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「箕輪さんも復帰してきたし、また元の生活に戻った感じですね」
三迫は他の医師たちと共にそんな話をしていた。今回の突然死の騒ぎが起きた時には、どれほどの状況になるのかなど考えることもできなかったし、たまたま微睡みの中で血液感染という事を突き止めるなども思いもよらないことが、多く起こった日々を思い出した。
石黒はそんな話を耳にした部屋を出て、執務室へと戻ろうとしていた。みんなは箕輪が帰ってくると話をしているが、石黒はそれが実現しないことがわかっていた。箕輪は先日石黒の元へと来て、病院を辞めることを告げていた。どのような経緯があったのかはわからないが、石黒はその辞表を何も言わずに受け入れた。
忌引きの時に会った一人の少女との出会いが箕輪をそうさせたのかもしれないが、箕輪は誰にもそれを告げることはなかった。確かにきっかけではあったかもしれないが、妻に感染した血液を飲ませた罪悪感もそこには存在したのだろう。
動物の本能には、確実に生きるという物が存在している。唯一人間のみが自らの手で死という行為を行えるのである。たまに追われて行き場を失った動物が、崖下へ飛ぶようなことをするというが、たが肉食動物からの脅威を避けるためにそれを行っている訳であり、死ぬためにしている行動ではないのだろう。そう考えると、今回の集団自殺などもそうであるが、他の動物とは異なる、考える動物になったゆえの死というもののとらえ方が人間にはあるのだろう。
やはり妻は死にたくはなかったのだろう。集団自殺から逃れてきた細貝を見た時に箕輪はそれを実感した。辛くても、面倒でも、妻としっかり話し合って、別れるべきであったのだろう。
人を死へいざなった自らが、今この監察医務院にいることはできなかった。箕輪はここから死を与えることをできる劇物を持って行った。だからこそ、辞めるという決意に至ったのだ。
集団自殺から逃れ、箕輪に送られて帰ってきた細貝は、大学生活を送りながら、自らが生きていく中で何をするべきなのかを模索していた。未だに何もしなければ死に向かってしまうのかもしれないという恐怖もあったのかもしれない。自らが変わり、回りの人たちとの付き合いなどによって生かされることもある。そう思って生活をしていると、人との付き合いかたも変わっていった気がしていた。
今まで自分が何もしてこなかった。だからこれといって産まれてくるものがなかったのではないか……。甘えがそうさせていたのかもしれない。教育や環境のせいもあるのかもしれないが、自分自身が思い描き、決断し、前へと進めば、おのずと見えてくるものがある。それを学んだと、細貝は今回の教訓を得て知った。
だからこそ、今日もサークル活動の中で、亮や佐智と共に新しい人生を得ていると実感していた。この実感があるからこそ、生きていると思えるのである。決してネットなどの虚像に見えるものが悪い訳ではない。自らがそれを現実と幻想などの狭間で、どのように処理するかだけなのである。
実体験でするものは、自らの肉体で生を受け止めることができる。汗をかき、身体の、筋肉の痛みを感じ、それによって生という物を実感できる。そんな自分の弱さを受け入れ、細貝は生きていく。頭で処理できる人たちは、そんな事をしなくても良いのであろうが、自分はこの方が良い。そんな風に思えていた。
** *
サークル活動を終え、シャワーを浴びた佐智と細貝は、部室を出た。その二人を待っていたのでは亮であった。未だに熱さは収まることを知らず、外で待っている亮は、シャワーを浴びたというのに、シャツの背中の部分に汗ジミを作っていた。
「すみません、お待たせいたしました」
佐智と細貝は亮に頭を下げた。亮は二人に外気とは異なり、爽やかな笑顔を向けた。
「まあいいさ、どちらにせよ女の方が準備は遅いだろうから、時間をみて出てきたからそんなに待ってもいないし」
二人は亮の笑顔に少し安堵の表情を浮かべた。そして三人は並んで歩き始めた。
「そういえば場所はどこなのですか」
「新宿の何とかホテルって言っていたな」
亮はスマートフォンでホテルの位置を調べた。そこは三人が普段は選択することがないシティホテルであった。
「そんな場所に私たちって場違いじゃないですか」
気後れするように細貝は言った。しかしそこを指定したのは三迫であったので、そんな事を考えながらも向かうことしかできなかった。細貝と三迫は、面識はないが箕輪も来るという事だったので、そちらからのリクエストであったらしい。
「場違いかぁ、確かにそうかもしれないけれど、まあ誘われたのだからいいんじゃないかな」
亮は臆することなく言った。しかしながらフランス料理などは普段食べることはなく、頭の中でマナーをシュミレーションすることしかできなかった。佐智も高校の卒業前に学校で行われたテーブルマナー以来のフレンチだったので、亮と二人で話ながら、何となく思い出した程度であった。
三人は新宿駅を出ると、都庁側にあるホテルへと向かった。今まで入ったことのないところへと迷い込んだ三人は、自動ドアを抜け、快適な空気の中へ身を寄せるとキョロキョロと見回すことしかできなかった。
「どちらかお探しでしょうか」
フロントのスタッフなのか、一人の従業員が声をかけてきた。まだ止まらない亮の汗は、暑さを引きずっているのか、緊張のものなのかわからないようでもあった。
「このレストランを探しているのですが」
亮は三迫に指定されたレストランを画面に映したスマートフォンをスタッフへと見せた。すぐに理解をしたスタッフはすぐに手を進行方向へと伸ばし
「こちらです。ご案内いたします」
と三人の前を歩きはじめた。その際も三人がついてきているのか、歩調はどうなのかなど、気遣いを感じさせるものであった。
三人がレストランの入り口へと来ると、今度は入口にいるスタッフが声をかけてきた。
「ご予約は頂いておりますでしょうか」
「はい、三迫さんと言うかたが予約をしていると思うのですが」
その言葉を受けて、黒服は予約台帳を調べた。確かに予約を承っている客である。亮は見た目を気にしていたが、そんな事を気にもせず、黒服は笑顔を向けた。
「三迫さま、五名様で承っております。ご案内いたします」
黒服は三人を奥の個室へと案内した。開けられた個室の中に、まだ三迫の姿はなかった。こういう場では上座下座などという事も存在するという。亮はそれがあるので、黒服が席を即したが、座ることはしなかった。
「何だか場違いで緊張するなぁ」
亮は思わず二人の顔を見て言葉を出した。二人も同じ思いのようで、個室の中をキョロキョロと見渡すばかりであったとりあえず荷物を端にある台の上へと置いた。
しばらくすると黒服に先導されて三迫と箕輪が個室へと入ってきた。
「待たせたみたいだね」
「とんでもないです」
三人はお辞儀をした。座らずに待っていた三人に三迫は
「席に着きなよ」
と則したが、三人はどうしたら良いのかわからずに立ち尽くしていた。それに気づいた箕輪が席を示した。
「じゃあそっちに」
今回の食事会は三迫から亮と佐智に対する御礼だと聞いていたので、自然に三人は上座へと案内された。
「前に会ったときにも言ったが、君たちの話を耳にして、血液感染の疑いを持って、今回の感染症騒ぎを収めるきっかけを掴めたんだ。本当に感謝するよ」
三迫は頭を下げた。
「そんな事を言われても、ただ思いついた事を言っただけだったのですが」
佐智は謙遜するように、手を顔も前で数回振った。
「まあ、そんな事もあり、今日の会を催したかったんだ。二人の友人の細貝さんも誘いたいという話だったしね」
「私は箕輪さんに会う機会を頂きたいと思ってさっちゃんに話をしたら、ここに飛び入りになってしまってすみません」
細貝は伏し目がちに箕輪を見てから頭を下げた。
「まあ、俺も君にもう一度会いたいと思っていたからちょうど良かったよ」
箕輪は細貝を直視して言った。
「とりあえず乾杯をしよう。シャンパンでいいかな」
「あっ、私たちは未成年なので……」
佐智は自分と細貝は他の物にというアピールをした。
「そうか、じゃあノンアルコールのシャンパンでも用意してもらおう。桜井君は平気かな」
「はい、僕は平気です。でもシャンパンなんて飲んだことないですよ」
「まあ何事も経験だからね」
三迫はそう言うと席を立ち、個室の外に控えていた従業員へと声をかけた。
しばらくするとシャンパンとノンアルコール・シャンパンのボトルを抱えた従業員が個室へと入ってきた。そして長いフルート・シャンパン・グラスに、液体は注がれた。細かい泡の立ち上がるグラスは、感染症の終焉を迎え、歓喜に立ち上がる気持ちと同じようにも思えた。
「では、今回の感染症の終息に、乾杯」
三迫の合図で、五人はグラスを高く掲げた。口の中に炭酸の爽快感と、共に立ち上る香りが心地よかった。その乾杯を待っていたように、従業員たちは個室へと入り、オードブルをみんなの前にサーブした。
他愛もない話をしながら。会食は進んでいった。慣れていない大学生たちは、シルバーを確認しながら食事を勧めていった。
「それにしても、今回の件は三迫の大活躍だったな」
箕輪は思い出すように言った。血液に問題があるかもしれないと言う中で、異物が存在する条件に温度などが関係してくるという、突発的とはいえ考えたのは三迫であったからだ。
「たまたまですよ。前にも言った通り、彼らがたまたま喫茶店で血液に問題があるかもしれないと言っていたところからはじまっているのですから」
三迫はそう言うとロッシーニ風のサーロインを頬張った。同じくステーキを口にした亮は今までに食べたことのない、熱が入っていながらも固くなりすぎていない、それでいて生のように柔らかすぎない肉にびっくりしていた。
「それにしても、今回の感染症ってどこからきたのでしょうね。
貢先輩も、いったいどこから感染したのかもわからなかったですし……」
佐智は咀嚼を終え、軽くナフキンで口元を拭ってから誰ともなく問いかけた。
「そうだな。知り合いが亡くなるなんて思いもしなかったからな」
亮は貢の遺体に会った時のことを思わず思い出してしまった。その後の聖羅も順菜もあっという間に倒れ、心臓を止めてしまったことも……。ナイフとフォークを置いて、赤ワインで口の中の残物を胃へと流し込んだ。
「世界には何もわからない病原体が多く存在しているのだろうな。
温暖化によって永久凍土の中に埋もれているウイルスや細菌たちが出てくるのではないかなんていう事も囁かれているくらいだからな。地球は自分たちにはまだまだ未知の存在なのだろうな」
箕輪は何かを思い出すように言った。確かに、まだまだ未知なる物が、人間が触れたことのない物が地球上には多く存在するのかもしれない。それに対して対抗できるのは人間だけである。しかしそれをすることが果たして良いことなのかどうなのかはわからなかった。人間が生きるためのエゴかもしれない。そんなエゴという事を考えると、自らが妻を殺した罪悪感が溢れてくるようでもあった。
「みなさんが大変な思いをして感染症を撲滅しようとしている中で、私たちは取返しのつかないことをしていたんですよね」
思わずシルバーを置いて細貝は下を向いてしまった。そこには自らへの呵責も含まれているようであった。
「なぜ集団自殺に参加しようとしたのか、今はどうでもいいよ。
細貝はまだ生きている。最終的には死を選ばなかった。それでいいんじゃないかな」
亮は優しい、少しアルコールで緩んだ視線を細貝へと向けた。
「そうだよ」
佐智もそれに強く賛同した。
「確かにそうかもしれない。でも考えるんだ。
何で人間は生きようとするのか、死のうとするのか」
三迫は自分もまだわからない問いかけを全員に投げかけた。
細貝から展開した会話でしばらくの沈黙が生まれた。それを打ち破ったのは、食べていた肉を咀嚼し終わった箕輪であった。
「生きることは本能だろう。この世に生を受けて生きるという事は、動物も植物も同じだ。生きるという本能しかない。だから外敵に対して生きるために反応する。
けれども考える動物になってしまった人間だけは、それによって苦しみや辛さを感じるようになり、唯一死を選ぶ存在になってしまったのだろう。考えなければそんな事はないのだろうけれどね」
「考えるからか……。それをどう使うかは人間次第なんですよね」
佐智は箕輪の言葉に考えてから答えた。
「そうだね。
人間は生まれながらにして善であるという良く言われる性善説……俺は存在しないんじゃないかって思うんですよ。善の心を持っていれば教育や環境に関係なく、悪い事なんてしない。
しかし悪いことをする人たちは一定数いる。そういう人たちの中には、教育を受けていない人も多いのだと思う。現代社会に適合する教育を受けていないからこそ、そういう人間は存在するのだろう」
「そうかもしれないですね。動物は生きるために、食料にするために他の動物を殺めることはあるけれども、人間はそれとは関係なく人を殺す。
もちろん食べるなんてためでもない。
縄張り争いで争っても動物は殺し合いまではしない。素直に敗北を認めるからかもしれないけれど。
だが人間は利権のために人を殺める。それ以外でも理由なく殺すこともあるのですものね」
亮の言葉に佐智が続いた。最悪の人間はただ殺してみたいなどという場合もある。
「人が自殺を考えるように、人の死をもっと考えることができたのならば、動物とは違って殺すという事にもっと違う感覚が生まれるのかもしれないな」
「そうかもしれない」
三迫の言葉に今度は箕輪が続いた。
「性悪説か……教育、環境などによって少しでもそれを変えることができたのならば、もっと平和になるのだろうけれどな」
三迫はポツリと呟くと、ステーキと共にフォアグラを口の中へと運んだ。
会食を終えると、三迫は三人の学生にあらかじめ用意していたお土産を手渡し、箕輪と共に去って行った。細貝は箕輪を追いかけたかったが、佐智たちといることもあり、何となくその行動がとれなかった。
「それにしてもフルコースなんてな」
「美味しかったですね」
そんな事を言いながら歩き出す二人についていくように、細貝は歩き出した。
箕輪は自宅への帰路を歩いていた。陽が落ちたとは言え、まだまだ暑さはおさまる事を知らず、箕輪の身体を、中から熱しているようであった。
三迫たちが話をしていた性悪説……その言葉が重く箕輪の胸に圧し掛かっていた。産まれながらにして悪の心を持っている。そう考えると人を殺めるという事を簡単に実行した自分は、産まれたままに心に秘めている悪だと思えてしまう。その罪悪感を薄めるために、自分はこれからの行動を起こしているのかもしれない。罪だと感じるだけまだマシなのかもしれないが、動物よりも下等な人間の感覚を持ち合わせている自分が、何を成すことができるのだろうと、自問自答してしまう……。でもやらないよりは良いのだろうと、前を向くこと以外の道は、箕輪の頭の中には見つからなかった。
背中を流れる汗が、暑さのせいなのか、それとも自分への冷ややかな感情なのか、箕輪はわからなかった。