第八話 『下級生・結』
悟月家へ向かうため九津を始め、包女と筒音、そして瑪瑙の四人は結界広場をあとにする。
結界を抜け、雑木林に囲まれた一本道を進むと高校と商店街を繋ぐ緩やかに伸びた坂道にたどり着いた。これからこの坂を下り、駅へと向かうことになる。
その時、筒音はふと九津や瑪瑙と話している包女から距離をとり眺めた。
少しだけ、本当に少しだけなのだが過去を懐かしむ心情になったのだ。それはおそらく暇潰しにした「切欠」の話のせいだろうと思った。
『小娘、我と共に強くなってみないか?』
この目の前の幼い少女、包女に感じることがあり思わず口にしてしまった。しかも首を傾げる包女に分かりやすいように言い直してまで。
次の瞬間、何を口走ったと自問してしまうほど驚いてしまった。さらにそんな内心がばれないかと不安になるほど「鼓動」が体中に響いた。
まさか一人で、そして孤高で生きてきた自身が今さら〃誰かと共に〃なんて考えられなかったから。
返事のない間に聞かなかったことにしてくれとでも言おうかと考えた。ところが口を開くよりも先に包女に言われてしまった。
「……………………うんっ」
と。
その顔がとても嬉しそうに見えて、その声がとても嬉しそうに聞こえてた。すると不思議と『まぁ…いいか』と素直に思わされてしまった。
だから不器用なのは仕方が無く、不自然なのは仕様が無く牙を見せつけるように笑って応えた。
そんなツツネに改めて笑い返す包女の顔が、また不思議な事に記憶から消えてくれそうに無かった。
結局、小型の獣の姿で包女の側について回ることにした。魔力を得て妖力も戻ったツツネだったがその姿が一番楽だったから。
そうして案内されるがまま、成り行きのまま着いていった包女の家、鷲都家にいつの間にか当然のように住みつくようになっていた。
そう時間がかからずして鷲都家は「この世界」でも珍しい古くから魔術を操る一族だったと知った。
『なるほどな。通りで魔力を扱えるはずだ』
合点がいった。
同時にその一族が抱える問題もなんとなくだがツツネは察した。
『娘、強くなりたい理由はなんなのだ?』
聞いてみた。共に強くなろうとするなら理由を知らなくてはいけない。そして理由は推測であってはいけない。なにより理由は包女の口から直接聞かなくてはいけない、そう考えたからだ。
何故ならそれは強い意思を必要とする力の原点だから。
「あの、あのね」
ポツリポツリと包女は話を始めた。
母親の死がもたらしたもの。父親の努力が報われないこと。自分の弱さを悲観したこと。
そしてツツネと出会い、一つの希望が見えたこと。
『希望だと?あの力の変動の事を言っているのか?』
「うん。あの時、私は自分でも信じられないくらいの魔力が作れたのきっと…」
自身でもよくわかっていないのだろう、説明はたどたどしいものだった。要約すればこういうことだとツツネは理解した。
「私はあなたの妖力をもらってそれを魔力に変換して渡していた」ということ。
『なるほどな。確かに我は今でこそ魔力を受け入れる体になった。…とはいえ自力では作れん。妖力とは別物だからな。しかし妖力を生みだしお前に渡す。それを魔力に変換し返してもらう。そうやってお互いに魔力を増やすのか』
これは予想通りと言えることだった。魔力は現在この肉体を維持、構築するために必需だった。そして体力さえあれば妖力を作り出せる。妖力を作れば魔力として返してもらえる。
なんと利に満ちたことか。ツツネは楽しくなった。
やはりあの時の気紛れとも言える判断は間違いでは無かったのだと思えた。
包女の方も、魔術を行使するための魔力切れが少なくなるので技術向上の役に立つと喜んでいた。
お互いの役に立つ。まさに「共に強くなる」ということ。これこそが利害の一致だった。
二人は共に過ごすようになった。
過ごす時間が増える中で包女は尋ねた。
「そう言えば今さらだけど…キツネさんの名前は?ずっとキツネさんって呼ぶわけにもいかないよね」
と。ツツネは一時だけ考えてから答えた。
『名前…固有名か。無いな…我の世界では必要なかったからな』
そう答えたときの包女の顔は面白かった。
「それじゃぁ困る……」
と子供ながらに眉間にシワを寄せた。なので『今さらだな』と一笑いしてから、
『ならば包女、お前が付ければいい』
と言った。包女はキョトンとして、次いで真顔で「えっ……いいの?」と一生懸命に考え始めた。
「ええと、ね……ええと」
閃いたのかパッと表情を輝かせた。そしてジッと覗き込むような視線を感じたので目を合わせる。と、スッと外された。
『なんだ。言ってみろ』
ツツネは促す。包女はモジモジと照れながら「あのね」と切り出した。
「私は包女って言うの」
知っている、と答える代わりに頷いて見せた。鷲都家ということも含め大体のことは見聞きした。
『それこそ今さらだな』
「あ、うん、だからね。だから……一緒に強くなろうって言ってくれた貴女は狐の姿をしてる…もう一人の私。だから……ツツネ」
ダメかな、と聞かれた。
「あっ、漢字、わかるよね。本、読んでたもんね。筒って漢字に音って漢字でツツネ。筒には楽器って意味があるの。貴女の声…私には優しく響く音楽みたいに聞こえたから」
補足するように楽しそうに話す包女。それを黙ってツツネは聞いた。心の中で噛み締めるように反復する。
ツツメとキツネでツツネ。筒から響く音のような声で筒音。
筒音。
「ねぇ、嫌なら嫌って言ってっ」
黙り込むツツネに包女は慌てたように言った。が。
『……っぷ、ふふははははははははははははははははははは』
ツツネ、否、「筒音」は堪えきれないように笑い始めた。
面白い、面白すぎるだろう、それは。包女の言葉を遮るように笑った。腹を抱え、この獣の体になってから覚えた呼吸を困難にさせながら笑った。いつ以来だろうか、こんなに〃楽しい〃と笑ったのは。
『いやいや、良い名だ。我は気に入ったぞ。ツツネ、筒音か。これから我は〃筒音〃だ。そう名乗らせてもらおうっ』
そう伝えた。しかし呼吸を乱し目に涙を浮かべた筒音を見て、
「ええっ、嘘だよ。そんなに笑ってるもん!」
と困り顔になり、膨れっ面になった包女がまた面白かった。楽しかった。
『本当だ。そんなつまらぬ嘘など我はつかん。そうだな…〃筒音〃と言う名にかけて誓おう』
今度ははっきり伝える。
「…………うん!」
と初めて会ったあの日と同じ笑顔を見せた。
「じゃあ、私達は改めて友達だね、筒音」
『とも……ダチ?』
「うん。一緒に強くなろうって決めた者同士だもん」
『ほぉ、なるほど。そうだな。ならばトモダチだ、包女』
「よろしくね、筒音」
『ウム、よろしく頼むぞ、包女』
この時交わされた会話が利害の一致を越える事になるものだと知るのはしばらく経ってからだった。
「変化」の幅を広げ包女そっくりに変身して驚かせた。ただし、髪の色だけは悪戯心が手伝って「黒」ではなく「白」にした。
流石に人の姿に変化をするようになり、鷲都の人間に秘密にする事が限界になった。
まず父親に打ち明けた。続いて一族の数名に。始めこそ畏怖と恐怖を込めた視線を送る者がいた。しかし、そこはなんと言うべきか。「魔力」本来の使い手達としては正しくお人好しが多かった。数週もするうちに受け入れてくれた。
もはや姿を気にする必要も無くなった筒音は対人、対獣での戦闘訓練も視野に入れたいと言う包女に付き合った。
鷲都家の得意とする「付加」の魔術は確かに術戦を想定する魔術師にしては珍しく、純然たる格闘戦にも向いていたからだ。
ところが訓練の最中、包女は年齢的にも性別的にも力不足だと痛感したのだ。だから筒音は自身の毛の一本を抜き取り木刀の形に「変化」させて渡した。
さらに二人で改良、改善し「魔力 」に反応する「妖術」を用いた武器にまで発展させた。
共有する時間が増えるうち筒音は、体を包女の一部に宿らせる憑依まで可能になった。それから二心同体の日々を過ごす事が多くなった。
そうしてこの世界から「友情」なる言葉があることを学んだ。そこから「友達」の意味を知った。
言葉の意味を理解し気恥ずかしくなり、気が付けば「相方」という言葉を使い始めていた。包女がどう思ったのかは知らないが合わせてくれたのでそのままにしていた。
出逢いから続く「切欠」の話を思い返し、包女の口から「親友」や「家族」と言ってくれたことを思い出した筒音は、思わず口元を綻ばせた。
誰にも見せるわけにはいかないほどにやけているのが自身でもよくわかった。
親友。友達よりさらに親しみを込めた名称だったか。
家族。血の繋がりを尊ぶ人間にとって最上級の親愛を込めた呼称だったか。
『あの頃よりも妾たちの絆とやらは強くなったのかのぉ。どう思う、ツヅル殿』
小声で返らぬ問いと知りつつ呟いてから立ち尽くしてしまった。
そんな筒音を向こうで九津と包女が呼んでいる。
『フム』
筒音は九津と瑪瑙と共に自身を待つ包女の姿を眺めた。そして包女にさえ話したことの無い秘密を思う。
筒音が変化した「包女」の姿は実は数回だけで、その後の変化は別の人物を意識していた、ということを。
その人物はおそらく包女の事をもっとも想い、重んじる生き方をするだろうという考えがあり、人間の寿命の間くらい自身を『友達』と呼び、『家族』のように接する相方を見守るには何よりも相応しい姿ではないか、と信じたからだ。
そして「友逹」と同じくして覚えた言葉がある。
あの時、一匹の獣の命を救ってくれた「恩人」という言葉。
だから筒音は大切な家族である包女をこの姿で守ろう、と決めたのだ。
「筒音ってば」
『あぁ、悪いな。今行くのじゃ』
筒音は普段通りに歩き始めた。
─────
悟月家にたどり着く頃には正午を半分以上回っていた。筒音は駅に入る前に包女の中に宿り姿を隠して見えない。家中では輝が待ってましたと言わんばかりの笑顔で包女と瑪瑙を迎えてくれた。
「なんか靴、多くない」
輝の出迎えを九津は流して玄関に綺麗に揃えられた子供靴に視線を落とし尋ねた。
「ああ、緑輝と双子ちゃん達が来るって言ってあったでしょ」
「あ、あれ今日だった?」
そう言って九津は後ろに続く瑪瑙を見た。来客が重なる事を忘れていた。
「あのさ、母さん。実は見ての通り一人お客さんが増えたんだけど」
と瑪瑙を輝に紹介した。包女の方がついでのようになってしまったが、気にしてないよと応えてくれた。
「全っぜん問題なんてないわ。むしろ嬉しいかぎりよ。ほら、上がって三人共」
輝は嬉しそうに九津以外を促した。二人は遠慮がちに上がり輝と九津に続いた。
「おばあちゃんと桃輝はおじいちゃん達を迎えに行ってるからお昼は要らないらないし、緑輝のとこも一人少ないしね」
「おじさんは来てないんだ」
と、会話をしながら進む途中、九津は包女につつかれた。輝と瑪瑙を先に行かせ九津は「どうしたの?トイレ」と尋ねた。
「違っ、違うよ。じゃなくて筒音が…」
「ん?」
『九津、この家に僅かとはいえ奴等の気配を感じるのじゃが…』
直接頭に響くように筒音の声が聞こえた。九津は首を傾け聞いた。
「奴等って誰達。ここには俺の身内しかいないはずだけど…」
「さぁ」
包女もわからない様子だった。しかし筒音は声だけでも感情的になっているのが伝わってきた。しかもあまり良くない方の感情だ。
『奴等じゃ。妾の間堕を渋い顔で見おる、あ奴等。規則を尊び規律を敬う生真面目天人…いや、ここでは〃天使〃じゃったな。間違いない奴等じゃ』
忌々しそうにそう呟いた。
「…て、天使って何を言ってるの、筒音」
「ん?天使…ああ、そうか。やっぱりわかるんだ」
戸惑う包女を置いて九津は頷いた。
「わかるんだってどういうこと、悟月くん」
「どういうって言うか…言葉通りだね。俺のおばさんに当たる人、昔は天使だったらしいよ」
「へぇ…て、っな、え?天使って…あのっ?」
包女は驚愕と困惑に目を白黒させていたようだが筒音の方は舌を打ちを響かせ『やはりな』と答えた。
「あの…か、どうかはわからないけど、一般的にそう呼ばれる種族だったらしいよ。筒音なら知ってるよね、堕天の事」
『…堕天…じゃと。フン、道理でか弱い気配のはずじゃ。しかし、よくあの生真面目だけが取り柄の規律規則しか生き甲斐の無いあ奴等が許したものじゃのぉ』
「そこはそれ。色々とあったらしいけどね。俺の生まれる前の話だし」
肩をすくめ、茶化すように九津は筒音に答えた。いまだついてこれない包女はますます戸惑っている。
「いい人だよ。なんせ知っての通り生真面目で規律や規則を守る性格だから」
『フン、どうじゃろうな。姿を消しておいて正解じゃったわ。嫌味の一つでも言われそうじゃからのぉ』
そう告げると筒音は黙りこんだ。静かになり九津は包女を見ると困ったような表情をしており、説明の前にとりあえず移動することにした。
「でも天使なんて信じられない」
「そう?筒音からは聞いてない?それに妖怪だっているんだし、おかしくはないよ」
「そう…かなぁ。あっ、そう言えば悟月くん、あの時に妖怪は見たこと無いって言ってたもんね。天使の方は見たことあったんだ」
まだ理解が追い付いてはいない包女が落とし処は見つけた頃に長くない廊下が終わった。
「こんにちは、九津くん」
「ん、こんにちは、おばさん」
部屋につくと黒緑に輝く長髪を携えた清楚な雰囲気を放つ女性が迎えてくれた。その両脇には小学校低学年と思われる二人の少女が座っていた。女性が輝が話していた緑輝であり、少女達は緑輝の娘であった。
「ほら、喜羽も知羽も挨拶して」
「あいさ。のつ兄ちゃん、こんにちは」
「のつお兄ちゃん、お邪魔してます」
「キー、チー。久しぶり。ますますおばさんに似てきたね」
九津が挨拶を済ますと続いて包女が頭をさげた。
「初めまして、悟月くんの同級生で鷲都包女と言います…って、この人をおばさんって呼んでるの?ううん、確かに伯母に当たるのかも知れないけど…」
緑輝の容姿に包女は後半、九津にだけ聞こえるように囁いた。包女にとってはどうやら「おばさん」と呼ばれるには相応しく無いようだった。
「んん、あんまり考えたことは無かったけど…」
包女に返す九津は口の端を持ち上げた。
「でもさ、鷲都さん。天使みたいに綺麗な人でしょ」
「…………うん」
包女はコクコクと頷いた。二人の会話が聞こえたのか緑輝はクスクス笑った。
「天使なんて懐かしいし、もう恥ずかしいくらいだよ。でも九津くんが昔の話をするなんて…ずいぶんと気を許してるんだね、わしみやちゃんに」
もしかして彼女、とふんわりと尋ね微笑んだ。
「えっ?ええ?わたっ、私はっ…」「違うよ、おばさん。友達だって。そんな冗談言ったら鷲都さん、困るから」
緑輝の言葉に狼狽える包女の代わりに九津が返した。聞く緑輝はそれでもまだ笑みを崩さない。
「そうなの?」
「ちょっと緑輝。悪いんだけど配膳手伝って。九津、あんたはそこ片付けといて。そっちとこっちで分けるからっ」
優しく追求するふうな緑輝に輝の声が届く。緑輝は「ちょっと行ってくるね」と娘二人を残し立ち上がった。
入れ違いに瑪瑙がこちらに来た。二部屋を繋ぐように昼の支度が整っていく。
全員がそれぞれ振り分けられた席に座る。
九津の母、輝は水回りに一番近い自身の席で満足そうに頷いた。
「若い女の子がこんなにたくさん……夢のよう」
「輝さん。発言がとても危険思想を伴ってますよ」
気付けば声が漏れ、それを緑輝にやんわりと注意されていた。実際、輝の言葉に少しだけ距離を感じた包女と瑪瑙がいた。しかし、
「でも、足りない。筒音ちゃん、あなたも姿を見せて。この家に妖怪程度で驚く人間は誰一人いないから」
と、笑顔を見せたる態度に包女は驚きの反面、嬉しいものがあった。
筒音は鷲都の実家と特別な場所でない限り姿を消しているか獣の姿に変化している。
それは妖怪という実態がどうしても面倒ごとを呼び込みそうで嫌なのだそうだ。しかし、今回の場合は少し意図が違っていた。
筒音が姿を見せない理由、それは堕天した「天使」がこの場に居ることだったからだ。
「筒音、どうしても嫌なの?」
『……気はのらぬのぉ』
包女の問いに渋い声を響かせた。
「…私のせいですね。なら私達が席を外しますね。喜羽、知羽、移動をしようか」
穏やかにそう告げると緑輝は娘達を連れ移動しようと立ち上がりかけた。そこへ、全員に聞こえる音となり筒音の声が響いた。
『まぁ、待て』
「…筒音」
『ああ、わかっておるのじゃ包女。今回は妾が悪い。つまらない上に意味のない意地を張った。そもそも主催者でありここの主人の客に対し恥ずべく行為だった。…すまぬ』
そう言って筒音は包女の隣に姿を現した。
『…世話になる』
「ではでは改めて…女の子がいっぱい…じゃなくて、いらっしゃい、筒音ちゃん」
輝は目を細め歓迎した。同様に緑輝も嬉しそうに「ありがとう」と呟いた。
『妖怪と天使などと言ったところでここは人間の世。受け入れ、取り入れるのも業というものじゃろう』
それに、と筒音は緑輝の傍らの少女二人に視線を落とした。
『母であるお主に子を困らせるような真似をさせて悪かった…』
そう言うと筒音は不器用に歯を見せるように二人に笑いかけた。
食事前に移動させられかけて不満そうで悲痛そうだった二人の少女もそれに応えるように笑い返した。
九津も筒音の笑った顔を見た。その顔が何処か遠く、昔を懐かしんでいるように思えたのはきっと気のせいでは無いのだろう。不思議と確信を持てた。
『九津の母上殿、すまぬが茶のお代わりをもらえるか?』
「筒音ちゃん、輝でいいから。待ってて、すぐ持ってくるから」
「おばちゃん、私も」「あの、私も、欲しいです」
「うんうん。待っててね三人とも」
食事中、遠慮を取り除いた筒音や双子の少女の世話を嬉しそうに輝はしていた。
お腹が膨れてくるにつれ「ところで」と瑪瑙が口を開いた。
「緑輝さんは本当に天使なのですか。どこをどう見ても人にしか見えないのですが」
言いづらそうにしながらも、しかし好奇心にかられた様子の瑪瑙の視線が緑輝の姿を捉えて放さない。
「筒音さんのように変化などが出来るとかなのですか?」
「うーん、無理…とは言わなけれど、とても難しいですね」
「…そうなのですか、残念なのです」
『まぁ、変化で妖怪に敵うものはおらんじゃろうし、仕方無いのじゃ』
肩を落とす瑪瑙に筒音が擁護するように語る。そうなのですか、と納得しかけた瑪瑙の前で喜羽と知羽が突然手をあげて立ち上がる。
「だったらママ。あれを見せてあげよーよ」「うんうん。ママのあれ。とっても綺麗だから」
そう言うと緑輝の両腕をとり、せがむ。緑輝は少し困ったように眉を潜ませたが、
「いいんじゃない?緑輝さえよければ見せてあげれば」
と輝の言葉にしばらく思案して立ち上がった。
「じゃぁ、ちょっとだけ。すみませんが場所をあけてもらいますね」
緑輝は優しく娘達の手をほどき、期待に応えるべく邪魔にならない場所へと移動する。そして手を合わせ、祈るような姿をとる。と。
輝いた。
「これは…すごいのですッ」
「ん。俺も久しぶりに見たよ」
「これ…これって、まさか、本当に?」
『微弱な気配でも流石に出せるのか』
「ママ、綺麗」「うん、綺麗」
緑輝の背中から「翼」が生えたのだ。正確に言えば翼のような形をした何かである。それがよく見れば柔らかく垂れた木の枝に羽根の如く繁っている葉だと気づく。只し、その葉の一枚一枚がキラキラと目映い輝きを放っていた。
「翼…に見えるのですが…これは木なのですか」
「そうですね、それが正しいと思いますよ。葉根が天使達の翼です」
緑輝は微笑んだ。その微笑みを携えた姿は翼が放つ光と照らしあわされ、確かに世にいう「天使」なのだという説得力をもった。
「すごいっ。すごいのです、ねっ、包女お姉さん」
「う、うん。もう本物の天使にしか見えない」
「だから本物なんだって、鷲都さん」
三人は喝采と称賛を込めた視線を送った。筒音は鼻を鳴らして見ていた。
「ではでは、変化はともかくやはり奇跡等を起こせるのですか?」
「奇跡ですか……そうですね。誰か怪我などしていませんか?」
緑輝が尋ねる。お互いの顔を見合わせたが生憎誰一人名乗りでなかった。
『フン。勿体ぶらずに得意の〃分解〃をやればよかろう?』
つまらなそうに筒音が提案する。頬に手を当ててから緑輝は頷いた。
「そうですね。お二人が魔術師さんと呪術師さんなら、それが一番分かりやすいですよね」
そう言うと突然、翼をはためかす動作をする。すると部屋を包む気配が変わった。なんと言うかまるで「黒い靄に包まれた」ような感覚に襲われたのだ。
九津にはそう視えた。
「あの、これは?なんだか水の中のような…」
『瑪瑙。術を使ってみるのじゃ。そうすれば理解出来る。包女、折角じゃからのぉ。お主も体験してみるとよい』
「えっ?…でも」「どういうこと?」
『よいから、さぁ』
渋る二人だったが、九津と緑輝の大丈夫と言いたげな態度と表情に不安がりながら術を試みる。しかし。
「あれ…魔術が使えない…魔力は流れてるのに」
「包女お姉さんもなのですか?私もなのです」
一向に魔術も呪術も放たれる事がなく、戸惑う二人がそこに居た。
わけのわからない二人をおいて、九津、緑輝、筒音の三人は平然としていた。それどころか、
「さすがおばさん。鷲都さんも鵜崎ちゃんも相当な術師なのに…完全に力と術を分解させられてる。やっぱり元〃天使〃は伊達じゃないね」
と、緑輝を絶賛していた。当の本人は照れて謙遜するようにしていた。が、
「どういうことですか?」
包女が勢いで問う。瑪瑙もそれに倣うかのような姿勢だ。
「簡単に言うとさ、天使は分けるのが得意なんだよ」
「分ける…?」
『そうじゃ。妾達妖怪が変化を得意とするように、天使は分解を得意とするのじゃ』
「ざっくり過ぎて、それだけでは意味がわからないのです」
九津と筒音の説明にますます困惑する二人。緑輝が楽しそうに肩を揺らすと「あのですね」と切り出した。
「私達は〃一つ〃を二つに分けるのが得意なんですよ。それは形が無くても認識とか意識的なものでも同様なんです。今は貴女達お二人の〃術〃と〃力〃を強制的に分けました。ごめんなさいね」
「「…………はぁ」」
二人は緑輝の解説を受けてなお、気の無い返事になってしまった。
「鷲都さんも鵜崎ちゃんも、魔力や呪力自体は問題なく使えるよね。でも術式の方へ、その力が回らないようにされてるって事なんだよ」
『人間が天使の力を浄化などと呼んでる由縁じゃな』
さらに二人が補足する。話ながら筒音は自身の人差し指を炎に変化させてシシシと空気を鳴らした。
『来るとわかっていればこのくらいは出来るようになるはずじゃよ。精進することじゃのぉ、二人共』
自身達が完全に術を封じられている状態で妖術を使ってみせた筒音に二人は目を丸くした。
「筒音、貴女この中でも術を使えるの?」
『当然じゃ。堕ちた者同士、天使に負ける妾ではないのじゃ』
「こ、これは負けられないのです」
悔しそうに呟く瑪瑙を見て、シシシと筒音は機嫌良さそうに笑った。
グッと握った拳を突き上げる瑪瑙。そして宣言する。
「馬も驚きのしっかぁしっ。今や私は本物の魔術や妖術、それに加えて天使の力に触れたのです。これから私の呪術はそれらを取り入れ更なる進化を遂げるのですよっ」
フフフと影を宿すような素振りで笑う姿は確かに「呪い」を専門分野にする呪術師の顔だった。
「九津さん。それに包女お姉さんに筒音さん。これからもどうぞよろしくお願いするのですっ」
時計は午後二時に近づこうとしている。もうすぐ図書館に行っている界理が帰って来ることが輝から告げられる。
と、玄関の開く音と共に「ただいま。遅くなってごめん」と声が聞こえた。
まだまだ続きが気になる幕張中にする噂話のように話足りない面々は界理の登場を待った。
連休の二日目。特訓の場所として使っている結界広場に今日は始めから四人で集まっていた。
本日も午前にも関わらず日差しは強かった。しかしその中で包女と瑪瑙の二人は汗を流しながらも実戦的な動作の取り入れの為に組み手を続けている。
「すごいね、二人共。俺はもう、無理」
『フム。九津、お主は凄いのか、凄くないのか、わからん奴じゃのぉ』
九津と筒音は二人でそれを眺めていた。
昨日、あれから瑪瑙が宣言通り九津達に付き合うようになった。
瑪瑙の参加は九津にとって頼もしいことだった。何故なら瑪瑙に魔力変換の練習に必要な呪力を用意してもらえるからだ。
「これからますます鵜崎ちゃんは成長するよ。勿論、鷲都さんもね」
『フン、妾もな』
非日常を知りながら、自身の胸の内だけで秘め日常を過ごしてきた瑪瑙の顔は、九津にはとても眩しく見えた。




