表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/11

 その山下の言葉の通り、厚労省へ資料を持ち込もうとしている数日の間に、それなりの死亡者が確認された。

 血液感染説の疑いが出てから、竹下の働きかけで、東京都医師会は各病院に対して声明を発表していた。これはあくまでも病院内へのマル秘事項であり、一般にまだ口外しないとして出されたものであった。

【今回の突然死は血液感染の恐れがあり、搬送されてきた患者に対しては、他の原因がない限り、そのまま死亡の確認をするだけにし、それ以上の対応はしないこと。

 感染レベルは4の可能性があり、死亡の確率が高く、できる限り感染対策をすること】

 などであった。そのため病院内での感染は認められていないという。

 しかしながら、院内において、別の感染経路で亡くなる看護士たちもいたという。確実に院内感染という言葉にならないのは、その看護士たちが突然死の患者たちに立ち会っていないということが理由であった。

 だが現段階では政府の見解が発表されていないために、徐々にではあるが、感染は広まりを見せていた。

 首都圏のみで収まっていたとみられる感染であったが、関西方面で同じような突然死が認められた。その死亡者は二〇代で、出張で東京へと来ていたと報告があった。また羽田空港でアジア系の外国人が二名亡くなったケースが、突然死であるとされた。

 そんな矢先であった。厚生労働省、事務次官である斎藤から、執務室にいる石黒へ連絡があった。

「石黒さん、例の感染症の新たなデータはどうなっていますか」

 斎藤も日に日に感染が広がりそうな現状を放っておけないという様子であった。

「今はうちのほうではなく、国立感染症研究所にて行われています。所長の尾町さんに確認をするのが一番だと思いますが」 

 石黒は自らの手を離れていることを斎藤へと告げた。できる限りのことはしたいが、監察医務院ではそれほどの設備は整っていないことから、悔しい思いをしていた。

「そうですか、尾町さんに一任されているという事でしょうか」

「はい、ただ私や東京都医師会の竹下さんたちも動いていますので、一度みんなで高部大臣の元へお伺いいたしましょうか」

「そうですね。できれば新たな資料があればと考えています。

 高部大臣も閣議で一度話をしているのですが、まだ動く気配がありません。

 いつ来てもらってもいいように受付には伝えておきますので、お願いいたします」

「わかりました」

 それだけを言うと、斎藤はまだまだ対策をしなければならないのか、すぐに受話器を置いた。

 石黒は一拍と入れずにダイヤルを押した。国立感染症研究所の尾町のところであった。

「尾町さん、厚労省の斎藤事務次官から連絡がありまして、再び資料を作って持ってきてもらいたいとの事でしたが、何か新しい事はわかりましたか」

 電話を受けた尾町は待っていましたとばかりに返答をした。

「こちらから連絡をしようと思っていたので、ちょうど良かったです。新たな資料が出来上がりましたので、石黒さんと竹下さんに連絡をと思っていたのですよ」

 尾町の言葉は希望に満ちているようであった。石黒は思わず言葉が弾んだ。

「そうでしたか、斎藤事務次官はいつきてもよいという話でしたが、どうしますか」

「未知の感染症ですから、早急に動きたいと思っています。

 できればこれから出られますか」

 先ほどの言葉とは打って変わり、切迫したような口調で尾町は応えた。

「わかりました。私は平気です。竹下さんには」

「私から連絡をしておきます。では厚労省の受付でお待ちしています」

「わかりました。よろしくお願いします」

 石黒は受話器を置くと、すぐに執務室を出て行った。


 それからほどなくして、石黒は尾町と竹下二人と、厚生労働省の受付で待ち合わせ、斎藤事務次官への面会を申し出た。大臣である高部もすぐに向かうという事で応接室へと案内された。そこには少しだけよれたスーツを着ている斎藤が待ち構えていた。

 尾町は応接室に置かれた机に資料を配った。高部はまだ現れていないので、一部だけは机の上に置かれたままの状態になった。四人の男たちが、資料を手にしたところで、尾町からの説明がはじまった。

「これは今日まとまった資料ですので、石黒さんたちも目を通すのははじめてのものです」

 尾町は斎藤へと述べた。三人は外から急いできたといってもロビーでしばらくの時間があったために、外気の熱をまとっている感じではなかった。

「まあほぼ前回と同じですが、マスウの実験によって、おおよその潜伏期間がわかりました」

 それを耳にして、三人は資料をめくった。それを受け、尾町は発言をした。

「ここに書かれている通り、潜伏期間は四日から十日というところです」

 その言葉が終わるとほぼ同時に、応接室の扉が開いた。

「遅れて申し訳ない」

 高部は出先から急いで帰ってきたようで、額に汗をにじませていた。すぐさま席に着くと斎藤は置かれた資料の皆が見ているページを開いて手渡した。高部は落ち着かせるように深い呼吸をしてから、資料へ視線を移した。

「今、ちょうど話をしていたところですが、マウスの実験で潜伏期間がわかりました。だいたい四日から十日というところのようです」

 尾町は改めて説明をした。高部は目と耳でそれを確認した。

「それで、感染対策はどのようにしたらよろしいですか」

 高部としては一番知りたいことが口から出た。前回の閣議では、何となくしか概要がつかめていない問題をいらずらに拡散するわけにはいかないということで、話が先に進むことがなかったからである。

「私たちが調べた結果では、血液・体液による感染であり、飛沫などの感染はないという結果でした」

 尾町が答える。

「飛沫感染がないという事であれば、マスクなどの対策というよりも、性行為などの接触と、体液が付着したところなどからの接触感染というところでしょうか」

 石黒と竹下が合わせるように同様の事を言った。斎藤もその通りだというように頷いた。

「そうですね。それで充分に防ぐことができると思います」

 尾町が確証を持って応える。

「あとは現在の感染拡大の問題ですね。

 首都圏のみだと思われていたが、関西でも一名、二〇代の男性が死亡していますからね」

 尾町の言葉に続くように、竹下が続いた。

「国外に持ち出されていないようですが、判明されていないだけで、もしかするとすでに出ている可能性もありますね。

 羽田で見つかったアジア系外国人からも、同様の異物が発見されましたからね」

 斎藤は、竹下の言葉に補足するようにもう一つの情報を加えた。

 エアコンが効いているはずの応接室であるが、誰もが涼しいというよりも、緊迫した熱さを感じていた。

「現状では、今回の異物が検出された遺体は死亡率が一〇〇パーセントです。

 感染した段階で、助かる見込みはないと思われます」

 竹下は、各病院からの報告を耳にしていたので、それを伝えた。その他にも、首都圏の突然死が出ている各県の医師会とも連携を取っているようであった。

「対策としては、十日から二週間程度、人との接触を避け、異物がこれ以上広がらないようにすることしかないと思われます。

 すでに感染している人を見捨てるようになってしまいますが、致死率が高いので、仕方がないと思われます」

 尾町が結論のような事を述べた。石黒も同様の事を考えていた。高部は尾町が言うように、感染者を見捨てる可能性は仕方がないと思えなくもないが、何とも言えない気持ちであった。国民の安全を守るという自らの方向性を裏切ることになる。それでもこのまま放置しておいたのでは、更に多くの人に感染が及ぶ可能性がある。

「大臣、どうなさいますか」

 悩んでいる高部の背中を斎藤が押した。高部が今なにを考えているのか、ある意味察しているのだが、対策は早く打たなければ意味がない。斎藤の強い視線を高部はしっかりと受け取っていた。

「竹下さんも石黒も、尾町さんと同じ意見でしょうか」

 高部は最後の思案を二人に委ねた。竹下と石黒は一度、見合ってから、首を縦に振った。

「わかりました」 

 高部は応接室の中にあるホットラインを手にした。それは首相官邸へと繋がっているものであった。

 ほどなくして受話器の向こうに秘書が出た。

「藤原総理にお願いがあります。改めて今回の突然死の事で閣議を開きたいとお伝えください」

 その言葉は、応接室にいる全ての者の総意であった。


 それほどの時間が掛からずに、高部は首相官邸からの連絡を受け、厚生労働省の庁舎を出て行った。それを見送るようにして、応接室にいた全ての者たちは、庁舎の玄関口へと移動していた。

「斎藤さん、どれくらいで閣議決定されると思いますか」

 石黒は自分たちの手から離れた案件の行方を探った。尾町も竹下も同様の気持ちで斎藤の返答を待った。外気の重たい空気と同じくらいの重圧が、斎藤にかかっているようにも思えたが、斎藤はあっさりとそれを跳ね除けた。

「そうですね。早ければ今日中に決定されるでしょう。

 高部大臣よりも今回の事は藤原総理もかなり気にされていることですから」

「それならばなぜ、今まで動くことができなかったのですか」

「それは保身を考えている大臣たちがそれなりにいるという事を高部が言っていました。

 でも大丈夫です。今回の資料でかなりの後押しができると思います。

 あと、私たちはWHO、世界保健機構に対して、報告をする準備をして待っているだけです」

 斎藤は強い決意のある眼力を三人に見せた。石黒のみならず尾町も山下も、高部とこの男に任せていれば大丈夫ではないかと考えた。それは少しだけよれた斎藤のスーツ姿を再度確認したからであった。

 この男は国の有事に対して、突然死という物が問題視されるようになってから、自宅に帰ることもせず、対策を練っているのだろうと……そこまでする男に対する信頼度はかなり高かった。

「わかりました。あとはお願いいたします。

 何かあれば私たちもすぐにお手伝いできるように準備しておきますので」

 三人を代表して尾町が頭を下げた。竹下も石黒もそれにならった。

「こちらこそお願いいたします」

 斎藤は深々と頭を下げ、熱中症アラートの出ている強い日差しの中で、三人を見送った。


 急遽開かれることとなった閣議のために、それぞれの大臣たちは続々と首相官邸へと集まってきた。日没前という事もあり、外気の暑さもあってか、エアコンの設定温度はかなり低めであった。

「前回に軽く話をさせていただきました首都圏を中心に起きている突然死の件で、改めて高部厚労大臣より連絡をいただき、みなさまに急遽集めっていただきました」

 総理大臣の藤原が招集した理由を告げ、皆に挨拶をした。齢六〇を目前にした藤原は、自分よりも年長の大臣が多い中、これからの閣議がどのように動いていくのか、藤原は身構えていた。

名前が上がったことにより、高部は一礼して立ち上がり、言葉を発した。

「今回の突然死についてですが、新たな情報が入りましたので、お伝えさせていただきます」

 高部の言葉に大臣たちは緊張した面持ちを見せた。その言葉によっては自分たちがこれから大きな決断をしなければならず、流れで行っているだけのものとは異なり、座っているだけではならないという重圧を感じていた。

「今回の突然死は、血液中の異物によって、心停止が起こるという事は以前にもお伝えさせていただきました。そして現在、搬送されてきている人たちの致死率は一〇〇パーセントであります。

 感染においては飛沫などではうつることはないとされ、血液、体液などによる直接、間接による接触によって引き起こされると考えられています。

 感染してからの症状はなく、潜伏期間は四日から一〇日と思われます」

 高部は必要最低限の情報を伝えた。聞き耳を立てている大臣たちは言葉もなく頷くだけで、けん制をしているのか、そこからの議論を巻き起こそうとする人物はいなかった。

「高部さん、ありがとうございます。

 それに対して、専門家たちの意見はどのような対応をしたほうが良いという話でしたか」

 藤原が更に話を先に進めるために、一同を見渡してから言葉を発した。それなりの人事をしたはずであるが、ここから建設的な議論が巻き起こるのか……。藤原は組閣に対して自信を持っていただけに、ある種の期待をした。

「専門家の意見としては、血液、体液による直接、接触感染によって引き起り、症状なく潜伏期間が四日から一〇日という事を国民に伝え、約二週間程度、感染に対する予防をしてもらい、終息を待つという方法が提言されています」

「緊急事態宣言をしろという事なのか」

 緊張感と力強い眼光を見せた財務大臣の清橋が高部に確認するように言った。スマートな体系とは裏腹に、党内でも力を持ち、率直に意見を述べる重鎮である。総理大臣の経験もあり、歯に衣着せぬ物言いは定評もあった。

「そこまでは無くても良いと思われますが、確実に感染を止めるために、強い注意喚起を行えればと考えています」

 臆することなく高部は清橋に答えた。清橋は、納得するように頷いた。

「血液に問題があるということは、輸血なども止める必要があるという事ですか」

 今度は高部よりも若い経済産業大臣の吉田が質問をした。前回のレポートにも書いたはずであると思いながらも高部は応えた。

「説明不足で申し訳ないです。今回、血中の中で確認された異物は、温度が三〇度以下になると死滅するということが確認されています。輸血などの血液は基本三〇度以下で保存されますので、問題はないです。

 問題になるとしたら、献血をするスタッフの感染でしょう。ただしっかりとした対策を取れば問題はないと思います」

「じゃあ輸血がなくなるという問題はないのですね」

「はい、それは安心してください」

 他からも声が上がった。

「母子感染もあるという事ですか」

「可能性としてはあると思いますが、今のところ報告はないです。ただ今回の事を公表した際に、母乳はできる限り避けるほうが良いと思います。

 全ての乳児を持つ家庭が市販のミルクを購入できるように声をかけた方がいいかもしれません。

潜伏期間を終えるとほぼ感染者は亡くなってしまいますので、終息も早いと思われます。ですから長期ではなく、短期で補助をすれば良いと思われます」

「そうなると粉ミルクなどの販売会社に補助を出して、無償提供をできるようにするほうが楽かもしれませんね」

 物品の流通を見越した吉田の返答であった。

「今の高部厚労大臣の話をまとめると、早急に今回の感染症を発表し、国民に感染対策をしてもらい、終息に向かうという事でいかがでしょう」

 藤原が言うと、法務大臣の近条が怪訝な表情を見せて、言葉を発した。

「今の段階でやらないといけないのか。

 いたずらに国民をあおらずに、何とかならないのか」

 近条は清橋に負けず劣らず党の重鎮である。二人は年齢も同じであるし、多くの役職を歴任してきている。しかしながら、総裁選では清橋に負け、近条は総理大臣の職に就くことはできなかった。だからなのか、慎重論をぶつけたのである。

「現段階ではほぼ首都圏が主で、他の地域での報告は数例です。海外にこの感染症が飛び火しているということも確認はされていません。

 今の段階で手を打つ方が良いと私は思います」

 高部は強い決意を込めて言った。それでも近条は納得がいかないという表情を見せた。前回は清橋と吉田の反対で閣議決定されることはなかった。党の重鎮が動かないということは、その下に属する大臣たちの動きも鈍かった。

「どちらにせよ、感染症ですからWHOにも報告をしなければならないでしょう。ですから今動くほうが良いと私も考えます」

 藤原が高部の言葉に乗るように発言をした。近条は現段階での報道で、自分たちにどれだけ責任問題が降りかかってくるかという保身的なものが含まれていた。その発言に近条の息のかかった大臣たちも藤原の発言に眉をひそめた。

「高部は、その対策で抑え込めると思っているのか」

 誰もが沈黙を守っている中での清橋の言葉であった。藤原はこの発言が、どちらに転ぶかという分岐点のようにも思えた。ここで清橋を抑え込めれば、発表に動く可能性も出てくる。同じように考えていた高部は、強く首を縦に振った。

「はい」

 短いが強い言葉であった。その言葉に乗っかったのは、藤原だけではなかった。

「じゃあやってみればいいんじゃないか」

 清橋は、藤原を見て言った。その決断に藤原は頷いた。

「それで責任は取れるんだろうな」

 対抗したのはやはり近条であった。総裁選で負けて以来、近条は清橋の意見に対して真向から反対することが増えた。それをこんな一大事という時でもやるのか……一部の大臣たちは、二人のやりとりを冷ややかな視線で見ていた。

「もしも問題が起きた場合には、私が責任を取ります」

 立ち上がって力強く応えたのは藤原であった。このような危機に対応してこそ、政府としての役割を果たせる。それができなくて何が総理大臣だ。そんな思いが発言には込められていた。

「責任を取るってか、藤原君、それは問題があった場合に総理を降りるという事かね。それとも議員を辞めるという事かね」

 近条は不敵な笑みを見せながら藤原に声をかけた。その場にいる大臣たちは、身震いがする思いであった。高部はそんな問題よりも、現在の突然死に対し速やかに動くことのほうが大切だと考えていた。そのような考えを持つ大臣もいる中、藤原の失職によって、自らが総理大臣になれる機会を得られると思う者もいた。その際に近条、もしくは清橋のような有力者にどれだけ取り入る事ができるか、などと考える者もあった。しかし現段階での発言は控えているという感じであった。

「近条法務相、今はそんな事よりも現状の打開が先だと考えています」

 藤原の答えに、近条は不満そうな表情を見せた。

「やはり今回の件は時期尚早なのかもしれないな」

 ポツリと呟いた近条の言葉は、慇懃無礼なものとも感じられた。

「そうですか、では私の総理の座をかけるというのであれば、全会一致で突然死の事を勧めてもよろしいでしょうか」

 藤原が挑発に乗るように力強く言った時に、清橋が拍手をした。

「そこまでの決意があるのであれば、私は良いと思うよ」

 清橋の発言によって、多くの議員が続くように拍手をした。清橋は笑顔を見せることもせず、近条へと視線を向けた。それに気がついた近条は頬を緩めると、拍手をはじめた。いつの間にか、全ての大臣たちが、エアコンが効いていながらも湿度の高い部屋の中で手を叩いていた。その音は、どことなく渇いているようにも思えた。

「高部大臣、急いで記者会見で使えるような資料を作らせてください」

「はい」

 高部は部屋の隅にある電話を手にすると、事務次官の斎藤へと連絡を入れた。


** *

 

 斎藤はあらかた作っていた資料へ再度目を通しはじめた。なるべく不安をあおりすぎず、国民に今回の突然死という感染症を周知してもらうべきかと考えていた。

 こうしている間にも死者が出ている可能性がある。石黒をはじめとする医師たちのお陰でこうして国民の命を守ることができる。厚労省への入省を選んだ大学の時、海外旅行先で感染症へとかかり、亡くなった父のことを思い出した。それがあったからこそ、今の自分が存在している。権力を掴むことによって、入省当初の目的を逸してしまう役人もいるのであろうが、その思いを遂行できることを斎藤はある種誇りに感じていた。


「さて、今日中に発表されるのでしょうか」

 石黒は急遽取ったホテルの一室で弁当に箸を向けながら言った。

「どうなる事でしょう。そればかりはわからないですが、高部大臣はそれなりに対応してくれていると思います。斎藤さんが言っていたように藤原総理もできる限りと考えているようですから、私たちは待つことにしましょう」

 石黒と同じ弁当を食べながら、同じ階に部屋を取った竹下は応えた。できる限りすぐに動けるようにと二人とも自宅へは帰らずにいたのである。

「そうですね。でも気が気ではないですよ」

 石黒は熱いお茶へと口をつけた。その瞬間に携帯電話が鳴った。こぼさないようにゆっくりと湯呑を置くと、ディスプレイを確認した。相手は尾町であった。

「石黒さん、これから会見があると斎藤事務次官から連絡がありました」

 その言葉を聞いた瞬間、石黒はリモコンを操作してテレビをつけた。前に使った客が音量を大きく設定していたせいか、バラエティ番組の大きな笑い声が電話口の尾町にまで届いた。

 すぐに音量を下げると共に、NHKへとチャンネルを回した。まだ画面は切り替わっておらず、経済番組が流れていた。

「これからですね。今、竹下さんと一緒にいますので、一緒に見てみます」

「わかりました。ちなみに今はどちらにいらっしゃるのですか」

「大手町のホテルです」

「そうですか、確認したら私もそちらに落ち合いますので、今後の話でもしましょう」

「はい、それでは連絡をお待ちしております」

 尾町の言葉は、少しだけ先に進んだことに対する安堵なのか、落ち着いた口調であった。

「記者会見がはじまるという事ですか」

 電波を遮断した石黒へ、事態を察したかのように竹下が声をかけた。

「はい、尾町さんからでした。いよいよですね」

 石黒は竹下の言葉に、思わず力が入ってしまった。しばらくするとアナウンサーが画面へと現れ、緊急の記者会見が行われる旨を伝えた。


 藤原総理が記者会見を始めようとしたのは、気温が下がることなく、不快指数の高い熱帯夜が落ち着きを見せようともしない二一時を過ぎた頃であった。高部も斎藤も厚労省として会場の隅へと立ち会っていた。

 登壇した藤原総理は、一礼をしてからマイクを確認した。その光景は全てのテレビ局によって緊急で放送されることになっていたので、石黒と山下は息を飲んでその光景を見守った。

「これより、数日前から急増しています突然死について、藤原総理大臣より、政府発表をさせていただきます」

 内閣官房の報道官より説明を受け、藤原は改めて一礼をした。

「今説明がありました。数日前から見られる突然死の件ですが、国立感染症研究所や、関係機関より報告を受けましたので、改めまして私のほうから国民の皆様へ説明をさせていただきます」

 静寂を保った報道陣からは、それと変わるようにフラッシュがたかれた。各新聞社などの社員たちは、明日の一面を見据えて、神妙な面持ちの藤原を収めた。

「今回の突然死は、血液、体液による感染症であるとの報告がありました。飛沫などの感染は確認されておらず、接触などの感染が主だという事です。

 感染後の潜伏期間は、四日から十日と見られております。その間に他の感染症などとは異なり、発熱などの症状はなく、いきなり心停止をすると見られております」

 心停止という言葉を聞いて、報道陣たちは重い息を漏らした。それを吹き飛ばすように、エアコンの風が、個々人たちの背中を寒々しく通り抜けるようであった。

「あくまでも血液、体液による接触感染ですので、それを避ける行動をしてもらい、感染者を減らす努力を国民の皆様にはしていただければと思います」

 短い言葉であるが、藤原の覚悟を決めた表情を見れば、誰もが国内が深刻な事態であると予想することは容易であったに違いない。

「血液、体液による感染とありますが、今までの感染症とは全く異なるものとみてもよろしいのでしょうか」

 質疑応答に移ると、大勢の記者が質問を飛ばそうとし、指名された者が立ち上がって藤原に言葉を飛ばした。

「血液中に感染源とみられる物質があると聞きましたが、今まで見たことのない異物としか報告を受けてはいません」

「今まで見たことのない感染症という事であれば、当然薬やワクチンなどもないという事なのでしょうか」

「今まで確認したことのない異物ということなので、そのような物は存在しないもようです」

「血液の中に異物があるということは、輸血なども問題があるということなのでしょうか」

「特に輸血には問題がありません。調べによりますと、今回の異物は気温が三〇度以下になると死滅すると言われています。輸血などの血液はそれ以下の気温で保存しておりますので、異物の混入は見られないですし、確認をしてから使用するように厚労省から各関係先には連絡が行っております」

「今一度予防法を詳しく教えていただけますか」

 藤原は斎藤からもらったレポートに書いてあったと思い出すように、ペラペラと手元にある用紙をめくった。そして予防法について詳しく記述されている部分へと目を通した。

「先ほどもお伝えした通り、血液、体液による接触感染が主で、飛沫などによる感染は確認されていない状態です。

 経口感染、要するに傷などの処置の際に、血液が付着し、体内へと入らないようにすることが大切です。また性感染や母子感染なども可能性があります。

 兎に角、他人などの血液や体液に触れることを避けるということが大切な感染予防になると考えられています」

 高部は石黒たちが持ってきた資料がベースになっているとはいえ、答弁用に書き換えた資料を早急に準備してくれた斎藤の仕事量と知識に感謝するしかなかった。

 

 藤原が記者会見に追われる中、斎藤たち厚生労働省のみならず、外務省もインバウンドが多い中で、今回の感染症について、各国へと連絡をせざるを得ない状況に追われていた。これによって日本に渡航する外国人の数は激減するであろうが、日本の立場としては、他国に今回の感染症が広がらないようにすることの方が大切な事であった。

 また経済産業省も、経済団体などへ連絡をし、インバウンドの大幅激減の可能性と、それに対する対策が話し合われていた。

 今回の政府の動きに対して、海外からは評価を得ることは間違いない事であった。国内での感染症の発覚後、速やかに連絡をせずに、パンデミックを起こしたような国の二の舞になる訳にはいかなかった。

 数名の外国人が国内で亡くなっていることはすでに判明していた。そしてその足取りをたどってみると、都内の無店舗型マッサージ店に立ち寄っていた可能性が見られた。そこは近年になってやっと売春禁止などの法律ができた国から逃げるように日本にたどり着き、性風俗を潜りでやっているようなところでもあった。一部の野党が不良外国人でも日本は受け入れようというような、甘すぎる外国人政策をしているが故の問題店舗でもあった。もちろんそんな野党を押しのけてでも法案を通すことのできない与党も問題ではあるのだが……。

 その外国人の店舗だけではなく、性風俗店の一部ではかなりの死者数が出ていることも考えられていた。

 警視庁はまずは無許可の風俗店を中心に取り締まり、感染を減らす努力をできないものかと東京都知事の小原から連絡を受けていた。しかしながら許可を受けている風俗店自体の閉鎖をしたほうが良いという都議会の意見もあったのだが、あくまでも協力を要請するだけで、強要はできなかった。

 藤原は、自らが総理大臣になった際に、このような事態が起こるなどとは夢にも思っていなかった。そんな事を予知できていたのならば、もっとまともな対応ができているはずである。だが予想もしない有事に対して、臨機応変に対応をすることしかできないのである。その中で最良の方法を見つけることしかないのである。閣議でも言ったように、自らの責任の元、行うという覚悟を、藤原は改めて胸に刻んだ。

 執務室へ戻ると、藤原はどっと疲れを感じたのか、背もたれに身体を預け、目を閉じた。だが藤原に安息という文字はなかった。記者会見を見た各国の首脳陣から連絡がひっきりなしに着始めたのである。感染症ということや、早期に発表したことにより、非難をされるようなことはなかったが、国によっては状況が収まるまで渡航禁止をするために航空便の入国を拒否するようなところまで出てきた。これによって帰国できない外国人なども出る事が予想されるために、国としてホテルの借り上げなどを考えるなど、内閣官房自体が大混乱になった。

 ある種の鎖国状態になってしまう可能性が出てきたことに対して、藤原はやむを得ないという思いと、そんな事ならば自主的に空港、港を閉鎖してしまったほうが、他国に対して示しがついたのではないかと思わないこともなかった。

 

 尾町は急いで乗ってきたタクシーを降りた。車内の気温とは異なる暑さを瞬間だけ味わうと、空調の効いているホテルの中へ入るべく、自動ドアを通り抜けた。これだけの寒暖の差は身体に取って何とも言えないものであるが、熱帯夜の外気の中にずっといるよりは確実にましであった。

 石黒と竹下はバーのテーブル席にいるという連絡を受けていた。一階の奥に位置するバーは平日の遅い時間ということもあり、客はまばらであった。

「お待たせいたしました」

 尾町は二人の姿を確認すると、すぐさまテーブルへとついた。その尾町を追ってか、ホテルのスタッフがおしぼりと水割り用のグラスを持ってきていた。そのおしぼりを受け取ると尾町は、軽く手を拭き、作られる水割りを待った。

 マドラーでかき混ぜられた水割りが尾町の前にあるコースターへと置かれた。

「何はともあれ、お疲れ様です」

 三人は軽くグラスを掲げ、そのまま口元へと運んだ。ロイヤルサルートの、滑らかな甘さを感じさせるスコッチの水割りが、三人の疲れた身体に染み渡ってくるように感じられた。

「まずは一段落ですね」

 石黒はグラスを置くと、ソファに身体を委ねた。異物の発覚からあっという間の日にちであったが、これは本の一休みで、これからどのような事態になっていくかを見守るという行動が待っていた。

「明日から街の様子がどのように変化していくのか……。そんな懸念もありますね」

 尾町は思わず、医療によって経済がどれほど傾く可能性があるのかと考えた。しかし両輪を回すことは現段階では難しい。ただ一つだけ言えるのは、潜伏期間がそれほど長くなく、致死率が高いために、多くの人たちが気を使った行動をしたのであれば、終息はそれほど長くはならないと考えていた。

「兎に角、見守ることしか私たちはできないということなのでしょうね」

「そうですね。皆さんはそうしてください」

 尾町は水割りを一気に飲み干した。石黒も竹下も自分たちとは異なり、血液中の異物に対して様々な研究をこれからしていかなければならない尾町の苦労も理解しているつもりであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ