第二十八話 『ツギノ問ニコタエナサイ』
人類進化学研究区域内第四施設。
ここは、過去にこの施設で研究対象となった者の相談事などを引き受けている場所だ。この区域に入って早々に、自分の過去の資料が見たいと宣言したところ、案内を渡されてたどり着いた。
歩きながら、割りと人が多いと思っていたら、今日はこの区域内にて講演会なる物があるらしい。光森は一応、その案内の月報の部分に目を通した。
ナウ・ダイパス。案内に載せられた写真越しにも解る真っ直ぐな瞳。よく言えば誠実、悪く言えば人を殺してでも自分のなすべきことを遂げようとする意思の強さがかいま見えるその黒人の男性が責任者らしい。そしてその下に二人。東洋人らしい年配の男性と、二十代ほどの女性が載っていた。名前を「蜂峰 総喜」。女性が「鶴 小幸」と書いてあった。
光森は、いつまでも入り口付近で立ち止まって読むわけにも行かないと、案内を直して受付に向かった。
受付ではここに来た目的を告げ、それに通ずる項目の書かれた書類に目を多させられ、促されるままに記入欄を埋めた。
そのままエントランスのベンチに腰掛けて待つように指示された。
資料の持ち出しを限定するために許可証を製作するらしい。それ以外にも、読む場所の指定、立入禁止の場所、飲食可能な場所の提示される個別端末機を渡されるそうだ。
許可証だけじゃなく、端末機まで渡されるのか。光森はおもったが、超能力というものを扱う以上、中途半端な管理ではいかないのだろうと自分を納得させた。
ベンチに座り、辺りを見渡した。
外では人は多かったが、第四施設、過去の資料管理及び相談窓口は暇らしく人は少ない。どうも今回のメインイベントは月報の方にも紹介されていた講演会の方らしい。
エントランスの壁に備え付けられている液晶の画面にも、この区域内で行われている講演の舞台が映し出されている。
と、細身の男が壇上に上がってきた。眼鏡をかけ、清潔そうに整えられた髪形。ズームアップされたその顔は、先程見た写真の一人、蜂峰総喜だった。
光森は待ち時間を潰すため、ぼんやりと画面を眺めた。
「本日はお集まり頂きありがとうございます」
マイクと画面を通した総喜の声は、見た目に反することのない、落ち着いた声だった。司会進行役がいたについているのか、その眼差しの送りかたも上手いなと、光森は思った。
「この度、この機会に初めて足を運んでいただけた方、満足いける内容になると良いと思います。ですが、こればかりは個人の意思、主張も御座います。ゆえにこの場での不満とうはご容赦願いたいと思います。またまた二度、三度と来られたる方々には、私たちの主義主張、そして明確なる意思を与していただけているのだと感謝し、ここに言葉程度ですがお礼申し上げさせて頂きます」
総喜が一礼をする。最初の挨拶がすんだようだ。疎らだが拍手が聞こえる。あとは続きを待つように静かだ。
慣れたように首を動かし、見渡した総喜はまた口を開いた。
「では早速ですが我々はこの地域一帯を使い、人類進化学なるものを研究しております。人類進化学。正直に申し上げていくらかの方々、とくにここに興味本意でお越しいただいた方々には、なかなか想像できる何かがないのではないでしょうか?」
問いかけだ。光森も考えた。
言われずともわかっている。そもそも「興味本意」などという理由でこんな大規模な場所を使った研究区域に来ているような者たちなどは、良くてアトラクション感覚で来ているような者たちだ。
普段は体験できないような事柄を体験しよう。その程度だろう。
本気でここに来ている自分たちとは、覚悟が違うはずだ。
恐れないため、恐れられないため。自分は何者なのか、この力はなんなのかを確かめるため。そして知ることで強くなるため。
気楽に眺めているつもりだったが、意識せずに目付きが鋭くなっていたようだ。眉間の疲れが、シワを作っていたことを証明する。
「ふむふむ。頷いてくださった方々、ありがとうございます。素直な反応こそ学ぶ者としての真の姿だと思います」
光森は思わず吹き出した。何処かの誰かたちも、そう言っていたからだ。
もしかしたら今頃くしゃみでもしているかもな。そう思うと、奥歯を噛み締めずにはいられなかった。肩の力も抜けた気がした。
「そこからまず説明させていただきましょう」
コホン、と軽く咳払いをし、台に両手を置き前屈みになる。まさに演説者の姿勢だ。
「まず、人類における進化とは何か?哺乳類……鼠が祖先となり猿になり、その猿が進化して長い時間を経て人類となりえた。これが一般的な現在までの進化論です。では現在、この時点で人類は進化をやめてしまったのか?」
少しだけ声のトーンを落とした。同時に声も小さくなったが、しっかりとマイクが拾ったその声に周囲、光森自身も引き込まれていた。
場内にしかと聞かせるように総喜は言う。
「人類、さながら人間という種族はいまだ進化をやめてはいない…少なくとも我々はそう確信し、日々研究しております」
場内がわずかながらざわめいたのが聞こえた。興味本意たちが声を出したのだろう。
「食物連鎖の頂点にして進化の到達点になったというのに、なぜ、人間という種族は進化を止めることなかった…もしかしたら出来なかったのかも知れません」
そして、と今までのことが前ふりだったことを思わせるように続けた。
「その証拠として存在するのが……超能力なのだと申し上げさせていただいているのです。つまり我々は、人間は進化の過程で超能力という新たな力を得たのだと考察しました。それはまるで、知識を得て武器を得た類人猿のように」
現在、あの会場がどうなっているのかわからないが、光森は不適に笑った。面白いじゃないか、と。
これは、この演説は、確かに聞く価値はあったかもしれない。偶然にしろ、なんにしろ、一つの成果になるかもしれないからだ。
それは、超能力とは新しい進化の過程だということ。その発想を光森は、残念なことに一度くらいは考えたものの、それ以上に続かなかったのだから。
「…皆さま方、超能力とはなんだと思いますか?」
不意を突くような質問だ。そこに来て、受付から呼ばれる。生返事もそこそこに立ち上がり、光森はじれったそうに許可証、その他もろもろを受けとる。
とにかく耳を澄ませた。
「私は今、進化の証拠と申し上げました。が、そもそも超能力とはなんなのでしょう。それについて、ご存知の方には恐縮ですが、我々は、ある一つの答えにたどり着きました。その答えとは…〃霊力〃です」
光森は、耳を疑うような単語に思わず受付から目を離した。受付の担当は、わずかに驚きこそしたものの、一言、二言添えただけで済ませてくれた。慣れているのだろう。
礼も曖昧に、画面の前へと立ち尽くした。
霊力だと、まさかその言葉を超能力研究施設で聞けるなんて。そう思うと、目が自然と真剣さを帯びてくのがわかった。
すると、「の、前に」と画面向こうの総喜が少しほぐれた調子になって笑顔を見せた。
「我々のような超能力を研究する者が霊力など、と笑われる方もおられることでしょう」
自分でも可笑しいのか、口に手を当てて微笑んでいる。
「しかしながら逆に我々は聞いてみたい。なぜ今まで考えもしなかったのか?アジア諸国…強いて言えばこの日本という国には、猿と人間はある一つの種族に分けられるではないですか。それこそ〃霊長類〃と。自らが、〃霊を統べる長〃だと言っているのです」
柔らかくなった表情とは裏腹に、熱を含ませた言葉。
光森も、そんなもの言葉遊びみたいなものだろうと、心中毒づくがはっきりした否定はみつからない。いや、みつかるわけがないのだ。
知らずに、考えずに、過ごしてきたのだから。だから今は、総喜の言葉を大人しく聞くしかなった。
「カルト的背景及び信仰的解釈から覗けば、霊という言葉が使われている単語がいくつもありますね。フィクション、虚像という想像力の観点、範囲から挙げれば切りがない。フィクションなど所詮空想でしかない…そう、言いわれる方もおられるでしょう。しかし」
そうとは限らなかったのです。
確信を込めるように、それぞれの耳に囁くように、響かせた。不思議と画面越しだと言うのに、そう錯覚した。
言葉は続く。
「我々は、霊力と呼ばれる力を二に分類し、そして名称をつけました。一つは霊力そのものを〃存在する質量〃として考えるための霊的粒子。もう一つが、その粒子を力として存在させるための働きである霊的原動力です」
そこまで告げると、今度は愉快そうに顔を綻ばせた。
「さてさて。専門的な用語が出てきましたね。そもそも超能力なら、やれサイキックだ、ESPだと言いたくなるのではないのでしょうか?」
おそらく言われたことがあり、それを思い出しての笑みだろう。親しみやすさも手伝って、その手の動きに自然とカメラと視線が誘導された。
そこには一人の男が立っていた。総喜と同じくパンフレットに載っていた男だ。
写真で想像するよりも大柄。その人となりはやはり厳つく、研究者というよりは武芸者といった面持ちと姿勢。その男は、総喜に譲られるように壇上のマイクの前に構えた。
「これからのお話は、モア・ダイパス。彼にお願いすることにします。皆さま方、以上を持ちまして私、広報担当及びご挨拶を勤めさせていただいた蜂峰統喜の退場とさせていただきます」
お辞儀する総喜は、そのままきびすを返すと立ち去っていった。静まり返ったままの会場。壇上に残された黒い肌の異国の男、モア・ダイパスがその口を開いた。
「俺は紹介にもあったがモア・ダイパスだ。日本語は話せるが、蜂峰…さっきの男に比べあまり話自体は上手い方ではない」
国が違うとは思えないほど、流暢に喋る。
「なら、なぜ俺が出てきたのか?そう思う者もいるだろう。ああ、全くだな。俺もそう思う」
一拍のち、「だが」と口の端をニヤリと持ち上げる。
「俺がこれからすることは、どんな専門的な用語を使って話すよりも解りやすいからだ」
そうモアが言い終わると同時に、カメラが引いた。会場の全体が写し出させる。そこには、到底目を疑うような景色が広がっていた。
人は多い。しかし注目すべきはそこじゃない。では、何処だ。注目すべきは、その人々の状況だ。
そこには、集まった人々が、宙を浮いている光景が写っていたのだ。
当然のように慌てふためている者がいる。言葉を無くしたように微動だにしない者もいる。中には初めてではないのか、落ち着いている者もいる。
光森は、微動だに出来ない者だった。超能力者が研究してるのかよ。心中で呟くのがやっとだった。
「落ち着いてくれ。しかしどうだ?これなら信じてもらえるんじゃないか、超能力はあると。そして、これから俺が語る、俺たちの話を」
もはや興味本意の者などいなくなっただろう。静かに降ろされた人々は大人しく、宙に浮くという経験を経てなお、その場をあとにしようする者はいなかった。もう退場どころではなかったのかも知れないが。
そしてモアの後ろに映像が写し出された。
映像は霊的粒子と流動力、そしてそれを繋ぐような人体図と文章が表示されていた。
「見てくれ。これが俺たちの考えがたどり着いた超能力、霊的粒子原動力だ」
人間の体にはもともと「何かしら」の力が存在する。それは時に奇跡のように崇められ、神秘のように語られる。その実、それこそが霊力なのではないか、という仮説が書かれていた。
仮説により、歴史上に点在する科学的見解からは不可能とされていた史実は、霊力のなせる技ではないか、という仮定が書かれていた。
現在、霊力と超能力との密接な関係は完全に実証できるわけではない。まだ足りない部分もあるからだ。しかし、それらの仮説と仮定から、通常人間の視覚的に写らない何かがあり、それらがある一定の反応、つまり摩擦などの熱量や方向性を持った循環、単純な流れによる運動、同一の性質を持つ霊的粒子の適応の三種に分けられておこり、それが超能力の根源に当たるのではないか、というという疑似結果。
それらを総じてモアは語る。
「俺がさっき使ったのはいわゆるテレキネシス、サイコキネシスなどと呼ばれている類いだな。俺たちは〃霊的粒子の原動力タイプA〃と名称している。そして、このように自ら意識的にこの超能力を引き起こす者もいるとは思う。が、大抵の者は後天的に…ようは引き出された後に気づくことになると思う」
俺もそうだったと、小さな独白じみた声をマイクが拾う。多人数が同意する気配がわかる。モアは問いかける。
「だいたい一般には、このような状況を受け入れることは出来ない。むしろ、周囲は外敵と見なす傾向が強いだろう」
目付きは鋭くなり、声の低さと反比例するかのように心臓が高まっていく感じだ。姿勢も前のめりになる。
「確かに不安定だ。だから悪なのか?違うだろう」
その通りだ。光森は頷きそうになる。
「不可解だ。だから害なのか?違うだろう」
その通りだ。画面越しの会場が、超能力者たちが、そう同意している。
「超能力とは悪でもなければ害でもない」
静かな断言。追随は許さない。
「超能力とは、進化の過程で人間が人間として手に入れた正当な力だと俺たちは万人に証明したい。そして、それを常識とし、当然とし、当たり前に受け入れられる世界を作りたい。そう思い、こうして講演で定期的に知ってもらおうと広める試みをしている。もし、この場に超能力に苛まれている者がいるのだとしたら安心してくれ」
フッと、力を抜いた。
話は上手くないといったが、嘘だな。光森は苦笑した。これだけ自分が引き込まれているのだ。随分と話なれている。
「… 俺たちはそんな仲間のために日々、努力をしているんだ。そして超能力を今日、その身をもって知った者たち。話せるこの場を、聞いてくれる機会を持てたことを、俺は感謝する」
そう締め括り、モアの話は終わった。同時に、その会場中から拍手が聞こえた。
鳴りやまない拍手に応えながら、モアは後ろに控えていた研究員数人に指示をした。これから、専門ごとに別れて、より詳しく話をするらしい。
光森は、自分もそこに行っておけば良かったと、少しだけ後悔した。
─────
「まだ間に合うか…」
光森は、結局のところあの映像のことが気になって、せっかく借り出した自分の資料があまり頭に入らなかった。
書いてあることも大したことはない。
忘れていたが、「社会的貢献度」というのがそれぞれの個人の能力に振り分けられており、光森はその最低ランクが記入されていたのだった。
なんだよ、社会的貢献度って。
苦笑混じりにそれなりのページを捲るが、本当に目につくものが無いなというのが、正直な感想だった。
次元転移系の超能力で、光森が物体配置と呼んでいるものは、この施設内では「霊的粒子原動力・タイプB」と呼ばれ、資料によると五段階評価のうち二番目だった。
低すぎだろう、と皮肉ぎみに笑ったが、次の限界突破と呼んでいるものの記載を見て、今度は顔をひきつらせた。そして諦めたように溜め息をついた。
限界突破。施設内では「霊的粒子原動力・タイプC」。五段階評価では、一番下だった。
丁寧に、コメントも書かれている。
一般的に浸透干渉にと呼ばれる能力の中でも、特に本人の意識に左右される種類である。まだ、未発達の本人を含めて、可能性計算・行動性シュミレーション等を行ったが社会的貢献度は限りなく低いとみられる。何よりも、その可能性を著しく低下させている要素としてあげられるのは、物理的に対象のものに直接触れなければならない点にある─。
─とのことだった。
この施設で限りだが、霊的粒子原動力・タイプCにたいして、高評価を得られる条件は、非接触による効果の範囲にあるらしい。
ようは触らなければならない程度のタイプC能力者なら、山ほどいる。だから、評価が低いのだ。
なるほど。とりあえず納得して資料を返す。ほとんど役に立たなかったが、それがわかっただけでも良しとしよう。光森は自分にそう言い聞かせた。
一息ついて、この施設に備え付けられていた飲料の自動販売機でコーヒーを買い、喉を潤して時計を見た。十一時過ぎ。さっきの画面越しの講演が頭をよぎる。
「あれから一時間くらいか。終わりの方だけでも聞ければいいか」
向こうの方で得られるものの方が多そうだ。そう判断した光森は行動に移った。
場所を確認して、この施設を出た。画面越しよりもその場で見たかった。今からでも立ち見くらいは出来るかもしれない。そう思い、急いでいると、
「うぉっ」
「あ、すんません」
「たた…あ、いや、こっちこそ、悪い。ちょっと急ぎだったもんで」
勢いあまり、ぶつかってしまった。相手も、自分の方にも非があったと謝罪の言葉を述べるが、今のは完全に光森の不注意だった。
ぶつかった拍子に取り落とした自分の荷物と共に、男の荷物も拾い渡す。男の荷物は見覚えがあった。自分も現在所持している許可証に似ているのだ。どうやら職員と同一性のものを渡されているらしい。
ラフな格好のその男が、すぐに職員とわかったのはその許可証に、職員であることを示す記載がされていたからだ。
男は蟻川 大義というらしい。二十代後半だろう大義は、自分の服についた埃を軽く払うと心配そうに光森を見た。
「荷物は大丈夫だったか?」
「ええと…ええ、大丈夫っすね。本当にすいません。俺も急いでたから」
尋ねられ、バックの中も一応確認する光森。中身は出ていなかったため、大丈夫だ。唯一出していた許可証も、ちゃんと拾い上げた。少し汚れていたので、指で表面を拭う。
汚しても、まぁ、大丈夫だろ。光森がそう考えていると、
「君、その許可証…」
大義が思わずといった風に声を漏らした。その視線は許可証に釘付けになっている。
特別に変なことはないはずだが、その何か言いたげな表情に、光森は大義によく見えるように許可証をかざした。
黒光りするプラスチックのような材質の許可証。
「これっすか?」
「その識別色は…君は霊的粒子原動力者なのか?」
光森は説明の間、気をとられて聞き漏らしていたのだ。黒い材質が超能力者用で、灰色が一般用。そして、白こそがこの施設内職員用の識別色だったことを。
そうとは知らず、大義が自分を超能力者だということを見抜いたと驚いた光森は、おどけた様に笑った。
ここの職員である以上、ばれても問題ないだろうと判断したからだ。
「ああ、俺ですか。そうなんすよ、こう見えて超能力者なんですよ。よく、解りましたね。…それとも、見えます?」
「…」
大義は何も言わず、わずかに表情を歪めるだけだった。気まずい空気が流れる。夏の暑さと合間って、喉が渇く。
「あー、悪いっすね、変なこと言いました。そっちも急いでたんすよね。じゃ」
「君は普通だよ」
この場を納めるために、そしてお互いの目的地に急ぐために光森は別れを告げようとした。しかし、大義はそれを押し潰すかのように一言を被せた。
「え?」
聞こえなかったわけではない。ただ、言われる理由が解らなかったのだ。自分でも間の抜けた声だと光森は思った。
大義は、決心したような意志を瞳に宿していた。圧迫されるような雰囲気。視線を反らせなくなる。
大義が真っ直ぐに光を見ながら口を開いた。
「君は、僕らと変わらない、ただの人間だ。僕が、霊的粒子原動力を使えなくて、君は使える。ただ、それだけだよ」
それだけ言うと、大義の方から別れを告げられた。流されるように互いにその場を放れようとするが、光森の足は動かない。
変わらない、か。
大義の言葉が光森は妙に心に残り、この場に立ち尽くさせるのだ。後ろ姿を遠目に、光森は反芻した。
「ただ、それだけ…か。当人たちこそ思うだろうけど…ここの研究員ってのは、あんなやつばっかりなのか?あっ」
思いがけない気遣いに歩き出しが遅れた。さて、行くか。仕切り直しとばかりに一歩踏み出すと、足の裏に硬い、薄い、何かの感触がある。
どけるとそこには、一枚のカードが落ちていた。許可証よりも立派な素材。これは。
ガードキー、だよな。
「あの時、向こうが落としてたのか」
今はもう見えなくなったが、走れば間に合うだろう。収拾物取扱所に届けてもいいが、こちらのせいでこうなった以上、届けるのが務めだ。
そう吹っ切ると、光森は講演会場ではなく大義の後を追った。
光森が本気を出すと、早い段階で遠くにその姿をとらえることが出来た。しかしそれも直ぐに見失うことになる。建物の中に入ったからだ。
「あ、おおぉい」
呼び掛けるが、肝心の名前が出てこない。許可証を除き見たときに職員である表記のところに目が行き過ぎていた。一度見たら大抵覚えられるのに。そう悔やんでも仕方がない。
「しまったな。…しょうがない。俺も行くか。渡せなかったとしても、同僚か誰かに任せられるだろうし」
その建物に近づく。
この周辺の施設建築物には珍しく、名称がなかった。ただ、唯一。申し訳程度に番をする立て札がそこにはあった。
「…スタッフオンリー」
渋い顔をする。辺りを見回すと誰もいない。扉はガラス張りではないし、自動ドアでもなかった。
「…急げば間に合うか?」
光森は、自分で硬く閉ざされていたその扉を、開いたのだ。
 




