第二十三話 『夏の一日 急の繋ぎ』
里麻が、これから作戦を実行するための準備にとりかかった。箒を掲げると、その箒の柄の部分が四つの個体に別れた。その別れた個体は、それぞれが一匹の鳥の姿へと形を変えた。
これは箒の柄の部分が動物性物質の残骸、つまり「骨」の部分で加工されたもので、それを魔術により元々の体形を再現したのだ。俗に「召喚魔術」に組み込まれる。
しかし再生ではなく再現。肉体を完全に取り戻した訳ではなく、その体は魔力生命体に近く、さらに「生物」としての魂を持たないそれは、実質ただの「物体」であり能動的に動くことはない。それを四体同時に操ると言うことは、それだけで里麻の力量がわかるものだ。
飛ばした召喚獣と魔力を通し感覚を共有する。
「では、全員持ち場につきましたね」
九津を始め、包女や卦我介たち魔術を知る者が感心したように眺めるなか、淡々と里麻が指揮を執る。
全員が一様に頷き返した。
役割は「防衛」と「補助」と「誘導」だ。そのための位置取りはすんだ。
防衛役は里麻と筒音がかって出た。その実力及び能力的に自然と全員が納得した。渦から距離をおき、広範囲の魔力暴走を阻む。里麻が召喚魔術を用いたのも、二人で補えない場所がないよう、目の代わりとして置いておくためだ。筒音も少女の姿のときには珍しく、妖術を扱いやすいためか大きなふわふわの尾を揺らしている。
誘導役。ようは呼び掛る役目が卦我介と観垂だ。一番この中で操流人と親しい故に当然の結果だ。位置的には中衛。不安を拭いきれないのか、その顔は暗かった。
そして、九津の補助役。もっとも渦の側であり、危険が伴うこの役目は、魔力変換を持つ実力者包女に誰の異論もなかった。
「それではお嬢様」
「うん」
準備は整った。里麻の合図に応えるように目を閉じ集中する。すると魔気が和らいだ。魔力変換により暴走する魔力が包女に吸収され始めたのだ。
「あれが鷲都の代行者の隠し玉、魔力変換ね。噂だけでみるのは初めてだけど…流石ね、あの周辺だけ少しずつだけど渦の威力が抑えられているわ」
けど、と包女の向こう側、渦の勢いをみる。
「ああ。やはり操流人様の暴走した力の方がやはり強い。その証拠に…」
逃げた魔力の暴発は芯の部分だけではない。端から端。魔気に至るその広がってしまった範囲そのものが暴発、暴走している源なのだ。全て、もしくは完全に核を取り除くまでは止まるに至らない。
されど、先ほどに比べると充分に拡散する速度は落ちた。それは渦の広がりを抑え込むように取り囲み、見事に処理する里麻と筒音の実力もさすがといえたからだ。とくに里麻。ほとんど一人で数人分の働きだ。
消滅させるだけなら、出来なくもない。
里麻の言葉の真実味が裏付けされ、卦我介たちは背中を冷やした。これほどの実力者が鷲宮に。観垂はあとでそういう情報を多くもつ仲間に聞こうと思った。
「さて、と。私たちもぼさっと突っ立ってるわけにないかないわ」
「そうだな。俺たちも俺たちの役目を果たそう」
観垂は気合いを入れるように頬をペシャリと叩き、卦我介も鼻息を荒く応える。二人は並び、渦をみた。
「ぼっちゃんっ、聞こえますかぁ。観垂です。聞こえたのなら返事をお願いしまぁす」
本当に普通に呼び掛ける観垂に、虚をつかれたように脱力する卦我介。
「返事が出来るようなら、暴走することもなかっただろう」
「あら?じゃぁなんて言うのよ。いってごらんなさいよ」
呆れたような言いぐさが気に入らなかった観垂はプリプリと怒り出す。行動し始めたことにより余裕がうまれたようだ。考え込んでいたときよりも調子が戻っている。卦我介はふむ、と難しい顔をした。
「操流人様ぁ、卦我介です。気を確かに持ち、帰って来てくださいっ」
「普通じゃない。人のこと言えないわよ、それじゃ」
「俺が悪かった。とにかく続けよう」
立場が逆転して呆れたような観垂。卦我介も他に言葉が見つからす、観垂を落ち着かすように謝罪した。
一番離れた場所。里麻や九津がもっとも安全だと判断した場所にいるのは二人だった。瑪瑙と光森だ。
作戦上、魔術に関わることのない二人は、今回待機を言い渡されているのだ。
作戦からもれた瑪瑙と光森は、ただ眺めているしか出来ないことを悔やんでいた。瑪瑙は卦我介たちとの戦いから続く詰めの甘さを。光森は、先ほどの戦いから自身の超能力の通じない戦いへの無力さをそれぞれ抱えて。
「悔しいのですよ、先輩さん。私はとてつもなく、悔しいのです。私はこの場において何一つ成し遂げることが出来なかったのです」
口を真一文字に結んでいた瑪瑙が突然、率直に心中の想いを口にする。まだ痛むであろう両手を握り締め、本当に悔しそうだ。同意しつつ、光森は瑪瑙のこういう素直に自身の気持ちを吐露できる部分を尊敬していた。
それに比べて自分はどうだ。
「俺もだよ…くそ。俺は…本当に…」
促されるようにようやく言葉に出来た。仕方がない。理由を言われ、納得するようにこの場へと立ったが、やはり腑に落ちないところはあったのだ。それを瑪瑙の言葉で気づかされた。
本当に誰かを傷つけるために行われる術式同士の戦闘において、自身が恐れていた超能力のなんたる非力なことか、ということだ。
「お前は、きっと、万端なら役に立ててるよ」
光森は言う。瑪瑙からは集中しているからか、呟く声が小さいからか返事はない。光森は気にしなかった。気になることは別にあるからだ。
ようは遠回しに言われたのだ。役に立たない、と。吐き気がした。なんとも嫌な気分だ。これは超能力をひた隠しにしていた頃よりも遥かに心にくる。
いつの間にか光森も拳をつくっていた。
見守るなんておこがましい。見つめることしか出来ない自分を不様だと思った。
「悟月くん、大丈夫?」
「ん?んん」
少し間をおいてから九津は大丈夫だよ、と返した。
九津は里麻たちが準備を整える間、一人静かに立っていたのだが、ときどきふらつくような素振りを見せていた。それを心配してのことだ。
実のところ、大丈夫と答えた九津だったが、それなりに危うさを考慮し始めていた。
それは、彼が「術式不発」の持ち主であることが要因だった。
術式不発とは、先天的に体外へと力を用いた術を発動出来ない才能のことをいう。これにより九津は、体内でしか霊力から進化される力を使うことが出来なかった。
九津が得意とするのは「活力」を用いた「仙術」だ。これは肉体強化を主軸に出来るので、体内のみという発動制限がある九津とは相性が良かったのだ。
そして仙術は人間が作り出した「魔術」的な力を持つ術であり、本来なら怪我の治療や治癒にも長けた術であった。術者の腕前や技量にもよるが、多少の切り傷などすぐに回復出来る術をもつのである。だが、九津は違った。
術式不発者である九津は、体内の傷から治していく。しかし体外の回復は遅く、術を使わない人間と変わらないのだ。それだけではなく、血を流すということは、そのぶんだけ体外と繋がっているということであり、回復のために作り出した活力がどんどん垂れ流し状態であり、疲労感は通常よりもたまりやすくなるということだった。
傷はつくるな。攻撃はなるべく交わせ。師匠たちにもあれだけ注意されてたのに、と苦虫を噛む想いだ。
それでも言い出しっぺであり、作戦の要を担う以上は、やり遂げなければならない。
そうでなければこれまでの修行をつけてくれた人たちにも、この作戦に乗ってくれた人たちにも申し訳がたたないからだ。
何より、自分を許せない。
とはいえ、やはりダメージが大きく、自分の出番が回るまでの間の回復は見込めなさそうだ。卦我介との肉弾戦による疲労は少ないが、魔力生命体となった操流人との戦闘、そして暴走初期の爆発に巻き込まれたのはいたい。
しかし経過を反省している暇は無さそうだ。活力をひたすら作り続け、回復に心掛けながら万式紋を握った。
足元はどこかふらつく。それを出さないように注意するが、そうすると今度は集中力が下がる。こうなると上手く「切る」ことが出来ないかもしれない。
そんなことになれば、せっかく包女が、みんなが頑張ってくれたことが無駄に終わり、作戦じたいが無為になってしまう。
不安を振り払うように深呼吸。数少ない体外から活力を取り入れる手段だ。僅かだが、回復量も上がったと思う。
よし。
自身に言い聞かせるように万式紋を構えた。
握力のせいだけではないだろう。震えている。しかし止めてみせる。
目標を見据える。うっすらと赤い霧が晴れたような場所に、何かを見つけた。
視界事態は悪くない。見えるか。いや、見極めてみせる。
あとは、機会を逃さぬようにするだけだ。
「いい加減にしてくださいよね、ぼっちゃんっ!これ以上迷惑かけるようなら…あの事をいっちゃいますよっ」
観垂の叫ぶような声。話しかけ続けたことで肩で息をし始めている。それでもやめない。
「恥ずかしいことから笑えることまで、全部、いっちゃいますからね」
「な、何を言い出すんだ、観垂」
「あんたからもいってやりなさいよ、卦我介」
「だから何を」
「胸のうちを、よ」
観垂の迫力に卦我介がたたらを踏んだ。
「こんなに追い詰められてさえ、私たちに何も言わないようなわからず屋のぼっちゃんに、私たちの胸のうちを全部、いっちゃなさいっていってんのっ」
やけくそのように言った。
卦我介は考える。そして、そうだなと笑った。
「操流人様、聞こえていると思い、言わせてもらいます」
堂々とした声。
「ここにこられるまで、あなたがこれほど追い詰められているとは、気がつきませんでした。側役などといったところでこの様です」
背を丸め、肩を落とした。
「しかし、あなたも悪い。何故、もっと俺たちに相談しなかったのですか?それほどまでに俺たちが信用ならなかったのですか?その笑った奴らと同類に見えましたか?そうであるならば…あなたの目こそ、節穴だとしか言いようがありません」
観垂が口許を隠し、まぁと呟いた。そしてクスクスと体を揺らした。
「俺たちは裏切りません。あなたの努力を知っているから。あなたの必死さを知っているから」
なぜなら、と続ける卦我介の瞳は穏やかで、まるで生意気でわがままで、それでも愛しい弟に言い聞かせるようだった。
「俺たちはあなたの側にずっといたのだから。これからだってそうです。強くなりたいのでしょう?そんなところで引っ込んでないで、さっさと出て来てください」
傍らで聞く観垂も満足そうだ。すると、椴丸が目を覚ました。
まだ起き上がることが出来ないのか、それとも意識がはっきりしていないのか、空を眺めながらの呟きが聞こえる。
「…よくね、わからないですけどね、操流人様。帰りましょう、一緒に」
すると再び目を閉じた。観垂が覗くと静かな寝息が聞こえた。ふふ、と顔を綻ばすと、観垂は瑪瑙へと語ったときのように凛とした立ち振舞いとなった。
「ですって、ぼっちゃん。皆がこう言ってるんですよ。わがままばっかりしてないで、帰って来てください。でないと私、本当にあんなことやこんなことを言いふらしちゃいますよ。知ってますからね、私たちは、ちゃんと」
観垂が言い終わる。
渦が、わずかに人の形をなした。元に戻ろうとする意識がうまれたのだ。
そろそろだ。ついに訪れようとしていた機会に、九津は集中する。
─────
ぼんやりとする意識の中で、操流人は自分が暗い所にいるような気がしていた。
月明かりのある夜のような柔らかな闇であり、同時に体に浮遊感がある場所だ。
自分は一体どうなった。操流人は考えてみる。
苛立つ衝動から鷲都家に出向き、感情のおもむくままに金髪の少年と戦った。
そうか。オレは精霊同化を使って意識を持っていかれたのか。操流人の記憶は鮮明になっきてた。
精霊同化。精霊魔術の第三段階とも呼ばれる魔力を用いた術。精霊魔術においてそれは、精霊に使い手の肉体を差し出し、自らが魔力生命体へとなるものだ。
特別に秘匿されているわけでもなく、禁じられているわけでもない、強力な魔術。ただ、使う限りは己の魔術技量に関する全ての誇りを代償にしなくてはならない魔術だ。
何故か、などと問い返す方が愚問だった。
だせぇ。これじゃぁよ、とんだ笑いもんだぜじゃねぇか。自身でもそう思うからこその愚痴が生まれる。
失敗の代償に、精霊を使役する側の魔術師が、逆に精霊にその魔力ごと肉体を奪われてしまうから、だ。
くそ、くそ、くそっ。だせぇ、だせぇ、だせぇ。
言葉に出来ない憤りと、言葉にならない悔しさが溢れ出す。そして。
かっこわりぃじゃねぇかよ。
怒りに身を任せることで隠してきた感情が、一粒の滴となって頬を伝うのを感じた。
動物性物質なんて魔力生命体には無いはずなのに、と皮肉にも笑えてきた。それこそ腹を抱えて笑うことは出来そうになかったが。
操流人は決して自分が強いなどと思うことがなかった。それなりの環境で、それなりの修行をし、それなりの才能を持っていたとしても、だ。
六月の「力比べ」などという悪習に参加したのとて、自分の意思ではない。
単に父親が、代行者として参戦する年を迎えてから一年。操流人の最後の修行の一貫として当主代行を任せられたのだ。
まだ早い。誰もが、自分さえもそう思っていた中で、当主の命令に逆らえる程の理由もなく、成り行きで「力比べ」に参戦した。
操流人の心境は不安の一途だった。
しかし救いもあった。それは鷲都家の存在だ。
数年前、鷲都家の女当主が亡くなり、現当主となった男には才能がなかった。正確には足りなかった、とでも言うのだろうか。研究目的ならば最低限充分だったのだろうが、性格も実力も、限りなく戦いの方にはむかなかったのだ。
聞けばそもそも魔術に関わる事のない人生を送ってきたというではないか。
それならば勝てる。とは、さすがに甘い見通しだったかもしれないが、それにすがることしか操流人には出来なかった。
ところが、だ。いざ当日を迎えると、実際に戦うことになったのはその当主の娘で、自分よりも一つ下の同世代の魔術師だった。これには驚いた。しかし、負ける理由にはなるまいと考えていた。
そして、負けたのだ。
慢心さ、甘さか、油断か。それとも単なる実力、才能の差か。とにかく負けたのだ。
悔しかった。
その感情はもちろん負けて生まれたものだった。そしてそれは、ある時を境に少しずつ強くなっていくことになる。
例えば最初、何処かでこんな話を聞いたときだ。
「見たか、束都の勝負。あれは完全に鷲都に持っていかれたな」
誰かの笑いをはらむ声。
びくりと体が強ばった。ひどく暑く、息がうまく出来ない感覚にとらわれた。
「ああ、見た見た。どちらも若い代行だったが鷲都家の方はずいぶんと優秀な跡取りのようだ」
誰かの褒め称えるような声。
汗が背筋を通った。唾を飲み込んだ音が、やたらと大きく聞こえた。
「それに比べ束都の方は…現当主も何を考えているのやら。あんな代行を寄越すようじゃ、そのうち〃藁束ね〃と落とし名で呼ばれるのは時間の問題だぞ」
おそらくそれは、たわいもない大人たちの暇潰し。評論じみた何気ない会話なのだろう。
しかし、それこそが操流人の心の臓のある部分を貫いた。痛みが胸を抉るようだ。嗚咽が、動悸が。わけのわからない気持ちの悪さが全身を蝕む。
何で自分が笑われなければならない。
自分はただ、当主に命じられるがままに参戦したのだ。それだけなのだ。参加さえ出来ないお前らが。
……。
…………。
そう思ったところで声にはならなかった。
操流人が出来たことといえば、悔しさのあまりに溢れたものを、認めないことだけだった。
あいつらを見返してやる。闘志が燃え上がる。それはどす黒さを含んだ原動力だ。
あいつらを見返してやる。それだけを一心に考える。それには「何」を「どう」すればいい。
自分は精霊魔術師だ。ならば「強い精霊」を従えて、もっとも「強い魔術の形を体現」すればいい。
幸か不幸か、強い魔術なら知っていた。精霊魔術師ならばいづれ一度は目指すだろう領域。精霊同化。三段階目と呼ばれる高み。
さぁ、あと必要なものは。
学問的魔術で名の知られた人物が、疑似生命体の研究をしていた。たまたま偶然にもそれを知り、それを手に入れたいと思った。
作れるのか。なら、自分で作り出せばいいと考えたからだ。
待てば自然と公開されるだろうその研究。操流人は待てなかった。
そして──。
──この様だ。
あぁ、くそぉ。感覚の薄いまま肢体を暴れさせる。影の精霊のやつ、さっさと消えやがれ、と自分の支配から離れてしまった精霊に毒づく。
音も響かず、意識だけの世界。ただ一人を感じている時間がもどかしかった。何時間のようにも思えた。もしかしたらまだ数分しか経っていないかも知れない。そんな考えがよぎる中、ふと気づくことがあった。
アイツも…こんな感じだったのか。
負けて、笑われ続けた父親を見つめ続けた少女の顔が浮かぶ。始めてあったのは、この間ではない。もっと前だ。
ずっと…悔しかったのか。
己の気持ちと少しずつ重なる部分が見えてくる。
だからよ、必死だったのかよ。ケッ…だせぇな。
束都操流人という人間が。
たった一度負け、たった数回笑われたくらいでこんなことになるなんて。
それに、だ。忘れていたことがある。それは常日頃から側に居てくれた六人の存在だ。
肩書は「側役」。忙しく相手の出来ない両親たちに変わり、側に居てくれた面々。
堅苦しく、常に真面目に話し、操流人を含め全員をまとめる奴。
戦うことが好きな馬鹿なくせに、それでいて身内を思いやる奴。
魔術師業界の著名人を調べるのが趣味で、いつかは操流人もそうなるといってくれた奴。
気が弱く、おどおどしているところもあるが、やるべきことをやることの出来る奴。
普段はぶっきらぼうに振る舞うくせに、いつも修行には最後まで付き合うような不器用な奴。
のらりくらりと変な口調でいるくせに、全員を影から見守る度量をもった奴。
彼らの存在は、たしかな形で操流人を支えていたではないか。ときに励まし、ときに諌め、ときに汚れ役さえも引き受けてくれた。
オレは…だせぇ奴だ。
せめて、彼らの期待に応える行動をすればよかった。せめて、彼らが誇れるような行動をとればよかった。
熱いものが溢れた。
認めてやるよ。自然と力がこもる。操流人が、この空間の中で自分を感じ取れるようになる。
熱いもの。悔しさであふれ、こぼれたもの。それは涙だ。その熱が、滴の通った道筋が、たしかな「自分」という輪郭を教えてくれる。
早くこっから出しやがれ、ウゥド・ヤシ。強い意思が「動物性物質」を取り戻そうと突き動く。
オレにはやらなきゃなんねぇことがあんだよ。
もがき、あがく。動く動かないなど、意識や意思の問題だ。
すると音の無いはずの空間に、かすかに伝わる言葉があった。聞き取れない声。しかしよく知っているような声。
あれは、卦我介と観垂の声だ。
どうやらこちらに呼び掛けているらしい。
戻ってこいだの、帰ってこいだのたと聞こえる。
言ってやりたい。うるさい、出来るなら、とっととやってる、と。
それが聞こえない二人は呼び掛けを続ける。たくさんたくさん続ける。うるさい、黙れ。今やってるんだよ、と声にならない叫びをする。
すぐに戻ってやる。
と、
「俺たちは裏切りません。あなたの努力を知っているから。あなたの必死さを知っているから」
はっきりと届く。向こうの声が聞こえて、こちらの声が届かないことに苛立ちを覚える。
「そんなところで引っ込んでないで、さっさと出てきてください」
「…よくね、わからないですけどね、操流人様。帰りましょうよ、一緒に」
「知ってますからね、私たちは、ちゃんと」
明暗の中、導かれるように、操流人は答えた。
「黙れ、お前ら。わめきすぎだっ」
─────
渦が薄らいだ場所に、人の形をなした輪郭が生じる。
「だ、ま、れ…がっ」
くぐもっているが、言葉も聞こえた。向こう側で操流人の意識が戻ったのだ。
ようやく出番だ。待ちくたびれたよ。九津は震える手前の足元に、力を込めて一歩前へ出る。万式紋を渦に向ける。
光る切っ先が、僅かだが揺れる。やはりこの機会が巡ってくるまでの間での回復は、見込めなかった。しかしそれは諦める理由にはならない。
卦我介と観垂が期待の眼差しでこちらを見ている。とても戦っていた相手に向けるような顔ではなかった。それほど操流人の意識が戻りかけていることが嬉しかったのだろう。
あとは頼む。そう告げられているようだ。
軽く首肯すると、渦を見据える。視界は良好だ。赤い渦の輪郭もつかめてきた。問題があるとすれば、それ以外の力が上手く入らないことだろうか。魔力の調整が大事なときだというのに。
せめて万式紋への魔力の供給だけでもどうにか出来れば集中できるのだが、そんな愚痴を今さら言ったところで意味はないだろう。
しかしだ。時間もない。包女の魔力変換も、筒音たちの包囲網も、卦我介たちのやるべきことも、操流人自身も限界があるのだ。
やろう。
当然、失敗は出来ない。
力が上手く入らない剣先を見つめながら苦笑がもれる。呼吸を深くし、集中力をとにかく高める。と、
「鷲都さんっ」
魔力変換で渦となった操流人の魔力を収めていた包女が、そっと手を重ねてきたのである。
驚いた。包女の意図が読めず九津は目を瞬かすだけだった。
一方で包女は、俯いたように目をなかなか合わせようとしてくれない。重ねられた手からは温もりだけが伝わる。
「悟月くん。私も、いるから…一緒に、頑張ろう」
しどろもどろと語られる九津を気遣う気持ち。どうにも包女は気づいたらしい。九津が体力的か精神的か、どちらにせよ限界が近いというのを。それを思いやっての行為だったのだ。
「ありがとう。じゃあさ、鷲都さん。万式紋の魔力配給の方、頼めるかな?そうすれば微調整に集中出来るからさ」
九津は素直に頼ることにした。頼もしい仲間に。その優しさに応えるために。この場にいる全員の意思を無駄にしないために。
ようやくしっかりと視線を交わしてくれた包女が頷くと、九津の手ごと万式紋に魔力を送った。普段、修行でやってきたことが活かされる。慣れた様子で包女は注いでいる。
魔力変換により作られた魔力の量は充分過ぎるほど刃を真っ直ぐに伸ばした。流れ込む力がとても温かく、力が戻ってくるようだ。さすが「無限活性」の異名を持つ力だ。
二人でゆっくりと万式紋を掲げた。
包女が万式紋に上手く配給してくれているおかげで、もう刃は揺るがない。九津は、切りたいものだけを切れる。
安心してその光の刃を渦へと傾けた。
すると渦は、抵抗する力など最初からなかったかのように、すんなりとそれを受け入れた。
九津は呟く。
「さぁ、束都の代行者どの。みんなが君の帰りを待っているよ」
真っ二つに分かれた瞬間、魔気となって霧散される魔力の衝撃が二人を包み込んだ。巻き上がる突風や土埃でよく見えない。
上手くいったのか。全員の視線が集まる中、土埃などがおさまるのを待つ。
少しずつ落ち着き視界が開けてきた。まず見えたのは二人。九津と包女だ。
そして、地に倒れる操流人の姿があった。
「ぼっちゃんっ!」
「操流人様っ」
九津たちの横をすり抜けて卦我介たちは眠るように横たわる操流人の側へと駆け寄った。
観垂が膝を敷き、様子を伺うと、操流人は呻きながらも、うっすらとまぶたをあけた。
「お前ら…うるせぇんだよ」
弱々しくも放たれた愚痴に二人は顔を見合わせて綻ばした。ふてぶてしく視線を反らすような操流人に言ってやる。
「ぼっちゃんのお戻りが遅いからですよ」
「本当にその通りです。今後は気をつけてください」
と。そして二人で、
「ご無事で、何より」
と重ねた。
操流人は舌を打って顔を隠した。なんとも言えない「らしい」仕草に、卦我介たちだけでなく、九津たちも何処か安心し、笑いたい雰囲気になった。
どちらかが消したのか。役目を終えた結界が、ゆっくりと感覚的に消えていくのがわかった。
本当に終わったんだ。
九津は、一番側にいる包女と喜びを表すように微笑みあった。




