分の足で来てください。彼が中に入ったら人質を一人ずつ釈放します》
言われて、しゃあねえなぁとでも言いたげにふくみ笑うとティッシュは歩き出した。
ゆっくりと一歩ずつ。体のせいでしかたないが、周囲にはそれがわざとじらしているようにも見えた。
皆がティッシュの動きに注目する中、衛士隊の突入班はそれぞれの持ち場につき、突入の合図を待っていた。
ベルダネウスたちは扉に張り付き、ゆっくりと鍵穴に合鍵を差し込む。静かに扉を少しだけ動かし、開くことを確かめる。
「中の様子はどうだ?」
扉の脇に座り込み、魔玉を手に目を閉じているファルトに聞く。彼はジェムを通じて中の様子を探っている。
「……役者とディファードの家族が観客席の前方中央に集められている。人数は前に見た時の半数ってとこか。それでも10人近い。それ以外の人質は数人、ルーラもいる」
「やはり解放はされないか。怪我はどうだ?」
「下着姿にされているだけで怪我をしている様子はない。見たところ、人質は手枷だけだ。自力で走れる。ただしルーラは足枷つきだ。アレを何とかしなきゃな」
「出来るか?」
「やってみるさ。ありがたいことにイレットの姿は見えねえ。ティッシュを迎えに出ているんだろう」
ファルトの顔がほころんだ。使い魔との感覚共有を感知できるほどの魔導師は見たところイレットだけだ。彼がいないとなれば安心して中の様子を探れる。
「でも人質たちの見張りが……5人いる。やたらでかい奴が1人、こいつがこの場のリーダーらしい。魔玉の杖持ちが1人。扉だが、ここを入ってすぐの扉はバリケードが出来ている。正面ロビーに少し行った側の扉から入るしか……なんだありゃ?」
「どうした?」
「前のぞいた時にはなかった樽がある。中のものを床の油に撒いているが……よく見えねえ。何か草みてぇな……」
「狼煙草か?」
煙の出やすい草を数種類混ぜ合わせたものの総称で、今でも都市間などの連絡の狼煙として使われることがある。
「だとしたら面倒だぜ。火だけじゃねえ。劇場内煙だらけになるぞ」
「奴らにとっては混乱すればするほど良いわけだからな」
劇場正面からの歓声が振動となって一同を駆け抜ける。
皆が頷き合った。もう余計なことは言わない。合図と同時に飛び込めるよう精神を集中する。
彼らのいる場所からでは、劇場正面の様子は見えない。ただ、野次馬たちの反応で察するだけだ。
『おお、愛する者の姿に両手を広げる者達よ。中の者達の危機は変わらねども、どうして目の前の歓喜を隠すことが出来ようか』
いつの間に復活したのか、前々から大声で語りつづけ、窓から落っこちて沈黙していた吟遊詩人の声が聞こえてきた。
「すげえなあいつ。たいした根性だ」
「私はああいうのは好きだ」
2人が苦笑いする中、頭上で魔導師の爆炎魔導が炸裂した! 続けて3発。突入の合図だ!
衛士が扉を大きく左右に開け、ベルダネウスたちが突入する!
(つづく)