第8話:ゴミ溜めの環境構築③
そうして、リアを作業に戻らせた直後だった。
今度は別の場所から悲鳴が上がる。
「おいラビ! 水が出ないぞ! 汗を流させろ!」
全身煤だらけになったカイルの絶叫だった。
調査の結果、地下の魔導ボイラーが完全に沈黙していることが判明したのだ。
「……マジかよ。この配管、酔っ払いが作った迷路よりタチが悪いな」
地下室に潜った僕は、絶望的な配管の絡まり具合に頭を抱えた。歴代の管理者が適当な修繕を繰り返したせいで、魔力の通り道が詰まっている。
これじゃあ、マニュアル通りに『起動術式』を流しても、信号が途中でロストするだけだ。
「……どうするんだ。風呂なしか? このベルシュタイン家の次期当主に、煤のまま寝ろと言うのか?」
「うるさいな、今直してる! ……おいカイル、そこ押さえてろ」
「なっ、オレにか!?」
僕は油まみれの巨大なレンチをカイルに渡し、配管の下に潜り込んだ。
魔法は使えない。
使うのはテコの原理と、生きるために鍛え上げた物理的な筋力のみ。
「ぐ、うぅ……っ! 固ってぇ……!」
バルブが錆びついてビクともしない。
魔法使いなら魔力で無理やり回してねじ切ってしまうところだ。
だが、僕は違う。
魔力による内圧で自壊しそうになる苦痛に比べれば、この程度の物理的負荷などマッサージのようなもの。
……そう強がってはみたものの、四半世紀は放置されたであろう錆の固着は、僕の筋力を以てしてもなお頑固だった。
「……チッ。カイル! そのバルブに手を当てろ!」
「はあ!? 手伝ってるだろ!」
「違う! 『熱』だけ伝えろ! 燃やすなよ、金属を熱膨張させて緩めるんだ!」
「くそっ、オレを工具扱いすんな……ッ!」
カイルが捨て台詞を吐きながらも、素直に赤熱した掌をバルブに押し当てる。
じゅぅぅ、と油が焼ける音がした。
燃焼ではない。純粋な熱量操作。
「今だ……ッ!」
僕は全身の筋肉をバネにして、レンチに体重をかけた。
ミシミシと音を立てる腕。血管が浮き出る。
魔力じゃない。純粋な物理トルクで、錆びついた時間をねじ伏せる!
――ギィィィ、ガキンッ!!
鈍い音と共に、バルブが回った。
直後、ドカン! という衝撃音と共に、配管の中を何かが流れる音が響いた。
シューッ……ボコッ、ボコボコ……。
「で、出たか!?」
期待に満ちた目で蛇口を見るカイル。
そこから吐き出されたのは――茶色く濁った、ぬるい泥水だった。
「……なんだこれは」
「数十年分の垢だ。出し切れば、まあ……少しは、マシになるだろ」
僕たちはその場にへたり込んだ。
お互いの顔を見合わせる。僕は油まみれ、カイルは煤まみれ。
とてもじゃないが、魔法使いの顔じゃない。炭鉱夫だ。
「……ふっ、ひどい顔だな」
「お前もな」
薄暗い地下室で、僕たちはどちらからともなく小さく笑った。
教科書通りの高尚な『魔法』なんて、一つも使っていない。
あるのは熱膨張とテコの原理だけ。
……ただの泥臭い配管工事だ。
けれど、カイルの熱と僕の物理干渉。
二つの異なるシステムが噛み合って、確かに結果を出した。
僕は泥だらけの手を見つめる。
このボロ寮の冷たい床の感触が、なぜだかふかふかの絨毯よりも、ずっと心地よく感じられた。
◆
――そして、夜。
どうにか人権的な最低ラインまで復旧したロビーに、静寂が戻っていた。
「おい、ラビ。……二階の奥が空いてたぞ。そこを使え」
カイルは顎で階段をしゃくると、僕の返事も待たずにさっさと背を向けた。
だが、数歩進んだところで何かを思い出したように足を止める。
「……それと、風呂は諦めろ。まだ泥水だ。その薄汚い顔を洗うのは明日にしな」
カイルが煤だらけの顔を袖で乱暴に拭い、自分の部屋へ向かおうとして足を止める。
振り返らず、肩越しに低く呟いた。
「……それと、さっきの食堂でのこと……いや、教室での一件もだ」
「ん?」
「……あれは、その。……【魔法】じゃねえんだな?」
カイルの問いには、怯えと、それ以上の純粋な好奇心が混じっていた。
今日一日、共に汗を流した仲間へ向ける、不器用な関心。
「ああ。僕はただ、そこにある記述を『書き換えた』だけだよ」
術式を『塩分濃度』として上書きする。
あるいは『形状』を書き換えて暴発を防ぐ。
そんな芸当、この世界の常識ではあり得ない。
「……《《書き換え》》。……チッ、わけの分からねえ奴だ」
カイルは吐き捨てて、背筋に走った悪寒を振り払うかのように乱暴に髪をかき上げ、二階へと消えた。
「…………」
ガレットも僕の方を向き、足を止める。
言葉はない。……だが、その岩のような瞳には、先ほどの掃除で見せたような力加減の分からない猛獣の色はなく、静かな理性の光が宿っていた。
一つ、深く、重々しく頷く。
それは背中は預けたとでも言うような、武人じみた信頼の証。
彼はそのまま無言で自分の部屋へと去っていく。
「あ、あのっ……ラビさん!」
続いて、ユラが柱の影からおずおずと顔を出した。
その体はまだ半透明に揺らいでいるが、瞳だけはしっかりと僕を見ている。
「わ、わたし……このクラスに来て、よかったです。……ラビさんたちがいてくれて、本当によかったですぅ……!」
彼女は深々と頭を下げると、恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、パッと姿を消して逃げるように駆け去っていった。
……さて。
これで全員、就寝だな。
僕はソファから立ち上がろうとして――ふと、階段の影に佇む小柄な人影に気づいた。
「……リア? まだ起きてたのか?」
そこには、いつもの天真爛漫な笑顔を消したリアが立っていた。
彼女は自分の両手を見つめ、迷うように唇を噛んでいる。
「……ねえ、ラビ」
その声は、昼間の明るさが嘘のように低く、震えていた。
「……あたしね。本当は、魔法なんて使いたくないの」
僕は何も言わず、彼女の言葉を待つ。
「掃除の時も、そう。……あたしが触れると、全部壊れちゃう。窓ガラスだけじゃない。あたしがいるだけで、周りのみんなを傷つけちゃうんじゃないかって……ずっと、怖いの」
彼女は小さく震える手を、強く握りしめた。
それは「アホの子」の仮面の下に隠していた、彼女の本当の顔。
「いつかまた……『あの日』みたいに、あたしの振動で誰かを……」
そこまで言って、リアはハッとしたように顔を上げた。
無理やり貼り付けたような、ぎこちない笑顔を作る。
「……なーんてね! らしくないこと言っちゃった! ごめんごめん、忘れて!」
「……リア」
「あはは、おやすみラビ! 明日はもっと頑張るからねー!」
彼女は僕の言葉を遮るように、逃げるようにして階段を駆け上がっていった。
その背中は、昼間よりもずっと小さく、脆く見えた。
一人になったロビー。
重たい沈黙が落ちてくる。
壁に埋め込まれた魔導時計は狂ったように針を回し、意味をなさない数字を刻んでいた。
時折、どこかで水滴が落ちる音が響き、埃っぽい空気が肺に染み込む。
(……ここも、バグだらけだ)
僕は指先を伸ばし、壁の隙間から覗く寮の根幹を流れる魔導回路の記述に、そっと触れた。
冷たい石壁越しに、微かな魔力の脈動が伝わってくる。
乱れた流れ、絡まったコード――まるでこの寮自体が、学院の理から置き去りにされた欠陥品のように。
でも、それがかえって心地よかった。
名を偽り、欠陥品として辿り着いた最果てのゴミ箱。
カイルの泥だらけの背中、ガレットの静かな頷き、ユラの感謝、そして……リアの震える笑顔。
今日一日で出会った彼らが、ふと頭に浮かぶ。
あの屋敷の従者たちが、門の外から叫んでくれた声のように温かいものではないけれど、蔑みのない場所で、同じ目線で泥にまみれて働くって、こんな感じだったか。
「……ここも意外と、悪くないな」
こぼれ落ちた独り言は、窓の隙間から入り込む夜風に吹かれ、暗い廊下の奥へと消えていった。
外の森から、遠くで虫の声が聞こえる。
学院の華やかな中枢とは正反対の、静かな闇。
暗い天井を見上げ、小さく笑う。
埃の積もった梁が……月明かりにぼんやりと浮かんで見えた。
明日から始まる学院生活の日常が、ほんの少し待ち遠しいと感じて……。
少なくとも、ここには僕を『値踏み』するような視線はない。
あるのは同じように泥にまみれてあがく『同類』の気配だけ。
その対等な関係が、今の僕には何よりも心地よかった。
今夜、この場所にある静寂だけは本物だ。
欠陥品というレッテルさえも、夢の中までは追ってこない。
だから今はこのゴミ箱の片隅で、少しだけ深く、泥のように眠るとしよう――。




