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 三迫は、外気から逃れ監察医務院の中へと入るとやっと落ち着けそうな雰囲気を覚えた。

「おはよう」

 三迫が所属する監察医務院のリーダーである山下が声をかけてきた。

「おはようございます」

「昨日は休めたのか」

「はい、おかげさまで」

「そうか、今日も遺体の搬送が多そうだから頼むぞ」

 山下が声をかけた時に、三迫はある思いを口にした。

「あの、ちょっと気になることがあるのですが、そっちに取り掛かってもいいですか」

「気になる事……」

 山下は三迫へと近づいた。そして小さな声で呟いた。

「箕輪が浮気しているかもって話か……」

 ゴシップを耳にして、三迫は呆れ顔を見せた。

「そんな事じゃないです。ちょっと血液が気になるので、できれば先にそっちを確認したいなぁと」

「血液……今更何かあるのか……。

まあ別に空いている時間はいいけれども、すぐに解剖の遺体が今日も搬送されてくると思うぞ」

「はい、ちょっと行ってきます」

 それだけを言うと三迫は血液サンプルのある部屋へと向かった。

 今まで搬送されてきた解剖遺体から採取された血液が、少量ずつであるが、冷蔵庫の中の試験管へと保管されている。その中から、折原が怪しいと行政解剖に回してきた男の血液を手にした。確か若者であったと三迫は記憶していた。その試験管に書かれている記録は三迫が覚えていた通りであった。この遺体を解剖した直後から、心不全による遺体の解剖が、東京都医師会の要請で増えた。

「これが発端かも……」

 三迫はその試験管をまじまじと眺めた。機械にかけて調べた項目以外の何かがこの血液の中に入っているのかもしれない。そんな期待を持ったのは、いつもの喫茶店で微睡んでいる時に頭の中に聞こえてきた【血液感染】説であった。機械にない、新たな何かがこの血液の中に潜んでいるのかもしれない。

 少量の血液をプレパラートへと取り、光学顕微鏡へと乗せた。確実に何かが見つかる要素などはなかった。だが自分の勘を頼りにしていた。

 エアコンの風が当たるのが気になったのか、少しだけ風量を弱めてからレンズを覗き込んだ。そしてプレパラートの位置を動かしながら、細部まで調べていく。けれどもおかしな物質は見つかることはなかった。今まで機械が認識している物以外の物質があるのではないかと考えたが、何も見つかることはなかった。自分の勘は当たっていないのかもしれない。失望が三迫の胸を覆った。

 三迫は天井を見上げると、大きなため息をついた。

 今回の突然死と呼ばれる者たちには、一致した因果関係があるのではないか……ただ偶然でこんなにも心不全で亡くなる人たちがいるとは思えなかった。どの遺体を確認しても突然死にあるような全てが、心臓としか結論付けられなくなっている。それは脳梗塞などの他の理由が見えたらないからである。消化器、内臓などの系統で突然死ぬなどという事はありえない。だいたいが心臓、脳、血管がほとんどである。けれども大動脈解離のような症状は誰一人として起こしていない。

 病理にいる人間としては、原因を究明したいと思うだけである。ある種自らの満足のためになってしまうのかもしれないが、判別がついた時に与える社会的影響も考えていた。

 天井のシミを数えているうちに、三迫は今回の突然死の年齢の分布を考えていた。

 学童の死亡者は今のところ一件も耳にしていない。高齢者もいるが、それほどではない。現役世代と呼ばれる年代が多いのは、ある種の特徴である。

 死亡の時間帯においては、これと言った特徴はない。ただ孤独死や野外で発見された人の場合は、いつ亡くなったのかは判断がつかない。身体の硬直具合などから多少は予測できるが、あくまでも予測の範疇を出ない物もあるだろう。しかも気候条件によってもそれは数時間かズレてしまうこともあるのだ。

 友人・知人、家族などが倒れる時にいた時の状況は、苦しむなどという事もなく、いきなり倒れ、そのまま心停止を起こしているという。ほぼそのケースが多い。ただ心不全という中でも、胸の痛みや違和感を覚えて倒れるという事が本来ならばあり、何も前兆がないという事は不思議に思えた。だからこそ、新手の何かが起きているのではないかと三迫は考えていた。今まで発見されたことのない要因……。

 考えれば考えるほど、謎に思い、深みにはまっていくような感覚を三迫は覚えた。推理小説であれば、天才的な主人公が迷宮から抜け出す術を持っている。だが現実はそんな事はないのである。天才的なひらめきなど凡人の自分が持ち合わせているはずがない。幾つものトライ・アンド・エラーを繰り返すことによって、様々な物事は解決してきたのである。三迫は自らの身の丈を十分知っているつもりであった。ただ繰り返し検査をしていくことは可能である。それを諦める気はなかった。

 何か同一の原因で起きているのであれば、これからもっと被害が拡大していく可能性がある。解剖をしている人間だからこそ、原因の究明ができるかもしれない。そんな事を思いながらも三迫は、どのように結果を出せば良いのかつかめなかった。ただ諦めずに調べるという事以外は……。

 事務所へと戻った三迫は、所長である石黒が席にいない事を気がついた。

「あれ、今日所長、出勤じゃなかったっけ」

「ああ、所長は朝から呼ばれて出ていったよ。他の解剖ができる施設の人たちと話し合いだって」

 山下はこれから解剖を行うのか、準備万端で部屋を出ようとしている時に答えた。室内に入り込んでいる日差しが、三迫にはまぶしく感じられた。

「話し合いですか」

「そう、どのような遺体が運ばれてきているのか、情報交換だって」

「そうですか」

 三迫は頷いた。それによって少しでも原因につながる材料が出てくることを願うことしかできなかった。


 その石黒が参加した会議の中で手にした資料は、今まで監察医務院で調べているものと大差はなかった。

 いきなり倒れ、心臓が止まる。外傷はなく、調べた血液などにおいても、今まであった感染症などの原因は見つからず、これと言った問題はなかった。

 年齢は、学童の死者はなく、主に十代後半から三十代半ばが多く、六〇代くらいまで

一通り確認されている。年齢における男女比率は、現役世代はそれほどの差はなく、年齢が上がれば上がるほど、男が多くなるという。

 この資料によって、どのような事が考えられるのか……。介した一同は考えるが、未だ糸口は見つからなかった。


** *

 

 新宿の雑居ビルの中に、その風俗店はあった。店舗型のヘルスという業態である。

入口を入った待合室の冷房はキンキンに冷えた冷気を吐き出し、部屋の中を冷やしていた。来店者がこの暑さの中で来た時に、いち早く居心地の良さを感じさせようとするものであった。けれども微妙に薄暗い待合室を訪れた客たちは、少しばかり冷えすぎの店内に身体を擦る者もいた。単独で来ている客が多いのか誰も話などはしていない。今後に怒る何かを期待して、ただただスマホの画面を見てやり過ごしているだけである。少しだけ陰湿な感じを受けるのは、個々の欲望が、部屋の中に溢れているからかもしれない。

 待合と店内の入口の間にある受付には、店長ともう一人のスタッフがいた。

店長は下着姿の風俗嬢たちの写真を並び変えていた。先ほど指名の入った奈緒の写真を受付からどかしたことにより、順番が入れ替わったからであった。

 横に並んでいたスタッフが内線電話の受話器を置いた。

「店長、奈緒が出ないんですけど」

「えっ、指名の客が来たっていうのに」

 先ほど受付からどかした写真を見ながら、店長はスタッフに言った。

「しばらく来客がなかったから寝ているのかもな……。ちょっと見てこいよ」

 店長は受付に置かれている時計を見た。時間は一般的なサラリーマンたちが昼休憩を終えた一三時を過ぎた頃であった。

「わかりました」

 スタッフは待合と変わらない明るさの通路を通り、奈緒が待機している部屋へと向かった。今日の奈緒の出勤は一〇時からであった。この店では人気がある風俗嬢であったが、今日は暇で、出勤直後に客がついたきりで、電話指名があった待合室にいる客が、奈緒に取って二人目であった。

 風俗嬢たちは出勤すると個々にプレイルームとなる部屋が与えられ、そこが一日の居場所となる。奈緒が一人目の客についてから、その部屋を出た形跡はない。プライベート空間なので、なるべくスタッフは立ち入らないようにしていた。だが、寝ているのであれば起こさなければならない。

 スタッフは店長に言われた通り、奈緒の部屋のドアをノックした。

「奈緒さん、いますか」

 スタッフは気を使ってか、それほど大きくない言葉をかけた。しかし返答がない。もう一度ノックをする。同じようにかけた声は、今度は少し大きめであった。それほど厚くない壁がそれによって動くような気がした。それでも奈緒からの返答はなかった。

 できる限りプライベートの邪魔をしたくなかったが、スタッフは客が待合にいることもあり、中へと入る決意をした。

「奈緒さん、入りますよ」

 再びノックをして、一度ドアに耳をつけてから、反応がないことを確認しスタッフはドアを開けた。中を覗き込むと、奈緒はプレイで使うはずのベッドの上に、下着姿で横たわっていた。

「やっぱり寝ているのか」

 スタッフは入口から声をかけるが、奈緒が起きる気配はなかった。スタッフは仕方がないと意を決し、部屋の中へ靴を脱いで入った。そして奈緒の身体を揺すった。エアコンの風が直接当たっているからなのか、その身体は冷たかった。だが体の感触は不自然に思えるものであった。スタッフは一度離した手を、もう一度、慎重に奈緒の身体につけた。冷たいというものではなく、明らかに体温を感じられない。

「奈緒さん」

 声をかけ、揺さぶるが奈緒の身体は微動だにしなかった。生命反応が感じられない。スタッフは言葉を失った。柔らかいはずの身体が、心なしか固く感じられもした。茫然とする自らの身体を何とか動かし、壁に備え付けられている内線電話を手にした。

「はい」

 数回のコールの後、店長の声が聞こえた。スタッフはやっと生きている実感を得た気持ちであった。そして焦った声を受話器に向けた。

「あの、奈緒さんが」

「ああ、奈緒起きたか」

「いや、奈緒さんが」

 スタッフは思いのほか次の言葉が出てこなかった。何をどう伝えればいいのか、頭の中が混乱していた。

「だから奈緒がどうした」

 返答のないスタッフに苛立ちを覚えたのか、少し強い店長の声が聞こえた。

「あの、動いていません」

「えっ、動いてないってどういう事だ」

 思わず店長は大きな声になっていた。そしてスタッフの次の言葉を待つために、思わず喉を鳴らした。エアコンが効いているはずなのに、なぜか喉が渇くようであった。店長はスタッフの声を待たずに受話器を置いた。そして薄暗い廊下とつたい、部屋へと急いだ。

 入った部屋の中で、フタッフは受話器を持ったまま、店長の顔を見た。店長はスタッフを押しのけるように店内へと入りこんだ。そしてベッドの上に横たわっている奈緒へと近づいた。

「奈緒」

 身体を揺さぶるが奈緒の反応はない。店長は手首を掴み、脈を確認する。だが血管に血液が流れている感じはなかった。起こそうとしてなのか、店長は軽く奈緒の頬を叩くが、それに対しても反応はない。

「救急車を呼ぶから、心臓マッサージを」

 スタッフは店長から言われるが、驚いたまま動く気配がない。

「早くしろ」

 強く言われ、やっとの事でスタッフは心臓マッサージをはじめた。店長は受付へ戻ると、一一九番へと連絡をした。

「事件ですか、事故ですか」

 緊張感があるともないとも言えない、事務的な声が受話器を通して聞こえてきた。店長は焦りながらも、すぐに現状を告げた。


** *


 埼玉に近い都内のマンションのエレベーターが六階で開いた。主婦と思われる女の手にはビニール袋と手提げ鞄があった。そのビニールに書かれている文字は、有名弁当店の名前であった。夏休みという事もあり、娘が家の中にいるのである。暑い中、出かけついでに母親は弁当を買って帰ってきたのであった。汗が止まらない母親は、エアコンが効いている、であろう家に入るために、鞄から鍵を手にした。

 玄関へ入ると、滞留している外気とは異なる熱気が、不快感を誘った。高校生の娘の靴が綺麗に並べられている。とは言っても母親が外に出る際に直したものであり、娘はいつも脱ぎっぱなしという状態であった。ここから推測するに、娘は母親が外出してから一度も家の外へと出ていない事がわかる。

「ただいま」

 誰も返事をしない空間へ、母親は習慣で声をかけた。自らの脱いだ靴を並べて母親は居間へと向かった。扉を開けると冷気が漏れてくる。心地よさを感じる。これで随分と楽になる。そんな安堵の気持ちを覚えた。

「お弁当買ってきたよ」

 居間に入ると同時に声をかけたが、娘の姿は見当たらなかった。だがテレビがついているので、その辺りにいるのだろうと、母親は部屋の中を見渡した。そしてソファに寝転ぶようにして娘がいる事が確認できた。

「ちょっと優子、弁当買ってきたから食べよう」

 声をかけるが娘の反応はなかった。母親はテーブルの上に弁当と鞄を置くと、冷蔵庫を開けた。そこから容器に入っている麦茶を取ると、コップに入れ、喉を潤した。エアコンの冷気と麦茶の冷たさが、熱中症アラートの出ている外界から、心と体を解放してくれるようであった。

 もう一つのコップを用意して麦茶を入れ、弁当を置いたテーブルへと二つのコップを移した。それでも起き上がってこない優子が気になった母親は再び声をかけた。

「ちょっと優子」

 それでも反応のない優子を起こそうと母親はソファへと近づいた。優子は目を閉じて動く気配がなかった。母親は呆れたように

「寝ているの、お昼だよ」

 と優子を揺さぶった。しかし反応がない。不思議に思った母親は、優子を更に揺さぶった。それでも反応がない。母親は表情をなくすと同時に不安が頭をよぎった。最近起きている突然死……。母親は優子の呼吸を探った。

「優子」

 母親は弁当と共にテーブルの上に置いた鞄からスマートフォンを取り出し、一一九番へと連絡をした。その電波はすぐにつながった。

「あの、娘が……」

 相手の反応を待ちきれず、母親は大きな声を上げた。


** *


「折原さん、ちょっと相談があるのですが」

 路上に倒れている人がいるという要請を受けて、警察署を出ようとしていた折原の電話が鳴ったのは、小泉が運転するパトカーへと乗った直後であった。

「相談、こんな忙しい時に何だよ」

 監察医の三迫からの電話であった。三迫の口調は淡々としていながらも、切羽詰まったような緊張感があった。折原は自らのおかれた状況もあり、早くして欲しいという口調で返した。

「ちょっと調べたい事があるんですよ。それなのでできたら発見されたばかりの遺体を回してもらいたいのですが」

 折原はいきなりの三迫の願いに怪訝な表情を浮かべた。

「何を言っているんだよ。そんな事、俺が決められることじゃないのはわかっているだろう。

今回は突然死とかいうやつの件数が多いから、東京都医師会が割り振っているんだろう」

「それはわかっています。でも調べたいことがあるんですよ。何とかお願いします」

 折原は迷惑顔でスマートフォンを見直したが、ここまで三迫が切羽詰まった口調で電話をしてきたことを考えて返答をした。

「それは何か確信があってのことなのか」

「いえ、そこまではないのですが、気になっていることがあるんですよ。

 一度集められた後、医師会の要請で来る遺体ではなく、死の直後の遺体を調べたいと思っているんですよ。

 血液検査だけで済みますので、お願いします」

 折原は三迫が何を目的で言っているのかわからなかった。だがそれによって今回の突然死の何かがわかるのかもしれない。必死に訴える三迫の迫力に、電波を通してとはいえ、折原は重圧を受けた。

「一体だけでいいんです。それによって今回の突然死の原因が掴めるかもしれないんですよ。お願いします」

 折原には三迫が受話器の向こうで頭を下げている姿が見えているようであった。

「できるかどうかはわからない。けれどもなるべくお前の要望に応えられるようにするよ」

 折原は重圧もあったが、三迫の強い思いに対して答えようと思いながら、電波を遮断した。それにしても勝手にそのようなことをした場合、問題になるかもしれないと思うと、気が重く思わずため息が漏れた。

「何かあったのですか」

 小泉が察して声をかけてきた。

「三迫が発見された直後の遺体を回して欲しいって」

「今回は数も多いから東京都医師会に報告して、その指示で割り振るっていう話じゃないですか。しかも三迫さんは監察医務院ですよね。警察の科捜研でもないのに、うちから回すって、無理じゃないですか」

 折原は小泉の当たり前の主張に同意するように頭を縦に振った。

「だがな、三迫がここまで俺に頼んできたことは今までないからな。こっちが一方的に頼むことはあってもな……。

 しかも今回の突然死の原因究明とかいうくらいだから、何とか力になってやりたい気もあるのだけどな」

 折原は煙草をくわえて火をつけた。何とかしてやりたいが、立場もなどというストレスがその行動を無意識に行わせた。

「折原さん、パトカーの中ですよ」

「ああ、わかってる」

 折原は吸わなければやりきれないという思いであった。小泉の言葉に、パトカー内にできる限り臭いが残らないように、仕方なく窓を全開に空けた。一瞬でエアコンの快適な空間は変わり、外からの熱波が入り込んできた。

「折原さん」

 小泉は情けない声と共に、同じ感情の表情を見せた。もしも喫煙がバレた場合に、自分も同罪になるのだろうという思いがそこには現れていた。

 折原たちがついた現場には、交番から先に到着しマスクをした二名の制服警官が保持をしていた。話題になっている突然死かもしれないと人々が多く集まってきているが、感染などの恐怖があるせいか、少し離れたところで人だかりができていた。

 折原たちはパトカーから降りると、マスクをして近づいた。東京都医師会から感染症という明確な文言は出ていないが、現場に出た警察官たちは、必然的にマスクをつけて対応にあたっていた。

 倒れていた若い女は若く、平日の日中という点から、学生ではないかと想像された。

「身元は確認できていのか」

 折原は若い制服警察官に問いかけた。制服警察官は女性の持っていた鞄の中から財布を手に取った。

「財布の中に身分証明がありました」

 折原は財布を開けると、交通安全協会に加盟する際に渡される免許書ケースがあることに気がついた。それを開くと女の物であることが顔写真で理解できた。そしてそのケースの中に、献血をする際にもらったカードが入っていることにも目が行った。しかも献血をした日付は昨日だという。

 折原は何を思ったのか、女の腕を調べはじめた。確かにそこには、折原が考えていた通り、注射痕が残っていた。これしかない。折原の脳裏に三迫の姿が浮かんだ。

「わかった、この遺体は新宿署へ運ぼう」

 今回の突然死は、確実に心肺停止で、救急搬送ができない場合、警察署の霊安室へと運び、そこから東京都医師会の指示によって、警察の科学捜査研究所や観察医務院などへの搬送が行われていた。だから折原の行動は間違いではなかった。件数が多くなっているので、パトカーの後部座席に乗せることも認められるようになっていた。折原は小泉と制服警官と共に、遺体を後部座席へと乗せた。そして助手席へ乗り込むと、小泉が向かおうとしている進路を変えさせた。

「小泉、三迫のいる監察医務院に運ぶぞ」

 走り始めたパトカーの中で折原は小泉に言った。

「えっ」

驚く小泉へ返答をすることもなく、折原はスマートフォンを取り出した。三迫に直接連絡をするが繋がらないので、監察医務院へと電波を飛ばした。

「三迫をお願いします」

「どちら様でしょうか」

 電話に出た事務員の当たり前の確認が、折原にはストレスであった。だがそこに文句を言っても意味はなかった。

「新宿署の折原と言います。急ぎの用なのでお願いします」

 警察からという事で、電話はすぐに取り次がれた。事務所の電話を三迫は手にした。

「折原さんですか、三迫です」

 三迫は医師会から運ばれてきた遺体の解剖に入ろうと着替えをしていた。解剖とは言っても、死因が特定できるかどうかの簡単な事しかすることはなかった。

「さっき連絡を受けた亡くなったばかりの遺体の件だが、本当に血液採取だけでいいんだな」

 折原の強い口調に、三迫はすぐに返答をした。

「はい、気になったことがあるので、血液だけで平気です」

「俺も上にバレると問題になるからできる限りでしか協力はできない。

 その上で、今昨日献血をしたという遺体を、今パトカーに乗せている。それでうまくやることはできるか」

 三迫はすぐに状況を考えてから答えた。

「どうしても注射痕は残ってしまうと思いますけれども、できる限り昨日の物だと言い張れるようにやってみますが」

 折原は考えた。これだけ突然死が多い中で、細かいことに注意を向ける解剖医もいるだろうが、ちょっとくらい……。普段から三迫にお願いごとをしてきた過去のこともあり、折原は覚悟を決めた。

「あと五分から一〇分ほどで着くと思う。遺体はパトカーの後部座席にあるから、その状態でもいけるか」

 折原はできる限り、現状のままで済ませたい気持ちと伝えた。

「平気だと思います。お願いします」

「わかった」

 それだけを言うと折原はスマートフォンを下ろした。

「折原さん」

 折原の思い付きの行動に、小泉は泣くような声を出した。折原はそんな小泉の肩に手をかけた。

「悪い、今回だけ付き合ってくれ」

 それだけを言うと、煙草へと火をつけた。小泉は仕方なく、パトカーの窓を全て全開にした。


 三迫は監察医務院の駐車場にいた。解剖に入ろうとしていた作業着を脱ぎ、マスクと手袋をはめた姿でありながら、ラフな格好で一台の車を待っていた。その手には注射器の入ったセットが見られた。

 折原が疑問を持って運んできた一体の遺体を皮切りに、同じような突然死の遺体が、今まで運ばれ続けている。その原因を何とかして特定していきたい。三迫にあるのはその思いであった。

板橋の喫茶店で頭の中に入ってきた言葉……血液感染説……。もしかするとこれから折原が運んでくる遺体によって何かがわかるかもしれない。死者の声なき声を届ける。そして同じように亡くなる人を止める。そんな監察医としても使命感が気持ちを満たしていた。

 一台のパトカーが駐車場の中へと入ってきた。そのパトカーは駐車場の一番端の位置に停車し、そこから折原が降りてきた。

「三迫」

 声につられるように三迫は駐車場の端に止まったパトカーへと小走りで進んだ。小泉と折原が降りたパトカーの座席は、後部で作業が行いやすいように、最前へと寄せられていた。

「三迫、できる限り右手の献血の痕のところで頼む」

 折原は覚悟を決めてきたが、できる限りバレない方法を三迫に提案した。

「わかりました」

 三迫も折原が上の指示を無視してまでやってきたことを理解しているのか指示に従った。そして遺体の右手を確認した。確かに昨日献血をした、であろう注射痕が残っている。注射器を取り出すと、三迫は慎重に針先を痕に合わせ、採決をはじめた。まだ体温を感じる身体から血液が抜き取られていく。

「ありがとうございます」

 三迫は折原に頭を下げた。

「これで原因が解明できることを祈るよ」

 折原は三迫の肩を叩いた。三迫は再度折原に頭を下げると小走りで監察医務院の中へと消えていった。

「折原さん、急いで帰りましょう」

 小泉は今回の行為がバレることを恐れて言った。折原は頷くと、すぐに助手席へと乗り込んだ。まだ車内には少しだけ煙草の煙の臭いが残っているような気がした。


「箕輪さん、解剖を変わってもらってもいいですか」

 先ほど解剖を終えて作業着を脱ごうとしている箕輪に対して三迫は声をかけた。

「おい、どうしたんだよ」

「どうしても調べたい物がありまして、今度奢りますからお願いします」

 三迫は箕輪の返事も聞かずに血液を持ったまま事務室を出て検査室へと向かった。箕輪はあんなに焦っている三迫を見たことがなく、仕方がないと思うしかなかった。

 三迫は手袋を取り換えると、先ほど運ばれてきた遺体から採取した血液を、パレットへと乗せ、光学顕微鏡へとセットした。いつもと異なり、緊張が伴う。落ち着かせるために、一度喉を鳴らしてから顕微鏡を覗き込んだ。

 その血液の中には、今まで見たこともない異物が存在していた。この物質が人体にどのような影響を与えているかはわからない。だが明らかにこのような物が存在していることはあり得ない事実であった。

 その物質の写真を撮ると、三迫はデータを自らのパソコンへと飛ばした。そして顕微鏡をそのままにして、事務所へと戻った。もちろん感染などを恐れ、手袋を外した手を洗浄することは忘れなかった。

 自らのパソコンに飛んできたデータを開き、改めて確認をする。三迫は今まで見たことのない物質を改めて確認した。

「慌ててどうしたんだ」

 事務所の中にいた山下は先ほどからバタバタとしている三迫に声をかけた。箕輪に解剖を変わってくれとか勝手な事をして、という思いもそこにはあった。

「山下さん、この物質見たことありますか」

 三迫の言葉に山下は席を立った。そしてパソコンを覗き込んだ。その額には縦の筋が入った。明らかに不審な物を見ているという感じであった。

「なんだこれ」

 改めて三迫を見て山下は問いかけた。

「今、亡くなったばかりの遺体から摂取した血液です。

何となく、時間が経った物と違うのではないかと……あくまでも勝手な想像で思っていたのですが、調べてみたらこんな異物が血液の中にありました」

 三迫は興奮していた。本当に勝手な思い込みである。医学的にあり得ない考えであり、自分でもなぜこんなに飛躍した考えを持ったのかと思うほどであった。だが、そこにはまぎれもなく異物が存在したのである。

 山下と三迫の間に緊迫した空気が流れた。今回の突然死に血液が関係しているかもしれない。二人の考えは一致した。

「時間が経った血液サンプルにこんな物質はなかったよな」

「はい」

 山下の問いに三迫は確信を持って応えた。山下は思わず事務所の受話器を手にした。連絡先は東京都医師会であった。そこに知人がいるという。

「できれば亡くなって間もない遺体を調べたいんだ」

「いきなり電話をしてきてなんだよ」

 東京都医師会の竹下は学生時代の友人である山下からの電話口に言った。最近の状況で監察医務院なども解剖依頼が多く、切羽詰まっているのは理解しているが、やけに焦っている山下の口調をたしなめようともしていた。

「もしかすると亡くなったばかりの遺体と、亡くなって時間が経ってからの遺体だと異なる状況があるかもしれない。

 最近送られてくる遺体は、死後どれくらい経っているのか教えてくれ」

 竹下はいきなりの質問に、一瞬考えてから答えた。

「だいたい一日は経っているかな……。親族などに連絡をして、そこから解剖の了承を得てからだからな。それまでは病院や警察の霊安室に保管という状況だけどな」

「申し訳ないが、搬送されたばかりの遺体が欲しい、どうにかならないか」

「どうにかと言ってもな。いきなりそんなことを言われても……」

 山下の問いかけに竹下は困っていた。三迫は思わす電話をスピーカーへと変えた。

「すみません、山下さんのところで解剖医をしている三迫と申します。

 三〇分くらい前に新宿署に一体運ばれているはずです。その遺体をできれば回してもらえないでしょうか」

 いきなりの問いかけに竹下は困った。山下と言い、三迫といい、一体何を考えているのか、理解できなかった。それなので、ありきたりの答えを返した。

「遺族の了承も取れていない遺体を解剖するのか、無理だろう」

「お願いします。了承の電話は私の方でさせていただきますから」

「あのなぁ」

「もしかしたら今回の突然死の原因が見つかるかもしれないんです」

「なんだと」

 竹下はその返答を聞いて焦った。今まで判別することのできなかった突然死の原因が見つけられるとしたら大変な情報になる。だが独断でそれを判断するのは危険すぎる気がしていた。

「頼む、もしも了承が取れない場合は、解剖はしない。そのかわり一体でいいから、亡くなった直後の遺体を回してくれ」

 竹下は一瞬迷った。だが万が一原因究明ができるのであれば状況は変わってくる。それを思うと、仕方なく独断の判断をするしかないという考えに至った。

「ああ、もう」

 竹下の苛立ちは受話器を通して二人に伝わった。その気持ちがわからないではない。けれども今回の突然死を止める手があるのであれば、自らの保身などなくても良いと考えていた。

「新宿署には連絡はつけられるのか」

「はい、すぐに連絡してみます」

 三迫はそれだけを言うと、すぐに折原の携帯電話へと電波をつないだ。


「逆戻りなんて」

 小泉は折原と共に霊安室に運んだ遺体を再びパトカーへと乗せて、運転席へと座り心の声を発した。煙草の臭いを消すために窓を全開にして走った車内は、駐車場の炎天下で更に暑さがこもっていた。エアコンをつけるが、そんなにすぐに涼しくなることはなかった。

「まあ、これでさっきの注射の事はチャラになりそうだな」

 折原は安堵の表情を浮かべた。しかしまだ解せない気持ちでいっぱいであった。亡くなったばかりの遺体と、時間経過の遺体……それだけで何が異なるのか……。そんな事を考えると、いつの間にか煙草を口にくわえていた。

「折原さん、また窓閉められないじゃないですか」

「まあ付き合えよ」

 熱くなった車内の窓を全開にした状態では、エアコンの風は自らの前をかすめるだけで、車内が涼しくなる気配はいっこうになく、ほぼ外気温のまま走り続けることしかできなかった。天気予報で言っていた今日の最高気温は三八度だったと、小泉はうんざりするように思い出した。

 

 解剖室に折原が運んできた遺体が搬送されたのは、先ほどの電話からそれほどの時間は経っていなかった。その間に、山下と箕輪は三迫が発見した画像データを確認していた。当の三迫は運よく遺体の両親に連絡が付き、解剖の許しを得ていた。

 感染防止のために、防護服を着た三人の解剖医は、遺体を囲んだ。

「とりあえず、一番の問題個所は心臓だ。まずは身体を開き、心臓から直接血液を採取しよう」

 山下が方針を三迫と箕輪に伝えた。二人はその考えを了承した。

「三迫、お前は心臓の血液を採取しろ。俺は他の部位の血液を調べてみる」

 箕輪が三迫に声をかける。三迫は頷き、メスを胸部に入れた。

 ここ数日、休むことを知らずに走ってきていた解剖医たちは疲れを見せていることもあった。しかし今は原因が見つかるかもしれないという先行きが見えた事により集中し、疲れを感じることはなかった。

 突然死を抑えることができるかもしれない。三迫はそんな希望から、血液を採取し、ルーペへと乗せ、それを覗いた。

「これは」

 血液の状態がカメラを通して、壁に設置されているモニターへと写し出された。そこには一時間と経たない前に三迫が発見した異物がびっしりと詰まっていた。山下は驚きを隠せずに声を発した。

「さっきの画像とは比べ物にならないほど、異物が多いな」

 一度手を止めた箕輪と三迫は、山下と同じように驚きの表情を見せた。そして背中に走る寒気のような物を感じた。

 その後も三人は、心臓以外の血液を採取し、個々にルーペへと乗せ、順番に確認していく。だがその血液は、最初に心臓から採取した物とは異なり、異物がところどころ存在するだけであった。

「心臓にだけ集まっていくっていう感じか」

 山下が唖然とした口調で言った。

「この異物が、心臓の動きだけを止めるなんてことがありますか」

 箕輪が信じられないという表情を見せた。だが、他の血液からは異物はまばらにしか見つかっていない。心臓にだけ集まり、作用する異物……。もしもそれが本当なのだとしたら、今まで人類では見つかったことのない感染症となるのであろう。

「まだ決定ではないだろうが、とりあえず実験用マウスに投与してみよう」

「あとは培養してみましょう。

 もしかすると死亡したばかりの体内に存在して、時間経過した体内に残らないという事は、体温が関係しているかもしれないですよね」

 三迫は自らの見解を述べた。

「そんな、心臓にだけ集まって、低温になると死滅する異物って……」

 箕輪が信じられないという口調で言った。山下も同じような意見であったが、やってみる価値はあると思えた。

「よし、兎に角やってみよう。

 まずは今箕輪が取った、異物の少ない血液をマウスに投与しよう。

 そして残った血液を、四十度、三十度、二十度、十度と温度を分けて保管してみよう」

 山下が三迫の意見を参考にして、方針を語った。それに三迫も箕輪も反対することはなかった。

「これで一歩踏み出した感じだな」

 箕輪が三迫の肩を叩いた。

「そうですね。でもまだわからないことだらけですから」

 先日、何となく微睡んでいた板橋の喫茶店で、現実と夢の狭間で聞こえてきた血液感染説が、こうもうまくはまるとは……。素人が何となく言っていた事かもしれないが、もしも隣にいた人物がそのような事を言っていたのであれば、いつか会った時にお礼……いやそれどころでは済まないと、三迫は考えていた。


 一通りの検査を終え、三人は感染しないように防護服を脱ぎ、全身の消毒を終えてから事務所へと戻ってきた。そこには折原と小泉も、結果を待つように残っていた。

山下は特例を認めてくれた竹下に連絡を入れた。

「血液の中にある異物が、心臓でだけ増殖しているだと」

 結果を聞いた竹下は、受話器の向こうで驚きを隠せなかった。様々な症例を見てきているが、そんな事を今まで聞いたこともなかったからである。

「俺たちにも確定したことはわからない。けれども、その可能性は高いと思う。

 今、マウスにも血液を投与して確認している最中だ」

「そんなことがあるのか……」

 未だに竹下は信じられないという様子であった。だがそれをこの目で確認したいという思いは強くなっていった。

「今からそっちにいく。たぶん三十分くらいで着けると思う」

「わかった。画像などのデータは保存してあるから、確認してみてくれ」

 竹下が急ぐように受話器を乱暴に置いた音が、山下の耳に響いた。


 先ほど異物の入っている血液を投与されたマウス三匹は、虫かごのようなガラスの容器の中で、所狭し、と動き回っていた。体調が悪いというような動きはないようである。

「こいつらが動きを止めた時に、心臓にだけ、さっきと同じように異物が溜まるってか」

 結果を聞かされた折原が、不思議そうにマウスを見た。マスクをしない折原を見て、小泉はどのように感染する可能性があるかもしれない今の状況で、よくもそのような行動がとれるのかと、不思議に思っていた。血液感染だとしたら、問題はないのかもしれないが、小泉は絶対にマスクを外す気にはなれなかった。

「こんな事ってあるのか……」

 駆け付けた竹下は、データとして作られた様々な画像を見て、驚愕していた。

「俺たちもまだ信じられない。けれども今まで見たことのない異物だ。

 ウイルスなのか、細菌なのか、なんとも判別がつきにくい」

 山下は現物を見ていても竹下同様に信じられない思いであった。けれども実際に見たこともない異物が、血液の中に混入しているのである。現実を見れば、それが何かの作用と及ぼしていると考えることが必然であった。

 その間に運ばれてきた二体の解剖を三迫と箕輪は終えると、着替えを済ませて、事務室へと戻ってきた。

「何で血液が関係あると思ったんだ」

 竹下は、この異物を見つけたのが三迫だと聞いて問いかけた。

「何となくですよ。確信は持てなかったのですが、何だか気になって」

 本当に偶然である。三迫はそれ以外ないと思った。何かに導かれたのかもしれないし、そうでないかもしれない。けれどもなぜかこの結論にたどり着いたのである。

 その時にマウスを見ていた折原が声を上げた。

「三迫、一匹が動かなくなったぞ」

 その言葉に反応したように、三迫はマスクと手袋をして、動かなくなったマウスを取り出した。胸に指先を当てると心音が感じられない。人間と同じように突然死で間違いないと思えた。

 投与してからそれほどの時間は経過していない。それに残りの二匹のマウスはまだピンピンしている。

「こんなに早く亡くなるなんてな」

 箕輪の驚いた声につられるように、みんなの表情が固まった。

 異物の混入した血液を投与してからそれほどの時間は経っていない。それでも亡くなった。マウスと人間の個体差を考えても、ありえない速さであった。もしも人間にこの異物が混入した際に、この速度で心停止を起こすのであれば、感染から数日の間に発症し、心停止を起こす可能性は多いに考えられた。

「マウスの死亡がこれだけ早いとなると……」

 三迫は一九七六年にアフリカのスーダンで起こった感染症を思い浮かべた。

「エボラ出血熱か……」

 山下と同時に竹下が声を驚愕の声を上げた。もしも今まで亡くなった人たちがこの異物によって心停止を招いていたとすれば、致死率はエボラの概ねの五〇パーセントを優に超えることになる。

 ちなみにエボラ出血熱とは、野生動物から人へとエボラウイスルが感染し、人から人へも伝播する物とされている。感染経路は、感染者の体液や、体液が付着した表面への接触、感染者に直接触れるものとされている。

 発症は、発熱、倦怠感などからはじまり、嘔吐、下痢などの消化器症状が見られる。重症になると、神経症状、出血などがあり、死亡するというものである。

「エボラは潜伏期間が約七日間、その間に初期症状などが出るというが……。

 この異物による死は、何も症状が出ないとしたら、誰が感染しているかもわからないという事か……」

 三迫の言葉に、誰もが様々な憶測をし、固唾を飲んだ。確かに運ばれてきた遺体に、外傷どころか、何か死に至る兆候がないのである。一つだけわかるとすれば、先ほど見た心臓の血液が、異物によって埋め尽くされていたというだけである。

「症状もなく、潜伏していた異物が心臓に溜まり、増殖したのちに、その機能を奪っていくというのか……」

 山下は今までの感染症などではあり得ない今回の状況を明文化した。それに対して誰も反論をすることはなかった。という事は、誰もが同じ意見であった。それはみんなが頷いたことでも判断できた。

「症状が出ないという事は、隔離をするべき人間も判別できないということか」

 竹下が困惑の表情を見せた。感染症が流行った場合において、感染者を特定し、その人から他者に伝播しないために、その人たちを隔離することは大切な処置である。それが隔離どころか、感染者の特定が、死亡してからでなければ確認ができないということになる。誰が感染しているかわからない恐怖に人々は怯え、疑心暗鬼にしかならないように思えた。

「竹下、今までも解剖する際に、感染防止などの対策をしてきてはいるが、もっと引き上げなければならないな。

 何となく心不全で片づけていた問題ではもうない。確実に感染症だ。しかもレベル4」

 山下の言葉に竹下は頷いた。

 ちなみに感染症のレベルには4段階があり、レベル1は病気を起こす可能性が低い微生物など、レベル2は重篤な事態には至らないもの、感染を引き起こすインフルエンザなど、レベル3は重篤な感染を引き起こすが、人から人へは伝染せず、治療法も確率された狂犬病ウイルスなど。そしてレベル4とは、精子にかかわる重篤な事態となり、人から人へ感染し、治療法や予防法が確立されていないエボラウイルスなどを指すものである。

「山下、俺は帰って医師会で報告をする。そして他の監察医務院でも血液と心臓の特定をしようと思う」

「実際には国立感染症研究所でしかできないものかもしれないが、複数のところで調べてみるほうがいいだろう。

 ただ無理をしないようにやってもらってくれ」

 山下の答えを聞くと、竹下はすぐさま事務所を出ようとした。しかしそれを三迫が止めた。

「待ってください。もう一つの問題が残されています」

「もう一つだと」

 竹下が三迫を振り返った。急ぎたい気持ちはあるが、三迫の眼の力が強く、竹下は歩みを止めた。三迫は竹下に対して強く頷いた。

「今までこの異物が発見されず、今日、亡くなったばかりの遺体を調べたのは竹下さんも知っていますよね」

「ああ」

 それが何だというように竹下は三迫を見た。そんなことよりも早くこの事実を知らせ、全ての解剖医に再度感染の徹底をしなければならない。解剖医が感染することは防がなければならないのである。そして原因の完全特定のために血液の状況を確認するように頼もうとしていた。

「先ほど採取した血液サンプルを気温別に分けています。まずはそれを確認してからにしてください」

「何のために」

 竹下は急ぎたい気持ちを語気に含めた。

「死亡した人たちの体温によって、血液の中の異物が消滅している恐れがあるからです。だから今まで血液をいくら調べても原因特定ができなかったのです。

 今日、無理を言って死亡してすぐの遺体を運んでもらったのはそのためです」

 折原は三迫がこだわっていた部分にやっと触れた気がしていた。竹下もその言葉に納得したのか、身体の力を抜いて、その場に留まることにした。

「確かにそうだな。それを確認してからにしよう」 

 山下はその意見に同意した。その場に居合わせたみんなが同じ意見であった

 残りの二匹のマウスは未だにピンピンしており、元気に動き回っていた。

 

 監察医務院の中にある一番奥の部屋、その部屋の前を簡易的に消毒部屋として置き換えた。今までレベル4の解剖などをしたことなどなく、それに対する設備などはなかったから仕方がなかった。

そこで体に傷を負っている者がいないかをチェックした。幸いにもそのような者はいなかったが、もしも存在するとしたら、防護服を脱いだりする際に、そこに血液などが付着しないように注意しなければならなかった。

 そして皆が厚手の、今まで使用したことがないような防護服へと着替えた。エボラの話では、目に血液が入ったことによって、感染し、重症化した医師もいたというので、頭部は潜水服かと思えるようなフードと、海女がするような水中眼鏡のようなマスクで完全防備して臨んだ。

箕輪は一人、マウスの心臓を調べるために。死亡したマウスを手にして部屋の隅で解剖をはじめた。防護服同様に手袋も厚手の物を使用しているために動かしにくいという欠点はあるが、感染レベルを考えると、それをすることは絶対であった。

マウスにメスを入れて確認をすると、やはり心臓には異物がこれでもかというくらいに存在していた。

 そんな箕輪とは別に、三迫は四〇度に設定された血液サンプルを顕微鏡で確認した。この血液の中には、先ほどと同じような異物が存在していた。山下と竹下は、パソコンの画面に映し出された映像を見て、それを確認した。

 冷房を利かせている室内とは言え、感染レベル4の隔離された部屋で防護服を着ていると、ジワリと汗がにじむようであった。過度の緊張もそれに拍車をかけていたのかもしれない……。

「では三〇度です」

 三迫がプレパラートに乗せて、映し出した映像の中には、さきほどまであった異物の数はかなり減っている状態であった。いやかなりというよりも、各段の差のようで、まばらでしかなかった。

「これは温度の問題なのか……」

 山下が疑問を投げかけた。三迫は首を振ったが、防護服の上からではその反応は微妙なものでしかなかった。

「さあわかりません。二〇度の物を調べてみましょう」

 新たなサンプルを顕微鏡へと乗せ、映像を映し出した。その血液の中には、一切の異物が存在しなかった。

 なぜ亡くなったばかりの血液を調べたいと自らが思ったのか、三迫はわかるはずはなかった。単なる想いであった。しかしながらその勘は見事に的中したのかもしれなかった。続く一〇度の血液に関しても、異物は一切発見されなかった。

「三〇度くらいより下で異物がなくなるようだな」

 山下がポツリと呟いた。三迫は頷くが、やはり防護服に遮られて、それはあまりわからなかった。先ほど出した三〇度のプレパラートが正確に何度になっているかわからないが、室内の冷気で温度は下がっているはずであった。それを見越して、三迫は顕微鏡にその血液を、再度セットした。

 ある種の期待を持って顕微鏡を覗き込む。そこに異物は存在していなかった。それによって仮設が生まれた。

 人間の体温は三六度程度である。もしも三〇度未満の温度でこの異物が死滅するのであれば、人間の体温を三〇度未満まで下げれば、この異物は消滅することになる。しかしながら全ての人間の体温を三〇度未満に下げることは、現実的に不可能である。

 単純に低体温と言われるのは、人間の体温が三五度以下になった時である。そして三〇度に体温が下がった時に、人間は無感覚になり、二七度から二八度で凍死する可能性がでてくるという。逆説で言えば、HIVウイルスが八〇度で一分間加熱すれば死滅するらしいが、そんなことができる訳がないのと一緒であった。だからそんな事によって、この感染症を止めることは、不可能であった。

 唯一、現実的な事といえば、解剖などをする場合において、室内などの気温をできるだけ下げて行うことによって、解剖医の感染のリスクが下げられるという事だけであった。感染レベル4という事を考えれば、相当分厚い防護服を身に着けることになり、気温を下げることに関しては幾らでもできるという事になる。

 しかしながらそれでは異物が消滅してしまい、対応策は何もできなくなってしまう。特効薬を作る場合には、異物を消滅させないように三〇度以上の状態を保たなければならない。その上で防護服を着るということは、とてつもなく厳しい作業になることは、容易に考えられた。

 全ての確認を終え、隔離された消毒部屋の中で、みんなが防護服を脱ぎ、身体の洗浄を終えて事務所へと戻ってきた時には、所長である石黒も立ち会っていた。そしてあらかたの報告が石黒へと伝えられた。

「これは一刻を争う事態ですね。

 竹下さんは医師会を通して、感染レベル4という事を各医療機関へと伝えてください。

 私はこの資料をまとめて、高部のところへと行ってきます。山下、取りあえず頼む」

 石黒は早急にどのような処置をするべきか、高部厚生労働大臣と、斎藤厚生労働省事務次官へと指示をあおぐべく準備をはじめた。

 これでいったん解剖は終わりにして、数体の検体を使用し、今一度体温の変化によって異物が無くなるかどうかの検証をするだけで良いと考えていた。

竹下は科学捜査研究所や、監察医務院ではなく、国立感染症研究所へお願いをすることにした。やはりレベル4の感染症において、それなりの設備のあるところでしか行うべきではないと考えたからである。

あとは石黒の言ったように、医師会を通してまずは各医療機関への連絡と、厚生労働省との話し合いをして、しかるべき処理をすることが、直近の課題だと考えていた。


** *


 竹下が東京都医師会へと帰り、各医療機関に指示を出し、国立感染症研究所に連絡を入れた頃、石黒は山下と共に厚生労働省へと向かっていた。監察医務院を出る前に事務員から急ぎで大臣に会いたいという連絡を入れてもらっていた。

「ありがとうございました」

 タクシーの後部ドアが自動で開くと、車内とは違い過ぎる熱のカーテンを二人は感じた。だがそれ以上に熱い思いを秘めた二人は怯むことなく、アスファルトからの照り返しをも気にせずに急ぎ足で歩いた。目的の霞が関のビルはもうすぐであった。あと少しで外気から逃れられる。そんな事など気にもとめず、二人はあっという間に正面玄関を通り抜けた。ひんやりとしたエアコンの空気をまとうが、それはどうでも良い事であった。そして受付へと歩んだ。

「お待ち合わせですか」 

 涼しい顔をした受付の職員が、表情を変えずに二人に問いかけてきた。

「監察医務院の石黒と申します。高部大臣にお会いしたいのですが、監察医務院から連絡が行っていると思いますが……」

 それを聞いて、受付は来客リストを確認して改めて二人を制した。

「石黒さまですね、お待ちください」

 受付の職員は、内線電話の受話器を取ると、ダイヤルをプッシュした。それとほぼ同時にエレベーターの扉が開いた。その男は颯爽と来客の姿を認めると、他には目もくれずに歩み寄ってきた。

「石黒さん、こちらです」

 受付の職員は、秘書室長が直接来たことにより、内線の必要性がなくなったことを理解し、受話器を置いた。そして石黒たちに一礼をした。その頭は二人がいなくまるまで上がることはなかった。

「ありがとうございました」

 石黒は受付の職員に軽く会釈をしてから、秘書室長に従い、エレベーターへと向かった。それに山下も続く。

「高部大臣と斎藤事務次官が応接室で待っています」

 エレベーターが動き出すと、秘書室長は二人に向き直り言った。何となく今回の突然死の事であるという理解はしているのか、不審がる様子はなかった。

「急なのに申し訳ないです」

「いえ、今回の突然死の事では、二人とも気を休められない状況でありましたから、その事であれば、イの一番にとおっしゃっておられます」

 秘書室長は、応接室のある部屋の階でエレベーターを止めると、先に二人を下ろした後、先導した。

「石黒さんたちをご案内しました」

 応接室のドアを開けて、秘書室長は頭を下げた。あくまでも高部に会いに来たのは石黒であり、山下は付き添いということであった。

「高部、時間を取らせてすまない」

 石黒は旧友へ、軽く手を挙げて歩み寄った。その手をがっちりと掴み高部は応えた。今回の突然死の事で奔走しているのか、その表情には少しばかりの疲れが見えていた。

「いや、今回の事は早急に動きたいと思っているので、逆に助かった」

 斎藤はその横で、山下と目が合い、軽く頭を下げた。山下もそれに返した。

「とりあえず、立ったままでは何だから、座りましょう」

 斎藤が皆をソファへと招いた。悠長に聞いている話ではないと誰もが考えているのか、背もたれにもたれる者はいなく。そおれどころか身を乗り出すほどの雰囲気であった。そんな重たい空気の中、口を開いたのは、石黒であった。

「突然死の件で、うちの職員たちが、原因かもしれない因子を見つけ出した。

 ちょうど東京都医師会の竹下さんもいたので、更に原因究明のために動いてもらうことを約束してきた」

「東京都医師会の竹下さん。副会長の方でしたっけ」

「そうです」

 斎藤の問いかけに石黒が答えた。

「原因解明ができそうならば問題はなくなるの」

 高部が竹下の件を打ち消すように、石黒へ質問を投げつけた。

「いや、今回の件は、ここからが本題です」

 高部も斎藤もそんなに簡単な事ではないと考えていたようで、先ほどの質問はこの先へ進むべくステップのような物であった。

「今回の件は感染症の恐れがあります。今後、確実に強い措置が必要になってくることでしょう」

 石黒の言葉に、厚生労働省側は強く頷き、改めて覚悟をしたようであった。

「うちの山下たちが調べたことによって、血液の中に今まで見たことのない異物が存在していることがわかった。

ただ一体の解剖でしか特定できていないので、これから他の機関にもお願いをしているところだ」 

「血液という事は、ウイルスか細菌なの」

「いや、まだそこまではわからない。ただ今まで見たことのない物質であることは間違いないだろう」

 高部の問いに石黒が答えたところで、山下が作ってきた資料を二人に差し出した。そしてもう一部を机の上に開いた。そのページには、血液の中にある物質が映し出されていた。

「まだこれが何なのかは判別できていません。先ほど話があったように、東京都医師会の竹下さんの働きで、他の機関でも調べてもらい、同じような物の存在が確認されれば、この物質によって今回の突然死が起きていると言えるでしょう」

 山下が説明をはじめた。高部と斎藤は改めて画像を確認した。

「複数の検体から見つければか……

なぜ今までこの物質を見つけることができなかったのですか」

 斎藤は不思議な気持ちで問いかけた。突然死の報道が始まってから数日が経過している。その中で急に見つかるとは考えられなかった。それに応えるべく、山下は机の上の資料をめくった。

「私たちが調べた結果、この物質が存在するには、温度が関係しているという結果がでました。三〇度までは物質は存在するのですが、三〇度を下回ると死滅するという事です」

「もしかして、今まで死亡した人数が多かったために、検体の体温が下がることによって、物質が死滅し、存在を確認することができなかったという事なの……」 

 高部が信じられないというように手元の資料を見直した。

「うちの職員の勘みたいですが……」

 解剖医として、また医師として、勘という言葉を安易に使うべきではないと思っていたのだが、山下はその言葉を偶然に用いることしかできなかった。そして話を続けた。

「なぜか亡くなったばかりの検体が欲しいというので、急遽竹下さんに無理を言って一体だけ回してもらいました。

 そうしたらこの物質が見つかりました。しかもこの物質は、心臓内で増殖し、他の血液中にはまばらにしか存在していませんでした。他の臓器も血液と同じ程度しか存在していなかった事から、心停止にはこの物質が関係していると思われます。

 検体から取った物質の入っている血液をマウスに投与したところ、同じように心臓にだけ多くみられました」

 解明に立ち会っていたからこそ、山下の言葉は現実味を帯びており、強く感じられた。だが未だに信じられないという表情を高部も斎藤も見せていた。

「まってください。今までの突然死が、全てこの物質のせいだと考えた時に、これまで亡くなった人の致死率は……」

 斎藤は自らが言った言葉に、恐怖を覚えた。エアコンの風ではない、冷たい空気が頬を撫でたようであった。

「この物質が確実に心臓を止めるとしたら、致死率はほぼ一〇〇パーセントだと言えるでしょう。もしも搬送されずに助かった人がいたのならば、その確率はもちろん下がります。ただマウスは投与した三匹全てが同じ症状で死んでいました。

 それを鑑みると、私たちは日本版エボラと考えるほどです。だがエボラよりも致死率はもっと上かもしれないということで、先ほど言ったようにほぼ一〇〇パーセントの可能性があります。

 そうだとしたら、感染レベルは確実にレベル4と言えるのでしょうが、問題になるのは、死ぬまでに感染者に症状がなく、特定できないというところでしょう」

 斎藤は眉をひそめ、頭の中の回路を高速で動かしはじめた。血液感染、もしくは体液での感染によって、人人感染があり得るということ。そして症状が出ず、感染者を特定できないということは、その血液を調べない限り、献血にその血液が紛れる可能性まで考えられるという事である。もしも献血、輸血を全て確認するというのであれば、それを行うよりも献血自体を止めるほうが早いかもしれない。そんな事を思わず口走った。

「献血などの血液も止める必要があるのでしょうか」

「いや、輸血の血液は保存温度が三〇度以下ですから平気でしょう」

 山下が答えると、斎藤は確かにその通りだと自らの勇み足を悔いた。だがそれを忘れるほど、恐ろしい感染症が迫っていると考え、驚きによって知っている事を冷静に判断できなくなっていた。斎藤は、一度大きく深呼吸をして、自らを落ち着かせた。

「もう一度整理して考えましょう」

 高部は斎藤の狼狽を見て、自らも落ち着こうとした。一度席を立つと室内の内線を使い、秘書へと連絡を入れた。そしてコーヒーを持ってきてもらうように指示した。

 ソファに座り直した高部は、背もたれに大きく寄りかかるように座り、空を仰いだ。皆も一度落ち着いた方が良いという事で、コーヒーを待った。その間に頭の中を今一度整理することができた。

それほどかからずにコーヒーが運ばれてきて、一同は口をつけてから、再び話し始めた。

「山下さんの説明のように、感染者が特定できず、血液や体液による人人感染の可能性があるという事ですよね。食中毒でいう健康保菌者や、インフルエンザの無症状の人だけだということですよね。

 ただそこから感染した場合において、今回は致死率が異常に高い可能性があるという事ですよね」

「はい、致死率が一番の問題でしょうね」

 高部の質問に山下は冷静に答えた。

「また感染者の特定ができないということによって、警戒心が弱まり、高確率で感染が拡大する可能性もあるという事ですよね」

「そうですね」

 短いながらも山下の言葉は重みがあった。

「早急に措置を取るとしたら、どのような方法がありますか」

 高部は三人に問いかけた。自らの考えよりも、専門的な知識を持った人間たちの言葉が優先であると考えたからである。

「国立感染症研究所などにも調べてもらう予定ですから、それによって血液中の物質が原因であると判断がついた段階で、国民に今回の感染症を公表する必要があると思います。

 血液、体液による人人感染に対して注意を促すべきでしょうね」

 石黒が答えた。

「そういえば潜伏期間はどれくらいと見ていますか」

「確定した日数はまだわかりません。しかしマウスに投与してから数時間です。三匹のうち一体だけで考えると、三日くらいでしょうが、残りのマウスは未だに生きていますから、最長の期間は未定です」

 斎藤の問いかけに山下は応えた。

「確実なデータは今日の今日で取れていないという事ですよね。早急に動くにはまだ早いような気がします」

 高部が考えるように言った。確かに確実性がない現状の資料だけで進めるわけにはいかない。特に政治という意味では、早急にするのは問題が多かった。それによってただ混乱を招くような事はしたくなかったからである。

「人人感染で、心臓を蝕んで死に至らせる物質か……。だがデータ不足……」

 石黒が続くようにポツリと呟いた。

「やはり国民をあおるだけの物になり兼ねないですね。すぐの発表は……」

 斎藤も言葉を濁らせて言った。重い空気が、不快指数の高い外気のように、四人の肩にのしかかった。

 高部は考えていた。政府の発表をするにあたり、もちろん自分一人での考えでできる事ではない。問題提起をして閣議決定を待たなければならない。それに世界保健機関(WHO)への報告もしなければならない。そうなった場合には、国際的な問題に発展していく可能性が高い。もはや日本だけでの問題では済まなくなる。

 外交においても、日本に対する渡航などの問題が山積するのは目に見えていた。外国人たちへの感染が認められた場合、どれだけで厳しい目が日本へと向けられるかは、容易にわかることであった。

 石黒や山下は、今すぐにでも公表するべきだと考えるが、確かにデータ不足は否めなかった。様々な会社や個人の利益などの問題もあるが、まずは感染を止め、感染者には申し訳ないが放置する以外はなく、一週間、ないし二週間の他人との接触をなるべく避けることによって、この物質の全死滅ができれば、とも考えていた。

 二人は、とりあえず高部に報告ができただけでも良かったのではないかと考え、高部の部屋を退出した。その背中を斎藤が追ってきた。

「石黒さん」

 先ほどの応接室よりも、少しだけ気温が高いと思われた廊下で、二人は立ち止まり、斎藤へ向き直った。

「現段階では、私と大臣は同じ意見ですので、何とも動けない立場にあります。

 しかし国民のためを思えばこそ、二人の結果報告や意見は尊重すべきだと考えております。

 データが揃い次第、動けるように大臣と調整していますので、今後ともよろしくお願いいたします。できる限り、早急に閣議を開けるように、高部共々、お待ちしております」

 斎藤は二人に対して、深く頭を下げた。石黒は、キャリア官僚である斎藤が、日夜国民のためを考えながら仕事をしていることを理解していた。中には保身に走る人もいるのだろうが、今の斎藤の言葉に、私心はないと思えた。

「わかりました。良い報告ができるように努力いたします」

 石黒は頭を下げた。山下もそれに続いた。そして自分たちがやるべきことを、今一度胸に刻んだ。


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