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 佐智のスマートフォンが鳴りだしたのは、今日も熱帯夜と言われている暑い日であった。夕方を迎えてもまだ太陽は高く、ありったけの熱を放出していた。それなので部屋の中でエアコンは欠かせない物であった。

 ディスプレイには順菜の表示が出ていた。聖羅の葬式以来である。佐智は電波を繋いだ。

「もしもし」

「さっちゃん」 

 そこから聞こえる、震えるような順菜の声は、怯えを感じさせるようなものであった。佐智は一瞬どうしたら良いか考えたが、落ち着かせるように、平静を装って返答をした。

「どうしたの」

「私の知っている人が亡くなったっていうの、突然死だって。

それを聞いたら、私、怖くなってきちゃって」

 佐智は突然死という言葉を耳にして、聖羅が倒れていく様を思い出した。一瞬言葉を失った佐智に、順菜は言葉を続けた。

「ちょっと友達と飲みに行って、ナンパされた人だったんだけど、連絡先を交換していたから、数回やり取りをしたんだけど、その人が亡くなったって言うの」

 佐智は順菜がただただ怯えているだけのようにしか思えなかった。先日、亮と一緒に話をしていた、自らが勝手に唱えていた血液感染説が正しいとしたら、ただ会っていただけの順菜は平気なのではないかと勝手ながら思えた。それを離したら順菜は落ち着くのかもしれない。佐智は口を開いた。

「そうなんだ。でもその人が亡くなったからって言っても、順菜もそうなるとはならないんじゃないかな。感染症とかっていうニュースもまだないんだし」

 血液感染を疑った段階で、佐智の頭の中には感染症というイメージは出来上がっていたが、それはあくまでも自らの推測であり、確実なものではなかった。だから希望的観測も含めて、佐智は少し強めの言葉を発した。

「でも、もしも感染症だとしたら、私……」

 順菜の震えが、スマートフォンを通して伝わってくるようであった。

「私も聖羅と一緒にいたけれど、何も起きていないし、平気だよ。

だから飛沫とかじゃ平気なんじゃないかな。

 あまり深く考えないほうがいいよ」

 自らが疑った血液感染でなければ、ただの友達であれば大丈夫……今言ったように突然死を迎えた聖羅と話をしていても平気だったことから、そう考えていた。

「飛沫ならね。でも、私その人と寝たんだよ」

 佐智は思わぬショックを受けた。聖羅の異性関係でも衝撃を受けたが、順菜もそのような事をしていたとは……そして自分たちの年齢では性行為というものはありきたりで、場合によっては、ナンパなどの軽い気持ちでそのような事が行われているのではないかと考えてしまった。そして未だにそのような行為をしたことのない自分の方がおかしいのでは……と自らの感覚を疑ってしまった。

「寝たっていっても、まだ感染症っていう訳じゃないだろうし」

 佐智は再び順菜を落ち着かせようとした。しかしながら自らが疑った血液感染というものが存在するのであれば、場合によっては順菜も突然死を迎えてしまうかもしれない……そんな不安が心の中に芽生えた。

「とりあえず、これから会わない」

「来てくれるの」

「これから行くから、待っていて」

 佐智の言葉に順菜は頷いた。だがそれは佐智には伝わることはなかった。

 佐智は自らの部屋を急いで出ると、居間に置いている車の鍵を手にした。その慌てぶりに母親は声をかけた。

「佐智、ご飯は」

「いらない、車借りていくから」

 佐智は逸る口調で母親に返事をすると玄関を出た。湿度の高い空気が、今までの室内の温度と異なり過ぎて、佐智は顔をゆがめた。だがそこで止まっていることはできなかった。車に乗り込むと更に高温の空気が待っていた。

 エンジンをかけるとすぐに冷房を最大にした。大きな音と共に風が飛び出してきが、それでも暑さを体感している佐智は背中に流れる汗を感じた。

 アクセルを踏み、車は走り出した。焦りは禁物である。だが得体のしれない恐怖に侵されている順菜の元へと早く着きたい気持ちはあった。心と体は切り離して動かさなければならない。そんな思いが、車の速度を法定速度内へと抑えさせた。

 順菜の自宅は車で行けばそれほど遠くはなかった。太陽の光は、まだまだ強く感じられた。順菜は、恐怖を覚え、自宅の中に居たくなかったのか、暑い中、門の外で佐智の到着を待っていた。

「お待たせ」

 佐智は運転席の窓を開けて、順菜へと声をかけた。怯えている順菜の表情は何とも言えないものであった。とりあえず順菜は助手席へと乗り込んだ。どれくらい外にいたのかはわからなかったが、順菜の額には汗がにじんでいた。

「ごめん」

 順菜は未だに恐れの表情を見せたまま、佐智へ頭を下げた。

「別に大丈夫だよ。確かに相手の男の人が亡くなったとしたら、怖くなるよね」

「そう、これだけ多くの人が亡くなるニュースなんかを見ていると、やっぱり感染症とか疑いたくなるんだよね。だから、もしかしたら私もって考えたら……」

 順菜は自らの両手を握りしめた。佐智は何とも言えず、とりあえず車を走らせようとアクセルを踏んだ。ゆっくりと動き始めた車が、住宅街を滑りはじめた。こんな風に、今回の突然死のことも、何事もなく過ぎ去ってくれればいいのに……佐智は何となくそんな事を考えた。

「感染症ってニュースはないけれど、気になるのなら、血液検査とかしてみれば」

 ふと考え付いた佐智の思いであった。だが怯えていながらも順菜の答えは冷静なものであった。

「確かにそうなのかもしれないけれど、血液検査をしても原因がわからないこともあるのかな……今までニュースになっていないのも、原因がわからないからじゃないのかな」

「だったら尚更怖がることなんてないんじゃないの。感染症じゃないかもしれないのだし」

「でも、何か原因がなければ、こんなに同じような状況で人が亡くなることなんてないんじゃない。でも、それがわからないって……やっぱり怖い……」

 順菜の悲痛な胸の叫びが、佐智には何となくわかるような気がしていた。自らも疑っている血液感染説……貢と聖羅に肉体関係があったから、何となく考えてしまった事であるが、そうだとしたら、順菜も同じような事になるのだろうか、そう考えると佐智は何とも言えない思いであった。

 血液を調べても駄目だとしたら、他にどのような手が打てるのだろうか。佐智は考えるが、考えはまとまらなかった。だが、そんなまとまらない考えの中で、思わず浮かんだ顔があった。大学の先輩である亮であった。亮は貢の死も聖羅の死も見ている。自分が打ち明けた血液感染説も否定したくらいである。もしかすると順菜の気持ちを楽にしてくれるかもしれない。

 佐智はそう考えると、幹線道路を走っていた車を路肩に止めた。その行動に順菜が不安の表情を見せた。

「どうしたの」

「ちょっと相談できる先輩がいるかも」

 そう答えると佐智はスマートフォンを取り出し、電波を飛ばした。亮が出た際に、順菜にも会話が聞こえるように、スピーカーに設定することも忘れなかった。

「どうした」

 落ち着いた亮の返答があった。佐智からしたらありがたい状況だと思えた。

「亮先輩、ちょっとこの間の血液感染の事なんですけど」

「またそれか、血液感染の事は否定しただろう」

「はい、だたその事で友人が怯えているので、話を聞いてもらえたらって……」

「横山の友達の話ってか、まあ今日は何もないから聞くくらいはいいけど」

 亮の軽い言葉が返ってきた。佐智はしめたと、自らの思惑がうまくいくと思えた。

「わかりました。今車に乗っているので、板橋に着いたらまた連絡させてもらってもいいですか」

「ああ、気をつけてこいよ」

 それだけを言うとお互いを繋いでいた電波は途切れた。

「たぶん、話をするだけでも楽になると思うよ」

 佐智の笑顔で言ったその言葉に、順菜は未だに弛緩しない身体で頷くだけであった。

 板橋へと向かう道はそれなりに交通量が多く、思ったほど進みは早くなかった。ラジオから流れる音楽がたまに聞こえるが、順菜はずっとスマートフォンを使い、今回の突然死について何か情報がないのか、無言で調べているだけであった。

 いつの間にか、太陽は姿を消していた。それでも熱帯夜ということもあり、外気は重くのしかかってくるようであった。

 板橋駅の近くに着き、佐智は車を路肩へと止めた。そして亮へと連絡をした。

「遅くなりました。今板橋駅のそばに着きましたけれど、どうしましょう」

「そうか、これから向かうつもりだけれど、五分くらいで行けると思う。

 この間の喫茶店で待ち合わせよう」

「わかりました」

 佐智は何となく道順を覚えている喫茶店を頭に思い描いた。しかしながら駐車場が思うように見つからずに、結局亮の方が早く喫茶店へと着いたと連絡がきた。

 車から出ると、思ったように暑い空気が身にまとわりついてきた。順菜もそんな暑さを感じてはいるが、それよりも突然死の事で頭がいっぱいのようで、変わらずに怯えたような表情を見せていた。

「こっち」

 佐智はスマートフォンで喫茶店の位置を確認すると、順菜と共に歩きはじめた。それほど駐車場から遠くない位置に、前回来た時と同じようなレトロな佇まいの店は存在していた。ここだけは時間が止まっているようである。昭和という自分たちが存在したことのない時代がそこにはあるようであった。昭和にもこんな突然死のような事はあったのだろうか……佐智はそんな事を考えながら、順菜と共に店内へと入った。

「横山」

 入店してきた佐智の存在に気がついた亮は、奥のほうの座席から声をかけた。二人はその席へと向かった。亮が通路側に座っていたために、佐智と順菜は、窓側の席へと座った。

 軽く挨拶を済ませた後に、順菜は口を開いた。

「すみません、急に話に乗ってもらうなんて」

「別にいいよ。何となくは聞いているけれど、友達が亡くなったんだって」

「友達というか、合コンであった人なのですけれど」

 順菜は初対面の亮に少しだけ恥ずかしそうに答えたが、悩みの方が深刻だと言わんばかりに話を勧めた。そんな恥ずかしさを感じずに亮は思った事を話はじめた。

「合コンか、それでそんなに怯えているという事は、その人と関係があったという事なの」

 亮は不躾な質問とは知りながらも、そこを聞かなければ話が進まないと考え、確信に迫るように聞いた。順菜は今更そんな事で羞恥を覚えても仕方がないと、首を縦に振った。

「それで、この突然死の原因が血液感染かもしれないと思って、怖くなったって事なの」

「はい」

 佐智はその横で何も言えずに二人のやり取りを聞いていた。今の流れの後、亮が血液感染説を否定し、順菜が落ち着いてくれさえしてくれればいい。そんな思惑があった。

緊迫している感覚の中で、口の中が渇く気がするが、誰も手を伸ばさないコーヒーを飲むことはしにくかった。

「そうやって考えると君が感染している可能性もあるのかもしれないね」

 思わず亮が言った言葉に、佐智は期待したものと異なる展開に、驚いた。

「亮先輩、血液感染なんてなさそうだって言っていたじゃないですか」

 佐智の急くような表情を見て亮は頷いた。

「血液なのか、それ以外なのかはわからない。どれほどの感染力かはわからないし、感染症でないかもしれない。だけれどもこれだけの人が亡くなっていく様を見ていると、そうなのかもしれないと思えなくもない。

 まったく別のものかもしれないし、俺たちでは正確に判断はできないという事だよ」

 亮は強い視線で二人を順に見た。二人の表情には落胆が見られた。

「俺たちに判断ができないという事は、専門家たちがまだ謎に到達していないという事なのだろう。だから現段階では、あり得るかもしれないし、あり得ないかもしれないという事だ。

 君がもしも感染症なのであれば、血液とかそういう事ではなく、飛沫や接触感染という事も考えられる。何とも言えないという事だよ」

 亮の言葉に順菜は何となく頷いた。だが怯えは消えていないのか、両手を強く握りしめていた。飛沫などの感染があるとすれば、疑いを持っている順菜にかかわっている自分も亮も危なくなるかもしれない。佐智はそう考えると、一瞬怖くなったが、亮が言っているように、あくまでも可能性の話であると気持ちを落ち着かせた。

「もしも血液や体液で感染するとした場合、感染をした際の潜伏期間がどれくらいなのかも俺たちはわからない。

 一応避妊をしていれば避けられる可能性は高いと思う。それは他の感染症でも同じじゃなかったかな。HIVなんかも、コンドームで感染の可能性は避けられるんじゃなかったっけ……だから同性愛者のHIVの感染が多いのは、妊娠の可能性がなく、避妊をすることがないので、感染が多いはずだったかな……」

 そこまで言うと亮は少し天井を見るように考えてから再び話し始めた。

「そっか、もしも血液感染だとしたら、これから同性愛者の感染が加速度的に増える可能性があるかもしれないな」

「でもそういうニュースが報道されていないという事は、やはり血液感染の可能性が低いという事ですよね」

 佐智の希望的観測であった。順菜の怯えを無くすための血液感染説の否定ルートを見つけたような気がした。

「でもそんなニュースはあり得ないだろう。突然死があると言っても、それが同性愛者かどうかなんていう報道の仕方はあり得ないだろうし……」

 佐智は改めて否定されると何も言えない気持ちであった。その時に、何かを考えていた順菜が口を開いた。

「どちらにせよ、血液感染の可能性は、有るとも無いとも言えないっていう事ですよね」

「そうだね。現状を見る限りでは、無事を祈るしかないんじゃないかな」

 順菜は下を向いて考えはじめた。

 確かの今の話では、どちらとも言えずに、不安が拭えないわけではない。相手の男が本当に突然死でなくなったかもわからない。せめて先ほど亮が言ったように、避妊をしていたのであれば、感染のリスクは下げられたのかもしれない。だが順菜は何となく酒を飲んだ流れで男との行為に臨んだために、相手が避妊という行動をしていたのか覚えていなかった。

 亮はコーヒーを口にした。佐智はそのタイミングを逃さずに、一緒にコーヒーを飲んだ。

落ち着いたのかどうなったのかはわからないが、喉の渇きが潤された事だけは理解できた。

「そういえば、貢と砂原が関係を持ったのは、死ぬ三日前くらいの話だったはずだ。

 もしも血液感染で、二人の間で感染があったとしたら、潜伏期間は相当短いという事になるのか……」

 亮がコーヒーカップを置いたと同時に、思いついたかのように言った。

「潜伏期間が短い」

 順菜は背中に汗が流れて行くような感覚を覚えた。

「もしも感染症だとした場合に、他の人たちも貢たちと同じような潜伏期間だとしたら、相当短い可能性がある。

 その男と関係があった上で、それなりの日数が経っているのであれば、感染はなかったと言えるんじゃないかな」

 亮が光明を見つけたかのように、少しだけ頬を緩めて言った。

「でも、そんなに潜伏期間が短い物ってあるのですか」

「今回は亡くなっているからそう考えるのかもしれないけれど、インフルエンザやコロナウイルスは、潜伏期間が一日~四日くらいじゃなかったかな。場合によってはそれ以上長い事もあるのかもしれないけれども、今回の突然死が感染症だとしたら、潜伏期間は同様に短いのかもしれない。

 だからその期間が過ぎれば感染がなかったと言えるかもしれない。

自宅でじっとしているのは怖いかもしれないが、なるべく人と関りを持たずに、食中毒の感覚で一週間もすれば平気なのでは」

 亮の言葉に佐智も心が軽くなった。その期間さえ過ぎれば順菜は感染などしていないという事になりえる。

「順菜、その人と関係を持ってからどのくらい」

「ちょうど一週間くらいかも」

「じゃあ平気かもしれないね」

 希望が持てたからなのか、思わず順菜と佐智の顔に笑顔が戻った。

 その瞬間に外界と店内を分ける扉が開かれた。外から暑い重たい空気が入り込んできたが、奥の席にいる佐智たちにそれが届くことはなかった。

 亮はふと気になった事があるのか、スマートフォンで電波を捕まえると、検索を始めた。

 致死率が高いと言われているエボラ出血熱の事を調べはじめたのである。

 エボラは潜伏期間が一週間程度で、その間に死亡する例があるという。発症すると、発熱や血を吐くようにして亡くなるという。それを考えると、貢にしても聖羅にしても、そのような死に方ではないと亮は思った。どちらかと言えば、驚くという間もなく、眠るようにして死んだはずである。自分の人生が終わりを迎えたことなど、理解することもなくであった……。初期症状がない。それは亮に取って、驚くような事であった。

「もう少し、何もなければ平気かもしれないね」

 隣の席に一人の男が座った時に、佐智は嬉しさのあまり順菜の手を取った。

一瞬、光明を見出し、光を宿したと思えた順菜の眼から、そして手から、頬から力が抜けた。佐智は何が起きたのかわからなかった。ただ一つ理解ができたのは、聖羅が亡くなった時と同じように、順菜の瞼が、シャッターのように降りたという事だけであった。

 全身から力の抜けた順菜の身体は重力に引かれるように、椅子から崩れ落ち、大きな音を立てて床へと倒れた。その瞬間、ドスンという大きな音が店内に響き渡り、佐智の叫び声が上がった。

 亮はすぐに行動をして、順菜を抱きかかえようとした時であった。

「動かさないほうがいい」

隣の席に座ったばかりの男が、亮を制した。そうして机を動かして、自分たちが動けるようなスペースを作った。

「心配しないで、医師です」

 制された亮が心配しないように、男は声をかけた。そして順菜の様子を探った。

仰向けになった順菜の胸が上下することもなく、細い手首で脈を取ろうとするが、血液が流れている感覚はなかった。今回の突然死であれば、人口呼吸は避けたほうがいいかもしれない。男は思わず考えた。自らの中では血液感染説がほぼ確定しているが、確実に解明されていない今は、それは避けたほうが良策であると思えた。歯茎や唇から出血が見られないとも限らないからであった。やはり心臓マッサージか……そう思い、男は順菜の上に乗り、胸を強く、一定のリズムで押し始めた。

「三迫君」

 店主がすぐに心臓マッサージをするところへと近づいてきた。三迫と呼ばれた男は、心臓マッサージを続けながら、店主へと声をかけた。

「すぐに救急車を呼んでください。AEDがあれば、準備を」

「AEDはうちにはない。とりあえず救急に連絡をするよ」

 店主はすぐに入口付近にある電話の受話器を取った。亮は自らのスマートフォンでAEDが近くにないか検索をかけた。駅のそばという事もあり、AEDが置かれている場所は多くあるようで、亮はすぐさま店内を出ると走り出した。

 三迫はしばらく繰り返した心臓マッサージを一度止め、自発呼吸が復活していないか確認をするが、脈が振れている感じは受けなかった。そして心臓マッサージは再開された。

 店主は三迫が心臓マッサージをする横にいる佐智の横顔に見覚えがある事を思い出した。そして忘れ物を入れているケースを開けた。その中には大学の生徒手帳があった。今一度写真を確認するが、彼女の物であると確信を得た。

「AEDを持ってきました」

 亮は熱帯夜の空気の中で走ったせいか、それほどの時間でないのに汗だくになり、慌ただしく店内へと入ってきた。三迫は心臓マッサージを止め、亮が持ってきたAEDを素早く装着し、解析をした。AEDからは必要がないという答えであった。

「心臓マッサージはできるかい」

 三迫は未だに汗のあふれ出している亮へと声をかけた。亮は頷くと躊躇することなく、順菜の心臓を強く押し始めた。三迫はそれを確認すると、スマートフォンを取り出し、監察医務院に近い病院へと連絡をはじめた。

「監察医務院の三迫と申します。これから救急で一名搬送したいのですが」

 もしもこのコが、最悪の場合、今回の突然死であると判断された時に、早期の血液を採取し、早く検査をしたかった。それが国民の利益に繋がる。助かるかもしれない状況でありながらも、そんな事を考えてしまう自分が嫌になるところもあるが、解剖医の性だとも思えた。

「わかりました、受け入れ可能です。救急隊がついたら、もう一度連絡をください」

 病院からの了承を得ると、三迫は電波を遮断した。

一定時間の心臓マッサージの後、再びAEDを使い、心臓の状況を解析した。

「AEDの判定は」

「使用不可です。心臓マッサージを続けます」

 三迫の問いかけに亮は応えた。エアコンが効いている店内でありながら、亮の額には汗がにじんでいた。先ほどのものとも思えない汗は、それほどまでに心臓マッサージが重労働とあると伝えるようなものであった。

「よし変わろう」

 三迫が亮の疲労を考えて、心臓マッサージを変わった。

 だが救急車が到着するまでの間に、順菜の心臓が再び自発的に動くことはなかった。

「心停止の状態だ。行先の病院の許可は取ってあるので、私も一緒に乗っていく」

 三迫は救急隊にそう言うと、解剖医であることを示す医師免許を見せた。

「君たちも一緒に乗るだろう」

「はい」

 亮は強く応えた。驚いたままの佐智をこのまま一人で救急車に乗せるつもりはなかった。

「すみません、これであの子たちの分も」

 三迫は店を出る時に店主に一枚の札を渡した。店主はそれを受け取ると、引き換えに佐智の生徒手帳を三迫に渡した。

「この間の手帳、今一緒に救急車に乗る女のコのだ」

 三迫はそれを受け取ると、何とも言えない運命を感じ、強く頷いた。何となく血液感染説を聞いたと思われるときに居た女の学生証が、改めて手元に返ってきた。一緒にいる男もその時に居た男なのだろうか……。そんな事を考えながら、三迫は二人の乗り込んだ救急車へと乗り込んだ。

 何とも言えない表情をしている佐智の手を、亮はしっかりと握っていた。前回聖羅の時と同じような状況の中、再び友人を亡くすかもしれないという佐智の悲しみを考えると、そうする事しかできなかった。何一つ声をかけてあげることのできない自分を、亮は責めていた。

 救命士は順菜に心臓マッサージを繰り返すが、病院に着くまでの間に、順菜の心臓が再び動き出すことはなかった。

「たぶん、今回の突然死だと思われます」

 救急隊は病院に運ぶ前に伝えていたことと同じことを、出迎えた救命救急の人たちへと伝えた。まだマニュアルなどは作成されていないが、突然死の可能性がある場合、どの病院もそれ以外の病気の可能性があるかどうかを確認することをしていた。まだ血液感染などの通達はされていないが、多くの人たちが同じ症状で亡くなっていることから、マスクや手袋は誰もが装備していた。

 これならばヘタな事をしなければ、医師への感染はないだろう。三迫は対策を見てそう考えたが、出血などをしている患者が運ばれた時の危険性だけは心配であった。バイクなどを運転していて、その間に突然死を迎えた場合、怪我による出血などもあり得るからである。それを考えると、できる限り、早急に感染症の可能性を伝え、もっと安全な状態での救急の受け入れができればと考えていた。

「すみません、監察医務院の三迫です」

 運ばれていく順菜と共についていった三迫は、担当医に告げた。

「申し訳ないのですが、血液を一定量持ち帰らせていただけませんか」

 声をかけられた医師は三迫が何のために言っているのかわからずにいた。その表情を見た三迫は更に言葉を続けた。

「今回の突然死に血液が関与している可能性があるのです。お願いします」

「わかりました。とりあえず脳や心臓の状態を確認したら行いますので」

 医師はそれだけを言うと、すぐに処置室へと入っていった。あとについてきていた亮と佐智はそこで留まることしかできなかった。

 三迫は二人に近寄り、手にしていた学生証を茫然としている佐智の前に出した。

「これ……」

「前回、あの喫茶店で落としていったみたいだよ」

 三迫に言われ、佐智はその手帳を受け取った。そして中身を確認し、自らの物であること確信した。

「前回、あの喫茶店で、血液感染などの話をしていたのは、君たちだったんだね」

「していましたが、あなたは」

 いきなり言われて驚いている佐智にかわり亮が突っ込みをいれた。三迫はそんな亮へと向き直った。

「私はあの時に近くの席で眠っていたんだ。だが何となく君たちのそんな言葉が耳に入ったんだ」

 佐智と亮は不思議に思った。それをなぜこの男がそれほどまでに強く覚えているのか、少し猜疑心もあったが、確実にそのような話をしていたので、それ以上の疑いを持つことはなかった。

「自己紹介が遅れてすまない」

 三迫はそう言うと、名刺入れを取り出し、二人に自らの名刺を渡した。

「解剖医の方ですか」

「そうです。あの時に聞いた血液感染の線から、今回の突然死について調べはじめました。まだ確定ではないのですが、血液に関係している可能性が高いというところまでは調べることができました。

 そういう意味では、血液に着目させてくれた君たちに感謝しています」

 三迫は深く二人に対して頭を下げた。

「血液が取れました。これでいいですか」

 先ほど話をしていた医師が、血液サンプルを入れた箱を三迫に渡しに来た。三迫はそれを受け取り、頭を下げた。

「ありがとうございます。これで今回の突然死に対して、調べることができます」

 医師はその言葉を聞くと、軽く頷き、再び処置室の中へと入っていった。

「申し訳ない、私ももう行かなくてはならないので……

 あのコが助かることを願います」

 三迫はそれだけを言うと、走るようにして病院の自動ドアを潜っていった。

「今回の突然死って、助かる可能性があるのか」

 亮はボソリと呟いた。それを耳にした佐智は、涙に目を浮かべた。聖羅に続いて順菜まで……。それは悲しさというよりも、悲痛な思いであった。亮は自らが思わず言った言葉がどれだけ佐智の気持ちを傷つけたかと後悔をした。だがそんな佐智を支えることしかできなかった。

「横山、彼女の両親に連絡だけ入れてあげよう」

 その亮の言葉に佐智は涙を拭きながら頷き、スマートフォンの電波を飛ばした。


** *


 三迫は大通りで捕まえたタクシーへ乗り込み、退社したはずの観察医務院へと戻った。当直の箕輪は、舞い戻ってきた三迫が血液サンプルを持っていることを聞き、一緒に検査を行った。

「持ってきたばかりという事もあり、異物はかなり存在しますね」

 分厚い防護服を着て、顕微鏡を覗いている三迫は言った。壁際にあるモニターに映し出されている同じ映像を見ている箕輪も

「そうだな」

 と相当数の異物に驚くように答えた。やはりこの異物が人間の身体に問題を起こしている。そこまでは解明ができている。国立感染症研究所に改めて調べてもらっていることもあり、今回はそれを確認するだけの作業となってしまった。

 血液サンプルを温度管理ができる保管庫へと入れると、二人は念入りに身体を洗い、事務所へと戻ってきた。血液、体液が付着していなければ今のところは問題がないという見解であった。もしもこれが飛沫などの感染で広まるとしたら、この程度の感染者数では収まっていないという感覚がそう思わせていた。

「もう俺たちができることは、それほど多くは無さそうだな」

 箕輪は入れたてのインスタントコーヒーを飲みながら言った。座る箕輪とは異なり立ったままの三迫は応えた。

「確かに、後はどのように感染するのか、潜伏期間などはどうなのか、国立感染症研究所の見解を待つばかりになってしまいましたね」

 三迫は目の前で亡くなった順菜の血液を持ってきたが、それは自らの自己満足でしかないことを理解していた。しかしながら、どうしても自らが見つけた血液中の異物について調べていきたいという気持ちがそこには存在していた。

「なんだ、三迫、まだいたのか」

 昼過ぎから外出していた石黒と山下は事務所へと戻ってきて、驚くように言った。

「お二人もこんな遅い時間にどうされたのですか」

 自分が言われるよりも、遅い時間に二人の姿があることのほうが驚きであった。二人は疲れた表情を一瞬見せ、事務所の中にある応接用の椅子へ腰を下ろしてから応えた。

「国立感染症研究所から、ある程度の指針が出た。それを聞きに言っていたんだ」

「それでどのような事になったのですか」

 三迫は身を乗り出すようにして二人に質問をした。箕輪はある程度の興味を示したが、三迫ほど熱心になってはいないようで、耳を傾けながらコーヒーをすすった。

「今のところ、うちで出した物とそれほどの変わりはなかったよ」

 山下はがっかりするように答えた。

「三〇度以下で死滅、血液中から心臓へと溜まり、心停止を起こす。

 まあそのままだな」

 石黒も未だにわかりきらない血中の異物について、思うように進まない事に苛立ちを覚えているようにも見えた。

「けれども、研究所の尾町所長と、東京都医師会の竹下さんとの話し合いで、できる限り早めに厚労省へ掛け合おうという話にはなっている。兎に角感染を止めることが先決だからな」

 山下の言葉は、自分たちが見てきた現状を鑑みてのものであった。


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