6
「行ってきます」
佐智が居間にいる母親に向かって声をかけた時であった。玄関で靴を履く佐智を追うように母親は声をかけてきた。
「ねえ、こんな時に外出するの」
総理大臣の感染症に対する発表があったからなのか、過剰に反応しているのは、佐智の母親だけではない、多くの国民がそうなのだろうと考えられた。
「大丈夫、ちょっと用事があるから出てくるね」
佐智は不安そうな母親の表情を和らげようと朗らかな笑顔を見せた。それでも曇った母の表情は変わらなかった。
「感染症っていうから、ちょっと人が多いところに行くのは止めた方がいいと思うのよ」
「大丈夫だって、飛沫感染はないって言っていたじゃない」
「それはわかっているけれど」
「大丈夫、先輩を待たせているから行くね」
佐智は軽く手を振ると、玄関の扉を開けた。そこからは一気に熱気が玄関へと飛び込んでくるようであった。昼の高い太陽が、三五度を超える真夏日をより一層暑く感じさせた。
佐智は駅へと着く母親と同じように今回の突然死を気にしてなのか、人が極端に少ないように感じられた。飛沫感染はしないという報告がありながらも、マスクをしている人が多いことも気になった。
ホームで電車を待っている時も、電車の中も、人はまばらであった。そのためか車内のエアコンが強く感じられ、少し肌寒いと思えるような気さえしてしまった。
電車から降りると、寒暖差が大きく感じられた。身体がどれだけ順応してくれるのか、佐智はそんな事を何となく考えると、板橋駅の改札を抜けた。その時にメールがスマートフォンへと入ってきた。
「貢先輩とか、聖羅とかって、今回のこの感染症なんでしょう」
車内でも数件、このようなメールがテニスサークルの人たちから届いてきていた。誰もが気にしているのである。中には飛沫感染はないという話がありながらも、二人と同じ空間にいたから不安だという声もあった。伝言ゲームのようにどこかで文章力のない人や、悪意のあるような書き込みがあった場合に、不確かな情報が広まっていってしまう可能性がある。ネット社会だからこその怖さが存在していることを佐智は懸念に思った。昔と違うのは、拡散の速さもある。危うさを回避するには、自らがしっかりとした情報と掴むということ以外にはないと、改めて感じさせられる思いであった。
再びスマートフォンが、電波をとらえた。同じような物なのかどうか、鞄からスマートフォンを取り出し、佐智は画面を確認した。
「もう喫茶店には着いているから、中で待っています」
亮からの連絡であった。佐智はそのメッセージに対し
「私も板橋に着いたので、それほどかからないで行きます」
と返して、二度ほど訪れた喫茶店を頭に描いた。そして先日、順菜が倒れた喫茶店であることを思い返し少しだけ気持ちが暗くなった。
聖羅、順菜という同級生を二人亡くし、佐智は何となく考えたことがあった。動物であるから、性行為をし、子孫を繁栄させていく。これは絶対にあるべきことである。だから二人の行動が悪いなどと思うことはなかった。自らもそのような行為を両親がしたことによってこの世に存在しているのである。
三大欲求は回避できない本能であることを考えれば、血液感染の今回の感染症が広まってしまうことは仕方がないのだろう。ましてや産業革命後、様々な発展によって世の中が狭くなったのだから、世界のどこかで生まれた、もしくは発見された未知の物が、どのような手段によって運ばれてくるかなど解明は不可能であると思えた。便利になればなるほど、人との繋がりがあればあるほど、感染症は広がっていく。公衆衛生という概念は、全ての人が持ち合わせているものではないのだ。
佐智は歩きながら飛躍する自らの頭を冷静にさせるために、大きく深呼吸をした。そして喫茶店の中へと入りこんだ。亮は佐智の存在に気が付くと手を振った。一番奥の座席は、はじめて亮とこの店へ来た時の席であったと記憶している。
「亮先輩、お待たせしました」
「いや、そんなには待っていないよ」
注文を聞きに来た店主にコーヒーを頼み、佐智は亮の隣へと座った。
「それにしても三迫さんでしたっけ、良く亮先輩に連絡がありましたね」
「まあ、前回もらった名刺の携帯に一度だけ連絡をしたんだ。ある種俺の好奇心だったのかもしれないけれど」
「好奇心ですか」
佐智はその好奇心が何であるかはわからなかった。それでも亮は今回の突然死について、何かを知りたいと思っていたのであろうと思えた。
亮は頷いてから答えた。
「そう、もしかしたら今回の突然死の事を詳しく聞けるのではないかという好奇心……。
でもその時は通じなかったんだけど、後で三迫さんから連絡があってね」
「それで今日会えないかということだったのですか」
「そう」
「それで三迫さんは何を」
「さあ、会ってからということだったんでね」
亮がコーヒーカップに手を伸ばした時に、店内に外気温が入ってきた。
「いらっしゃい」
店主は見慣れた顔へ、軽く挨拶をした。三迫は小さく手を挙げて挨拶をすると、店内を見て、亮たちを確認した。もう片方の手には、紙袋が二つ存在していた。
「あそこと一緒だから、コーヒーを」
それだけを言うと、三迫は奥の席へと歩いてきた。
「申し訳ない、待たせてしまったみたいだね」
三迫は軽く頭を下げてから二人に向かい合うように座った。
「この間は色々とありがとうございました」
佐智は順菜が倒れた際に、すぐに対応してくれたことに頭を下げた。
「いや、こちらこそ世話になりました。
それにその前の時のことも」
「前の時ですか……」
亮の不思議そうな表情につられるように佐智も三迫に何かをしたことなどないと、ハテナマークを頭に浮かべた。
「そう、この間友達が倒れた時の前にもここにきたことがあるよね」
「はい」
佐智ははじめてこの喫茶店に来た時のことを思い出した。亮と血液感染どうこうと話をした時であった。
「あの時に君たちが血液感染という話をしていたことが気になって、今回の突然死の人の血液を調べ始めたんだ。そうしたらビンゴだったんだ」
三迫はあの時微睡みながら聞いた言葉を思い出して笑った。
「話はしましたけれども、私たちも専門家じゃないし、適当な話だと思わなかったのですか」
亮は素人の意見を鵜呑みにした三迫を不思議に思えた。
「さあ、微睡んでいたから、何かの啓示のように思えたのかもしれない。そしてそのお陰で今があるんだよ」
「三迫さんって監察医務院って言っていましたよね」
「そう、そこで血液が怪しいと調べ、国立感染症研究所などと連携をして調べた結果が、昨日の事に繋がっているんだ」
「昨日って、総理大臣の発表の事ですか」
「そう、うちの機関なんかは厚労省と繋がりがあるからね」
佐智と亮は自分たちの思わぬ発言が、繋がりを見せてそこまで広がるなどとは思いもよらなかった。口は災いの元ということもあるが、下手なことを言ったら問題が起きてしまうこともあるのではないかと、思わず言霊という言葉を考えてしまった。今回はたまたま良い方向へ進んだから良かったものであるが……。
「どちらにせよ、今回の感染症に対して手は打てたのですよね」
亮は唇を引き締め、三迫に迫った。
「まあ、総理の発表にはこぎつけたが、あとは国民がどう動くかだけなのだろう。
ニュースを見ていない人もいるかもしれないし、こんな事には関係なく商売に走る人たちもいるだろう。
性風俗店などは自治体からできる限り休業をして欲しいと要望がでていると思うが、拘束力はないからね。自分たちのことだけを考えたら、押し通すところもあるだろう。
他にも出会い系、援助交際など、ニュースに関心のない人たちがどれほど今回の事を憂いで感染を広げないようにするのかどうか……」
三迫は厳しい表情を見せ、苦々しくコーヒーを口にした。
援助交際などという言葉は、ちゃんと言い換えれば売春である。なぜそんな軽い言葉にしたのか……万引きなどもそうであるが、窃盗という言葉であればもっと罪の意識が重くなるのかもしれないが、軽く使える言葉は、同じように罪を軽く考えさせてしまう。片仮名用語などもそうであるが、甘えや逃げることによって、言葉から連動する物に対して抵抗力を削いでしまうようにも思える。三迫もある意味、先ほどの佐智と同じように、言霊がどれほどの威力を示すものなのかと考えてしまっていた。
「じゃあ三迫さんは、これで突然死が治まるとは思えないということですか」
佐智はもう知っている人たちが亡くなるのは嫌だというような表情を見せた。その表情を読み取ってか、三迫は厳しい表情で深く頷いた。
「私はそんなに簡単に治まってくれるとは思わない。取り越し苦労であればいいとは思っているが、どこかの莫迦どもがこれを利用するかもしれない。そんな気もするんだよね。
感染症と言っても軽く考える人もいるだろうし……」
三迫の言葉に佐智も亮も、再び目の前で人が死ぬということがなければ良いと考えていた。
そんな三人が不安を抱えたまま、一週間が過ぎようとしていた。
感染した人たちは、まさか自分が感染しているなどとはわからず、ただただ亡くなり、病院へと送られてくるだけであった。
防護服に身を包んだ救急病院の医師たちは、血液を採取して、異物があった場合には、それ以上の措置をせずに、そのまま遺体を霊安室へと運んだ。病院によっては霊安室に遺体が溢れ、並べるだけしかできないところもあった。
** *
「お疲れ様」
箕輪はそう言うと事務所を出た。最近は突然死が監察医務院にくることはなく、落ち着いてきたのか、よほどの事でなければ解剖依頼はなく、定時で帰ることが多くなっていた。
陽は高く、外へ出ると、まだ完全に暗くはなっておらず、纏わりつくような湿度を多く含んだ空気が、身体を一気に不快にさせていくようであった。
時計を見ると真っ直ぐ家へと帰ることが嫌になるような気がしていた。
箕輪は結婚してから一二年の歳月が経っていた。子供ができなかったために、共働きの妻はだんだんと家へ帰ってくる頻度が少なくなっていった。お互いに働いているのだから、遅く帰ってくることにそれほど懐疑心があったとは思わなかった。けれども土日でも何かと用事を作り、出かける妻を不思議に思ったのは、一昨年の頃であった。
夫婦仲が冷めていく中で、お互いに関心を持たなくなっていたから、それをどうと思うこともなかったのだが、なぜか箕輪は妻の足取りを調べてみたくなった。そして興信所の門を叩いた。調べてどうこうしようと考えたわけではない。このような状態になったその一旦は自分にもある。そう思っていたからである。
興信所の報告では、同級生であった男だけではなく、老人とホテルへ行ったなどという報告が一か月間で数回あった。結婚当初は愛していたはずの妻を抱かなくなったのは、いつからだろう……箕輪はそれすら思い出すことはできなかった。
電車を乗り継ぎ、地元の駅へ着くと、箕輪は駅前のコンビニでビールの模倣品を買った。それを飲みながら、ゆっくりと家路へと向かっていく。流れて行く汗以上の水分を摂取している気になってはいるが、利尿作用のあるビールでは、水分補給になるとは言えなかった。
自宅の前に着くと、無機質な感覚に襲われる。これはいつもの感覚である。居間の電気がついているので、妻が帰ってきていることは容易に理解できた。外気に比べれば、家の中のエアコンが効いた部屋は本来であれば居心地は良いのだろうが、箕輪にはそうは思えなかった。
鍵を抜いて、思いドアノブを回し、箕輪は玄関へと入った。まだまだローンの残っている家は、生活感があまりなく、綺麗だが、それは虚無感と共にあるように思えた。
居間には妻の姿があったが、お互い存在を認識しただけで、それ以上の接触はなかった。箕輪は妻に声をかけずに、二階へと上がった。そこにはもう入ることのない妻の部屋と、安住と言えるかどうかわからないが、自らの一人きりで落ち着ける部屋があった。
部屋へ入ると、箕輪は鞄を下ろした。肩の重みを感じるからなのか、数回腕を回し、電子時計を見た。そこには部屋の気温も記されていた。熱帯夜でエアコンもついていない部屋は、三〇をゆうに超えていた。箕輪はエアコンをつけることもせず、その部屋を後にし、居間へと降りて行った。
本来ならば、色々と未来の事を話ながら、共に生きていくことをする場所であった居間も、そんな事が起る場では無くなっていた。どこで人生の歯車が狂ってしまったのか……箕輪には分らなかった。妻は何かを感じていたのかもしれないが、衝突を避けるようにしたためなのか、意見交換をすることはなかった。
ただ意見交換を出来ていたとしても、それが改善されていたかどうかなどはわからない。燃えるような恋は長くは続かず、冷めきって、劣化をしたものとなってしまった。長年連れ添った夫婦であれば、愛情から愛が無くなったとしても情が残ったのかもしれないが、二人の間には、その一文字さえも存在しなかった。水をやり続けなければ、愛情という花は枯れてしまうのだろう。いやそれだけではなく、根も駄目になってしまう。箕輪は何となくそんな事を考え、トイレへと入り、用を済ませた。
妻は翌日が休みの時には家で酒を飲む習慣があった。かなりの量を飲むようになった最近は、テレビをつけたままソファの上で寝てしまうこともある。冷めていなければそれも別段愛嬌で終わるかもしれないが、そんな醜態を見ていることに箕輪は嫌悪を覚えた。
先日買ってきた冷凍食品をレンジに入れ、温めると、それを持って部屋へと戻った。いつもと異なり、エアコンをつける気のない箕輪は、窓を開けた。光に誘われ、思わず入ってしまいそうになる虫を、何とか網戸で食い止めた。だがそれでは防げない熱気は、重たい湿度と共に、部屋の中いっぱいに広がってきていた。箕輪の気持ちはこの家に入ってきた時から不快指数よりも重たかった。
冷凍食品を食べ終わると、箕輪のシャツは汗にまみれていた。冷凍食品の残骸と共に、着替えを持ち、箕輪は居間へと降りた。涼しい空気が心地よいが、箕輪の気持ちは晴れなかった。それよりも心を暗黒のようなコールタールが流れて行くような気がしてならなかった。
冷凍食品の容器を軽く流しで洗い、ゴミ箱に捨てると、箕輪は浴室へと向かった。そこでいくら身体を洗いながしても、心の中に溜まった黒物は、落ちることはなかった。
箕輪が着替えを済ませ、部屋に戻る前に見たソファの上にいる妻は、いつの間にか真っ直ぐの姿勢を保つことができずに横たわっていた。今しかない、箕輪は考えた。急く気持ちを落ち着かせながら、階段をゆっくりと上がった。一階とは異なり、エアコンもつけずに外気を入れたままにしている部屋の気温は、三〇度を超えていた。熱帯夜ではすまない。地球温暖化はどこまで突き進んでいくのだろう。一瞬そんな事を考えるが、箕輪は意識を別の物へと切り替えた。
その意識がいった物は、鞄の中にあった。保温できる容器の中に、小さなプラスチックの試験管のような物が入っている。その中には赤と呼ぶには濃すぎる液体が入っていた。
箕輪の心は悪魔に取り憑かれているようであった。冷めきった無関心の夫婦関係に、浮気という裏切り行為……。どこかで離婚という清算をすることもできたのかもしれないが、面倒にカマかけて何もしてこなかった自らへの思いも、その中には入っていたのかもしれない。
箕輪はその容器を手の中に入れ、何食わぬ表情で階段を下りて行った。一歩一歩、段差を踏む足は、少しずつ覚悟を積み重ねるには十分なものであった。
相変わらずテレビのついたままのリビングは、明るいままであった。妻はソファの上で横たわり、寝息を立てている。それを確認すると、箕輪はソファの前まで来た。慎重に、自らに赤い液体がかからないように、細心の注意を払い、試験管の蓋を開けた。
口を半開きにして寝ている妻は、箕輪の存在に気付くことはない。その口の中に、試験管から赤い液体を数滴落とした。
突然入ってきた液体を、自らの唾とでも勘違いしたのか、ゴクリと妻の喉が鳴った。様子を見ながら、箕輪は再び数滴を口腔へと流し込んだ。まだ半分近く試験管の中に液体が残っているが、これ以上危険な行為を続けようとは思わなかった。蓋を締め、物音を立てないようにしながら、素早く階段を昇った。
部屋のドアを開け、外気が入ったままの空間に入ると、緊張が解けたからなのか、一気に背中から汗が噴き出してきた。ティッシュに試験管を包み、そのままゴミ箱の中へと放り投げた。そして自らの手に液体がついていないことを確認する。肌色でしかない手を見て、ほっとしたのか、箕輪は大きなため息をついた。
もう一本、アルコールを摂取したい。そう思った箕輪は、再び階下へ降りた。相変わらず、ヒンヤリとした空気が漂うが、箕輪の感覚は冷たいという感じではなかった。身体が、気持ちが高揚しているのである。冷蔵庫からビールの模倣品を手に取ると、自らの部屋へと戻った。
エアコンのついていない部屋でアルコールを摂取すると、炭酸の爽快感が口の中だけではなく、心の中にまで広がってくるようであたった。それと共に身体が弛緩していくような感覚を受ける。そんな箕輪には、達成感と罪悪感の二つが対峙しているようであった。