ヴァインハルト家を舐めないでくださいませ 〜婚約破棄を宣言した婚約者に果たし状を突きつけた結果〜
「レオノーラ・ヴァインハルト! 俺はお前と婚約破棄をする!」
今夜は王族主催の社交パーティ。そこで私の婚約者様である殿下はあろうことか婚約破棄を告げた。
この言葉を聞いて、すぐさま高段の席におられる両陛下の表情をチラリと盗み見る。陛下は諦めの表情を滲ませていた。そして隣の王妃陛下は……唇を噛んでおりますわ。
あれだけ両陛下はギード殿下のために心を砕いていたのに。心中お察しします……。
周囲の者たちの表情も様々だ。私の婚約者様である殿下の振る舞いに顔を顰める者もいれば、良い気味だと言わんばかりに楽しそうな表情をする者もいる。後者の貴族に関しては、きっとお父様やお兄様が把握しているでしょうから、私は手出ししなくても問題ないでしょう。
それよりも、今はあの馬鹿殿下をどうにかしなくてはなりませんね。私が何も答えないからでしょうか……まるで躾のなっていない犬のように吠えていらっしゃるもの。
私は一歩踏み出した。そして殿下が私の行動に目を引かれたのと同時にお答えする。
「婚約破棄ですか? 勿論、喜んでお受けいたします」
「だから婚約破棄だと……は……?」
私の言葉に目を丸くする殿下。彼の顔には「何言ってるんだ?」と言わんばかりの表情が浮かんでいる。
だから、婚約破棄しますって言っているじゃないの!
「もしかして……私が貴方に縋るだろうと思っていたのでしょうか? いえいえ、貴方様との婚約は王命ですから。無くなったところで私は喜ぶだけですわ」
元々私は理想の婚約者像がある。それに殿下は全く当てはまっていないのだから。
そう思って首を傾げると、殿下は私に煽られたと感じたのか……顔が沸騰したかのように真っ赤になっている。
あら、余計なことまで口走ってしまったかしら。でも、これくらいいいわよね?
貴族の中には「不敬な!」と声を上げる者もいたけれど、国王陛下に睨まれて口を閉ざす。
あらあら……お父様とお兄様がその者たちの顔を、凝然と見ているわ。ヴァインハルト家を引きずり下ろしたいのでしょうけれど……悪手ですわよ。
殿下は飄々としている私に苛立ったのだろう。聞いてもいない婚約破棄の理由を捲し立て始めた。
「お前は無表情だし、可愛くないし、俺を立てることさえしない! その上、俺の友人である令嬢を虐めたと報告が入っているぞ! よく俺といた彼女に嫉妬したんだろう? 婚約破棄した上で、彼女に謝罪しろ!」
唾を飛ばしながら叫ぶ殿下を見て、私は一歩後退る。だって、少々不潔だもの。それよりも殿下の話が全く話が理解できない。彼女? そもそも彼女って誰かしら?
すると目の端に、殿下を心配そうに見つめる女と殿下の側近がいた。ああ、あの令嬢は確か側近の一人の妹だったわね。
私は一切殿下に興味がなかったので、嫉妬であの令嬢を虐めようとは思わないわね。
……あの令嬢を私が虐めたと誤解……もしくは罪の擦り付けをしているのでしょうか。
もし、それが誤解だったら許してあげましょう。
「私が彼女を虐めた、でしょうか? 何故?」
「何故って……それはお前が彼女に嫉妬を……!」
「ですから、何故私が嫉妬をしなくてはならないのです? 王命で婚約者になっただけの私が。流石に今のような態度を何年も続けられれば、愛情は湧きませんよ」
キッパリ言い放つと、殿下は目を瞬かせた。今さら気づいたように、驚愕の色を浮かべて。そして自分の思い通りの展開にならないことへ憤慨したのか、苛立ちを見せ始めた。
「あー、もう良い! レオノーラ・ヴァインハルト! 素直に認めれば、許してやろうと考えていたが……婚約破棄だけでは足りん。――お前の家も、お前の誇りも、俺が潰してやる!」
その一言で我慢の糸が、勢いよく音を立てて切れた。私だけならまだしも、我が家の誇りを傷つけるとは。
私はいつでも出せるように胸に忍ばせていた書面を取り出す。
そしてそれを思い切り殿下の足元に投げつけた――『果たし状』を。
「では、思う存分ヤり合いましょう?」
私は扇で口元を隠し、優雅に微笑んだ。
この国では、遙か昔から『果たし状』を突きつけて決着をつけようとする風習があった。
これは我が武闘派である公爵家内部で行われていたことが、外に広まっていった結果だ。
果たし状を投げつけられて、殿下は我に返ったのか……みっともなく狼狽始める。今更公爵家を敵に回したのではないか、と恐れ始めたのだ。本当に今更よ。
その上、私が投げつけた『果たし状』をいつまで経っても放置している。
あらあら……貴族の間でそれがどれほどの無礼にあたるのかすら、殿下はご存じないようね?
殿下は収拾がつかなくなったこの出来事を他者に収めてもらおうとしたのだろうか……助けを求めるよう視線を彷徨わせ始める。
そして視線が合った殿下のお父様――国王陛下へ目で嘆願し始めたのだ。
自分が始めた茶番くらい、自分で責任を持って締めなさいよ……こんな男が王族とは情けない。
その姿をため息混じりに見つめていた陛下は、頭を抱えながら殿下に命じた。
「お前が始めたことだ。最後までやり切るように。これは王命だ」
「そ、そんな……!」
殿下は果たし状を突きつけられて思い出したのだ。我が公爵家は『ダンジョンの守護者』であることを。
そして公爵家の者達は、ダンジョンの内部にいる魔物を定期的に間引くための訓練が行われており、そのため王国一の実力を持つ男がいることを。
果たし状を突きつけられても、突きつけられた者が戦う必要はない。代理人を立てても良いとされている。
殿下はきっと私がその男を代理を立てると思っているだろうけれど、それじゃあ私がつまらないじゃない?
私はあの男を逃すつもりはなかった。
「私は、ヴァインハルト家の名に誓って……私が決闘へ出ることを誓いますわ」
その言葉に殿下は目を丸くする。
私以外の公爵家の者達の実力は、騎士団でも上位を争うほどのもの。けれども、そんな彼らを立てるのではなく、自分が立つと宣言した私に彼は驚いたようだ。
令嬢であり、腕っぷしの弱そうな私なら勝てる……と思ったのか。殿下は私が虐めたという女の顔を見ると優しく微笑んでから、私に向き直る。
「良いだろう。私も王家の名にかけて自身が出ると宣言しよう。もしお前が負けたら、我々に謝罪し婚約破棄を受け入れろ!」
私を指差し、満足げに宣言する殿下。私は呆れて肩をすくめる。
「ですから……決闘しなくても婚約破棄は受け入れますと言っているでしょうに」
もちろん、殿下有責ですけど。
それよりも、先程私は『王命で』って話をしたでしょうに……何故私が殿下との婚約にしがみついてると思えるのかしら。謎ね。
私が小さくため息をついていると、壇上から視線を感じた。
顔を上げると、視線が交わったのは第三王子のベンハルト殿下。彼は私を案じてくれているのか、眉尻を下げてこちらを見ている。
光に照らされて見える彼の顔色は、あまり良いものではない。多分侍女によって化粧で隠されているのだろう。ベンハルト殿下は私の二歳下で、幼い頃から身体が弱く、常に咳をされていた。
現在は少し落ち着いたらしいのだけれど、たまに咳をする様子も見られる。
私は彼に微笑んだ。
彼や周囲の貴族たちは私がここで『果し状』を突きつけるなど予想外の展開だと驚いていることでしょう。
しかも私が立つという宣言まで。
きっと私の行動が当然だと思っているのは、私の家族と――。
「ギードよ。自分で決めた言葉を覆すのではないぞ」
殿下の行動に呆れたのか、ため息をつきながら頭を抱える陛下。
王妃陛下は手に持っている扇子に力を入れ過ぎて、曲がってしまっている。
両親であるお二方の思いに気づいていないらしい殿下は、大声で宣言した。
「勿論でございます、父上!」
その瞬間……壇上でボキッと何かが折れる音がした。
決闘は一週間に行われることとなった。
私は魔法の確認や剣の素振りをしながら、のんびりと過ごす。予定が入っていないって、素晴らしいわね……。そう考えている私の横で、怒り心頭のお父様と鼻息荒いお兄様。二人は先の社交パーティの件について話し合っている。
そちらの件は、余計な口を出した方々の自業自得よね?
私は直接売られた喧嘩だけ買う主義なの。売られたのなら……全力でお返ししてあげないといけないでしょう? それが私の心得ですから。
お父様とお兄様の悪巧みを横目で見ながら、私は今までを取り戻すかのように好きなことに明け暮れていたそんな時。私にお客様がやってきた。
「レオノーラ嬢、いきなりの訪問お許しください」
ギード殿下と違い、きちんと事前に先触れを送ってくれるのはベンハルト殿下。ギード殿下もベンハルト殿下も同じお母様から生まれているはずなのに、どうしてこんなにも性格が異なるのか……。
それよりも何故ここに来たのだろうか、と内心困惑している私に、殿下は頭を下げた。
「兄がレオノーラ嬢に対して大変申し訳ないことを――」
「殿下、あなたが悪いわけではありませんので、謝罪は不要ですわ。顔を上げてください」
殿下の言葉を遮るのは不敬だと思うけれど、私は我慢できずに話しかけてしまった。だって、ベンハルト殿下は何も悪くないのよ? 私が首を垂らせたいのは、ギード殿下だけ。折角果たし状を受けてもらえたのだもの。全力で打ち合う所存よ?
「しかし……」
渋るベンハルト殿下に私は微笑んだ。
ギード殿下以外の王家の皆様には、そこまで悪感情はない。強いて言うならば、ギード殿下の教育失敗くらいであろうか。まあ、それが大きすぎる痛手ではあるけれども……。
あの社交パーティも実は私たちの提案で行われたものだ。
国内の上位貴族のみが参加しており、我が家へ悪感情を抱いている貴族を炙り出すためのもの。そしてギード殿下がそこでやらかすかどうかを試す……最後の慈悲として設置した舞台。私たちにとっても、王家にとっても持ちつ持たれつの関係だったの。
元々私とギード殿下の婚約破棄は秘密裏に進んでおり、後は殿下のサインさえあれば婚約破棄は成立したのだ。国王陛下はその件を伝えるために、何度もギード殿下に連絡をしたらしいけれど……「忙しい」を理由に放棄されていたらしい。
自分の父親の連絡ぐらいしっかり見なさいよ、と思ってしまったわ。その前に――。
「我が家を踏みつけようとした謝罪は、ギード殿下にしていただきますので、ご安心ください」
そう告げて殿下へ微笑むと、彼は少し頬を染める。
「ですが、大丈夫ですか? 兄は勉強に関してはからっきしですが、剣に関しては学園でも上位を争うほどだったかと思いますが……」
殿下は心配そうな表情で私を見て話す。
どうやら私を案じてくれているらしい。私は少し目を細めて彼を見つめる。
――彼は本当の私を知らないのだ。
この国ではお淑やかで上品な女性が好まれている。そのため、令嬢たちはマナーや礼儀作法、刺繍や楽器などを叩き込まれるのだ。私も淑女教育が始まってからはこうだった。
ギード殿下の婚約者になってから、何かあった時に手を差し伸べてくれたのはベンハルト殿下だったのよ。交流として組まれていたお茶会を放棄された時、ベンハルト殿下は『義姉になるのだから』とお茶を一緒にいただいてくださり、気を回してくださったのだから。
それに、直近の誕生日。あの時はギード殿下の名前で贈り物は届いていたけれど……今までの贈り物とは違い、私の趣味に合う物だったのよね。多分ギード殿下の側近も選ばない物だと思うわ。きっとベンハルト殿下が手配してくれたのかもしれないわね。
あの後、王妃様から「ごめんなさいね」と謝罪があったのだ。きっとそのことも把握しているのでしょう。その頃から陛下も裏で色々手を回していたようなのだけれど……ギード殿下が全て台無しにした形なのだろう。
婚約破棄の話だって、あの時点で進んでいたのだから。
「問題ございませんわ。これでも私もヴァインハルト家の一員ですから。武芸は嗜んではおりますので」
――むしろ陛下公認で暴れていいと許可されているようなものですから……腕がなるわ。
私は表情に出ないよう、笑みを貼り付ける。楽しみすぎて、満面の笑みを見せてしまうと思うから。一方で、殿下の表情は曇る。やはりベンハルト殿下も上品でたおやかな令嬢が良いのかしら?
少しだけ胸を締め付けられたような気がしたけれど、気のせいだろう。
「あのバカ兄のことですから、レオノーラ嬢に本気でかかってくるでしょう? だから心配でお声かけをさせていただいたのですが……差し出がましいことを伝えてしまい、申し訳ございません」
本当に彼の小指の爪の垢を煎じて、ギード殿下に飲ませられないかしら? と思うほど正反対のお二人だ。それに……このように身を案じていただくのは初めてなので、少し戸惑ってしまうわ。
「いえ、お気遣いありがとうございます」
「当日は私も見学をします。もしあなたに何かあった時は……」
そう告げた殿下は両手が震えるほど、力強く握りしめている。義姉である私のためにここまで言っていただけるなんて……心の中が温かくなったような気がした。
数日後、私は王宮内にある訓練場の一角に足を伸ばしていた。
そのまま決闘に入るとの話を聞いたので、私は訓練用に使用していた服を着用し、防御用の胸当てや腕輪などを身につけてから向かう。私はどちらかと言えば機動力を生かす戦闘を行うので、なるべく軽装の方が良いのだ。
訓練場にたどり着くと王妃陛下とベンハルト殿下、そして騎士団長以外にも隊員が何人かいる。そして奥はギード殿下とその側近たちが陣取っていた。彼らと目が合うと、殿下は鼻で笑い、側近の妹は殿下の腕にくっついて笑っている。
くだらない、と視線を下へと向けると、一瞬だけベンハルト殿下の顔が目に入った。彼は気遣わしげな表情でこちらを見てた。
私は訓練場の真ん中へと足を進める。
そして真ん中にたどり着くと、殿下が相対するのを立って待つ。
殿下は全員に激励を受けた後、鼻歌を歌いながら私の正面へと立った。どうやら既に勝ったつもりでいるようだ。こちらを見下している。
私の後ろにいる侍女――メイなんかは、今にも歯軋りをしそうなほど殺気立っていた。幸い離れているギード殿下の側近たちは、彼女のソレに当てられることはなかったようだが……。
私は視線でメイを宥めた後、殿下へと視線を向けた。すると久しぶりにギード殿下と視線が交わる。
「降参するなら今のうちだぞ?」
「お戯れを。果たし状を突きつけたのは私だとお忘れですか?」
「ははは、そうだったな! 女のお前が私になど勝てぬと思うが……あの時お前は家名で宣言していたからな。単に引っ込みが付かなくなっただろう? 私の胸を貸してやろう」
蔑んだ表情で、私を見下ろす殿下。一瞬苛立ちはしたが、その後私の心は凪いでいる。多くの喧嘩を売ってくださった殿下に、私からお返ししないといけませんからね。
ふと王妃陛下と視線が重なった。
彼女はひとつため息をついた後、周囲に悟られないように頷いた。これで王妃陛下の許可も得ることができたようだ。むしろ彼女の雰囲気からして、とことんヤって頂戴と言わんばかりの空気である。
私は目を伏せた。そして一度深呼吸をする。
「はっ、やはり虚勢を張っただけか!」
そう嘲笑うギード殿下の声が聞こえる。けれど、私の心はもう動かない。
「失礼いたしました。始めましょう、殿下」
礼をとり、私は腰に刺していたレイピアを右手に持つ。その姿を見た彼は、両手で剣を構えた。
「いいだろう、稽古をつけてやろうではないか」
余裕綽々な表情の殿下を睨みつけ、私は構えた。
「はじめっ!」
騎士団長の合図で私たちは見合う。お互いが剣を構えて様子を窺っていたところ、殿下がふと剣を腰へと戻した。不審に思った私は、目を細める。その姿を見た殿下は自信たっぷりに言い放つ。
「一度慈悲をやろうではないか。どうせお前は女。俺の剣捌きで勝てるはずがないからな。最初の一発は受けてやろう」
思わぬ申し出に目を丸くする私。しかし、罠である可能性も高い。真意を確かめるために、殿下を凝視していると、彼は胸を張って断言する。
「疑い深い女だな。なら……これでどうだ?」
彼は側近の一人を呼びつけて、彼に剣を手渡した。そして丸腰になった殿下は後ろで手を組んだ。
「これで問題ないだろう? さあ、来るのだ!」
後ろで側近たちが目を輝かせて彼を見ている。なるほど……自分の懐の広さを見せつけようと、こんな茶番を起こしたようね。
チラリと王妃陛下のご様子を確認すると、手に持っている扇子が今にも折れそうになっている。木製で厚みのある扇子なのに……王妃陛下も相当お冠なのだろう。そのことに気がついているのは、ベンハルト殿下だけね。
私は再度ギード殿下を見据える。
私を見下し、舐め腐っているあのお方に、お灸を据えなくてはいけないわね。折角あちら様が「良い」と言っているのだから、私の力をお見せいたしましょうか。
「殿下、私にそのような機会をいただき、ありがとうございます」
「ははは! 慈悲深いだろう?」
私の感謝の言葉に気を良くしたようで、殿下は満面の笑みを見せている。今まで表情に出さなかった私も、今回はニッコリと微笑んでおいた。だって、わざわざあちらから提供してくれるなんて……こんな好機逃せないわ。
「では、殿下の胸をお借りしますわ」
「ああ、良い思い出となるだろうな」
ええ、殿下の仰る通りよ。
私の鬱憤を晴らす絶好の時よ。
私はレイピアをメイに預けた。
彼女はニッコリと受け取る。これから始まる喜劇が楽しみなのだろう。
相手は素手なのだもの。私もそうしなくては。
私の行動で更に思い通りに進んでいると判断した殿下は、満足げに笑っている。令嬢の素手での攻撃は、効かないだろうと高を括っているのでしょう。
――けれどもね。
私はヴァインハルトの娘。そこをお忘れではなくて?
私は一歩ずつ地面を踏み締める。まるで力を貯めるかのように。
最初は余裕そうな様子だった殿下だけれど、私が近づくにつれ、何かを感じ取ったのか顔が引き攣っていく。あの方、危機察知能力だけは高いのよね。今回もそれかしら。
一瞬、彼が母である王妃陛下へと視線を送るけれど、あれは完全に無視されているわね……。王妃陛下自身も横を向いて折れかけの扇子で顔を隠している。あれはこの後何が起こっても関与しない、という意思表示だもの。
側近たちも殿下の様子の変化に気がついたようだけれど……もう遅いわよ?
私は殿下の前に陣取る。その場所が殴るのに最適な立ち位置なの。
その時の私は今までにない笑顔だったに違いない。だって売られた喧嘩を買うことができるのよ?
――殿下、全力で殴らせていただきますねっ!
そして狼狽している殿下を尻目に、最後の一歩を踏み出しながら……私は拳を振り抜いた。
私の拳が殿下の頬に触れた瞬間、私は魔法を使用して更に手の速度を早める。
小気味良い音と共に、殿下の身体が宙に浮いた……彼の左頬は拳の跡で凹んだままだ。
まるで時間が遅くなったように、殿下の身体はゆっくりと地面に落ちていく。そしてドスッという大きな音がしたと同時に、私は手の汚れを払った。
手を見る限り、傷ひとつ付いていない。拳を振り抜く前から保護魔法を掛けていたからだろう。それもあったからか、彼は仰向けで倒れているのだけれど……白目を剥いて口から唾がこぼれている。
あら……歯が折れているかもしれないわね。もう少し加減すべきだったかしら。これじゃあ、まだまだ足りないもの。
そう思った私が顔を上げると目に入ってきたのは後ろにいた側近たちの表情だった。
彼らは地面で伸びている殿下を呆然と見ている。私の拳の威力が信じられないのか、殿下が倒れ伏していることに目を疑っているのか……きっと両方でしょうけれど。
そんな時、側近の後ろから現れ、殿下の元へ走ってくる令嬢がいた。
ああ、私にいじめられているとか何とか言っていたらしい人ね。
血の気が引いている表情の彼女は、ギード殿下へと両手をかざす。その行動の意味を理解した側近たち。彼女を止めようと場内へ入ろうとするが、一足遅かった。
彼女の両手から白く淡い光が現れる。あれは……回復魔法ね。
私の笑みが更に深くなる。
そうよ、一度だけでは……不完全燃焼。
まだまだ私は殿下の挑発に応じてないもの。
光が収まる。しばらくすると、殿下の目がゆっくりと開いていく。
彼は目の前にいる彼女へと目を瞬かせた。彼女が嬉しそうに微笑むと、殿下も釣られて笑いかける――。
「さて、殿下。まだ決闘が終わっておりません。お立ちくださいませ?」
二人の世界をたたき斬った私。そんな茶番は後でやっていただければ良いのですよ。
ポカンと口を開ける二人。あら、はしたない。
私が首を傾げていると、彼女が私に向かって叫んだ。
「レオノーラ様! これで終わりじゃないんですか?! 今、ギード様は気絶されたのですよ!」
「気絶……」
ギード殿下は直前の記憶が曖昧なのか、呆然としている。私はそれを見ながら、メイから受け取った扇子を顔の前で広げた。
ややあってから、殿下は今までのことを思い出したらしく、顔が真っ赤になる。どうやら殴り飛ばされたと思い至ったらしい。彼は憤怒の形相で私を睨みつけてくる。
「お前! 手加減というものを――」
「黙りなさい!」
自分の言葉を遮ったことが不服だったのか、ギード殿下はそちらの方へ視線を向ける。だが、その声の主を見て、彼は目を大きく開けていた。殿下の声を遮ったのは、王妃陛下だったからだ。
「母上、何故――」
「お前は覚えていないのですか? 『最後までやり切るように。これは王命だ』と陛下が言っていたではありませんか。お前が始めたことですよ。王命に背くのですか? それに、決闘は全ての力を出して勝敗を決めるもの。レオノーラを舐めてかかったのはお前でしょう?」
「しかし――」
口を開こうとした殿下だったが、王妃陛下に睨まれたためそのまま口を閉じる。
それを隣で見ていた令嬢は……我慢ならなかったのか、陛下へと視線を向けてから大声を上げた。
「ギード様が気絶したのですよ! 王妃陛下は何も思わないのですか?!」
私は彼女の言葉に目を細める。目の端で見えた陛下も私と同様の行動をしていた。まあ、そうなりますよね……?
陛下は彼女に向けてじろりと強い眼差しを向ける。
「だから何でしょう? 決闘を受けたのも、最初の一発を受けることに決めたのもギード。王族たる者、自分の言葉に責任を持たなくてはなりません……で、貴女は?」
「……え?」
王妃陛下は絶対零度の視線を彼女へと送る。それを受けた彼女は肩をビクッと震わせた。ギード殿下は怯える彼女を庇うためなのか、彼女を隠すように前へと出る。その様子に私は感心した。
あの殿下が女性に気を遣った、その事実に驚いたのだ。
「それに……場外で回復するのであれば、試合の勝敗が決定しましたが……これでは続行ですね」
陛下の話が理解できなかったのか、彼女は殿下の後ろで不思議そうに首を傾げる。視界に入っている側近たちの表情は真っ青だ。
まあ、決闘は頻繁にあるわけではないので、知らないのも無理はないけれども……全く把握していないのは貴族としていかがなものかしら。そう考えていたら、彼女は怪訝そうな表情でこちらを見てきた。
「あら、ご存知ないの? 決闘中……場内で回復させてしまうと、そのまま戦闘が続行してしまうのよ。回復したと見做されてね」
私の言葉を聞いて、彼女の顔から血の気が引いていく。良かれと思って行動したことが、彼を追い詰めるとは思わなかったのだろう。
「さあ、殿下……まだまだ続きますよ?」
微笑んだ私の表情に、二人だけではなく……遠くで見守っていた側近たちまでも、表情が消えていった。
***
「やはり、ヴァインハルト家の令嬢ですね」
王妃は隣で二人の決闘の様子を見ているベンハルトに、わざわざ聞こえるような声で告げた。彼はレオノーラとギードの戦闘を、食い入るように見つめている。
レオノーラは女性でありながら歴代ヴァインハルト家の中で一二を争うほどの実力を持っていた。
類稀なる戦闘センス、豊富な魔力、そして女性とは思えないほど戦闘に特化した身体能力……その上、本人も戦闘に忌避はない。
王子妃教育が始まってからは、欠片すら見せなかった彼女だったが、それは今も健在のようだ。
王妃としては、そんな彼女を堅苦しい世界へと呼び込むことに反対だった。けれども当時は前国王による失政により、国が荒れていた時代。何より力のあったヴァインハルト家に、後ろ盾を依頼したことにより落ち着いた。
その恩恵を理解しているからこそ……首根っこを引っ捕らえて、無理矢理にでもサインを書かせれば良かった、とあの日から国王は後悔している。
親心を出しすぎた二人は、改めて誓った。選択肢を間違えてはならない、と。
ヴァインハルト家としては、前国王と違い善政を敷いてきた二人を追撃するつもりはなかった。今まで邪険にされたということもなく、婚約破棄の提案にも素直に頷いてくれたのだから。
けれども、二度目はない、と。
レオノーラのことを知っていたのは、ヴァインハルト家と国王、王妃……あとは何人かの重鎮だけだ。実力を見せたレオノーラに、ギードが怖気付くだろうと王妃は判断していた。そのため、多忙な国王の代理として見届けにきたのだ。その選択は間違っていなかったと言える。
そもそも王妃もどちらかというと脳筋の部分があるため、レオノーラ寄りなのだ。果たし状も拾わず、彼女を女性だからと軽んじる男に慈悲はない。
むしろあの令嬢が回復しなければ、王妃が回復させようと考えていたのだから。もちろん場内で。
目の前では既にレオノーラとギードの戦闘が始まっていた。
ギードは距離を取ってから、真剣を鞘から抜いて走り出す。一方でレオノーラはレイピアを預けているため、扇子一本しかない。
ベンハルトが止めに入ろうと呪文を唱えようとするが、それは王妃が止めた。
「どうしてですか?!」
「あなたはレオノーラの矜持を潰すつもりなのかしら? 彼女……ヴァインハルト家を信じられないのなら、レオノーラを追うのは止めなさい」
王妃の言葉にベンハルトは息を呑む。言われて気がついたからだ。彼は何よりも気高い彼女に好意を抱いていたのだから。
ギードは真剣を真上に持ち上げ、レオノーラへと振り下ろした。ベンハルトが見ていられずに目を瞑ったそのとき――。
「なっ!」
ギードの驚いたような声が聞こえ、恐る恐る目を開けると、そこにいたのは剣を扇子で止めているレオノーラだった。見る限り扇子にはヒビが入った様子もない。
拮抗しているように見えるが、双方の様子は対称的だった。ギードは歯軋りをしながら力を込めており、手が小刻みに震えている。全力を込めているのだろう。
一方でレオノーラは汗ひとつかいておらず、涼しげな様子で扇子を掲げている。
すると、レオノーラは目に見えぬ速さで扇子を縦に持ち直した。力を入れていたギードが、そのまま前のめりに倒れそうになる。その瞬間、彼女は扇子を左から右へと大きく振りかぶった。
ギードは体勢を直すことができないまま、横へと倒れていく。慌ててすぐに立ちあがろうと彼が膝をついたところで……髪が風に揺れた。
頬に少しだけ痛みを感じたギード。思わずその場所に手を添えると、ぬるりとしたものが手についたような気がした。手を見ると、そこには血が――。
レオノーラは人差し指を真っ直ぐギードへと向けている。すぐに魔法を使用していると理解した。
けれども、ギードには今の攻撃を目で追うことなどできない。
それほど速いものだったのだから。
ギードは身震いした。それは彼女がいつでも自分の急所を突けるということを理解したからだ。
そして恐々とレオノーラに顔を向ける。すると彼女は普段と同様の笑顔で彼を見ていた。
「殿下、まだまだですわよ? お相手よろしくお願いいたしますね?」
ギードは心臓を鷲掴みにされたような恐怖感を覚える。
彼は理解した。眠れる獅子を起こしてしまったことに。
目で追えない速さで動くレオノーラ。ギードは何度も殴られて頬が真っ赤に腫れる。自分が全力で剣を振り下ろしても、既に彼女はそこにいない。笑顔で立っていた彼女の残滓だけが残っており、彼はそこに剣を振っていたのだ。
どれくらい続いただろうか……疲れからかギードの手に力が入らなくなった。回復魔法は何度かかけられているけれど、それで疲れが癒やされるわけではない。肩で息をしながら、レオノーラに対峙する。
舐め腐っていた、下に見ていた元婚約者が実は自分より強かったなんて。その事実を改めて突きつけられる。
これは夢だと思いたかった。けれど、痛みがそれを許さない。
激痛と疲労のため、身体が動かなくなったギードは、地面に膝と手をついた。離れた場所に降り立ったレオノーラを見ると、彼女は息切れすらしていない。格の違いを感じたギードは心が折れた。
「降参だ……」
辺りに弱々しい声が響いた。
そんな二人を最後まで見守ったベンハルトと王妃。
「壁は高いわよ?」
「頑張ります」
そんな会話をしたとかしないとか――。
***
その後、私はギード殿下と婚約破棄となった。
非公式ではあるが、社交界で貶められた件についても王家から謝罪をいただく。そしてギード殿下に関しては王位継承権を剥奪され、第二王子殿下が王位継承権一位に繰り上がったとか。
ギード殿下への沙汰は、まだ決まっていない。今のところ、辺境にある王族領……そこを与えられるのが有力なのではないだろうか。
そこは辺境地で作物が育ちにくい場所らしい。乾いた土地でも育つと言われている作物の苗を王都から持っていくそうなので、そこまで食べ物に困ることはないだろうと言われているそうな。
側近たちの中には狩りが得意な者もいる。彼らも一緒に着いていくらしいので、もし伯爵となったのなら楽しく暮らしてほしいと思う。
そして――。
「本当に来られるのですか?」
私は今、公爵家が管理しているダンジョンの前に立っていた。そして後ろで気合を入れているベンハルト殿下を見て困惑する。
彼は鎧を着ており、よく見ると腰には剣を携えている。どうやら殿下は前衛のようだ。
今日は友好国である隣国の王族からの依頼で、ダンジョン内にある薬草などの採取のために私は武装していた。ダンジョンへと潜るのは久しぶりであり、とても楽しみにしていたのだが……何故か入り口の目の前に殿下が立っていたのだ。
彼は私を見て微笑む。以前とは違う、感情の乗った……楽しそうな表情で。
「もちろん! 僕に何かあったとしても、放棄していいからさ。移転の魔道具借りているし」
その話を聞いて、それなら大丈夫かしらと思う。
今回はそこまで深く潜るつもりがない。深層で採取できる材料については、お父様とお兄様の二人が憂さ晴らしのために、潜っているからだ。
もし危なければ、私が敵を引きつけている間に転移してもらえばいい。
ただお父様もお兄様も先程まで一緒にいたのだけれど……殿下を止める様子はなかった。むしろ、「行ってくるといい」と言わんばかりの表情で、殿下を見ていたのだ。
私がこの件を隠していたように、殿下もお強いのかもしれない。
それに……。
私は改めてベンハルト殿下を見る。
目の前にはにっこりと微笑んでいる殿下。じっと見ていると、薄らと耳や尻尾が見えてきたように思う。しかも尻尾は左右に勢いよく振られているような……?
そう思ったら、殿下が可愛らしい犬にしか見えない。
よく見れば……ダンジョン内で懐いてきたウルフにそっくりな気がしてくる。これは振り払えないわ……。
「今日はそこまで深く潜りませんが、危険だと思ったら言いますので、すぐに転移してくださいね」
念を押して伝えると、彼は笑みを消し、真剣な表情で頷いた。
「そうだね。君の言葉には従うから」
私は「お願いします」と告げてから、ダンジョンの入り口へと身体を向ける。
……調子が狂う。
なんとなく彼を拒めない自分がいるのだ。
とはいえ、今は依頼をこなさなくてはならない。
「殿下、お気をつけください」
「うん、頑張るよ!」
そんな声を掛け合った私たちは、重厚な扉を潜りダンジョンへと足を進めていったのだった。
完
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
今回の作品は強い女性をテーマに執筆しました。私の思う「強い女性」を楽しんでいただけると嬉しいです。
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