11(完)
「次期総裁には高部美智子氏が決定いたしました」
藤原が辞職した与党の総裁選は、最終的に四人の候補が立候補したが、圧倒的な得票を得て、高部が就任することになった。日本初の女性総理がどのような事をやってくれるのか、ある種の期待と不安が各メディアを騒がせた。
藤原や清橋が高部を押したので、それに便乗するように票が増えたことは間違いがなかった。加えてマスメディアやインフルエンサーが実施した民意が高部を押していたこともあり、SNSなどのネット上でもそれをあおる事が更に影響力を強めたと見る節もあった。
高部の主張の中には、日本国籍を有する者へ、主権国家としてしっかりと行動をしていきたいという物もあった。日本が日本人以外を下手に優遇していた部分もあり、日本人が日本を取り戻すという事に期待をしている人たちも多かったのだろう。一時、アメリカ・ファーストを掲げた大統領がいたが、そこまでではなくとも、しっかりと国を考えてくれるのだろうという期待を持つ国民は多かったのだろう。
法務大臣に任命された清橋は、高部よりも強く行動するとも思われた。何とか議員として残って欲しいと懇願されて辞職をしなかった藤原は、経済産業大臣を任され、今一度日本が様々な面で、世界と戦うための努力をするために、経団連などの関係各所を回り始めた。
そんな日本が更に動いていく中で、高い位置に陣取った太陽は、地上を熱し続けていた。
突然死が鎮静化し、人々の感覚が薄れていく中で、それなりの日々が過ぎていった。自らの回りで被害者がいなかった人たちは、そんな事があったのかわからないくらいに、日々の生活を楽しんでいた。その中には、再び愛人の元へと通い始めた山本もいた。
みんなが、晴れた空の下で、生きている実感を身体で受け止めているのだろう。打撃を受けた経済はまだまだであるが、好転の兆しを見せている。その背景には新総理に期待する部分もあるのだろう。
箕輪は罪の意識を胸に、成田空港のコーヒーショップにいた。
「コーヒーお待たせいたしました」
従業員がトレーから三つのコーヒーと共に、クリームピッチャーを置いていった。三迫は箕輪と細貝にクリームを勧めた。そして自分はブラックでいいとばかりに、ソーサーに乗ったスプーンをカップの裏側へと置いた。
「平日だから私だけで申し訳ないですね」
「いや、逆に三迫がきてくれただけで良かったかもしれない」
箕輪は自分もブラックでいいとばかりにクリームピッチャーを細貝へ渡し、コーヒーへと口をつけた。
「本当はみんな来たかったんですよ。でも全員で休むことはできないですからね」
「まあな」
箕輪は軽く頷いた。細貝はクリームを入れると、コーヒーを混ぜた。クルクルと回る黒と白の液体は、いつの間にか乳化され一体になっていった。
「箕輪さんは結局どこに行かれるのですか、国境のない医師団って」
細貝はせっかく混ぜたコーヒーを放ったまま、箕輪に話しかけた。
「俺が向かうのはアフガニスタンだよ。未だに内線などもあるし、やる事はいっぱいあるはずだから……。命を少しでも救って、自らの罪を軽くしてくるつもりだよ」
思わず箕輪は目を閉じた。そしてゆっくりと息を吐き出した。
「罪って、今回の突然死の事ならば、別に箕輪さんのせいではないじゃないですか。
確かに救えない命はあったかもしれませんが、そんな事を言っていたら全ての医師が罪を被ることになりますよ」
かばうように言った三迫を見て、数回首を縦に振ってから、箕輪は腕時計を見た。何となく視線を三迫や細貝と合わせていられなかった。妻と仲が良かった頃、たまたま休日に行った百貨店で、気に入った時計を。妻がプレゼントしてくれたものである。もしかするとこれが妻からの、最後のプレゼントだったかもしれない。箕輪は何となくそんな事を思い出した。
「まあそうかもしれないな」
箕輪は三迫の言葉に何となく答えると、宙を仰いだ。告白をするべきかどうするべきか、箕輪の中にはまだ懺悔をするかどうするかの迷いがあった。
それから少しの時間が経ち、三人はコーヒーショップを出た。ロビーには多くの人々が行きかっていた。インバウンドが戻ってきた証拠に外国人も多く見られた。
そんな中、箕輪は搭乗ゲートに向かう途中で、思わず立ち止まった。そして覚悟を決めた表情で二人に向き直った。
「三迫、聞いてくれ。俺の妻の死だけれども」
「箕輪さん、罪って奥さんを救えなかったことですか。
でもそれは仕方のない事だと思いますよ。あの状況で誰が感染するかなんてわからなかったんですから」
「あの突然死な」
改めて言おうとして、箕輪は思わず喉を鳴らした。今三迫に妻の死を語る必要性があるのかどうか……自らの罪の軽減でしかないことはわかっていた。あまりにも利己的な考えである。しかし箕輪は三迫に、そして細貝に聞いてほしかった。
「感染源は俺が監察医務院から持ち出した、原因物質の入った血液だったんだ。
冷めた夫婦関係に疲れて、思わず俺はその血液を就寝中の妻に飲ませたんだ」
三迫と細貝の二人は思わず表情を無くした。あれだけ人の死に対して向き合ってきたはずなのに……三迫はそんな事を考えた。細貝は自分を、自殺したい気持ちに寄り添い、救い上げてくれた人の言葉に、複雑な気持ちを覚えた。そんな二人の表情を見て、箕輪は拳を握りしめた。
「でも人は、人の、動物の本能は生きようとするんだよな。死のうとする本能はない。細貝さんを見て思ったんだ。そんな簡単な事も俺はわからなかったんだって……。
俺は日常の愛のない生活に疲れ、そんな妻の尊厳を奪ったんだ。面倒でもちゃんと離婚していれば良かったのに、そうすれば妻には新しい人生があったはずなのに……。俺はそれを奪ったんだ。
あちこちで死を見てきた俺の感覚が麻痺していると思うところもあったけれど、そんな事を実行するなんて、性悪説……俺の元々あった悪の部分がそうさせたんだ」
箕輪はそこまで言うと、自らの言葉を噛み締めるように、強く唇を噛んだ。
三迫はそんな箕輪の告白に、何もいう事はできなかった。箕輪がこれから向かう地域は、未だに内線が続く、平和な日本では考えられないような場所である。今回の突然死よりも、死が身近にあるのだ。そんな場所に赴いて、箕輪は贖罪を果たそうとしている。そう思うと三迫は箕輪の覚悟を、正面から受け止めることしかできなかった。
箕輪はその覚悟を胸に、死ぬまで人を救うことだけを考えることしかできなかった。
「箕輪さん」
二人の緊張が、後方からかけられた亮の言葉で解かれた。佐智と共に遅れていた二人が到着したのである。
「細貝さんの事といい、色々とお世話になりました」
佐智が頭を下げながら箕輪に挨拶をした。
「そんな事はないよ。俺の方が世話になったんだ」
そんな事を言う箕輪の意思を、佐智と亮は理解することができなかった。しかし、三迫と細貝は、先ほどの告白を聞いていると、何となく気持ちがわかるような気がしていた。
「箕輪さん、帰ってきた時は連絡をくださいね」
細貝は箕輪に近づき、手を取った。そして温かい人の温もりを感じていた。例え人を殺したとしても、罪を犯したとしても、自分を変えるきっかけを作ってくれた箕輪に感謝をしていた。自分がこれからどのように生きていくのかはわからないが、箕輪が帰ってきた時に、少しは胸を張る事ができる自分でいたいと考えていた。
「そうだね。もしも帰ってくることがあれば」
箕輪は細貝に軽い笑顔で答えた。自分の覚悟の中では、もう日本の土を踏むことはない。そう考えていたからだ。
「みんな、見送りありがとう。そろそろ行くよ。
殺人鬼は海外に逃亡だ」
箕輪の言葉に、佐智と亮は何の事だかわからないでいた。
あっさりと背を向けた箕輪は、そのまま四人の前から去って行った。
三迫はその背中を何も言わずに見送っていた。今更、妻の殺人容疑で箕輪を証言台に立たせたとしても、立証のできないものであれば、意味がないと思えたからだ。それよりもこれからの箕輪にはもっと過酷な日々が待っている可能性がある。せめて箕輪の心が晴れるまで、そこで生きて欲しいとしか考えることはできなかった。
「三迫さん、さっき箕輪さんが言っていたように、人間がもしも性悪説であったとしても、教育という物で本質を変えることができるのであれば、私はそれを行うことができる教育者になりたいと思います」
真っ直ぐに箕輪の背中を追う細貝の視線に、三迫は頷いた。
「大多数の人間は、そんなに愚かではないと思うよ。
けれども細貝さんが、少なからず、目標を持ち、そんな思いを叶うように生きていくことができるように、俺は応援させてもらうよ。
きっと箕輪さんもそう思っている」
三迫の言葉に、今度は細貝が頷いた。絶対に自分の思いを遂げたい。細貝は生きる意味を自らの中に抱き、死のうとしていた自分と決別をしていた。
四人は三迫の車へと乗り込んだ。エンジンをかけたばかりの車内は、外気よりも熱気を含んでいた。目一杯のエアコンが、身体に含んだ熱までも吹き飛ばすような感じであった。そんな中で、三迫は亮と佐智に先ほど箕輪が告白した妻の死の真相を伝えた。
「本当にそんな事を……」
死のうとしていた細貝を連れ戻してくれた、監察医務院で死を解明していた箕輪が、そんな事を行ったことに、亮は驚きを隠せなかった。
「贖罪のために海外に行くなんて、箕輪さんはどんな気持ちなんですかね」
佐智が思わず呟いた。どんな気持ちかなんて、車内にいる誰もがわかることはなかった。胸の中に抱えた気持ちは、その人間にしかわからない。他人が何かを語れるとしたら、それは自らが勝手に思い描いたものでしかないのである。
「箕輪さんの考えはわからないよ。まあ俺たちは日本で平凡な日々を送る以外、ないのだろうな」
亮が思わず呟いた。だがそれに対して三迫は反論をした。
「平凡にするかしないかは本人次第だよ。
自分たちの中で何かができる。何かをしたい。そんな気持ちがある限り、平凡にはなるはずがない」
運転する三迫の視線に太陽の光が入り込んだ。目をしかめたその先には、一機の航空機が飛び立っていった。
亮と佐智は板橋で三迫の車を降りた。そこから細貝を送っていくという三迫の車は、すぐに二人の前から消え去った。
「亮先輩、人間の気持ちって、どれだけ長く続くんでしょうね」
愛のなくなった箕輪の生活を考えると、これから人を長く愛していきたいという気持ちに、猜疑心が生まれてくるような気がしていた。もちろん仲睦まじい夫婦が大勢いることも理解している。しかしながらそうでない人たちが大勢いることも知ってしまった。しかもその結末を殺人という方法で終わらせるような人がいることも……。その恐怖のような気持ちに、佐智は押されて亮を正面から見つめた。
「さあな、動物から進化して、動物の中でも優れた存在になったつもりでいる人間だけれども、精神的には人間は自分たちの進化についていっていないのかもしれないな。
考えるけれども、それについていかない気持ち……人間自身の感情が、人間自体を崩壊に招こうとしているのかもしれない」
「精神と人間の変化ですか、そこに科学まで加わると尚更なのかもしれませんね」
「精神がついていかないからこそ、好き嫌いなどの感情が暴走するのかもしれないな」
亮は正面にいる佐智の視線を、強く受け止めた。
「いつどんな形に変化するかわからないですけれども、私は亮先輩の事が好きです……
それでもいいですか」
佐智の逸らすことなく、眼には力がこもっていた。その視線を外し、亮は佐智の手をそっと握った。
人は、人の温もりを感じるからこそ生きていける。それは動物的感覚かもしれない。
そしてそこから遺伝子を繋ごうとしていく。
誰が動物や植物に、そんな遺伝というものを課したのかはわからない。だが今回の突然死の原因の一つに性行為というものがあった。本能に刷り込まれたものが、種の保存が思わぬ方向へと導き、遺伝というものを否定したのである。
現代社会では、ただの本能ということのみではなく、理性がなくてはならない。犬猫のように、その本能のみで行動することは、今の社会では許されることではない。人間だからこその快楽を求めての性行為もあるが、考える動物ゆえの悩みでもある。
どれも嘘と否定できるものではないからこそ、それをどのようにすれば良いのか、誰にもわかることではない。
人としての終着点がどこにあるのかはわからない。考える動物だからこそ、行きつく先を考える必要があるのかもしれない。
考える動物だからこそ……。
生……性……様々な物に、物質社会の中で、自己保身、自己愛、様々な感情に対しても、人を愛し、慈しみ、育てていく……人間にしかできない生き方……。
考える動物だからこそ……。
「ありがとう。俺も、いつ感情が変わるかなんかわからないけれども、横山を好きだし、一緒にいたいと思っているよ」
佐智は亮の温もりを感じ、その手を優しく包んだ。
今回の突然死が、どのように産まれたのかはわからない。
これからもっと人間を脅かす物が出現してくるのかもわからない。
今回の血液は、研究と称して一部の機関に残され、研究などに使われている。それを箕輪ではないが、悪用する人間が出てくる可能性がない訳ではない。
性善説、性悪説、そこには人間の良心が関係してくる。自分の利益にとらわれ、他人の気持ちを考えずに、自己利益しか考えない人間もいるのだろう。戦争などもある意味利権のみである。それが個人であれ、国家であれ、同じなのではないだろうか……。
だからこそ、人間は考えなければならないだろう。
亮は佐智の手を強く握りしめながらそんな事を考えていた。
佐智も、同じように、自分たちが何をするべきなのか、何を他人に及ぼすのか……。
そんな中で、二人は目の前にいる存在を、大切にしようと考えていた。
(完)