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絆 ~人とのかかわりゆえに~  作者: 祓川雄次


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「ちょっと調べてもらいたい遺体があるんだが……」

 そんな折原の電話を受けて、

「わかりました」

 と返した三迫昌昭の元に一体の遺体が運ばれてきたのは、定時が近くなった頃であった。 

「親の承諾は取れているって言っていましたよね」

「ああ、事件性はないので、行政解剖に回すということは同意を得ている」

 三迫は助手と共にベッドに横たわる、折原が運んできた遺体の確認をはじめた。手始めにまだ完全に枯渇していない血液を抜き取った。硬化が進んでいるために、針を打つのは通常の病院よりも大変であった。だが助手は慣れた手つきで血液を抜き取った。その腕には注射針などの痕はなく、薬物を使用していたという形跡はなかった。だが念のために血液を鑑定するために助手はそれを検査室へと運んだ。腕などに注射痕がなくても、市販薬などの過剰摂取なども疑われるためである。

 外傷のない鑑定はそれほどの時間を使わずに終わった。その後血液検査などの結果が出たところで、三迫は折原と小泉に声をかけた。

「ざっと見たのですが、折原さんが言っていたように外傷はないので、事件性はないでしょう。

 血液も調べてみましが、数値的に血栓などができるような数値でもないです。薬物などの反応も全くない。実際には死因の特定はわからないと言ったところですね」

「じゃあ心不全で終わりか」

「いつもの通りです。それにしてもこんなに若いのに突然死とは……。この段階で持病があるかどうかなどはわからないですけれど、両親に聞いてみて、何かあればまだいいかもしれないですね」

 三迫は親の気持ちの落としどころを折原に伝えた。理由のわからない死ほど悲しいものはない。そんな意見に対して折原は何となく納得するしかなかった。

板野貢の両親に電話をした際に、ただ引き取りをお願いするだけでも良かったはずなのに、なぜか解剖に回さなければならないと考えてしまった。刑事の勘でもなんでもない、なぜかそんな気がしたのだ。その電話でのやりとりを聞いていた小泉も後々折原に、なぜ解剖に回すのか聞き返されるくらいであった。

「無駄かもしれないが、どうして亡くなったのか、理由を調べようとすることは悪いことではないでしょう」

 三迫はそういうと、自分用に机の上にいつも数本用意している缶コーヒーを折原と小泉に渡した。折原はそれを受け取ると、そのまま上着のポケットへと入れた。小泉はすぐにプルトップを開けて、一口体内へと流し込んだ。

「遺体の声ってか、前も言っていたよな」

「なぜ自分が死んだのか。自分でもわかっていない時があるのだろうけど、その声を聞き、それを代弁してあげるのが私たち監察医の使命だと思っていますから」

 自分たちが、発せなくなった声を見つけた時に、その人の無念を晴らしてあげることができる時もある。最後の言葉だからこそ、三迫はこの仕事を選んだのである。

「わかった、残業させて悪かったな」

 折原はそういうと、先ほどもらった缶コーヒーへと口をつけた。

 たまには早く家に帰ろう。そんな事を思っていたのだが、自分の妙な胸騒ぎで遅くなってしまった事を、折原は仕方ないという言葉で片づけようとしていた。妻も長年、折原のそんな感覚に付きあっているせいか、折原が家にいないことを責めることはなかった。ただ一八歳になる娘としては、どう考えているか……と以前折原にチクリと言っていることはあった。

 

 翌日、折原は出勤すると板野貢の両親が来るまでに感傷に浸りそうになった。

 長野出身の板野貢の両親は新幹線に乗って、太陽だけでなく、コンクリートの照り返しの多い東京へと出てくる。事件性はないにせよ、遺体の引き渡し作業は、あまり気分のいいものではなかった。自分はこのような場面に何度もあっているが、やはり人の死を悲しむ背中を見るのは辛かった。しかも今回は大学生と若い男である。自分の娘がもしも遺体で見つかったとしたら、やはり耐えられるものではない。親として、同じような気持ちがわかるので、なおさら感傷に拍車がかかった。

「折原さん、また何か考えているんですか」

「いや、大丈夫だ」

 小泉は熱血漢で泣き虫な折原の気を使って言った。平然と答えているようでいるが、やはり感情移入しているのだろうと、小泉はいつもの言葉とは少し異なる感情の揺れのようなものを感じていた。

「煙草、吸って来る」

 折原は席を立とうとした。どうしても署の中にいると要らぬことを考えてしまう。そう思えたからだ。しかし折原がその場を離れることはできなかった。

「折原さん。板野さんという方がお見えです」

 受付の職員に案内されて、板野貢の両親が早々と来たというのであった。煙草は二の次か……折原は歩を止めた。

「折原さん、いきましょう」

 小泉は先に立ち、折原が少しだけ、ほんの少しだけ気持ちを整理できる時間を確保しようとしていた。そんな心遣いに、折原は頭を掻き、ため息を一つついた。

「板野です。息子はどこに」

「署内の霊安室にいます。先に解剖の結果をお知らせいたしますので、こちらへ」

 小泉は二人を応接室へと案内した。その後方から折原は続いた。

「昨日、連絡を差し上げた通り、観察医務院で解剖を行いました。

 大きな解剖はしていませんので、体が損傷したりはしていません。血液の検査をして、薬などによるものではないと判定もされました。

 それなので死因は心不全ということになります。お子さんは、持病などはお持ちでしたか」

「特に病気があるなどは聞いていませんが」

 それには母親が答えた。都会に出てくるまでは何もなかったということは母親が一番理解していたのだろう。

「心不全というので、もしも覚せい剤なんかを使っていたらと思ってしまいましたが、そのようなことはないという事ですよね」

「はい」

 折原は父親の問いに答えた。世間体を気にしているのか、それとも純粋に息子がそのような物に手を出していなかったと聞きたかったのかはわからないが、そんな気持ちは払拭されたのだろう。父親は、安堵とも思えぬため息をついて頷いた。

「あの、遺体を運ぶのはどのようにすれば……」

「専門の業者さんに頼むこともできます。こちらに連絡先が」

 小泉は用意していたパンフレットを両親に提示した。改めて遺体の搬送という言葉が、息子の死を実感させたのか、暗くなっている両親の眼には涙が見えた。

 搬送の手筈が済み、両親は貢が住んでいた部屋を片付けに行くという話であった。

「何かありましたら、ご連絡ください」

 折原は名刺を渡すが、たぶん両親から連絡はないと思っていた。これ以上警察に対して何があるのか……。もう自分たちが必要ではないと理解はしていた。これから必要なのは、息子の死を受け入れる覚悟と、葬儀の準備だけであろうと考えていた。


** *


「佐智、夏休みだからっていつまで寝ているの」

 目を覚ましたまま布団の中でずっと天井を見上げている佐智の耳に、階下から母親の声が聞こえた。父親が両親から相続した土地に建てられた一戸建ては、まだローンの返済の真っ最中であった。そのせいもあり母親も家計を助けるために、これからパートに行かなければならなかった。そんな中、佐智が起きてこない事に気を揉んでいた。

 佐智は放心状態のままであった。何度となく、聖羅が倒れる姿が、脳裏の中に巻き戻しで再生されている。こんな気持ちで誰かに会いたいとは思わなかった。だから先ほどから数回に渡って生存確認のように声を上げる母親の言葉を無視していたのである。

 窓から入ってくる太陽の光は、いつもよりも強く感じられる。たぶん自らの心が沈んでいる分、反発するように見えているのかもしれない。

「パートに行って来るからね。ご飯、食べるなら冷蔵庫におかずがあるから」

 母親はそれだけを言うと、玄関を出ていった。誰にも会いたくはないが、一人になると、それはそれで更に胸がつまってくる気がしていた。

 佐智は何となく部屋を抜け出し、居間へと降りた。がらんとした、虚無に思える空間が、佐智の表情を更に無くしていく。ふいにお腹が鳴った。悲しくてもお腹は空くのである。兎に角、食事をしてみよう。佐智は冷蔵庫を開けた。そこには母親が言っていた通りに、食べ物が用意してあった。スクランブルエッグと焼いたソーセージのであった。

 佐智はそれを電子レンジへと入れると、トースターに六枚切りのパンを入れ、何となくテレビをつけた。

設定されていた番組はNHKであった。何かの討論会なのであろうか、国会議員たちの声が聞こえてくる。特に政治に興味がある訳ではないが、そのまま番組をつけていた。今はどんな番組でも良かったのだ。ただ一人ではないという感覚のために、音が欲しいとだけであった。

「これだけ赤字が山積している国民健康保険に、外国人を入れる必要があるのでしょうか」

 保守派の女性議員であり、厚生労働大臣の高部の発言であった。だが佐智は何を言っているのかまで耳には入れていなかった。

 焼きあがったパンとおかずをテーブルへと持ってくると、何となくテレビを見ながら食事をはじめた。

「会社として必要な外国人であれば、会社が保険を用意したり、民間の保険を適用したりするようにすればよいでしょう。それに保険を払っていないで堂々と医療を受けに来るどころか、海外から呼んだ家族に保険証を貸して医療を受けるなどの行為も行われているようですから、外国人は別枠にするべきだと思います。

しっかりと日本でやっている外国人たちを、ちゃんと保護するためにも、さまざまな面で区別をしていかなければならないと思います」

 何となく佐智の耳に入った健康保険……。それによって自分たちが恵まれているのかどうかなど、政治に興味がない佐智にはわからなかった。ただ医療の話を聞くと、昨日の聖羅の乗った救急車は保険で賄われている、などという考えが、一瞬脳裏をよぎった。その直後に、頭の片隅に残った救急車のサイレンの音が耳に聞こえてくるようであった。

 喉の渇きを覚え、冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップへと入れた。

 何となく、生きるためのエネルギーとして食事をするが、心ここにあらずというような佐智には、ただの作業でしかなかった。淡々と口の中に、カロリーを運んでいく。だが母親の味だと、なぜか認識し、落ち着く感覚を持った。

 次の瞬間、病院の中で落胆の色を見せていた聖羅の母親の顔が浮かんできた。聖羅はもう二度と、母親の料理を食べることもできないのか……そう考えると、気持ちは沈んできた。

 何とか食事を終えると、佐智は食器を流しまで持っていき、手際よく洗った。

「昨日、都内を中心に救急搬送された方が多くみられ、いずれも死亡が確認されたという事です。

 熱中症などの症状ではなく、全ての方が心不全という事で、東京都医師会は、今後このような症状の方が多くみられた場合に、何らかの対応を検討するかもしれないという見解をしめしました」

 いつの間にか討論番組からニュースへと番組は変わっていた。佐智は何となく、聖羅や貢の事を考えてしまった。たまたま搬送された人が多い日に亡くなっただけ……。そう思うしかないが、事実は曲げることはできなかった。聖羅が救急車に乗せられ、自らも付き添い、死亡を確認した。その事実は消せるものではなかった。

思わず聖羅の事切れた居酒屋での表情が佐智の脳裏に蘇った。貢との関係を、しっかりと確信が持てない中で問いただした自分が、聖羅の死を招いたのか……。そうだとしたら、刑罰に問われるわけではないが、自らの言動が人を殺してしまったのではないかと、佐智は恐怖を覚えた。

 居間は佐智が降りてくる前に母親がエアコンを消していたこともあり、徐々に室温が上がってきていた。その暑さから逃れるように、佐智は適温を求め、自らの部屋へと逃げ込んだ。

 つけっぱなしにしていたエアコンの風が気持ちよかった。それでも心は晴れなかった。もっと強風にして、自らの心を包んでいるモヤモヤを飛ばしてくれるのならばどんなに楽になるのか……。

 佐智は何とも言えない思いであった。瞳を閉じると、聖羅が倒れていく様が、みんなが取り囲み、AEDを装着し、救急車に乗せられていく姿が……昨日は一体何時間あったのだろうというくらい、時間経過と疲労が佐智の頭を混乱させていく。あとで聖羅の家に行った方がよいのか、それともそっとしておいたほうがよいのか……。さっぱりわからなかった。

 重たい胸を解放したいと布団の上に飛び込んでみるが、何一つ変わらない自分がいた。何度となく迫ってくる聖羅の様を思い出しているうちに、佐智はいつの間にか眠りへといざなわれていた。


** *


 亮はちょっとした胸の違和感を覚え、目を覚ました。頭に鈍痛も感じられる。

 昨日、明らかに学生が住むという感じの、ワンルームに帰ってきてからというもの、全く睡魔が襲ってこなかった。そんな中で、貢と聖羅の死が、どんどんと亮の心を締め付けていく感じがしてならなかった。

 布団に横になるが、全く眠れる気がしない。無理やり目を閉じてみたが。霊安室で見た貢の姿が、倒れた聖羅の姿が脳裏からはみ出すように、瞼のスクリーンに映し出される。

 悲しみ、苛立ち、何だか感情が、どれが本当に今、自分が考えているものなのか……まったくわからずにいた。亮は近くの二四時間スーパーへと行き、普段飲むことのないウイスキーを手にした。それが有名なバーボンだとは知らず、ただただ度数の高い酒を飲めば何とか感情が落ち着くと思っていた。

 それから一体、どのくらいの酒を摂取したのかわからない。ただその結果が、今の胸の違和感と頭の鈍痛の原因なのだろう。

 ふと机の上に置かれている酒瓶を見た。半分くらいはなくなっていた。

「こんなに飲んだのか」

 亮は立ち上がると一瞬胸に気持ち悪さを覚えた。そのまま台所の流しへ移動し、蛇口から出る水を手で汲むようにして喉に流し込んだ。だがそれで二日酔いが収まる訳ではなかった。

 亮は昨日滑り込むことのなかった布団の上に身体を投げ出した。スマートフォンを手に取ると、サークルの仲間から連絡が多く届いていることに気が付いた。

【砂原は大丈夫だったのか】

【亮、貢の事も詳しく聞きたいから連絡しろ】

 などと昨日の詰め込まれた出来事をどこかに吐き出さなければならないという事を悟った。だが自分の中で気持ちの整理がつかないものを、どのように吐き出せばよいかなど、亮にはわかるはずもなかった。

 シャワーでも浴びて、気持ちを切り替えてから、連絡が来ている仲間たちに順次連絡をしよう。亮は自分の身体とは思えないくらい重たい身体を無理やり持ち上げて、フラフラと歩いた。

 シャワーを浴びると、少しだけ楽になった気がした。食欲も少しだが出てきた。かといって何かを食べたいという感じではない。自分の気持ちが少しだけ乖離している。どこかでズレた自らの身体と心をどうやって繋ぎ止めようか迷っている時であった。ふと来客を知らせる呼び鈴が鳴った。

 玄関のドアについている覗き穴を見ると、そこには高知の姿があった。亮はすぐに扉を開けた。

「亮、大丈夫か」

 心配顔の高知の顔が、表情と同じような口調で出された。

「大丈夫だけれども……」

 その言葉を聞いて、高知は脱力した。

「どうしたんだよ」

 亮は緩んだ表情を見せる高知に問いかけた。高知は呆れた表情へと変え、スマートフォンの画面を亮に見せた。

【もうダメだ】

【何かよくわからない】

【気持ち悪い】

 などと書かれたメッセージが陳列していた。そしてそれを送っていたのは亮自身であった。思わず自分に呆れ、亮は脱力した。

「起きたらこんなのが来ていたから、急いできちゃったよ。

 貢のこともあったし、亮までって……」

 亮は高知が安堵した気持ちが分かった。そして自分の事を心配してきてくれてのだと頭を下げた。

「すまない、とりあえず入れよ」

 亮はワンルームの狭い空間に高知を受け入れた。高知はテーブルの上に置かれたバーボンの瓶を見て、亮が帰ってきてから飲み過ぎていたのだと思い、それを確認した。

「もしかして、ただ酔っぱらっていただけか……」

「たぶんな」 

 亮は冷蔵庫の中からペットボトルのウーロン茶を二つのコップへと入れ、テーブルの上へと置いた。炎天下の中急いできたのだろう、汗まみれになっている高知は、そのウーロン茶を一気に体内へと取り込んだ。そして落ち着いたというように、吐息を漏らした。

「すまない、飲まなきゃいられなかったんだ。それでたぶん、そんなメッセージを送ったんだろうが、記憶にない」

 亮は再び頭を下げた。高知は飲み終えたコップをテーブルに置くと

「そんな感じだな。でも無事で良かったよ。貢のこともあったから、どうしても気になっちゃったからな」

 と笑顔を返した。だが次の瞬間、貢の事を思い出し、二人は表情を硬くした。昨日の今日で友人の死を割り切れるはずがなかった。

「そういえば、砂原はどうだったんだ」

 問いかけられて亮は、更に表情を硬くした。目線が高知から離れ、一度下方へと移った。何となく理解をした高知は急くことなく、亮の返答を待った。

「搬送されて、そのまま亡くなったよ」

「そうか」

 ある程度予想していた返答に、高知は頷くしかなかった。貢の死に続き、聖羅の死を見た亮の気持ちは、何となく理解……というよりも、わかろうとするしかなかった。

「それにしても貢と砂原、それに教育学部の河野って、なんでこんなに身近な奴らが死んでいくんだろうな」

「そんなのわかるかよ。俺が聞きたいくらいだよ」

 亮は高知の言葉に強く返した。亮の気持ちを考えると、高知は安易に言葉を出せなくなった。二人の遺体を確認している亮が一体どのような気持ちなのか、全くわかるはずがなかったからである。

「順も見ていたと思うけれど、砂原が俺たちの前で倒れた。そのまま病院に運ばれて亡くなった。人間が死ぬ時って、何てあっさりなんだって思ったよ。

 貢の遺体を見た時にも、何で死んでいるんだよって……。

 爺さんとかが死ぬって当たり前だろうって思うけれど、俺たちと同じ年齢だぞ。しかも心不全って……俺たちの年齢でもなるのかよ。

 何だか色々と考えていたら頭が混乱するし、眠れないし……」

 亮はそこまで言うと、息を荒くした。いつの間にか涙が頬を伝った。それを見ていた高知は、何も言葉を出すことはできなかった。そして強く握られた亮の拳を見た時に、思わずもらい泣きをしてしまった。

 何も言葉にできない二人が、炎天下の外気とはかけ離れた、エアコンの効いた狭い部屋の中に生きて存在していた。


** *


 なぜ、あんなにも簡単に聖羅が倒れたのか……暑苦しい高校の体育館の中で、校長の長話を聞いて貧血で倒れた時の事を、佐智は思い出していた。聖羅の倒れ方は同じような感じだった。それならばなぜ貧血で終わらなかったのか……。医学部でも、もちろん医師でもない佐智に、聖羅の死の原因はわかるはずはなかったが、自らの経験に当てはめると、ただの貧血だったのではないかと、それであれば……。当初思ったように、自らが貢との関係を問い詰めたことが、心臓を止める原因だったのだろうか……そんな事を考えると、あり得ない事であろうが、佐智は罪悪感にまみれていた。

 祭壇に向かい、並んでいる列が短くなるにつれ、一歩ずつ進んでいく先には、聖羅の遺影と、棺桶に入った聖羅自体がいた。喪服を着たのはこれがはじめてである。今までは学生服でも良かったが、今回はそうではない。大人の階段を昇った感覚が本来であればあったのかもしれないが、聖羅を前にしてそんな感想は浮かんでこなかった。

 貢の葬儀は実家のある長野で行われるという事で、サークルからの参加は数名しか行っていないようであった。

 聖羅に近づくにつれて、佐智の脳裏に倒れた時の、瞳を閉じた時の聖羅が浮かんでくる。佐智は涙が止まらず、まともに遺影の聖羅を見ることができなかった。焼香をする際に、聖羅の顔をしっかりと見ようと思っていたが、同じように涙で歪んでしまっていた。

【聖羅、ごめんね】

 佐智は手を合わせ、両親へと挨拶をし、会場を出ていった。母親は佐智を見て、同じように頭を下げるが、気持ちは最後についていてくれてありがとう、と呟いたようにも見えた。佐智からしたら、最後についていた私が追い込んだのにと、更に悲しさと罪悪感がこみあげてきていた。

 清めの場にたどり着き、飲み物をもらうが、何かを口にする気にはならず、また誰かと話をするなどと考えることもできずに、佐智はそのまま会場の端の方へと座った。同級生たちが来ているのだろうが、誰がどこにいるかなど涙で歪んだ瞳では確認することはできなかった。そんな崩れた顔を誰にも見られたくないという気持ちもあったのだろう。

「さっちゃん」

 そんな佐智を見つけて一人の女が声をかけてきた。何とか表情を作ろうとした佐智はハンカチで目頭を押さえてから立ち上がった。そして顔を見ると思わず名前を呟いた。

「順菜」

 佐智は中・高校の時に仲の良かった矢口順菜を見ると、抑えたばかりの涙が再び流れてきた。聖羅と順菜は幼馴染で、中学の時によく三人で遊んだものである。大学生になった今年も、夏休みの前に三人で会った事を佐智は思い出した。

 二人に取って同級生が亡くなったことは今回がはじめてである。同じ年齢の人間が、若くして亡くなるという事など全く考えていなかった事であり、事件や事故でもないこの状況は想像できないものであった。

 佐智からもらい泣きをした順菜は、佐智に抱き着いて泣いた。佐智もその順菜の、体温のある身体を強く抱きしめた。それによって、少なからず、悲しみは抑えられると思ったが、しばらくの間、涙が止まることはなかった。

 佐智は順菜と共に斎場を後にした。二人でゆっくりと聖羅の話をしようと思ったからである。それに他の知人たちが来るたびに清めの場で涙を流すこともあまり良くないのではないかと気を使ったからであった。

 空は抜けるように晴れているのに、二人の気持ちは全く晴れることはなかった。厚い雲が心を大きく覆い、まるで地中にでも埋められてしまうような感覚であった。

 二人は葬儀の時に着ていた喪服の上着を脱いで手にかけた。夏用の薄手の生地とは言え、この暑さは異常である。それを避けるために、二人は喫茶店へと入りこんだ。

 エアコンの冷気によって適温にされている店内には、数名喪服姿の人々が座っていた。斎場から一番近いという理由もあるのだろう。それなりの規模で数か所火葬できる場所があるために、今店内にいる人たちが聖羅の弔問客であるかどうかはわからなかった。

 佐智たちは、道路に面した奥の席へと通され、正面に向き合うように座った。そして案内をしてくれた店員に、そのままアイスティーを注文した。

 最初は中学、高校の時の話などをしていたが、順菜のふとした言葉で、内容は変わっていった。

「そう言えばさっちゃんと聖羅は同じ大学だったよね」

「そう、同じテニスサークルにも入っていたし、もうショックだったよ」

「高校の時の同級生に聞いても、みんな心不全で亡くなったことしか知らなかったんだけど、さっちゃんは何か知っているの」

 そう聞かれた時、何度となく脳裏に浮かぶ、倒れていく聖羅の姿が蘇った。一瞬不快な表情を見せた佐智に順菜は気遣った。

「ごめん、変な事を聞いて、もしも知っていたらって思っただけだから」

「いや、知っているけれど……」

 佐智は口ごもった。あの時の状況を説明しなければならないという事が、どれほど佐智に重圧をかけているのか……順菜が知っているはずがなかった。

「別に、無理に言わなくてもいいよ」

 順菜は何となくギクシャクとした感覚を受ける佐智に言ってから、アイスティーを流し込んだ。何となく自らの喉が渇いていると思えたからだ。

 佐智は一瞬下を向いたが、軽く頭を左右に振り、覚悟を決めたかのように順菜を見た。隠していなければならない事ではない。もしも誰にも言わないことによって、自らの心が重くなっているのならば、解放したいという思いもあった。

「あの日、聖羅と一緒に大学のテニスサークルに行ったんだ」

「……」

 順菜は頷き、何も言葉を出さずに、佐智の言葉を待った。

「練習を終えて、その後の飲み会に行った時に、ある先輩が亡くなったっていう話があったんだ。

 私は憧れていた先輩だったんだけど、あちこちで女の人に手を出しているっていう話を耳にして、たまたま隣に座っている聖羅を見たら、珍しく聖羅が困ったような顔をしていたの。もしかしたら聖羅もその先輩と何か関係があったんじゃないかって……」

 佐智は一気にそこまで言うと、渇きを感じたのか、喉を鳴らした。順菜は

「その先輩と聖羅は何かあったの」

「わからないけれど、私が先輩との関係を問いただした時に、聖羅が倒れたんだ」

 佐智の脳裏に、聖羅が倒れる瞬間が映し出された。佐智は目をつむり、下を向いた。そして再び涙が溢れて頬を伝った。

 喫茶店の店員たちは、葬儀帰りの人が多いことを物語るかのように、悲しい鳴き声があったとしても、心配をして声をかけてくることはなかった。

「それでそのまま……」

 順菜の問いに佐智は頷いた。

「先輩たちが心臓マッサージしたり、救急車を呼んだりして、色々とやったんだけれど、駄目で、病院に行って、処置室に入ったんだけれど、結局は……」

 順菜は涙が止まらない佐智の横へと移動し、肩を強く抱きしめた。

「私が、先輩との関係がどうとか聞かなかったら、ショックなんか与えなかったら、聖羅は平気だったかもしれないのに……」

 佐智は堰を切ったかのように話はじめた。誰にも語ることのできなかった、心の中にため込んだ思いを順菜に吐き出した。

「そんな事を聞いたくらいで人が死ぬなんて事ないよ。大丈夫、さっちゃんのせいじゃないって」

 順菜は佐智の頭を自らの胸に抱き、深い悲しみを遠ざけようとした。けれども佐智が泣き止むまでには、それなりの時間を要した。


** *


 亮はいつものワンルームで目を覚ました。昨日は貢の葬儀に参列するために長野まで日帰りしたのである。聖羅の葬儀も同じ日だったと耳にしたが、申し訳ないがそちらへの参列はできなかった。

 北陸新幹線に乗っていただけだというのに、長距離を移動した分の疲れは身体に残っていた。サークルの仲間で貢の葬儀に参列したのは亮と高知だけであった。さすがに長野までは行っていられないという理由は仕方がないと思え、列席しなかった人間を責めるようなことはなかった。

 何気なく起きた亮は、スマートフォンを手にした。何となく画面を見てしまうのは、ある種の依存症なのであろうと思いながらも、やはりそれを見ないという事はできなかった。

 そこで何となく気になるニュースの見出しに目が行ってしまった。普段であるならば、スポーツニュース程度しか見ることがないのだが、どうしても見出しから目を離すことはできなかった。

 そのニュースを文字で見るのも面倒だと思っていると、画面上に動画があることに気が付いた。どこかの民放のニュースなのであろう。そのニュース動画をクリックすると、亮は音量を大きくした。

「先日、救急搬送後、心不全で亡くなるケースが多いと報道しましたが、東京都医師会は、その後もそのような方が増えていることを厚生労働省に報告していることがわかりました。

 先週くらいから自宅や路上にて倒れている方が目撃され、救急搬送をされていると言います。その方たちは外傷などがないために事件性はなく、突然心臓が停止しているという同じ症状がみられるという事でした。

 そのために東京都医師会は、厚生労働省を話し合い、これが感染症なのかどうかなど対策を話し合うことにしたとのことです」

 そのニュースを耳にした時に、亮は貢と聖羅の事を思いだした。報道されているものと同じような症状である。だが突然の心停止を起こすなど、たまたま多いだけで、何かの関連があるなどとは考えられなかった。

 頭の中が混乱するような中、亮は考えてもどうなる問題ではないと、朝食を食べようと気持ちを切り替えた。買ってあった食パンを焼かずに、そのままジャムを塗りたくり、思い切りかぶりついた。腹が少しずつ満たされていく中で、亮は落ち着きを取り戻していった。ニュースになっていることとは関連がない。というよりも、今更そんな事をどうこう言っても貢は帰ってこない。

 亮は食パンを食べ終わると、そのまま布団の上へと寝っ転がった。その瞬間に、スマートフォンが音を立てた。反射的に亮は起き上がり、画面を見た。そこには電波を飛ばしてきている佐智の名前が写し出されていた。

「朝からどうした」

 亮は佐智がどのような事で連絡をしてきたのか予想する気もなかった。

「亮先輩、ニュースって見ましたか」

「ニュース、何かあったのか」

 亮は一瞬、何の事だかわからなかった。ただ佐智との最近の接点と言えば、聖羅の死であったことを思い出した。そして先ほど見たスマートフォンの画面の事も……。

「もしかして、救急搬送がどうとか言うやつか……」

「はい」

 佐智は亮が同じニュースを見ていた事で、話が早いと思っていた。

「それがどうかしたのか」

 亮は何となく気になったニュースであったが、佐智がそれを何かしてくるとは考えていなかった。

「亮先輩、聖羅が亡くなった時の事、覚えていますか」

「それはもちろん」

 亮の中でも倒れた聖羅に対して、みんなが集まった時のことが思い出された。

「あのニュースで報道されていた事と同じじゃないかって……」

「そうだったにしても、今更俺たちがどうこう言っても……」

 大学生の自分たちに一体何ができるのか……考えようとしても答えが見当たるはずはないのである。いくら佐智が聖羅の死に対して後ろめたいような気持ちがあろうと、何も行動することはできない。亮はそう思うと、はっきりとは言えずに言葉を濁した。

「確かに私たちにできることはないかもしれないですけれど、亮先輩は貢先輩の死にも立ち会っているのですよね。そこで何か感じることはなかったですか」

 佐智の言葉は少しだけ先走るように、まるで亮を責めているかのようにも感じられた。

「何かって言ってもな」

 亮は佐智の手綱を引こうとしていた。このまま突っ走られても答えようがなかったからである。だが佐智はサークルにいる時の大人しさとは異なり、珍しく止まることはなかった。

「あの二人が、報道で言っているように、医師会などが言っているような感染症とか、何かの原因があるのではないかって……。

 少なからず何かがあるのではないかって……」

 亮は何となく佐智が思っていることがわかるような気がしてきた。自らの呵責を軽くするためにも、自分が発端を作ったわけではなく、他に問題があると思いたいのだと……。貢はともかく、聖羅の死の直前に話をしていた佐智としては、どこかで心を軽くしたいのだろうと思えた。しかしながらどうしたら良いのか……答えは見つからなかった。

「亮先輩」

 いつになく重圧をかけてくる佐智を持て余してか、亮は

「とりあえず昼過ぎに板橋の方に来られるか」

 と佐智と会うことにした。自らの自宅の方に来るまでに少しでも佐智の熱が冷めていればと考えたからである。ちょっとでも落ち着かせた状態で、自分たちは静観することしかできないという事を伝えようと思った。

「お昼ですか」

 佐智は時計を確認した。午前九時を回ったばかりである。今から支度をしても昼には充分に間に合う。

「わかりました。板橋に着いたらまた電話します」

「わかった」

 亮はこの数時間の間に、佐智が落ち着いてきてくれることを願い、立ち上がるとシャワールームへと向かった。


** *


 三迫はやっとの事で監察医務院を出た。ここ数日で一気に疲れが溜まってきている印象がある。昨日も数体の解剖を行ったばかりである。折原が新宿で倒れていたという遺体を解剖してから、いつの間にか忙しい日々が続いていた。

 ニュースなどでもやっている通り、救急搬送された遺体が多く、東京都医師会からの要請もあり、監察医務院にも解剖依頼が多くあった。

 外傷はなく、どこを見たらよいのかもわからない遺体ばかりである。血液などを摂取して機械にかけてみても、チェック項目に引っかかるような病気などは見つからなかった。行政解剖だからまだこの程度で済んでいるのかもしれないが、司法解剖を行っている病院にもかなりの遺体が並んでいる可能性があることを、三迫は推測していた。

 二件ほど脳梗塞の遺体がいたが、これは持病もある人が、暑さも影響してなったようなものであり、今回の一連のものとは関係がなかった。

 結局は全てが心不全という事になった。

 折原が運んできた遺体も、何も問題はなかったし、もしも何かのウイルスなどであったとしたら、原因が現段階で特定できているはずである。それも直接的な原因ではなく、因果関係があるという程度しかわからないのであろうが……。

 これがパンデミックのような状態だとしたら、この後どのような事態になるのか……。しかもいきなり死を迎えるようなものであれば、病院ではなく、解剖などの原因究明が主になっていくのだろう。今日は当直明けで帰れたとしても、今後はどのような状況になるのか……三迫は思いやられる気持ちであった。

 板橋の駅を降り、自宅まではそう遠くはないが、コーヒーでも飲もうと、いつも寄ることの多い個人の喫茶店へと身を寄せた。

「いらっしゃい」

 喫茶店の店主はいつも見慣れた三迫の顔を見ると、慣れた口調で言った。店主はエアコンの効いた店の中でゆるゆるとしているが、三迫の暑苦しい汗まみれのシャツを見て、今日も暑いのか、と他人事のように思った。

「いつもの席は空いているよ」

 三迫は奥から二番目の席へと座った。通うようになって、いつの間にか定位置となった席へ腰を下ろすと、安堵したせいかふくらはぎがうっ血していることに気が付いた。そこまで疲れ切る年齢でもなかろうに……三迫は四〇手前の自らの情けなさを少しだけ責めた。

「マスター、ホットを」

「もうやっているよ」

 常連という事もあってか、注文するものを見越して店主は準備を進めていた。熱中症警戒アラートが出ていても三迫はいつもホットコーヒーである。やはりコーヒーの香りを楽しむのはホットだと店主も同じ思いであった。けれどもこんなに外が篤ければ、必然的にアイスコーヒーの注文が多くなることはやむを得ないという気持ちもあった。

「はいよ」

 店主は三迫にコーヒーと共に水を出すと、他の注文を受けているのか、すぐにカウンターの中へと戻っていった。

 三迫は喉の渇きを覚え、水を飲んだ。カルキ臭さを消すようなレモンの入っているものとは異なり、何も入れていない純粋な水は、三迫の汗だくの身体に染み渡った。やっとエアコンの風の影響もあり、汗が引き始めていた。けれどもコーヒーを飲んだ時に、再び額から汗が流れた。

 

** *


 亮は炎天下の中、Tシャツの背を汗で濡らしながら板橋駅の改札を抜けた通路のところに立ち尽くしていた。そこは日陰にこそなっているが、対流せずに残っている湿度が、亮の汗を更に誘った。

もうそろそろかな……。スマートフォンを取り出し時間を確認した。曖昧にした約束の時間はだいたい今くらいだ。亮はせっかくシャワーを浴びても、収まらない汗を感じると無駄になるような気がしていたが、浴びないよりはマシだろうと、都合よく解釈をしていた。

 電車がホームへと入ってきたからなのか、多くの人たちが改札を目指して歩いてくる。その中に待ち合わせの人物がいるのか、亮は目を凝らした。

 次々と自動改札を通り過ぎる人たちの最後尾あたりに隠れて、佐智が改札を抜けてきた。そしてキョロキョロと左右へ視線を泳がせている。その視界に入るように、亮は右手を大きく振った。佐智はその姿を確認すると、小走りで近づいてきた。

「亮先輩、わざわざすみません」

「まあいいさ、何かあったら連絡をしろと言ったのは俺だから」

 亮は今朝電話で話しをしていた時よりも、佐智が落ち着いていると思えていた。これであったら話はそれほどではなく、相談というよりも、気持ちを聞いてあげるだけで晴れるのではないかと軽く考えていた。

「とりあえずここじゃあ何だから、どこかに入ろう」

「はい」

 亮は兎に角、汗が少しでも静まる場所に行きたかった。これ以上外気に身体をさらすことは避けたかった。亮は静かに話ができるほうが良いだろうと、チェーンのような店を避けようとしていた。かといってそれ以外の店を知っている訳でもなかった。

 何となく駅から離れていく中で、一軒の喫茶店に目が行った。少しレトロなイメージを受ける喫茶店だから落ち着いているのだろうと、亮は勝手に思った。

「ここにしようか」

 亮の言葉に佐智は頷いて答えた。

 扉を開けて入ると、亮は思ったよりも客がいることに驚いた。それでも店内は落ち着きを保っていた。

「いらっしゃいませ」

 店主は二名の来客を確認し声を発した。

「二人ならテーブルかな、そこか、奥へどうぞ」

 入口に近い席と一番奥の席が目についた。亮は話をするのに両側に客がいるよりもと思い、一番奥の席へと進んだ。佐智もそれに続く。

 隣の席に座る男は疲れているのか、少しうつらうつらと、睡魔に襲われているようであった。

 亮たちは水とメニューを持ってきた店主にコーヒーを注文した。

「その後、気持ちは落ち着いたのか」

「はい、だいぶ」

 亮は今朝の事を思い出すように言ったが、佐智は貢や聖羅が亡くなった時から、少しだけ感覚が異なっているように思えた。

「ならば良かった」

 亮はこれならば佐智の言い分を聞くだけで済むのではないかとのんびりと構えた。

 隣の男は、一瞬目を覚ましたのか、コーヒーに口をつけた。だがカップを置くとまた微睡んでいくように見えた。

 店主がコーヒーを運んできた。亮たちはそのコーヒーに、クリームピッチャーに入った生クリームと卓上に置かれている砂糖を入れた。亮は油を原料としたコーヒーフレッシュではなく、ちゃんとした生クリームが出てくる店をはじめて知ったような気がしていた。

「そういえば電話で話をしていた事なのですけれども」

 佐智は先ほどまでとは表情を変え、真剣な眼差しで話をはじめた。その瞬間、亮は電話で話をしていた時の佐智の口調を思い出し、簡単には終わらないかもと少しだけ身構えるようであった。

「今朝の心不全で亡くなっている人が多いというニュースを見て、はっとしたんです。

 聖羅は持病もなく、病院に通っているような事も聞いたことがなかったので、健康だったはずなのです。それなのにああやって倒れてのって、今回の人が亡くなっていることと同じじゃないかって思ったのですが、亮先輩はどう思いますか}

 亮は佐智の感覚につられないために、気持ちを鎮静化させようとコーヒーを口腔へと流し込んだ。

「まあその可能性はあるかもしれないが、今回言われている変死のような感じなのかどうなのか、俺にはわからないけれどな」

 亮は議論を長引かせないように濁した。

「でも、救急車が来た時には心停止をしていて、そのままだったじゃないですか」

 それでも佐智は、自らの考えを展開した。

「確かにAEDが作動しなかったから、心停止だったのだろうけれど、それと報道されていることを一緒にするのはどうなのかな」

 佐智は明らかに先走っている。亮にはそうとしか思えなかった。今は佐智の頭の中から、関連性を取ってあげるという事だけが課題になっていた。

「でも、私はどこかに関連性があると思ってしまうのですけれど……」

「まあ、俺たちがどうこう言ってもはじまらないだろう。あの報道がされる前に砂原は亡くなったんだし、今更そんな話をしてみてもはじまらない」

 佐智がどうしても引きそうにないので、亮は少しだけ口調が強くなった。それを自ら感じ、自分を落ち着かせるようにコーヒーを再び口にした。

「貢先輩も同じような死に方だったんですよね。やっぱり何かあるんじゃないですか」

「だから決めつけるなって、貢と砂原が倒れたことと、二人の共通点がどこにあるんだよ」

 共通点……確かな証拠があるわけではない。ただ聖羅が倒れる前に佐智が問いただした時の事を考えると、何かの接点があった事は間違いがないと、佐智は自らの勘を信じていた。そしてその二人に肉体関係があったから、同じような死を迎えたのではないかと考えている。突然死の報道がなければそんな事は考えなかったのだろうが、なぜか佐智はそこに関連付けてしまった。

「共通点というか、貢先輩と聖羅はたぶん肉体関係があったと思うのですよ」

 思いもよらない佐智のはっきりとした言葉に、亮は思わず口をつぐんだ。確かに貢はあちこちの女に手を出していたはずである。それは亮も武勇伝のように語る貢本人から聞いたことはある。しかし聖羅との関係は聞いたことがない。ただ聞いていないだけで、本当にあったのかもしれない。だが、それが二人の心不全という死につながるという事は、亮は考えられなかった。

「本当に貢と砂原は関係があったのか」

「それは私の勘なんですけれど……」

 佐智はしっかりとした証拠のないところを突っ込まれて、思わず口ごもった。自分がなぜこんなに二人の死を気に留めてしまうのか……それも不思議であった。貢に興味があったからなのか、聖羅が関係を持ったというところなのか、それとも問いただしたことによって聖羅が亡くなったことなのか……どこを指して自らがこんなに二人の死に対して、つき詰めようとしているのか……。思わず佐智はそれによって亮に迷惑をかけているのではないかと、視線を合わせられなくなった。

「勘か……まあ仮に肉体関係があったとして考えてみても、死につながるなんて思えないだろう。

 もしも肉体関係で何かがあるとしても性病とかくらいだろう。血液感染で考えられるとしてもHIVとかくらいだろうし、HIVならば潜伏期間が長いし、エイズが発症しなければ簡単に死ぬこともないだろうし……」

 佐智は亮の言葉を聞くことしかできなかった。亮は反論をしてこない佐智を確認してから言葉を続けた。

「今回の心不全のニュースだけど、血液がどうとか、接触がどうとか、そんなことが発表されているわけでもないし、一応同じような死者が出ているから東京都の医師会が何か言っているだけで、何も対応がどうとか言われていないんだし、やっぱり俺たちが今、考えてどうこう言ってもはじまらないだろう」

「まあ、そうですね」

 完全に納得しているわけではないが、佐智はそれ以上の反論はできなかった。確かに肉体関係を持ったからと言って、しばらくして亡くなってしまうなどというのであれば、人類はこんなに栄えることはなかったのだろう。

「俺たちはあの場に立ち会っていたから、どうしても何かのせいにしたいのかもしれないけれどもできる限りのことはやった。学生の俺たちが、あの場で何かできる事なんか限られているし……。

 忘れることは勿論できないけれど、自分を責めるような事は考えなくてもいいんじゃないか」

 亮の言葉に佐智は、無理やりでも自分を納得して、現状を受け止めることしかできないと考えていた。

「まあ、深く考えるなよ。確かに一気に二人の知り合いを無くしたのはショックだと思うけれども、決して俺たちに問題があったわけじゃない。

 人は誰もが死ぬんだ。たまたまあの二人が早かっただけだ」

 亮は佐智に言った言葉を、自らにも言い聞かせていた。そう誰もが死ぬ、それを現実として受け入れることしかできないのである。例え、それがどんなに悲しくても、それを覆すことはできないのである。

 それなりに議論をつくした二人は重い空気をまとった。亮はしばらくの沈黙の後、

「帰ろう」

 と言った。佐智はその提案に乗ることしかできなかった。これ以上何を言っても、自分のわがままにしかならない。それでも気持ちの整理がついていなかったからなのか、佐智は立ち上がる時に、鞄をひっくり返した。

「大丈夫か」

 伝票を持ちながら先に席を立っていた亮が声をかける。

「平気です」

 佐智は鞄からこぼれた荷物を急いで拾いながら亮の後を追った。

 二人が座っていた席には、何となく違う空気が今も漂っていた。


 佐智たちが帰った隣の席に座っていた三迫は、中途半端な微睡みの中から目を覚ました。疲れのせいか、身体が少しだけ重たく感じられた。コーヒーに手を付け、筋肉が固まった身体を伸ばした。そして何となく、先ほど頭の中に聞こえていたような声を思い出した。

 心不全、血液感染……そんな言葉がどこから聞こえてきたような気がしていた。確か男女の客が隣の席に座っていたような気もする。だがそれが現実なのか夢なのか、理解しづらい状態であった。

 三迫ははっきりしない頭で辺りを見渡した。その時、隣のテーブルと壁の間に落ちている手帳を見た時に、やはり隣の席に人がいたのだと理解をした。その手帳を拾った時にカードのような物が零れ落ちた。それは学生証のようなものであった。

 ふと時計を見ると、結構な時間この席を占有していたことに気が付いた。

 帰ろう……三迫は伝票を持って立ち上がった。そして重たい身体で会計をしようとした。店主はそれに気が付くと、先ほどまで微睡んでいた三迫に声をかけた。

「随分と疲れているみたいだったね」

「ええ、最近は仕事が忙しくて」

 自分の仕事が忙しいことは良くない事である。三迫はそんな事を考えていた。人が死ななければ、死因を調べるような事がなければ、自分たちの仕事が忙しくなることはない。ただ死ぬのではない、死体の言葉を聞かなければならないような事態になることが良いことではないのだ。だが、その死者の言葉はしっかりと、誰かに届けていかなければならない。そんな事を考えると、何とも言えない気持ちであった。

「まあ、無理はしない事だね」

 店主は釣銭を三迫に渡しながら言った。

「まったくだ」

 三迫は財布に釣銭を入れながら言った。そしてもう一つやらなければならない事を思い出した。

「そういえば、俺の隣に座っていた人が落としていったみたいだよ」

 三迫は先ほど拾った手帳を店主へと渡した。

「ああ、ありがとう」

 店主はそういうとレジの下にある落とし物入れへとその手帳を無造作に入れた。持ち主が取りに来るまでの間、ちょっとした保管の場所なのであろう。

 三迫は店を出た。涼しかった店内とは打って変わり、湿度の高い熱を身体へと感じた。

 早く家に帰ってエアコンの効いた部屋で眠ろう。三迫は大きくため息をつくと、強い日差しの中を歩き始めた。


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