一話、she
目が覚めると、雑多な話し声とガタガタと机を運ぶような音が聞こえた。
先程まで彼女の声を聴いていた気がするのだがーー
「すげえなお前、笠原ジイの前であそこまで堂々と寝るなんて」
友人に話しかけられて、状況を把握する。
僕は彼女の声を聴きながら寝てしまっていたのだ。それも授業の半分以上を。
「やっべーな」
「まあ現国だし、へーきへーき」
そんなくだらない話をしながら、一瞬彼女のほうへ目を向ける。
彼女は、普段通り制服のブレザーを着崩すことなく、かといって生真面目な印象も与えないような恰好で、友人と掃除をするための箒を取りにいくところらしい。こうみると、彼女は何ら変哲のない女子学生なのだが、僕は先程の授業で、心地よさに寝てしまうほど彼女の声に惹かれていた。
例えるなら、それは静寂に包まれた湖の中に一滴の雫が落ち、水面に波紋が広がるような、そんな響みを含んだーー
「おい、ぼけっとして、まだ寝惚けるのか?」
友人に再び話しかけられて、我を取り戻す。慌てて机の中の教科書類を学生鞄に詰め込み、掃除に備えて机を運ぶ。
しかし、その後に待っていたのは自分に対する羞恥心だった。今まで特に興味も関心もなかった同級生の女子に対して、寝惚けていたとはいえ、比喩まで使って脳内で「彼女の声は美しい」と考えていたことに対するものだ。彼には恋愛の経験なら何度かはあったが、こんな経験は初めてで彼自身も自分が如何すればいいのかが分からなくなっていた。
実際、彼は彼女の名前もフルネームで思い出せないし(確か苗字はタテイシといった)、恐らくクラスで一度も話したことがない。2人の接点はクラスメイトである、という点だけだった。そんな希薄な繋がりであるはずなのに、彼は不思議と無意識下で彼女の声に郷愁に近い何かを憶えていたのだった。