表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

第二章 不治の病

第一節 ちょっと里帰り

 孔雀となったルシフェルがエデンの園に至る道に降り立った時、智天使であるケルブがルシフェルに立ち塞がりました。エデンの園を守るケルブは、その手に炎の剣を持ち、きらめく剣の炎で威嚇して言いました。

「何奴であるか、この回し者め!エデンの園に近づく者はこの剣にて葬られる。」

ケルブが抜き身の剣をルシフェルの胸元に突きつけられまました。ルシフェルは人の姿に戻り、慌てて言いました。

「いや、ちょっと待ってください。私です、ルシフェルです。どうかここを通してくれませんか。」

ルシフェルを認めたケルブは相好を崩して言いました。

「おお、これはルシフェル殿。久方ぶりである。真に友遠方より来るであるな。あわや殺めてしまうところであったわ。時に何用でお見えになったのかな?」

ルシフェルは答えました。

「エデンの園の中央に生えている善悪の知識の木で、禁断の果実が必要なのです。禁断の果実から馬鹿が治る薬を作りたいのです。」

ケルブは訝しげに聞きました。

「天の国一番の知恵者であるルシフェル殿がいまさら禁断の果実などどうして入用であるのか?」

ルシフェルは首を横に振って言いました。

「いいえ、馬鹿が治る薬は私が服用するのではありません。イエスの坊やに薬石として煎じたいのです。」

ケルブは深く頷いて言いました。

「うむ、イエス様御用達の薬石とならば出入りを許し申し上げる。またルシフェル殿の愛弟子である癒しの大天使ラファエルを助け手としてつけよう。ラファエルにもその馬鹿が治る薬石を伝授するが良い。」

ルシフェルは礼をして言いました。

「これはありがとうございます。ところでケルブさん、その剣をちょっと私に見せてください。」

ケルブはルシフェルに剣を渡しました。剣を見定めたルシフェルは言いました。

「うん、これは極め付きの名刀ですね。天の国の最上大業物、真打ですな。まさに全ての偽りを見抜いて焼き尽くす炎の剣、御霊の与える剣である神の言葉ですね。」

ケルブに剣を返してルシフェルは心の中で呟きました。

「大人になってからのあの坊やの言葉、『平和にあらず、かえって剣を投ぜんために来たれり』とは本当によく言ったものだ。地上の偽りの平和を断ち、天の御国における平和をもたらす剣であるな。そして信じる者は命の木の果実を口にし、永遠の命に入る。しかし子供の時からこの名刀を振り回し快刀乱麻してもらってはまずい。気違いに松明、猿に剃刀、子供に刃物となってしまうことは避けたい。さもなくばいよいよ以てトチ狂い、いや増しに御乱心召されたかと周りの者から思われてしまうではないか。これでは最後まで持たない。馬鹿が治る薬の処方が必要だ。」


第二節 馬鹿が治る薬

 暫くするとラファエルが息を切らせながら来ました。ラファエルは魚を手にしていました。

「あっ、お師さんご無沙汰しています。僕は川で釣りをしていたのですが、急にお見えになったと聞いたので本当にびっくりしました。何か薬を作られると聞いています。僕にできることがあれば何でも申し付けてください。僕は今までお師さんから癒しの技を学びましたので大変感謝しています。お師さんのお役に立つことができれば僕は嬉しいです。」

ルシフェルはニコニコして言いました。

「ラファエル君に手伝ってもらえて私は嬉しいです。実はイエスの坊やのために禁断の果実から馬鹿が治る薬を調合しようかと考えているのです。」

ラファエルは驚いてルシフェルに聞きました。

「えっ、禁断の果実と言ったら神が人間に食べることを禁じた果実ではないですか。人間として受肉したイエス様がそれを口にしたら死んでしまうのではないでしょうか?」

ルシフェルは平静を保って答えました。

「確かに禁断の果実は猛毒なので人間がそのまま食すれば罪が宿り死んでしまいます。そうではなくて副次的効果である知恵の有効成分だけを抽出し、更に希釈して毒性をなくすのです。まさに毒薬変じて薬と成るのです。」

ラファエルは感心して言いました。

「さすがお師さん、それは素晴らしい妙薬だ。さっき釣ったばかりの魚の胆汁なんか馬鹿の癒しとして調合するのはいかがですか?」

ルシフェルは手を打って答えました。

「ああ、それはいいですね。イクトゥス(ΙΧΘΥΣ:魚)とは『ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ(イエス、キリスト、神の子、救世主)』の頭文字を並べたもので、癒しの効能が高まりますよ。」

またラファエルは憂慮してルシフェルに聞きました。

「ところでイエス様の馬鹿の症状はそんなにも深刻なのですか?」

ルシフェルはイエス様を讃嘆して言いました。

「あの坊やは馬鹿の自覚症状があるので本当にすごい!しかしこのままだと周りとの摩擦が強すぎて最後まで持たないでしょう。この薬を服用すれば少なくともお利口でいられるはずです。私の見積もりでは坊やが大きくなってラディカルなミニストリーを始める前までは無難な少年時代と青年時代を送れるはずです。まさに『神と人とにますます愛せられ給ふ』となるのです。つまり毒にも薬にもならない平凡でお利口な少年と、また退屈で善良な青年にするのがこの薬の目的です。」

そしてルシフェルとラファエルは大釜二つと薬を調剤する器具を携えてエデンの園の中央に向かいました。


第三節 処方と調剤の指南

 善悪の知識の木は葉が生い茂り、たわわな実がなっていました。ルシフェルは処方と調剤の指南をラファエルに軽く伝えました。

「まずは有効成分の抽出を行います。一つの鍋に湯を沸騰させます。沸騰したら禁断の果実を鍋に入れ、残りのお湯が鍋の三分目になるまで煮込みます。その時に生じる全ての湯気を、北風に命じてもう一つの空の鍋に吹きこませ液化して満たします。これが最初の抽出作業です。

 しかしこの時点ではまだ毒性が強いので次の抽出作業を十回繰り返し希釈します。先ほどの火にかけた鍋を綺麗に洗っておきます。そして湯気が液化し満たされた鍋に火をかけ沸騰させます。その時に生じる全ての湯気を洗っておいた空の鍋に集めます。

 ここまで希釈すれば毒性はなくなるので、後は鍋に満たされた溶液に魚の胆汁を混ぜます。そのまま放置し結晶化を待ちます。そして結晶を集め不純物を取り除き乾燥させます。

 最後に調剤です。生成された結晶を石臼で挽いてパウダー状にします。パウダー状にしたものに対して三倍の小麦粉を入れます。それと子供だから砂糖も少々入れておきましょう。そして乳鉢と乳棒で良く混ぜ合わします。後は粉薬として薬包紙に分包します。」


第四節 恋という不治の病について

 二人は薬作りに取り掛かりました。有効成分の抽出作業では空き時間が結構あったので二人はたわいない話をしていました。その話の中で不治の病について論点が移りました。ラファエルはルシフェルに尋ねました。

「お師さん、恋の病というものは治すことができないのでしょうか?実はある若い守護天使が人間の少女に恋愛感情を抱いてしまい、この胸の痛みを鎮めてくれと僕に泣きついて来たのですよ。」

ルシフェルは笑いながら答えました。

「ああ、そうですか。しかしそれは古往今来および未来永劫に続く不治の病でしかありませんね。恋の病を患った者は盲目になります。また正常な判断能力をも奪います。当人にしてみれば病んでいても健やかであると思い込んでいるのです。しかし病んでいることを率直に認めたがらない病識の欠如が問題なのです。そのためたとえ相手に酷いことをされても愛を失いたくないため、率直に病んでいることを認めたくないのです。」

ラファエルは深く頷きながら言いました。

「ええ、本当に恋の病は悲劇に至る病であり、また喜劇に至る病でもありますね。」

ルシフェルは手を打って言いました。

「うん、ラファエル君、それは言い得て妙だ!まあこの程度の純粋な恋愛感情は問題ないと私は思っています。しかしラファエル君もご存知のとおり、この天使と人間の娘との色情沙汰は大きな問題を神代より持っているのです。ノアの時代に神が大洪水を起こし、地上の鼻から息する者を全て滅ぼしたのもそれが原因なのです。」


第五節 ネフィリムの跋扈と人間の堕落

 ルシフェルは言葉を続けました。

「ノアの時代に邪な堕天使の一団であるグリゴリがいて、人間の娘に対して禁忌を犯し、誕生したのがネフィリムです。何故禁忌を犯したかと言うと、グリゴリは女の子孫からメシヤが誕生することを知っていたからです。そしてネフィリムの子孫によって女の子孫を亡き者にしようとしていたのです。そして誕生したネフィリムは並の人間とは比べ物にならない体躯と力を持ち、また高い知性を持つものが多くいました。しかし大半のネフィリムは父であるグリゴリの思惑とおり悪に傾き、地上には邪悪なネフィリムが跋扈したのです。

 またグリゴリのリーダのシェムハザは同様に人間の娘達を妻に娶りましたが、その際に人間に禁じられた知識を教えたのです。それによって男は武器で争うことを、女は化粧で男に媚を売ることを覚え、地上には不敬虔や姦淫など様々な悪行がはびこることになったのです。」

ラファエルは考え深げに頷き言いました。

「ああ、あれは本当に酷かった。僕も地上を視察しましたが、地上では暴虐が行われ、滅びゆく人々の大いなる叫びで満ちていましたから。この天使と人間の娘との色情沙汰に関してお師さんも天使長として大変だったでしょう。」

ルシフェルは嘆息して答えました。

「そうなのです。グリゴリほどの邪悪さはないにしても、この手の風紀の乱れは神代よりあって、私も頭を悩ましていました。そこでマイクロマネジメントが大好きなミカエル君にこの問題を一任したのです。ミカエル君は風紀ポリスを自任し熱心に粛清に務めていましたよ。ミカエル君は呆れるほどに仕事熱心ですよ。気安くかわいい女の子や男の子に声をかけた天使達をもしょっぴき、丸一日かけて説諭と訓戒をしていましたから。さすがに私も『ちょっと、それはやり過ぎだよ!』と注意しましたが、『やり過ぎではない、あなたが仕事をやっていないだけだ!』と逆に噛みつかれたものです。」

ラファエルは笑いながら言いました。

「ああ、それはお師さんお気の毒様でした。天使長としてのミカエルさんは管理主義的な選抜競争原理を方針としているので、天使達は疲弊し、やる気や能力を引き出せていないのが現状です。」

 ルシフェルは苦笑いしながら自身のことについてラファエルに打ち明けました。

「実は私は二十一世紀の世界で、戸籍上は明星迦具夜と言う名前で妻子持ちなんですよ。妻子と言ってもシングルマザーだった女の人の夫であり、その連れ子の父なのです。もっと詳しく言えば彼女のヒモ亭主で、私の面倒を見てもらっているのです。ミカエル君には内緒ですよ。」

ラファエルは意表をついたルシフェルの言葉に噴き出しました。

「これは本当にお師さんらしい!ミカエルさんとは正反対だ。」


第六節 罪という不治の病について

 薬作りで有効成分の抽出作業が終わり、その結晶化を待つ間にラファエルはルシフェルに尋ねました。

「お師さん、地上では罪という不治の病に人間は犯されていると思いますが、二十一世紀でも同様なのでしょうか?」

ルシフェルは深く頷いて答えました。

「ええ、それは二十一世紀でも変わりません。これも病識の欠如が問題なのです。馬鹿にしろ、恋にしろ、罪もまた共通した問題を抱えています。大人になってからのイエスの坊やの言葉、『健やかなる者は医者を要せず、ただ病ある者これを要す。』とは逆説的な言い方で、本当は地上に健やかな人なんていません。病識の欠如のため人は燃える火のように罪を日々犯します。更に厄介なのはその症状で、人によっては痛みや苦しみを感じず、かえって自分は何の問題はなく壮健だと勘違いしている点です。これでは医者を全く必要としません。

 それでも地上には鋭敏な人達は存在します。罪の痛みや苦しみを感じ医者を必要としているのです。また鋭敏な人達にとってこの地上は、人の弱さと醜さと愚かさと言った地平線がどんなに先に進んでも尽きないように感じられ茫然とします。それでも神はその地平線を超える彼方から太陽や月や星を巡らしていることに気づいてほしいのです。そして神に絶望してはいけません。神との関係を失ってはいけません。神は存在します。神は生きています。夜明けの遠くの山に向かって目をあげて見てください。だんだんと白んで行き、山際の辺りがいくらか明るくなっているではないですか。きっと山際を超える彼方から、きっと地平線を超える彼方から、きっと現し世を超える彼岸の彼方から、天地を造られた神の元から救いが来ることを確信してほしいのです。

 そうです、罪もまた古往今来および未来永劫に続く不治の病です。そして私達は罪を許す力もないし、また罪を裁く権限もないのです。私達はただ神に祈ることしかできないのです。」


第七節 神の力学法則

 ルシフェルは言葉を続けました。

「それなのにどうして大半の人達は救いをもたらす神の存在に気づかないかと言うと、神の力は人にとって非常に小さいためです。

 神の力を地上における自然界の四つの力とう言うもので説明しましょう。自然界の四つの力と言うものは、自然界がたとえ複雑であっても、それを支配しているのがたった四つの力であるというものです。その四つの力とは重力と電磁気力と弱い力と強い力です。神の力は重力に似ています。重力は他の力と比べると非常に小さく、素粒子の世界では無視することができます。しかし重力は遮られることなく無限遠まで働くため、マクロの世界を支配しています。地球、月、太陽、銀河系などの天体の運行を司り、巨大な宇宙の構造を作り出しているのです。しかし誰が地球や月や太陽の重力を感じることができるでしょうか?また誰が銀河の中心に存在する巨大なブラックホールの重力を感じることができるでしょうか?神の力もこれと同じです。鈍感な人には神の力を感じることはできないのです。

 また神の力のもう一つの特性として、神の力は非常に小さいのですけど、この地上で力が小さいものに最も強く力が働く点です。まさに『彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない』と言う預言は成就しています。また『家造りの捨てた石が、隅の親石になった』と言う預言も成就しているのです。」


第八節 原罪奇譚(蛇の誘惑)

 ラファエルはルシフェルの神に対する敬虔で真摯な言葉に敬仰し、欽仰の念を以て原罪についてルシフェルに尋ねました。

「昔、アダムさんとイヴさんが禁断の果実を口にし、その犯した原罪によってエデンの園を追放された話です。お師さん、お答え頂きますか?」

ルシフェルが快諾したのでラファエルは言葉を続けました。

「蛇の誘惑なのですけど、蛇はイヴさんに言いました。

『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』

イヴさんは答えました。

『私達は園の木の果実を食べてもいいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと神様はおっしゃいました。』

 ここで僕は人間の女心に疎いので、一番不思議だと思うことをお師さんにお尋ねします。どうしてイヴさんは『善悪の知識の木』と言うべきところを『園の中央に生えている木』と曖昧に言っているのでしょうか?また『食べてはいけない』と言うべきところを『食べてはいけない、触れてもいけない』と言っているのでしょうか?これは神がアダムさんに先に命じた次の言葉と異なっています。

『園の全ての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」

ルシフェルは蛇の怜悧狡猾な誘惑に感心して答えました。

「まずは誤解のないように原罪に関して一般的な解釈をお話ししましょう。アダム君とイヴさんが犯した罪を地上のキリスト教では全人類の堕落としての原罪と定義してますね。それに対してユダヤ教では選択の過ちによる最初の不従順と定義してます。またイスラム教では過ちと忘却であり、神に赦されたと定義しています。三宗教の違いを大雑把に言えばそういうことになります。我々天使も担当している宗教によって見解は異なります。しかしそれはどちらかと言うとシンパに近いもので、争いにはならないのは結構なことです。ここでは話が複雑になるのでキリスト教だけに限った話をします。

 さて、どうして神は禁じているにもかかわらずエデンの園に善悪の知識の木をおいたのでしょうか?それは神の人間への愛故に神に従う自由も、神に従わない自由も与えたからです。神の愛は強制ではありません。神が天使や人間に与えた自由意思こそが他の被造物と異なる点であり、神の愛の深さなのです。それゆえ蛇の誘惑も神は許されたのです。この神が人間に与えた自由意思によって犯した罪が原罪であり、アダム君とイヴさんから今日の人類全てに受け継がれた罪なのです。これが原罪に関しての一般的な解釈です。

 そして蛇は神が人間に与えた自由意思を逆手にとって誘惑したのです。蛇はマインドコントロールの手法の一つであるダブルバインドを弄して誘惑したのです。ダブルバインドとは二つの違ったメッセージを相手に聞かして混乱させ、判断力を低下させるのが目的です。つまり神の『死んでしまう』と言うメッセージと、後に続く蛇の『決して死ぬことはない』と言うメッセージでイヴさんを混乱させ、誘惑に陥るよう心理操作したのです。ちなみにユダヤ教のミドラーシュ(Midrash:探求・解説)では、蛇がイヴさんを木に突き飛ばし、『ほら、触れても死なないじゃないか。なら食べても平気だよ』と論理を破綻させたという解釈もあります。

 また刮目すべきことに蛇がこの心理操作が有効であるかどうかを予めイヴさんに試みている点です。先のラファエル君が尋ねたイヴさんの言葉がちぐはぐで、語るに落ちてしまっているのです。すっかり蛇に見透かされているではありませんか。まさに心に満つるより口は物言うなりです。具体的に言うと、イヴさんは禁忌に対する欲望を無意識に回避しようとしています。『善悪の知識の木』と言うべきところを『園の中央に生えている木』と曖昧な指示語で答えています。またイヴさんは欲望に対してストイックな女性なのか、『食べてはいけない』と言うべきところを『食べてはいけない、触れてもいけない』と厳格さを強調して答えています。イヴさんの内心では神を不自由で厳しい存在だと感じ、心理的な反発が芽生えていることを蛇に悟られてしまったのです。これでイヴさんは善悪の知識の木に対して強く執着していることを蛇に見抜かれてしまったのですね。

 ちなみに神は人間が善悪の違いを知ることに関しては罪としていません。むしろ歓迎すべきことと神はお思いになっているでしょう。問題なのは善悪の知識の木そのものではありません。人間が禁断の果実を口にし、自分が罪の一部となることによって善悪の違いを知ったことなのです。人間はこのエデン契約に従えば善を行うことで善悪を知ることができたでしょう。しかし人間はエデン契約に従わなかったため悪を行うことで善悪を知ることになったのです。皮肉なことです。」

 ラファエルはルシフェルに感心して更に尋ねました。

「お師さんありがとうございます。蛇の誘惑と人間の女心と言うものが良く分かりました。ところで人間における男女の愛欲と情欲の駆け引きというものは、実際に蛇とイヴさんのようなものでしょうか?」

ルシフェルは苦笑いしながら自身のことについて話をしました。

「そうです、人間のどろどろした男女の愛欲劇場と言うものは大体そんなところです。神のアガペー(ἀγάπη)とは異なり人間のエロス(ἔρως)はどうしようもなくただれています。更に驚くべきことに罪はエロスの媚薬となり、死はエロスのエクスタシーとなっている点です。実は私は二十一世紀の世界で、最初のうち生活に困って迦具夜と言う源氏名でホストの仕事をしていたのです。ホストとは寂しい心の女性の話を聞いてあげながらお酒の接待をする仕事です。先ほどの蛇の誘惑なんか若いホストのお兄ちゃん達でもあたり前にやっていますよ。まずはさり気ない会話で鎌をかけ、女性が内に抱える欲望が強いか探ります。しかし一般的な女性は保身からか、あからさまに自分の欲望を口にしません。それに対してお兄ちゃん達はその欲望を正当化させる愛と言う口実をでっち上げ、女性の欲望を引き出し満足させるのです。このことはミカエル君にはオフレコでお願いしますね。」

ラファエルはルシフェルの経験談に賞賛しました。

「ホストですって!これは本当にお師さんの天職ではないですか!」


第九節 原罪奇譚(エロスの躓き)

 ラファエルはルシフェルに問いを続けました。

「それとどうしてイヴさんは禁忌を破って禁断の果実を口にしたのでしょうか?またどうして共にいた夫アダムさんにも勧めたのでしょうか?」

ルシフェルは少し思案してから答えました。

「今となっては昔の話なのでイヴさんの本心は分かりませんね。ただ蛇の誘惑の言葉である『あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となる』から推測はできます。まあ、一般的に人間の女性が神と等しくなって、世界征服とか人類皆殺しを目論み、ロマン溢れる壮大な野心なんてないと思いますよ。それよりは愛の問題ではないでしょうか?たとえばこんなイヴさんの独白はどうでしょうか?

『あたしは禁断の果実を食べて、神様のようにもっともっとあなたのことを知りたかったの。ああ、あたしの魂(Nephesh:ネフェシュ)の慕う方。いったいどこで羊を飼っておられるのですか?昼の間はどこでそれを休ませるのですか?そして神様のようにもっともっとあなたのことを愛したかったの。またあなたも禁断の果実を食べて、神様のようにもっともっとあたしのことを知ってほしかったの。神様のようにもっともっとあたしのことを愛してほしかったの。二人が同じ罪を犯して死んでも、これからもずっと二人が一緒にいられるなら。』

これに対してこんなアダム君の真情の吐露はどうでしょうか?

『イヴよ、私はお前を深く愛している。お前だけの死が二人の愛を別ち、永遠の別れになってしまうことを私には耐えられない。それなら私もおまえと同じ罪を犯し、同じ運命を歩み、神の審判を受けよう。』」

ラファエルは目を丸くして言いました。

「おお、なるほど。それは一理ありますね。さすがは僕のお師さんだ。でもそうすると原罪とはただ単純に神への不従順ではなく、エロスの躓きが原因とならないでしょうか?」

ルシフェルはラファエルの慧眼に感心して答えました。

「本当に愛が絡んだ罪は難しい問題ですね。その愛は単純に盲愛と言い切っていいものでしょうか?それに多く愛することによって犯す罪は人間の女性ならずとも人間の男性にも、いや我々天使さえも当てはまりますから。大人になってからのイエスの坊やの言葉で『女は多く愛したから、その多くの罪は許されている』と言うものがあります。坊やは結構なフェミニストになったものですね。今は母親のマリヤさんを女だと思って馬鹿にし、言うことなんか聞きはしませんから。」

ラファエルは深く頷いて叫びました。

「本当に神は憐れみ深い。エロスの躓きは神のアガペーによって赦されるなんて!」


第十節 原罪奇譚ゾルゲとフェティシズム

 ラファエルはルシフェルに山出しの哲学青年のような問いを更に続けました。

「そもそも僕達は何故罪に傾く性質を持っているのでしょうか?僕は考えたんです。現存在である僕達は神と神が既に創造した被造物とのゾルゲ(Sorge:関心)に基づき、僕達の存在の可能性を実現化するものではないでしょうか?しかし僕達のゾルゲは厄介で、不完全なゾルゲはフェティシズムに倒錯する可能性があり、他者と関わって罪を犯します。これは僕達の宿命ではないのでしょうか?何故なら神の被造物の特性として単一では存在することはできないのです。僕達のゾルゲが不完全であっても僕達は他者を必要としています。たとえそれがフェティシズムであっても。フェティシズム故にお互いを憎しみ、更に傷つけ苦しめ合っても僕達は他者が必要なのです。そして他者との何らかの関係性が必要なため、僕達は常に飢え渇いているのです。ちょうど水が、水素原子二個と酸素原子一個が結合してできているように関係性が必要です。」

ルシフェルは感心して言いました。

「おっ、ラファエル君はドイツ哲学と科学の共有結合を知っているのですか?さすが私の愛弟子、勉強熱心です。本当に天の国は平和ボケした天使が多く、知的好奇心がない者が大半を占めています。地上の人間を下品で野蛮な者として拒むだけでなく、彼らなりに育んできた文化に注目すべきです。それは科学だけではありません。特に彼らの哲学や文学には刮目すべきものがありますよ。話を戻しましょう。確かに私達の不完全なゾルゲはフェティシズムに倒錯する可能性があると指摘する人もいます。これはドイツ哲学を変奏したものです。更にこの話の面白い所は、地上には自分を宇宙人だと思っているスットコドッコイの人間がいます。この不完全なゾルゲに関して口角泡を飛ばしています。その野暮天な人間はこう主張します。『この不完全なゾルゲ故に人間はフェティシズムの罪を犯す。ならば人類を水爆で安楽死させるべきではないのか。』また唐変木な人間はこう反論します。『この不完全なゾルゲ故に人間は傷つき、悲しみ、怒り、あるいは喜び、笑い、踊って、赦しているではないか。ならばこのお目出たい人類を祝福して生かすべきではないのか。』

 またラファエル君の言うとおり、神の被造物の特性として単一では存在することはできません。仏教哲学の縁起の思想も同じことを指摘しています。つまり私達は因縁によって存在するのであって、それらの因縁を取り除いたら私と言われる確かな存在はない。無量無数の因縁によって私が成り立っていると説いています。しかし単一で存在できるものは神と素粒子だけです。素粒子は真空の揺らぎにより他者との関係性なしで生じますが、すぐに消えてしまいます。それでは神はどうでしょうか?神は素粒子と違って永遠に存在します。神の永遠とは始めも終わりもない永遠です。現存在である神は創造した被造物との正しいゾルゲに基づき存在します。神は被造物の始めと終わりがある永遠に神の永遠と神性を現しています。創造主である神は被造物を知り尽くしているので、神のゾルゲは完全であり、フェティシズムに傾倒することは決してありません。

 ここで一つの疑問があります。神は素粒子と同等に他者との関係性なしで単一で存在できますが、何故その神さえも天地を創造し、これを愛して全ての被造物との間に完全なゾルゲを保っているのでしょうか?これは神ご自身の実存性に関わることなので、神にとって非常に重要なことだと私は考えています。平たく言えば成熟した自己のアイデンティティの確立には健全な他者との関わり合いが必要なのと同じです。」


第十一節 原罪奇譚(裸の罪)

 ラファエルはルシフェルに礼をして尋ねました。

「お師さん、勉強熱心だと褒めて頂きありがとうございます。僕はお師さんが収集した古今東西の人間の蔵書を読んだだけです。最後にお師さんは地上の世故に長けているので男女の愛欲の機微について教えてください。アダムさんとイヴさんは禁断の果実を食べることにより目が開きました。すると自分達が裸であることを知り、お互いに恥じ入りましたがこれはいったいどう言うことでしょうか?僕には皆目見当がつかないことです。」

ルシフェルはニヤニヤしながら答えました。

「それなら私も自信を持って答えることができます。アダム君とイヴさんが純粋無垢な裸であるお互いを知り、また穢れを知らない裸であるお互いを愛することはとてもいいことです。しかし悲しいことに現実はそうではありません。禁断の果実を口にし、目が開いた二人が知った裸とは、弱さ、醜さ、愚かさの不完全な裸です。この羞恥心により隠すという文化が誕生し、人間は本音を隠して仮面を被って生きる存在になったのです。とは言え人間の男女においては、パンツも穿かずに恥じらうこともなくお互いの罪と精神的恥部を露出します。更にお互いに露悪趣味に高じる男女もいます。これを夫婦愛とか言っている人もいます。ああ、本当に男女が一つ屋根の下で暮らすことは大変なことです。まさに露出と露悪の愛欲変態合戦です。それ故、男女がお互いの裸を知ることは相当な覚悟が必要なのです。私の二十一世紀の奥さんは、女の醜い裸であるヒステリーを炸裂させるのでほとほと弱っているのです。本当に女の嗜みとしてパンツぐらいは履いてほしいものです。ただ感心なことに彼女は私の過去のことに興味は持たないし、尋ねることも知ろうともしません。そのため関係は長く続いていますよ。」

ラファエルはルシフェルの妻を賞賛しました。

「お師さん、お師さんの奥さんは本当にできた人ですね!」

 その後、馬鹿が治る薬の調剤を終えた二人はエデンの園を去りました。ケルブと落ち合った所でルシフェルは二人に別れを告げました。

「今日はとてもありがとうございます。とてもいい薬が作れました。これからナザレに戻ります。それではごきげんよう。」


第十二節 語らざれば憂い無きに似たり

 ルシフェルが去った後、ラファエルはケルブに尋ねました。

「いやあ、お師さんお元気だったので本当に良かったです。ところで昔、僕がお師さんに師事していた時に気になることがありました。お師さんはいつもあんな感じで飄々としています。でもお師さんが一人の時、じっと黙っていて憂い悲しんでいる様子もあるようです。何か昔に悲しいことがあったのでしょうか?差し支えなければお話し頂けないでしょうか?」

ケルブはラファエルの目をじっと見つめて答えました。

「うむ、さすがルシフェル殿の愛弟子、ルシフェル殿の澄んだ目の底にある深い憂いを知るとは。まさにルシフェル殿は『君看よ双眼の色、語らざれば憂い無きに似たり』であるな。ルシフェル殿に対する下衆の勘繰りが蔓延るのを避けるため、今まで黙しておったが、純粋な師弟愛に免じて話そう。ラファエルのような若い世代の天使が知らない神代の大戦の話である。」

ケルブはラファエルに神代の大戦を物語りました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ