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藤原総理大臣が突然死に対して警鐘を鳴らしてから、一週間が過ぎようとしていた。その効果なのか、統計などはなく判断はつきにくいが、一番多く死者が運ばれていた頃を比べると、日に日に搬送されてくる人数は減少していた。それは各都道府県の保健所から寄せられる数字を確認すれば一目瞭然であった。
石黒は竹下や尾町と連絡を取る中で、これ以上にない成果が上がっていることを喜んでいた。しかしながら三迫が不安材料と考えていた、情報を取ろうとしない人間たちが、どのような事をするかという不安は未だに尽きなかった。欲しい情報のみが氾濫し、自分にとって必要のない情報は弾かれてしまう。デジタル情報の損得勘定が、生死を左右することになるかもしれない。改めて考えさせられた不安でもあった。
「高畑大臣も、斎藤事務次官も随分と尽力を尽くしてくれましたよね」
石黒の耳につけられた受話器から、気分が良さそうな尾町の声が聞こえた。その気持ちは石黒には痛いほどわかるものであった。
「そうですね。藤原総理があそこまで早く報道をしてくれるとは思っていなかったですからね。今の搬送の数で行けば、かなり早い段階で落ち着くのではないでしょうか」
「そうですね。まあ時間が解決してくれるでしょう。ただ今後この物質と戦っていかなければならない私たちとしては、これから途方もない時間が掛かると思われます」
安堵する石原とは違い、この先の事なども考えなければならない尾町は、先ほどとは異なり、少しだけ湿り気のある言葉を吐いた。確かにこれから先を考えれば、様々な対応をしなければならないことは、石原も理解していた。
「やはりワクチンや薬の研究は難しいのでしょうね」
「そうですね。血液中の物質の保管一つでもそうですし、ましてや感染レベルが高いですから、作業員も防護服越しでは、長時間の実験はできませんしね」
その言葉に石原は、血液中の物質が消滅しないで作業を行うのには三〇度を超える部屋で行わなければならない事を思い出した。そして、その作業がいかに過酷なものになるかも理解をしていた。動きの鈍い防護服を着て作業をする姿を石原は想像しただけで、集中力がどれほど持つのかと考えてしまうほどであった。
そんな二人がある種、未来に向けて話をしている中で、思わぬニュースが飛び込んできた。
「今朝、群馬県山中の貸し切りペンションで、時間になってもチェックアウトをしてこない事を不審に思った運営会社の職員が、部屋の中を確認したところ、部屋の中で二〇人ほどの男女の遺体が確認されました。
警察が調べたところによると、全員が全裸で、腕には注射痕があり、薬物などの乱用かもしれないと見て、捜査が行われている模様です」
普段であれば、三迫はこのようなニュースをそれほど気に留めることはなかった。誰かがやらかしたな……その程度で流していた可能性は高かった。しかし、注射痕という言葉が更に三迫の胸をざわつかせた。大変なことが起るかもしれない。
「所長、三迫です」
尾町との電話を終え、受話器を置いた石原の部屋のドアが叩かれた。
「どうぞ」
その言葉に三迫は勢いよく部屋の中へと入りこんだ。石黒はその勢いにあっけにとられ、目を丸くして三迫を見た。
「どうしたんだ」
緊張感のある三迫の表情に押されて思わず、先ほどの尾町との口調とは異なる、力の入った言葉が口を出た。
「今、群馬県の山中で二〇ほどの死亡者が……」
「二〇人だって」
人数を聞いた石黒は、再び驚いた表情を見せた。そして机の上にあるパソコンを立ち上げ、ニュースを検索しはじめた。石原は三迫とは異なり、今回の突然死が収まっていないと思い込んだだけであった。しかし同じ血中の異物での死亡ということは同じでも、三迫が思う方向は違っていた。
「もしかすると、これ、全員が今回の突然死だったらと思いまして」
「そんな、いくら何でも、全員が突然死だなんて」
自らが考えていた事とはいえ、石黒は少し信じられないという表情を見せた。
「考えられない事はないと思います。彼らの腕に注射痕があったということが気になります」
三迫の考えはこれが発端であった。
「気になると言っても、これだけでは……」
「テレビで見たニュースですと、警察は危機感を持っていません。外傷なども見当たらず血が飛び散っているような室内の状態ではなかったと思われますが、心配です」
「心配というと……」
「全員、注射痕があったということですから、もしかすると今回の異物が使われた可能性もあると思われます」
そこまで言われて石原も思わず、感染というよりも、自発的に血液を体内に入れるということにたどりつき、狼狽した声を上げた。
「まさか、今回の突然死を自殺の材料にするということなのか」
「可能性がないとは言えません」
石黒はすぐさま斎藤へ連絡をした。もしも、そのような事が起きるとしたら問題である。しかも下手に報道をしたら模倣犯も出てくる可能性がある。どのようにしたら良いのか、支持を仰ぐつもりであった。
「わかりました。群馬県警、それと科捜研に連絡をしてどのような状況か確認をしてみます」
斎藤はすぐさま、関係各所と連絡を取ることを約束してくれた。
それから一時間ほどしてから、斎藤から折り返しの連絡が入った。
「石黒さん、ネット会議の案内を出しましたので、パソコンを開いてください」
その言葉を受け、パソコンの中の会議場へ入り込むと、すでに尾町と竹下の姿がそこにはあった。皆ある程度の経緯を耳にしているのか、緊張した面持ちであった。
「尾町さんたちもいらしていたのですね」
「はい、斎藤さんから声をかけてもらいました」
竹下が重たい声を出した。尾町はそれを受けて、唾を飲み込んだ。
「先ほど科捜研から連絡を受けました。まだ三名ほどしか調べられていないようですが、血液の中から異物が検出されました」
斎藤の言葉に石黒のみならず、尾町、竹下も言葉を無くした。その表情を見て、斎藤は更に続けた。
「また薬物も検出されています。実際に注射痕はどちらで使用したものか、判断は尽きません。それ以外に、性行為のあとも見られているようです。女性からは体液も検出されています」
それを受けて、竹下が自らの考えを述べた。
「ということは、感染している可能性がある中で、性行為が行われたということなのでしょうか」
「注射なのか、それとも性行為によるものなのか、感染がどちらから起ったのかはわかりません。
しかしながら、総理が警鐘を鳴らした性行為を大人数で行っていることから、愉快犯のように行われた可能性もあると思います」
斎藤が冷静に見解を答える。石黒は思わず口を開いた。
「もしかすると、自殺志願者……」
その言葉に誰もがある考えに行きついた。自らが自らを殺すという行為には、恐怖が生じる。単純に死への恐怖もあるかもしれないが、そこに至るまでに痛みが伴うかどうかである。電車などへの飛び込みは、ある種判断能力を失い、突発的にしてしまうことがあるというが、もう少し判断ができる人間たちは、何が一番、死を迎えるに当たり最良の自殺方法なのかを探る。
首を吊った際には……飛び降りをした時には……薬毒自殺……様々な方法を模索するときに、できる限り苦痛がない物にしたいと思うのは、考える動物だからなのだろう。そして今、最良の方法が見つかったのである。
感染しても、症状がでることもなく、放っておけば、数日程度で死に至るという物を見つけてしまったのである。
「今回の血液中の異物を使用した自殺……」
尾町が石黒に続くように、確信を突いた。誰かの喉が鳴ったが、それはパソコンの画面からは聞こえてくることはなかった。
「集団自殺を、感染を使って図ったなどということを報道したら、もしかすると大量に、同じような事をする人たちが発生することになるかもしれないですね。
そう考えると、報道は控えるべきなのでしょうか」
竹下の言葉に反応したのは、斎藤であった。
「どうなのでしょう、このように集団で自殺志願があったとしたら、人を募るようなサイトがもう存在するかもしれません」
「SNSなどでしょうか」
「その可能性は高いでしょうね。
すぐに警視庁に連絡をして調べてもらいます。それによっては報道したほうが良いのかもしれません。兎に角、連絡を取ってみます」
斎藤はそういうとネット会議の席上から消えた。
「まさか、これほどまでに人間が愚かであったとは」
尾町は、人を救うための医学が、自分たちの存在が否定されていることに対して、思わず言葉を吐いた。
その日の夜のニュースで、警視庁が突き止めたネット上で自殺者を募るサイトの事が報道された。
佐智はそのニュースを、訪れていた亮の部屋で耳にした。
「亮先輩、もしかしたらこの中に、細貝さんがいるのでしょうか」
「たぶんな」
佐智が亮の元を訪れた理由には、二日前に来たメールの存在があった。同じサークルの細貝美穂から届いたものである。
【今まで、何度も死にたいと思ったことはあるけれども、なかなかそのような行動を取る勇気がなかったの。死ねないのならば、何か楽しいことを見つけようと思って、さっちゃんたちの誘いを受けてテニスサークルに入ったけれど、やっぱり心底この世の中を楽しいと思えることはなかったんだ。
でもやっと死ぬことができそう。
痛みを感じずに、快楽をむさぼりながら死のうと……。
あるサイトで見つけたんだ。
今回の感染症を使って自殺をしようという物を……。
ある大学の医学部の人が、友人が突然死を迎えた時に採取した血液があるんだって。それを使って、みんなで死のうって。
私も行ってみるね。学校の友達の中で、あまり信用できる人がいなかったけれども、何となく、さっちゃんには伝えてみようかなって……思わず思ったんだ。砂原さんの事もあったし……。
私の希望が叶う事を、願ってください】
そのことについて話をしたいと尋ねてきた佐智を、亮は自宅へと招いた。そこで耳にしたニュースであった。
二人はテレビの前で、やるせない気持ちでいっぱいであった。苦痛がなく死ねるからと言っても、自らが命を絶つという行為はやはり悲しかった。本人が望んでいるとはいえ、それを受けいれる気にはなれなかった。願ってと言われても、そんな事を願いたくもなかった。貢に続き、聖羅、順菜の死を身近に見ているからこそ、知人が死ぬということは辛く悲しいことでしかなかった。
「どうしようもない事を考える奴が、世の中にはいっぱいいるってことだな」
亮は悔しい思いを吐き捨てた。そして強く奥歯を噛みしめた。
「この分だと、他にも同じような事を考えて、自殺する人たちがいるんじゃないですか」
「どうだろう。けれどもあり得ることなのだろうな。
希望がなく、ただただこの世の中に産み落とされたと考えている人たちは、俺たちが思うよりも大勢いるのだろうからな。
育児放棄、暴行、性的虐待、親でさえもそんな事をする奴がいるくらいだからな。
そうじゃなくても、細貝が言っていたように、希望を持てない、何をしたらわからないという人もいるだろうから……」
亮の認識以外でも、生活の不安、職場でのストレスなどを色々と抱え込み、自殺をしたい人たちは世の中には大勢いる。少なくはなってきているとはいえ、日本は先進国の中でも自殺者が多い国なのである。
「そんな簡単に死ぬなんて……」
佐智は色々な考えがあったとしても、それを共感することはできなかった。自分だって、この世の中で、何をするために産まれたかなど、理解ができるはずがなかった。それでも生まれたからには、自分なりの楽しみや、日々の楽しみを見つけて生きていく。辛いことがあろうと、それも全て生きる。それしか考えることはできなかった。
「仕方ないさ、他の動物と違って、唯一と言っていいくらいに、自ら死を選択できるのは人間くらいと言われているからね。
それにしても日本が世界でも有数の自殺大国だということを忘れていたよ」
亮の声は何かを皮肉っているようにも思えたが、誰に対して言っているのかはわからなかった。ただ一つ言えるのは、この国の一部の人間たちが、生というものに対して、本能で生きる動物と異なり、この世に執着しなくなっているということであった。執着しなくてもよい理由には様々な思いがあるのだろうが、先の見えない不安よりも、先への希望を見ることができない想像力の無さなどを含め、現実と非現実の狭間がわからなくなっているのかもしれないと佐智には思えた。
いつの間にか部屋の中に入り込んでいたのか、一匹の蚊が亮の視界に入った。うるさく飛び回っている様は、耳障りであり、刺されるかもしれないというある種の恐怖からか、亮は殺虫剤を宙へと飛散させた。それを浴びた蚊はフラフラと飛行し、次第に力なく低空飛行へと変わり、やがて痙攣するように床にひっくり返った。
「何だか知らないうちに死んでしまうなんて……蚊が受けた殺虫剤ほどの痛みも苦しみもなく死ぬなんて……」
佐智は思わず蚊の死と、集団自殺をしている人間たちの死を比べてしまった。
「知らないうちに死ぬという面では同じかもしれない。俺たち人間は自分たちの優越のためだけに、害を及ぼす、及ぼさないなど関係なく、動物を数多く殺し、その上で恩恵を受けている。
いただきますという言葉の通り、命をもらって生きている。食物連鎖としては当たり前だとしても、考える動物である人間は、その恩恵を受けているということを、家畜などを産んで殺して、を繰り返していることを、改めて考えなければならないのだろうな」
亮は食物連鎖として当たり前の感覚と共に、少しだけ虚しさのようなものを覚えた。食べるためならばいざ知らず、生きるためにも殺す。そこまでならば良いが、ただ殺すという感覚が人間にはあった。
死という物を考えた時に、力ある者が、力なき者に死を与えることがあることに気が付いた。自分の失敗を棚上げして、一から作り直すことを面倒に思い、ノアに箱舟を作らせた者は、絶対的な力を持って、世界中に死という物をまき散らした。
契約を交わしたモーゼとその従者たちは救ったが、契約を交わさなかった人たちを海に飲み込ませたという事まであった。力は、死を招く。だが今行われている死は、それに匹敵するものなのか、それとも異なるものなのか、ただ突然死を迎えた者たちなのか、それとも自ら受け入れた者たちなのか……。
神はいたずらに死を与える。手の平の上で、自分の思い付きを実行する。まあ亮に取ってはどうでも良いことであった。
「亮先輩、何だか悲しいことばかりで嫌ですね」
佐智は思わず心に寂しさを覚えた。そしてその寂しさが亮の体温を求めるように少しだけ、二人の距離が縮まった。亮はそんな佐智の肩を引き寄せた。お互いに不安の気持ちはあったのだろうが、貢の死後、お互いの存在が大切になっていたという感覚も、二人には確実に芽生えてきていた。
** *
先日、報道された突然死の血液を使用した集団自殺の名簿の中に、細貝美穂は確認されなかった。思いとどまり参加をしなかったのか、それともこの集団とは別の集団だったのか……その真相はわからなかった。ただ今回の報道に名前はなく、佐智はそれを思い、胸を撫でおろした。
藤原総理大臣が、今回の突然死の原因と対策を公表してから、すでに一〇日が経過しようとしていた。当初の予定では、ここまでくればある程度おさまり、目途も見えてきているはずであった。そう考えていただけに、政府としては集団自殺の報道は悩みであった。日本が自殺大国であることを、こんな事で思い出してしまうとは皮肉としかいいようがなかった。
そのような状況もあり、全ての港、空港は各国から渡航禁止などもあり、未だに封鎖状態に近かった。何とか輸出入などの便は来るのであるが、それ以外は皆無で、経済は停滞を余儀なくされた。
最近の死者たちの傾向は、中国、韓国などの売春婦が多かった。日本語が読めない、聞けないなど危険が伝わりにくい状況もあるのだろうが、労働者をどうとも思わない経営者たちは、日本の風俗が自粛している間に稼ぐだけ稼げればと考えているようであった。それは日本人の一部も同じであり店舗などが自粛をしても、SNSなどを使用した物は自由そのものであった。学生や主婦などでも、高値で売れる場合もあり、安易さを利用した警戒心の無さが、未だに感染を広めていた。
若者たちの一部では、ロシアンルーレットのように、それを度胸試しのように弄んだりしている者もいた。しかしながら、逆に血中の異物に弄ばれ、命を落とす者も見受けられた。どれほどの数をこなし、生き残れるかなどというふざけた者は、医療関係者を疲弊させていった。
そんな中、箕輪の妻の葬儀は行われた。
この突然死の騒ぎがあってから、死者の数が多く、葬儀屋も間に合わない状況である。高齢の住職たちは忙しさのために、過労死してしまうのではないかと思われる者もいた。都市部では火葬場が間に合わず、夏の暑さによる腐敗を防ぐため、故郷のある人たちは、遺体を搬送してでも火葬場を確保しようとすることも起きていた。
箕輪は長期休暇をしないようにと思い、近くの火葬場に連絡したら、たまたま空いている時間が見つかり、今日の葬儀を迎えた。
「箕輪さん、この度はご愁傷さまです」
監察医務院からは全ての人が参加するわけにもいかず、石黒と三迫、他数名が通夜の終わる頃の時間を選び、列席をしていた。それもあり、清めの場にはほとんど人はいなかった。
「みなさん、わざわざありがとうございます」
箕輪は列席者のいなくなった通夜の会場から清めの場に現れ、監察医務院の環に頭を下げた。
「まさか箕輪さんの奥さんが亡くなるなんて、考えられなかったですね」
「まあ、すれ違いの夫婦だったから、こうなることもあり得るとは思っていたけれどもね」
箕輪はサバサバした言葉を吐いた。しかし表情は曇り、それなりの憔悴があったことは誰もが理解できた。
「ただ同じ家で過ごしていたのだから、場合によっては箕輪君にも感染のリスクがあるのかどうか」
石黒が気を使うように言った。箕輪は軽く頭を掻いてから答えた。
「先ほども言ったように、ただの同居という感じでしたから、感染はないと思います」
何となく答えた言葉に、三迫はそんなにあっさり妻の死を受け入れることができるのかと考えた。いくらすれ違いとは言え、自分は感傷的にならないとは思えなかった。まあ近親者と言っても両親と妻は違うのかもしれない。そう思うと、自らの考えが当たり前だとも思えなかった。
「ただ、他の従業員たちの事もあるから、とりあえず休暇を取ってもらおう」
石黒は箕輪を気遣い言った。しかし箕輪は首を横に振った。
「いや、本当に大丈夫ですよ。もっと言えば、妻が浮気していたこともわかっています。だから私に感染は」
「いや、どちらにせよ配偶者から感染者が出た。そして亡くなった。
忌引きもあるから、ここから一〇日くらいは、感染確認の意味も含めてやすんだらいい。
別に行動制限はない。ゆっくりすればいい」
石黒は色々な意味も含め、箕輪を労った。
突然死がはじまった頃と比べれば、監察医務院は忙しくはない。休むにしても都合は良かったのかもしれない。
「箕輪君、そういえば奥さんの相手は特定できているのかね。もしかするとそちらの方も感染しているかもしれないね」
「かもしれませんね。まあ丸橋という探偵に調べてもらったのは二年近く前ですから、相手が誰とかはわかりませんが、亡くなっている可能性も高いでしょう」
石黒は何となく感染の広がりを気にして聞いた。しかし箕輪はそれ以上の情報を伝えた。丸橋という探偵。なぜか石黒の頭にその探偵の名前が深く刻まれた。もしもその男性が亡くなっていなければ、そう思うと尚更、石黒は確かめなければならない事であると思えてならなかった。
箕輪は葬儀を終え、自宅へ遺骨を持ち帰った。そして居間の机の上にそれを置いた。夫婦関係どころか、妻を殺すということを割り切っているつもりでも、酒を飲みテレビをつけっぱなしにしている妻の姿が思い出され、何とも言えない気持ちであった。罪悪感は多少なりとも感じていても、後悔はなかった。
すれ違い、空気のような存在だと思っていたが、それでもここに、確実に存在していた。その存在が消えたことで、すっきりすると思ったが、心の片隅に、もやもやとした感情はくすぶっていた。
休暇ももらえたことだし、今の気持ちのまま、家の中にいることを箕輪は嫌がった。温泉にでも行こう。予約などをしていなくても、たぶんこの感染症騒ぎの中で、宿はどこかで取ることができる。そんな楽天的な考えであった。
数日分の着替えを鞄へと入れ、車へと乗り込んだ。もう何年も助手席に人を乗せたことはなかった。そこへ鞄を放り投げ、何となく北へ向かおうと、アクセルと踏み込んだ。
エアコンを強くかけたためか、外気とは異なり、車内はかなり快適な温度となっていた。音がないもの寂しいと思い、箕輪はラジオをかけた。ちょうどやっていた天気予報では、フィリピン沖で台風が発生したという。しかしそれは日本へ向かうことはないだろうと言っていた。
石黒は何となく不安に感じていた事を解決するために動いてみようと考えていた。もしも石黒が考えていることが当たっていたとすれば、大変な責任問題になってしまう。そんな事を思い、インターネットで、箕輪から聞いた探偵の丸橋の名前を調べた、便利になった世の中で、丸橋探偵事務所のことはすぐにわかった。十条の駅から歩いてほどない距離だという。石黒は直接訪ねてみようと考えていた。ここで石黒が思っていることを話して、もしもということがあってはならない。兎に角、早めに調べたほうが良いと、石黒は監察医務院を出た。
昼近くになり、高くなった太陽は、高温をあちこちにバラまいていた。ノータイのワイシャツ姿でも、その熱は強く感じられ、すぐに汗が身体から出てくるような感覚を受けた。
十条の駅に着くと、石黒はスマートフォンで丸橋探偵事務所の位置を確認し、歩きはじめた。雑居ビルの中にある事務所は、それほど大きくはなかった。扉を抜けると事務員が一人、パソコンに向かい合っている姿が見えた。
「すみません、丸橋さんはいらっしゃいますか」
石黒はその事務員に声をかけた。事務員はすぐさま立ち上がり、石黒を応接用のテーブルへと案内した。
「すぐに来ますので、こちらでお待ちください」
事務員はそれだけを言うと、紙コップに麦茶を入れてくれた。熱くなった体に、冷たい液体は染み渡るようで、気持ちよかった。
丸橋は外出していたのか、それほどの時間をかけずに事務所へと帰ってきた。
「すみません、お待たせしました。どのようなご依頼でしょうか」
人の良さそうな丸橋は、対面するなり笑顔で切り出した。石黒はその笑顔とは正反対の硬い表情で言葉を出した。
「二年くらい前なのでしょうが、箕輪という男が妻の浮気の件でご依頼をしたと聞いたのです。その時に浮気相手が見つかったとも聞いているのですが、その方の生存確認をしていただきたいと思いまして」
いきなり生存確認などという石黒の言葉に丸橋は眉をひそめた。そして天井を軽く見てから口を開いた。
「えっと、私も仕事上、守秘義務というものがあるので、そのような事はお答えできないのですよ。それは理解していただけますよね」
「はい、それは理解しています。ですが、その方たちが生きているかどうかによって、こちらも大きな問題を抱えることになるもので……」
石黒は生存の状況によって、監察医務院としての責任がどのように生じるか、考えも及ばなかった。だが確実に大問題になることだけは予想できた。
「問題ですか」
「はい、場合によっては殺人ということも考えなければならないので……」
丸橋は殺人という言葉を耳に入れ、思わず目を光らせる思いであった。探偵事務所と言っても、人の生き死に、に関しての調査などはフィクションのようには存在せず、浮気、素行調査などがほとんどである。
「殺人事件関連など、探偵事務所でなどということはあり得ないでしょう。確信があるのなら警察に行く方が筋だと思いますが」
そのような事件を小説の中の探偵のように受け、解決をするという、そのような事をやりたいという気持ちはあるが、簡単に受けてよい問題ではない。丸橋は冷静に警察に相談することを勧めた。しかし石黒は首を振った。
「場合によってはです。以前箕輪が依頼した浮気相手が今回の突然死で亡くなっているのであれば問題はないのです。
先ほど言われた通り守秘義務むあるでしょうし、相手の名前などを知る必要はありません。ただ生存確認をしてもらって、死んでいる場合には、その死因がわかればと思っているだけです」
丸橋は石黒の強い視線を感じた。緊張感が一瞬漂うが、丸橋は弛緩し、一度背もたれに身体を預けた。
「ということは、殺人事件に関して調べて欲しいという訳ではないのですね」
丸橋はある種拍子抜けした感覚であった。やはりフィクションのようにはいかない。そんな気持ちであった。
「はい、それだけで結構です。できれば今回の感染症による突然死であれば問題がないのです」
「突然死ですか、まあ実際調べることは可能だと思いますが、以前の調査が二年も前になると、相手の住所なども変わっている可能性がありますからね。
それなりの費用は覚悟してもらわないと」
丸橋はどうなるかわからない経費を曖昧にして答えた。
「わかりました。片手を超える場合に再び連絡をいただければと思います」
石黒は名刺入れから出した名刺を机の上に差し出した。丸橋は浮気相手の生存確認と、死因を調べるだけならば先ほど言われたように守秘義務とは関係ないだろうと思った。そして石黒の思いつめた視線を見ていて、受けるべきだとも考えていた。
丸橋からの連絡は思ったよりも早く、翌朝、監察医務院に出勤したばかりの石黒の元へ電話をかけてきた。
「石黒さん、昨日の話ですが、あっさりと調査は終わりましたよ」
「そうでしたか、それで」
石黒は気負うように聞き、受話器を持つ手に力が入った。
「箕輪の妻と関係があった二人の男性についてですが、一人は三か月前に亡くなっていました。死亡の原因は脳内出血だったということです。
もう一人は生きていますよ。突然死の騒ぎ前に仕事で海外に出ているそうです。それなので日本に帰る術を失って、未だに出張先だそうです」
丸橋は淡々とした口調で調査報告を告げた。
「そうでしたかありがとうございます。請求書はこちらに、私宛で送っていただければ結構です」
「わかりました。報告書を書面で必要であれば送りますが」
「いえ、結構です」
丸橋の電話の切る音を聞いてから、石黒は受話器を置いた。箕輪の妻と関係があった二人のうち一人は突然死の前に死亡している。もう一人は生きている。そこから考えると妻の感染は別のところからとなる。箕輪がもしも今後亡くなるとしたら、箕輪からの感染も視野に入れるところであるが、箕輪にその兆候はない。
石黒が考えたのは、監察医務院から箕輪が血液を持って行ったということである。だがその確証はない。妻が浮気をしていたのであれば、二年前とは異なる相手がいてもおかしくはない。石黒はなぜそのような事にまでこだわる自分がいるのか……少し不思議に思えていた。もしも本当に箕輪が検体の血液を持ち出していたのであれば、責任問題ですまない。しかもそれを使って殺人を犯していたとなれば、更に大きな問題になる。
だがこれ以上、何を調べれば良いのかわからない石黒は、自分の胸のうちでこの問題を留めておくことしかできなかった。