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絆 ~人とのかかわりゆえに~  作者: 祓川雄次


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8/11

 箕輪はチェックアウトをするために、部屋を出ようとしていた。昨日は久しぶりに温泉宿へと泊まり、普段食べることのないような食事と、満天の星空を見ながら露天風呂を堪能した。

監察医務院から持ち出した血液を妻に飲ませ、憎むまでは至っていないが、冷めた夫婦関係を解消することができた。しかも離婚というような面倒な手続きもせずに、である。

 突然死が始まり、忙しくなった時には、疲労などで心をすり減らしたりもしたが、今となっては、それによって妻と別れることができた。完全に晴れた気持ちではなかったが、煩わしさを感じなくなっただけ箕輪の心は軽くなった。 

 チェックアウトを済ませると、箕輪はロビーにある自動販売機で水とコーヒーを買った。行く先を決めていないので、それは必要な物だと考えられた。そして駐車場の車へと乗り込んだ。

 どこへ向けて車を走らせようか……。そんな事を考えながら、温泉街を出て、車を山道へと走らせた。ゆっくりと蛇行する山道は、木々の木陰もあり、気持ちが良さそうだったので、箕輪は窓を全開にして車を走らせ、やや生暖かい風を受けながら走った。

 青々とした木々の葉は、太陽の光を目一杯浴び、冬を乗り越える力をため込んでいるようであった。そんな風景を見ながら、のんびりと走っていると、先のガードレールの近くの雑草が、ガザガザと動いていることが目視できた。

 木々と同じように、冬支度をしている動物なのだろうか……そんな事を考えると箕輪は緊張をした。猿などが車内に入ってくることも考え、エアコンをつけて、窓を閉めた。

 スピードを上げて通り過ぎるべきなのか、それとも一度立ち止まるべきなのか……そう思い、バックミラーを確認した。後方から迫ってくる車両は一台もなかった。箕輪は怖いもの見たさもあるのか、スピードを緩めた。そして先ほど揺れ動いていたガードレールへと視線を移した。

 その時、ガードレールを力なく超えてきたのは、予想した動物ではなく、人間の女であった。何とか乗り越えた女は、車に注意を向けることなく、路肩に座り込んだ。なぜそんなところから人が出てきたのか、箕輪はそんな事を思いながらも車をその女の手前で止めた。

 女はやっと車に気がついたのか、フラフラと立ち上がり、避けるようにガードレールに腰を預けた。箕輪は再び後方を確認してから車を降りた。女の汗だくの衣服、いやそれだけではない、顔も手も泥や砂で汚れている。見るからに疲労が溜まっている感じも受ける。高校生と思える女は、なぜか箕輪を見て力を抜き、安堵の表情を見せた。

「……」

 何かを言いたげだが、女は言葉が出てこない感じであった。

「どうしてこんなところから、大丈夫なのかい」

「はい」

 小さく出た言葉であった。箕輪はどうにかしたいが、いきなり車に乗せることは警戒し、まずは状況を確認しようと試みた。

「何かあったのかい」

「いや、ちょっと怖くなって逃げてきたんです」

 その言葉に箕輪は追手がいないかどうか、辺りを見渡した。しかし人間の存在はなかった。本当に追手がいるのであれば、避難した方がいい。

「とりあえず車に……」

 その言葉に女は頷いた。一度助手席の荷物を後部座席へと放り投げてから、力の無さそうな女の腕を取り、箕輪は助手席へとその身体を乗せた。宿のロビーで購入した水とコーヒーがあることに気がついた箕輪は

「どちらか飲むかい」

 と女に勧めた。女は「ありがとうございます」というと水を手に取り、一気に口腔へと流し込んだ。それによって少しだけだが、女は生気を取り戻したようにも見えた。

 箕輪は女に疲労は見られるが衰弱まではしていないと思い、兎に角ここから逃げることを念頭にアクセルを踏んだ。

 とりあえず山の中にはいかない方が良いだろうと、市街地へ出るべく、車を走らせた。ずっと外を歩いていたのだろうか、女はエアコンの風を気持ち良さそうに受けた。

「話したくなったら、でいいけれど、何かあるならば聞くよ」

 箕輪の言葉は柔らかかった。逃げてきたということは、誰かと一緒だったと推測ができる。いきなり出会った人間に話すかどうか、それもわからないが、準備だけはあると伝えた。

 女は水を再び飲んでから、ゆっくりと口を開いた。

「ちょっと前に、集団自殺のサイトを見たのです。実際私は将来の夢もないし、大学にいてもそれほど面白いと思えることがなかったんです」

 集団自殺……もしかすると今回の血液中の異物を使ったという、ニュースになっているものかと、箕輪は思った。脳裏に少しだけ、妻の寝息を立てた姿が映ったが、今は関係がないとすぐに消去した。

「もしかして、今回の突然死の血液を用いてというやつかい」

「はい、そうです。その応募に申し込んで、新宿で二〇人くらいで集まって、バスでこっちに連れてこられました」

「そんなに大人数で……」

 箕輪はそこまでして死にたい人たちがいることに、ある種嫌気がさした。まだ生きたいのに死んでいく人がいる。事件や事故などで検視をした人たちもいる。その対極にある状況が、箕輪を何とも言えない気持ちにさせた。 

「別荘のようなところに連れて行かれて、二〇人の中の誰かが今回の突然死の血液を持っているという説明を受けました。

 それが男なのか、女なのかわかりません。みんなは辛かったり、痛かったりして死ぬのが嫌な人たちが集まっているので、快楽の中で死のうという誘いだったので、誰かが持っている血液を自分に受け入れようと、セックスがはじまりました」

「……」

 何たる狂気だ。そんな死ぬための光景を思い浮かべると箕輪は言葉が出てこなかった。女は箕輪が、ただ受け入れてしゃべらせてくれていると思ったのか、言葉を続けた。

「私の他にも茫然とその光景を見ている人たちが数人いたのですが、別荘の中にアナウンスが流れて、奥の部屋に薬物があるので、今、この状況を受け入れにくい人たちは、それをやって、ハイになって参加することもできるというものでした」

 薬物まで準備をしている。自らが先ほど考えた狂気を超えていくようなものであり、箕輪には受け入れられないものであった。

「私は、それすら受け入れられなくて、思わずその別荘を飛び出していました。

 たぶん、そこに集まった他の人たちよりも、本気で死にたいとは思っていなかったのだと気が付きました」

 女はそこまで話をすると、思わず水の入ったボトルを強く握りしめて、下を向いてしまった。思い出しているのだろうか、女はそれからしばらく、口を開くことはなかった。

 箕輪は放ってはおけないと思い、女が落ち着くまで、街へと向かい車を走らせ続けた。

「場所がどこだったのかわかるかい」

 市街地に入り、箕輪が問いかけると、女はスマートフォンを手にした。GPSで自分がいった地域を検索し、別荘のだいたいの場所が特定できた。

「警察へ通報してもいいかな。君の名前は言わないから」

 その箕輪の問いかけに、女は首を縦に振った。

 自分の中に、自ら理解しないところで、妻に対する罪の意識があったのかもしれない。箕輪はそれを警察に連絡することで、帳消しにしようとしていたのかもしれない。

 警察は何となくその連絡を受けたが、果たして捜査をするのかどうかはわからなかった。

「どこかで食事でもするかい」

「いや、こんなに汚れた格好では」

 女は改めて自分の服装の汚れを気にした。

「じゃあとりあえず家に帰ろう。どこまで送ればいい」

「はい」

 女はそれから少しずつ、自らの事を話はじめた。東京で大学に通っている女は細貝と名乗った。それならば、ととりあえず箕輪は高速道路へと乗ると、自らの自宅方面へと向かった。途中のドライブインで、車内で食べられる物を買い、細貝と共に食したりもした。それによって少しだが、細貝の頬に、生気が宿ってくるような感じを受けた。


** *


「先輩、美穂から連絡が来ました」

「何だって」

 佐智からの電話に、思わず亮は驚くように答えた。集団自殺の列に並んだと昨日聞いていただけに、死んでいる可能性もあり、まさかこんなにも早く消息が分かるとは思っていなかったからだ。

「怖くなって抜け出したそうです。たまたま通りかかった人に助けてもらって、高速でこっちに返ってきているみたいです」

 佐智はこれ以上知人の死に立ち会わなくて良くなった嬉しさから、弾むような声で言った。その声に亮も嬉しさを頬ににじませた。

「一体どこに居たって」

「群馬だそうです」

「群馬か、前回の集団自殺のニュースも群馬だったよな。

 抜け出してきたってことは、もしかしたら感染している可能性もあるのかな」

 亮は思わず今まで自らの身の回りで起きた一連の死亡劇を思い出してしまった。霊安室で向かい合った貢や聖羅が倒れた時の事を、である。そんな中、感染者のいる集団自殺の中にいた細貝の事が心配であった。血液感染であるから、ただ接触するだけで感染することがないとは理解できているが、警戒心は人一倍あった。

「詳しいことは、今夜帰ってきたら話したいと言ってきています。一人でいたくないとも言っているので」

「そうか、わかった。

とりあえず細貝と会う場所と時間がわかったら教えてくれ。できる限り俺も行くようにするから、くれぐれも感染していないとは確定できないから、血液が付着するようなことがないように気をつけてな」

 亮は先ほど自らが思った警戒心を佐智に告げた。

「わかりました」

 佐智はそれだけを言うと電波を切った。寄り添ってくれる亮と話をしているだけで佐智の心は落ち着いた。苦しい時に支えてくれる人だからこそ、貢のような憧れではなく、近くにいて欲しい人に、亮がなっていくような感覚を佐智は覚えた。

 

 それから数時間後、佐智と亮は高円寺駅のロータリーに居た。佐智の車の中で、二人は細貝の到着を待った。他にもロータリーに車が数台駐車しているが、まだ細貝が乗った車はこなかった。

【ごめんなさい。もうすぐ高円寺に着きます】

 細貝からのメールを受けて、佐智は車外に出た。車の中とは異なり、空高く昇った太陽の熱が厳しく感じられた。亮も同じように外気の中へと出て、強い日差しを浴びた。

 しばらくすると細貝が助手席に乗った車が颯爽とロータリーへ姿を見せた。中年の男性が運転する車は、佐智たちの車と距離のある位置で止まった。

「本当にありがとうございました」

 細貝はずっと付き添い、時には話し合い手になり、運転までしてくれた箕輪に頭を下げた。その姿を箕輪は温かく見守った。

「もう死のうなんて考えちゃ駄目だよ」

「はい、この先、何ができるかわからないですが、生きてみようと思います。死ぬ勇気がなかった訳ですから、それしか道はないと思うので……」

 細貝の真剣な眼差しに箕輪は頷いた。箕輪は瞬間的に生と死を考えた。監察医務院に多く運ばれてきた感染者や妻、そして今目の前にいる細貝……その差は、今この地球上で息をしているかどうかだけだ。思わず細貝から離れた目が、自らの胸の中を覗くようであった。細貝は箕輪がそんな事を考えているとは思わず、声をかけた。

「連絡先を教えていただけませんか。改めてお礼もしたいですし」

「お礼なんていいよ」

 箕輪はたまたま出会った細貝が死んでほしくないという気持ちもあるが、突然死の血液を使った集団自殺に対しての嫌悪もあり、助けただけであると考えていたので、そんな気持ちはいらないと思えた。いやそれだけでなく、やはりどこかで人を殺めたという罪悪感が伴っていたのかもしれない。

「わかりました。でも連絡先くらいは教えてください。もしもまた死にたいなんて気持ちになった時に、連絡をさせてもらいたいかもしれないので」

 細貝は食い下がるように言った。箕輪は尻のポケットから財布を出すと、名刺を細貝に渡した。

「じゃあ、今はここにいるから、何かあった時には連絡して」

 箕輪は頬を緩めてそれを細貝に渡した。細貝は両手でそれを受け取ると、頭を下げ車外へと出た。

 エアコンの効いた車内とは異なり、強い太陽の陽を浴びて、生きている実感を得た。ジリジリとした暑さが更にそれを感じさせてくれる。そして佐智の存在を探すようにフラフラと駅の方へ歩き出した。その後ろ姿から目を離すように、箕輪はアクセルを踏んだ。

「美穂」

 ふと自分の名前を呼ぶ大きな声が聞こえた。その方向を見てみると、佐智が車の横で大きく手を振っていた。細貝は思わず走り出し、佐智の胸に飛び込んだ。そして絞るような声で

「ごめんなさい」

 と一言呟いた。佐智はその背中を、何も言わずに強く抱きしめた。そして生きていてくれて良かったと思った。亮はその横で、同じような気持ちで頷いた。

「亮先輩、すみません」

 細貝は亮の存在に気づき頭を下げた。亮は優しい笑顔を見せると

「お帰り」

 と声をかけた。

 その後、佐智の車で細貝の家へと向かった。運転は亮がして、佐智と細貝は後部座席で、ずっと手を握り合っていた。細貝は、人の温もりを強く感じていた。こんなにも心配してくれる友達がいながら、なぜ死を選ぼうとしたのか……。自らの色々な過去もあったが、それを言うつもりはなかった。生きている意味など、今でもわからないが、それでもこれだけ心配してくれる友達がいるのであれば、もう少し、生きて行こうと思えたからだ。

 細貝のアパートに着くと、群馬の別荘での出来事が、淡々と二人に告げられた。佐智も亮もそんな事を考える人たちがいることを、ある種おぞましく思えた。ただ自殺をする際に痛みがないという事は、死の恐怖を少なからず下げるものなのであろうと、要らぬ理解をしていた。

「でも、もう死のうなんて思いません」

 最後に細貝はその言葉で群馬での出来事を終わりにした。

「まあ、生きていれば苦しい事も辛いこともあるけれど、楽しいこともあると思うんだ」

「そうですね」

 細貝は心の中にため込んでいる思いは伝えないまま、それでも亮の言葉をしっかりと噛みしめた。

「ところで、美穂ちゃんは、感染するようなことはなかったの。行為がなかったとしても、血液が付着するとか」

 佐智は亮が懸念していた事を、確認するように聞いた。

「うん、大丈夫。でもしばらくは、もしかしたらと気になるから、人との接触や、傷がつく可能性があることは気をつけようと思う」

 それを聞いた佐智は、安堵の表情を見せた。

「もしも私が喫煙をしたことがあったら、大麻に手を出していたかもしれない」

 ボソリと呟いた細貝の言葉を聞いて、亮はエントリードラックという言葉を思い出した。それは煙草である。煙草自体が悪いということではない。合法として国に認められた嗜好品であり、それを吸うという権利も確立している。けれども、吸うという事ができることによって、大麻や麻薬が目の前に来た時に、吸い込む恐怖心がなく、手を出しやすくなってしまう場合もあると……。

「そうだな。はじめて吸う勇気は、煙草も同じだったからな」

 亮は自分が煙草をはじめて咥えた時のことを何となく思い出した。でも今回の事を聞いて、更に薬物には手を出さないと心に決めた。

 

 その後、宅配の夕食を食べると細貝は気持ちが落ち着いてきたのか、もう一人で居ても大丈夫だと、無理を言ってきてもらった二人に頭を下げた。本当に大丈夫なのかと気にする佐智に、亮は何かがあったら連絡をしてもらえばいいのではと、細貝の気持ちを尊重した。細貝自体、今回の騒動について考えることもあるのだろうと思ったからだ。

 二人がアパートの外に出た時には、小雨の雨が降っていた。気温は少しだけ下がったと思えなくもないが、実際には三〇度を超える暑さにより、湿度が増すだけであった。

 二人は細貝から借りたビニール傘に一緒に入りながら、駐車場へと向かった。それほど遠くない位置に止めた車の中は、モワっとした暑さを感じさせた。

 亮は運転席に座ると、すぐにエアコンを作動させた。一気に噴き出したエアコンの風は、最初だけ熱を帯びていたが、すぐに冷たいと感じられるものになった。

「それにしても日本人が、あの感染症を使って集団自殺を考えるなんてな。

 平和ボケなんてものを通り越してしまっている感じだな」

 ワイパーの向こうに見える雨の更に先を見ながら、亮は呟いた。

「確かに、死にたいという気持ちがわからない訳ではないですけれども、感染症を使うなんて……そんなに死にたい人たちがいるなんて……」

 佐智は今回の感染症で亡くなった人たちがいる事を踏まえて、許せない気持ちであった。

「生きたくても生きられない人たちが世界には大勢いるのに、自らが死を選らんだり、それを商売の道具にしたり、遊びにしたりするなんて、本当に信じられないよ」

 亮の眼には怒りに似た感情が溢れているようであった。何も知らずに感染症にかかり、死んでいった友人たちの事を考えると、ふざけるなという気持ちがどこかに存在したのかもしれない。

「そうですね。度胸試しのような遊びの人たちがいることも、報道を見て信じられないと思いました」

 佐智は、両の拳を強く握りしめた。その拳には悔しさの他に、人の温もりを肌で感じたいという、ある種の寂しさの気持ちも存在していた。

 人は手を繋ぐことからはじまり、色々な事を経て、身体までもが繋がっていく。そして子供ができる。人間だけではない、どんな動物でもそのようなふれあいという流れが本能の中に刷り込まれている。他の動物はわからないが、感情を持った人間という動物は、それによって相手を求めていく。今の佐智は様々な物事を踏まえて、人と人は触れあっていくと考えられた。発情期という季節性のものがない人間の生殖行為は、愛情、寂しさ、虚しさなど様々な感情によって、産まれていくのかもしれないと……。

 赤ん坊は、色々な物の判別基準を持っていないがために、なんでも口に入れて確認作業をしようとする。そのことが、大人になっても、愛情の確認というために、唇を重ねるのかもしれない。

 佐智はそんな衝動を抑えるために、再び拳を握った。今の揺れ動く気持ちだけで、亮を求めてはいけない。胸の奥底から湧いてくる気持ちを、グッとこらえた。

 亮はブレーキを踏んだ。LEDの強い、赤い光が目の間に出現したからだ。佐智の走り出しそうな感情は、そのブレーキのように簡単には止まる気配はなかった。それでも必死に制御しようとした気持ちが、思わず途切れた。

 亮の左手が、握りしめている佐智の手を包むように取った。佐智は自らの感情が読まれたのではないかと、思わず亮に視線を移した。一瞬合った視線を亮は外した。

その前にある信号は、まだ赤である。

「すまない。何となく、色々な事が許せなくなって……。お前の手を握ったからって、何が解決するわけではないのに……。でも、何となく温もりが欲しくって……」

 信号が変わったと同時に、亮は照れもあってか手を離した。佐智を女として求めたわけではないのかもしれないが、亮としては、何となくそこに人間という存在にいて欲しいと思った。ただ誰でも良いというわけではなかった。そんな自分の感情をくみ取って欲しい人だから求めたのだろう。

佐智は亮が握った自らの手を、ある種の感情と共に再び両手で包み込んだ。

「私の亮先輩の手の温もり……感じたかったです……」

 今の自分の気持ちを伝えるのに、一言で十分であった。佐智はそれ以上の言葉はいらなかった。ただ、生という感覚が、亮の温もりで感じられるだけで……。

 

** * 


 昨日、箕輪は誰の温もりも感じられない部屋に身を置いて、ある種の気持ちの良さを感じていた。今まで存在していた妻の素行などを気にしていなかった訳ではない。やはり存在するだけで、それは頭の中をよぎるものである。ただ考えないようにしていたつもりでも、無意識でその行動を取ってきたのだと、今は理解ができていた。

 スーパーに寄って購入してきた総菜を摘みに、キッチンのそばに置かれたテーブルでビールを飲んだ。テレビが置かれている机には、近づきたいと思わなかった。そこにはソファに座り、テレビを見ている妻の姿が今でも思い描かれるようだったからだ。

 いつもよりも酒量の増えた箕輪は、片づけもせずに自らの部屋へと階段を上がった。そして何も考えることなく眠ってしまった。ただクーラーをつけなかったために、暑さで真夜中に目が覚めた。Tシャツが自らの汗で、水を浴びたのではないかというくらいに濡れていた。

 階下へと降り、乾いた喉に水を流してから、思わず箕輪は考えてしまった。人間という存在は、本当に他人を愛しているのであろうか……。完全に冷め切らない頭の中で、そんなことがグルグルと回った。

 様々な偽善と勘違い、そんな感情に流されることによって、虚像の愛というものが築かれていく。本能としてただ子孫繁栄のために行われる行動を、考える動物として、無理やりそう思わせているだけなのかもしれない。妻との結婚生活が、更にそんな考えを増幅させている感じも受けていた。

 昨日会った細貝は、死にたいという気持ちと死にたくないという気持ちの両側面を心の中に持ち、逃げてきた。誰もがそんな両側面を持つのではないか、善悪も成否もそんな考えの中にあるのかもしれない。

 ふとソファを見て、そこに存在していた、背中ばかり見ていた妻は、死にたいという気持ちは、考えることもなく全くなかったのだろう。そう思うと、突然死の血液を使い、あまり殺したという実感のなかった箕輪の中に、良心の呵責が見え隠れしてきた。今回の騒動の中にまみれた妻の死に、誰もが真相を解明することはない。感染症が蔓延している中で、誰も知ることができないもの……ただ自らの感情の赴くままに起こした行動は、果たして自分の心をどのように保つのか……。箕輪は考えてしまった。

 愛のない夫婦は、どこかで自らの欲望などを埋めるために、何かに手を出し、本物か偽りかなど関係なく、自らの心の隙間を埋めるためだけに、人の温もりを求めてしまうのかもしれない。そう考えると、人とは何なのだろうと自問自答してしまう。

 箕輪は再び水を飲み干した。喉の渇きは失せたが、それとは異なる心の渇きのような物を覚えた。

 熱気のこもった部屋の中で、今一度眠ろう。他の事を忘れ、それだけを考えると、箕輪は階段を上がっていった。


 箕輪が電話の音で目を覚ましたのは、太陽が昇りきらない一〇時を回った頃であった。熱気のこもった部屋で、汗だくの身体を起こし、箕輪は誰からなどという気もなく、携帯を耳に当てた。その電話は石黒からであった。

「休みのところ申し訳ない」

「とんでもないです。何かありましたか」

 返答を返しながら、暑さに耐えきれなくなり、窓を開けた。しかしそこからは生ぬるい、決して気持ちの良いとは思えない風しか入ってこなかった。

「申し訳ないと思ったのだが、君の奥さんの浮気相手と見られる男性が、今回の突然死であったかどうか調べさせてもらったんだ」

「そうですか」

 箕輪は石黒が何かを疑っているとは思わず、起き抜けでありながらもしっかりとした声で返答した。

「そう考えると、やはり君も感染しているのではないかと疑ってしまう可能性があると思ってしまってね」

「私が、ですか」

「ああ、もしかしたら検査中に感染したのではないかと」

 石黒は監察医務院から感染者が出ていない事だけが心配であった。

「そうでしたか、でも私は平気ですよ。しかも私から感染したのであれば、私の方が先に死んでいるでしょうし……」

 あくまでも可能性の話であるが、もしもこれから箕輪が亡くなるような事があるのかと、石黒としてもないと、再度考えなおした。

「じゃあどこか他で感染してしまったのかな」

 箕輪が血液を持ち出したなどと考えることは、石黒の頭にはなかった。そんな事をする職員がいるなど思いもよらない。そんなところであっただろう。

「そうですね。余程愛に飢えていたのかもしれないですね。それほどうちは冷めていたのですよ」

 そう言った時に箕輪は、自らの愛情の無さが、妻を浮気に走らせていたのかもしれないと思えた。妻は愛情のなくなった箕輪を責めることはなかった。もしも責めていたら違う結論があったのかもしれない。しかしそれができないからこそ、浮気という物に走ったのかもしれない。自分の言った言葉が強く胸に突き刺さるようであった。

「前に聞いたことがあるよ。人間の愛情は、長続きはしない。その時に諦めるのは男で、女はその隙間を埋め合わせようとする。君の奥さんはそうだったのかもしれないね」

 石黒はそれだけを言うとまだ忌引きで休んでもいいとだけ伝え、電波を切った。

 箕輪は、思わず布団の上に腰を下ろした。

 自分の愛の足りなさが、妻を浮気に走らせ、それに対して自分は殺人を選んでしまった。どこか胸につかえていた罪悪感は更に箕輪の胸の中に広がった。

 太陽の光と共に入って来る生温い風は、更に箕輪の気持ちを湿度と共に重くさせた。


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