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夏の暑い日、新宿駅から離れた路地をフラフラと歩く男……。

男は座り込み、いつの間にか寝息をたてはじめた。

そこから数時間後、その男の死亡が確認された。

それは大量の突然死を生む序章でしかなかった。

 夏の熱帯夜の中、繁華街から少し離れた路地を一人の男がフラフラと歩いている。酒に酔っているのだろうか、と疑うくらいに、左右に蛇行していく。人によっては暑さによる熱中症なのかもしれないと思うかもしれないが、明らかに若さが見られる男がそのような状況になると、周囲の人たちは思っていなかったのかもしれない。

 男は道の端へと座りこんだ。そしていつの間にか寝息を立てた。肩に架けられている小さな鞄の中から携帯電話を取り出すために、男は鞄を身体から外した。やはり酔っているのだろう、鞄は力なく手の中から零れ落ち、路上へとダイブした。

「また会いましょうだって」

 画面に映るメッセージを確認して、男はいやらしい笑みを浮かべた。そして次回の楽しみに気合するように立ち上がった。そして再び揺れるように歩き出した男の肩に鞄はなく、忘れられたまま置き去りになったことを思うと、やはり酔っ払いとしか思えなかった。その足は新宿駅の方向を向いているようであった。


 朝の通勤時間帯になると、人がかなり溢れてきた。早々と高位置を維持した太陽の光は、熱帯夜の冷めやらぬ大気を、更に熱していくようであった。ビル風が通り抜けるが、熱された湿度を多く含む重たい空気は、涼しさを感じさせるどころか、まとわりつくような不快感を人々に与えた。

 世界的に気温が上がっているとはいえ、アスファルトからの照り返しと、エアコンの室外機が放出する熱気は、更に暑さを増長させた。 

 更に人々が持つ熱が、一極集中の東京に密集することで、周りの不快を増幅させ続けていった。

 そんな熱により昇る湿度の影響なのか、視界が歪むような感覚を受ける中、一人のポロシャツ姿の男が横たわっている。携帯電話を手にしたまま、動かない身体は、学生に見えなくもない。ただ遊び呆けて寝てしまっているのだろう。急くように歩く人々は、その程度にしか思っていないのだろう。男に接することはない。全く興味を示さない者と、一瞬視線を向けるが、触りたくない、触れる気はないという感じで近づく者はいなかった。下手に手を出しても面倒にしかならない。そんな事をしていたら会社に遅れてしまう。寝ているだけの男に誰も倒れている程度の興味しか示さなかった。

 現代社会の、人間関係の希薄さ……。そんな言葉が頭をかすめる。

 せめて警察にでも連絡をしたほうがいいのかもしれない。そんな事を想う人も中にはいるのかもしれないが、繁華街のあちこちで見られる泥酔者たちに同情する声はなく、連絡などをする気はなかった。自分に利益がない事など、朝の貴重な時間を無駄にしたくはなかったのだろう。

 そんな中、誰かが近くの派出所へと連絡をしたのか、警察官が二人、男の元へと近づいてきた。

 そそくさと歩く人たちは、警察官の登場に、一瞬何が起きたのだろうと目を留めるが、寝ている男を見た瞬間に興味を無くし、歩き去って行った。

 太陽があざけるように、更に地球に熱を加えていく。今日の気温は三五度を超えるだろうと天気予報で言っていた。近年は熱中症アラートが発令されると学校の部活が無くなるなどという話すら耳にする。

 夏休みを楽しみにして、外に遊びに行くなどという話は、そのうち過去の話になってしまうのかもしれない。日中はエアコンの効いた部屋の中で過ごす。それが一番になってしまうのだろうか……。そうなると求める時間帯は日の出ていない未明の時間帯が中心になっていくのかもしれない……。夜行性の動物たちへと、人間も変わっていくようなことすら考えてしまうようであった。


 * * *


 横山佐智は同じ大学に入った中学時代からの友人である砂原聖羅と共に、西武線へと乗り込んだ。額に出た汗を拭うと、電車の中の冷気をありがたいと思えた。小柄の幼く見える身体は、通勤時間帯であれば、心もとなく人の波に飲み込まれてしまうが、夏休み、しかも昼過ぎの時間帯なので、悠々と身体を遊ばせることができた。

 聖羅はノースリーブの肩にかけていた鞄を掛けなおした。佐智から見ても色気を感じさせる聖羅は、同じ年齢だとは思えなかった。これから向かうテニスサークルでも圧倒的に人の視線を集めるのは佐智ではなく聖羅である。しかしながら佐智はそこに劣等感を感じることはなかった。気になる人にさえ認めてもらえればいい。そう思っていたからである。

 これから向かう大学のテニスサークルは、インターカレッジを目指すようなものとは違った。ちょっとした遊びの延長のサークルで、ただテニスが好きであればいいという程度のものであった。佐智はテニスをしたことがなかったが、聖羅の誘いもあって参加することになったのである。聖羅自体もテニスをしていたわけではないが、なぜかサークルに入ることになったという。

 入学してすぐ参加したサークルであるが、練習はそれなりに楽しかった。夢中でボールを追い、そのあとの飲み会や、遊びを誰もが楽しみにしていた。佐智ははじめて入った居酒屋で、みんなの勢いに圧倒された記憶があった。一年生で当然未成年である身で、酒を飲むことはしなかったが、これほどまでに騒ぐ人たちがいるのかと、面を食らったものである。ある種人格を変えてしまう酒を、少しだけ警戒して見てしまう。そんな人達の中に、気になる先輩がいた。それもあり、サークルへの参加は楽しく思えた。

「今日は貢先輩来るかな」

 佐智はラケットを抱えながら聖羅に話かけた。聖羅は鏡を見て前髪をいじっていた手を止めた。

「もちろんくるでしょう。貢先輩は私たちがサークルに入ってから休んだ事ないもん」

「そうなんだ。私は結構さぼっているから貢先輩が毎回来ているなんて知らなかった」

 サークルの開催は二週間に一度である。大体は次の日が休みの土曜日が多かった。

「そうだね、佐智は数回休んでいるものね。男とデートでもしていたんでしょう」

「そんな事ないよ。家の用事があっただけだよ」

 聖羅は佐智がなぜそんなに貢の事を聞くのか、肌感覚で理解をしていた。先輩としてではない、異性として好意を持っている。それは佐智の話をしている時の表情を見れば、わかることであった。

だが聖羅は奥手な佐智には言えないことがあった。自分の方が一歩進んでいる。それは口が裂けても言えない事であった。いずれわかるにしても、今ではない。聖羅はそう思うと、色気のにじむ視線を鏡に向けた。

 貢がサークルに精を出しているのは、テニスが好きということもあるが、相手を捕まえるためでもあった。テニスの実力もあり、見た目においてもサークル内で上位に位置する貢に寄って来る女性は多かった。それはもう役得であると貢は考えていた。だが特定の彼女を作る気など貢にはなかった。大学生活をエンジョイする中で、どれほどの女が寄ってくるのか、貢は役得を活かしてそれを試そうとしていた。

 だからと言って、誰彼かまわずに手を出していたのでは面倒も多くなる。遊びと称するのだから、相手もその感覚を持っていてもらわなければならない。だから貢は慎重に相手を選んでいるつもりであった。不特定多数を相手にしても、それを否定しない女……お互いが都合のいい関係でいるためにも、その感覚は必要不可欠であった。

 そんな貢の本心を知っているからこそ、聖羅は貢が佐智を選択することはないと理解していた。

 そして今日も貢は、好きなテニスをしながら、狩猟をするためにもサークルを休むことはないだろうと確信していた。できる限りテニスで恰好良いところを見せれば、女とそのような関係になることは確率が多くなる。少しでも顔を売っていれば、サークルがない時でも相手が見つかる時もある。貢としては多くの出会いを作ろうとしているのであった。

 それは三日前に聖羅がラブホテルで貢から直接聞いた事である。

「サークルがあって、そこで聖羅みたいに寄ってくる子がいて、お互い感傷しないでセックスを楽しむ。大学を出て結婚したら、こんな事はやっていられないだろうから、今のうちに楽しんでおかないと……」

 貢は一回戦を終わらせ、聖羅を抱きしめるという後戯をしながら語った。思い出すだけでも聖羅は少し胸が締まる思いであった。男性経験をしたことがあるのかわからないような佐智が、貢のそんなプレイボーイぶりを気づいているはずがない。聖羅は無意識で優越感を覚えていた。

「テニス頑張って、貢先輩に認めてもらえるように頑張らないとね」

 聖羅の言葉に佐智は頷いた。自分の方が先に行っている余裕からか、鏡から視線を外した聖羅は佐智を真正面から見つめて言った。

 

 佐智たちは数回の乗り換えを経て、大学の中にあるサークルが使用するテニスコートへと着いた。

 夏休みという事もあってか、キャンバス全体に学生の数は少なかった。今日も気温が高くなると天気予報でやっていたせいもあってか、目的などがない人たちは、野外へと出ることもないのだろう。だが大学の図書館は、勉学に励む人たちに取っては、絶好の居場所になっているのだろうと予測できた。

 テニスコートに隣接されている更衣室の中は、エアコンが効いていて涼しかった。それでも外気と気温差がありすぎると、と一番乗りの人間が気を使ったのか、二七度設定と高めであった。だが三五度を超えている外と比べれば、やはり気持ちは良かった。

 佐智と聖羅は着替えを済ませ、ラケットと少しの荷物を入れた小さな鞄を手にしてコートへと出た。いつもよりは参加者が少ないのは、長期休暇と気温のせいなのであろうと勝手に想像をしてしまった。

 こんな事であればサークルを休んでも良かったのではないかと佐智は思うところもあったが、普段身体を動かすことがないので、折角なのだから参加して正解だと自らに言い聞かせた。それに貢に会う事ができるということも、理由の一つではあった。その理由になっている貢の存在をコートの中に探すが、それらしき人物は見当たらなかった。

「珍しいね、貢先輩が一番乗りじゃないなんて」

 聖羅が不思議そうに横にいる佐智へと尋ねた。確かにいつも佐智たちがコートへと入る頃には、貢は準備運動とばかりに、誰かとネットを挟み、打ち合いをしていることが多かったからである。

「確かに珍しいけれど、これから来るんじゃない」

 佐智は自らの思惑を口にした。二人とも視線が泳いでいることから、貢がいない、何か違和感を覚えている面があった。

 それを実感させたのは、桜井亮であった。亮は貢と同じ三年生で、サークルの中心的な人物の一人であった。

「誰か、貢見てないか」

 コートへ出て、各自準備運動をやっていた数人が亮の声を聞いて、周りへと集まってきた。

「そういえば貢さん来ていないですね」

「珍しいですね」

 そんな声が聞こえてくる。ザワザワとする面もあるが、来ていないという事実がそれによって変わることはなかったし、理由を知っている者もいなかった。サークルの開始時間が来るまでに亮は数回、貢へ電話をかけたり、メールを打ったりしたが、返答はなかった。

 いつもとは異なり、貢がいないという、珍しいサークルがはじまった。

 暑さのせいで、休み休みということもあるが、貢がいない熱量の無さという物まで加わり、活気のない活動になってしまった。

「何だか空振りだったね」

 聖羅は佐智以上に貢が来ていないことに気落ちしているのか、途中からコートの端にできている日陰のあるベンチへと座ってしまった。佐智はコートの中で、飛んでくるボールを打ち返すが、気持ちがこもっていない球は、ホームランのように遠くへと飛んで行ってしまった。

 いまだに高位置を持続する太陽が、更にみんなのやる気を削いでいくようであった。


** *

 

 折原信也は、新宿署の刑事課にある自らの机へと帰ってきた。先ほど霊安室へと運ばれた遺体に出会ったのは、まだ一時間と経っていなかった。派出所から連絡を受け、駅近くで倒れている男の元へとコンビを組んでいる小泉と向かった時に出会ったのだ。

 長い間放置された男の事を通報してきたのは、朝にも倒れている男を見たが、昼休みに会社を出て、昼食を取ろうとしていたところに、未だに倒れている男がいると電話が入った事からであった。

 一一〇番を受けた派出所の警察が倒れている男のところへと向かい、声掛けなどを行っても全く反応がなく、よくよく調べてみると、生命反応がなかったという。一応救急車を呼んだが、完全に死んでいるという判断で、救急隊に断られ、急遽折原に連絡がきたのであった。

 倒れている男がもう仏になっているという事なので、仕方なく警察車両に載せて、新宿署まで運んできたのは良いが、男が持っていたものは、スマートフォン一つであった。そこから男の事を調べるには心もとないが、それ以外に方法はなかった。

「折原さん、スマホを鑑識に出してきました」

 小泉が折原の元へと帰ってきた。殺人事件などを担当したことはないが、遺体を見ても小泉は落ち着いていて、動揺を見せずに淡々と仕事をこなしていた。折原は自らがはじめて殺人事件で遺体を見た時には、そんなに落ち着いていられなかったと記憶をしていた。まあ遺体の状態が全く異なるので、それも仕方がないかと勝手に思った事を腑に落とした。

「ご苦労さん」

 折原はあまり効かない設定温度の高い空調の風を感じていないのか、うっすらと額に汗をかいたまま小泉へと答えた。体温が落ち着くまでしばらくはかかるだろう。折原はそう思うと脱力した。

「スマホ以外、何も手掛かりがないからな。このままだと、身元不明のままか」

「でも数回、スマホに連絡があったみたいですよ。

 同じ名前だったので、友人か誰かですかね。あとで連絡してみますか」

「お前な、連絡があったのなら、先に言えよ。鑑識に出す前にかけてみても良かっただろう」

 折原は未だ熱の引かないダルそうな表情を小泉に向けた。

「でも折原さんが鑑識に見てもらえって」

「うるせいな。とりあえず見に行ってみるか」

 折原は事務椅子から腰を上げた。立ちぱなっしだった小泉は歩き出す折原の後を追った。

鑑識までの距離はそれほどではなかったが、折原の汗は未だに引かなかった。

「申し訳ない。そのスマホ、連絡が来ているんだって」

 折原の言葉にスマホを確認していた鑑識が振り向いた。

「はい、数回連絡がありましたけれど、今は来ていないですね」

 首を数回縦に振った折原の言葉を待たずに、鑑識は言葉を続けた。

「ちなみに指紋は本人の物で、特に何かあるとは思えないですね。

 プロフィールもありますし、スマホ自体は本人の物という事には間違いないようです」

「なりすましとか、そういう問題もないってか。

 とりあえずその電話をしてきた人に、連絡をして身元を確認してもらうか」

 折原は鑑識に数回着信があったという連絡先を聞き、自らの机へと戻っていった。しかし何度か連絡のあった電話番号へ電波を送っても、出る気配はなかった。もしかすると知らない番号からの連絡にはでないのかもしれないと、もう一度鑑識へと戻り、拾ってきたスマートフォンから連絡を試みるが、相手が出ることはなかった。

 

** *


 熱中症警戒アラートが出ている中でのサークルは、誰もがうねるような暑さに耐えきれずに、すぐにまく引けを迎えた。

 運動のせいなのか、気温のせいなのか、汗が出まくった身体をシャワーで洗い流し、佐智は脱衣所を出た。エアコンの冷気が更衣室の中に広まっているせいか、何となく熱した身体が冷めるような感覚を覚えた。聖羅は先に出ていたのか、もう化粧を始めていた。女子の更衣室はこれからの飲み会に重点を置く人もいるらしく、準備と称した中で、さまざまな臭いが溢れかえっていた。

 佐智もノーメイクでは参加できないと思うが、軽いメイクで済ませた。いつもの流れであればこれから飲み会というところであろう。ただ昔と異なるところは、未成年者が酒を飲まないというところであった。

 男の更衣室の中は、女たちとは異なり、それほどの臭いの応酬はなかった。しかしながら体臭などを気にしている人もいるらしく、制汗剤やちょっとした化粧をする者もいた。

「結局、貢はこなかったな」

 支度を終えた亮は、サークルが始まる前に数回連絡した貢から、何かの返答が来ていないかとスマートフォンを立ち上げて確認した。そこには固定電話からの連絡が数回と貢から数回の連絡が記録されていた。

「あいつ、連絡してきてるじゃん」

 亮は三年になってはじめてサークルを休んだ貢へと電波を飛ばした。二回ほどコールした後、電波はつながった。

「おい、貢、何してんだよ」

 軽く言った亮の言葉の後に、返答はすぐになかった。亮は歯切れの悪い貢に向かって再び声をかけた。

「おい貢、サークル終わっちまったぞ」

 その言葉に対して、一瞬置いてから言葉が帰ってきた。だがその声は貢ではなく、初めて聞くものであった。亮は思わず緊張した。

「新宿署の折原と申します。この電話は板野貢さんの物でよろしいのですか」

「……」

 今度は量が言葉を失った。更衣室の中の数名が、亮の表情の変化を察知したようであった。

「あの、貢……いえ、板野は……」

 歯切れの悪さは更に更衣室の中で亮を目立たせた。周りも明らかな亮の変化に、わざつき、飛び交っていた言葉が一瞬にして消音になった。

「ええと、何度かこの電話に連絡があったと思いますが、板野さんの知り合いの方ですか」

 折原の声が響く。亮は一瞬遅れながらも言葉を発した。

「はい、大学の友人です」

「申し訳ないのですが、新宿署までご足労いただけないでしょうか」

 亮は、貢が一体どのような状況になっているのか、理解が及ばなかった。そんな中で、未成年に手を出したとか、喧嘩などで捕まったのかなどと、勝手な想像が頭の中をよぎった。ただ事を慎重に行う貢が、そんな簡単にヘマをすることなどないと、自分が想像した事ですら、疑う状態であった。それほどまでに亮の理解は整理がついていなかった。

「あの、貢が何かやらかしたのですか」

 とりあえず聞いてみるしかない。亮は電話口の声の主に問いただした。

「それは現段階で言えることではないのですが、こちらに着ていただけるかどうかだけお聞きしたいのですが……」

 折原と名乗った警察官は亮に、来るか来ないかという念を押してきた。淡々と話しているが、何か問題があったのだから自分が呼ばれている。そして電話でそれを聞くことができない。そうとわかれば要求されているように、警察署へと向かうしかないと亮は決断した。

「わかりました。ちょっと時間を頂ければと思いますが、急いで向かいます」

 亮は焦るような気持ちであった。貢に何かがあった……わかるのはそれだけであった。折原は亮の口調を聞いて、気持ちが早っていると考えた。それなので落ち着かせるように

「ゆっくりでかまいませんよ。急いで事故などが起きても申し訳ないですから……

 新宿署の刑事課です。よろしくお願いします。改めてお名前をお聞きしてもよろしいですか」

「桜井です。新宿署の折原さんですね。それではこれから向かいます」

 亮はそれだけを言うと電波を遮断した。更衣室の中にいるメンバーは息を飲んで亮を見ている。新宿署、刑事課という言葉が尚更空気を重くした。その雰囲気に気が付いたのか、亮は緊張で渇いている口を開いた。

「何だかわからないけど、ちょっと行かなきゃいけなくなった」

「じゃあ、この後はどうするんだよ」

「まかせる」

「貢に何かあったのか」

「わからないけど、何かヘマでもしたのかもしれない。警察にいるみたいなんだ。

兎に角行って来る」

 亮は自分の荷物を素早くまとめ、部室を出ようとした。その背中に

「あとで連絡しろよ」

「気をつけてな」

 などと誰からとなく声が飛んだ。亮は軽く手を挙げて応えると、更衣室を出た。

隣り合わせになっている女子の更衣室の前にまだ人影はなかった。いつもと同じように準備に時間がかかる女たちが、急ぐ自分よりも早く出てきているはずがないと、冷静に考えれば思えることであった。

 亮は一瞬考えた事を頭の中から飛ばし、急がなくても良いと言われてはいたが、やはりと考え、走って大学を後にした。

 夕刻前ということもあってか、夏の陽はまだ高く、その影響だけと言えないような暑さが、空気を重くさせていた。シャワーを浴びたばかりの亮の身体には、早くも汗がうっすらと浮かびあがっていた。


 亮は新宿駅の西口を出ると、スマホで調べていた新宿署へと小走りで向かった。大学のキャンバスとは異なり、街には人が多いせいか、気持ちばかりが急ぎ、避けるという作業が面倒にも思えた。

 電車の中で一度引いた汗が、再び亮の身体にまとわりついてきた。

 貢の奴、一体何をやらかしたのだ。亮はそんな事を思いながら、新宿署の自動ドアを潜った。 

 汗がエアコンの風で冷めていく感覚とは裏腹に、気持ちは熱くなっていくようであった。入口付近にある案内版で刑事課の位置を確認時には、設定温度の高い室内は、再び暑さを体感させた。

 さすがに警察署の中を駆けるという訳にもいかず、亮は急ぎ足で刑事課のカウンターへとたどり着いた。

「すみません」

 亮の声掛けに折原と小泉が振り返った。亮はそこに貢の存在がない事を危惧していた。もしかするともう檻の中にいるのかもしれない。いや、取り調べ室だろう……などと勝手な想像が脳裏をよぎった。

 小泉は立ち上がり、カウンターで焦った表情を見せる亮の元へと来た。

「刑事課の小泉です。どうかなさいましたか」

「あの、桜井と申しますが、折原さんという方から連絡をもらいました。

 えっと、板野貢の件と伝えていただければわかると思いますが」

「ああ、板野さんの件ですね」

 小泉の返答を聞いて、折原は先ほどの電話の事だと理解し、ゆっくりと立ち上がった。そして亮とカウンター越しにいる小泉の横へと並んだ。

「先ほど連絡をさせていただきました折原です」

 落ち着いている二人を前にして、亮は落ち着くことができなかった。見える場所に貢がいないという事から、焦りが気持ちの風船を満タンにしていた。今にもそれは弾け飛びそうな感じである。

「あの、貢はどこにいるのですか」

 急く亮に対して、折原は落ち着かせようと考えていた。それにここで立ったまま話をしても埒が明かないと思い、亮を個室へと導こうとした。

「こちらへどうぞ」

 折原はカウンターから出ると、亮の先へと立ち、歩きはじめた。誘導されるようについていく亮の後ろへと小泉が続く。二人の刑事に挟まれるような状態になってみると、自分が悪いことをしたわけではないが、何となく圧迫感を覚えた。

「とりあえずこちらへ」

 個室とは言っても取り調べなどで使うような部屋の中へ案内されると、亮は更に自らが追い詰められているように思えてならなかった。その中に貢がいるのかと思いきや、ここにもその存在はなく、なぜか貢とは関係なく、自分が取り調べられているのではないかという錯覚へと陥ってくる。

「ここに板野はいないのですか」

 亮は突っかかるように折原へと尋ねた。

「まずは座って話をしませんか」

 折原は落ち着かせようと、ゆっくりと言葉を出し、率先して部屋の中へと入り、椅子へと座った。しかし後方にある入口に小泉がいることによって逃げることができないというイメージが亮の頭の中にあったのか

「座らなくてもいいです。貢、板野の事で呼ばれたのですから、板野に会わせてください」

 と声を大きくした。痴漢などの冤罪ではないが、この部屋に入り、座ってしまったら、何か罪を押し付けられて認めてしまう。そんな思いが亮を支配していた。

小泉は何か勘違いが生じているのではないかと思っているが、それを口にすることはなかった。それは折原自身もそれを感じているのではないかと、コンビとしてどこか同調している気がしていた。黒板を爪で触ると、嫌な甲高い音がして、背筋が凍る思いがある。今の亮の背中には、そんな言いえも知れぬ思いがあるのか、冷や汗が背中に沸き出てくるようであった。

「わかりました。立ったままで結構ですので、聞いてください」

 折原はなぜ亮が切羽詰まっているのかはわからないが、拒否している事だけは理解ができた。亮は部屋の入口に立ったまま、折原の言葉に耳を傾けた。

「今朝、新宿駅の近くの路上で板野貢さんの遺体が発見されました」

 折原という刑事は一体何の事を話しているのだろう。亮は夢心地のように感じた。その言葉を頭の中で反芻するように考えてみるが、何の事だかはっきりとわかることはなかった。もしかしたら警察署に呼ばれたのは、自らが貢を殺した犯人であると思われているのかもしれない。先ほどから感じた圧迫感はその中にあるのかもしれない。

「俺は何もしていないですよ」

 亮は強く言葉を出した。なぜそんなに怯えているのか……小泉は貢の遺体に事件性があるのであれば、間違いなく、挙動不審になった、この桜井亮という男を疑うだろうと考えた。折原は亮の言葉を聞いて、少し驚くように頭を掻いた。板野という男に対して何かをしたのか、ただ呼び出されたことによる怯えなのか……。

 だが折原も小泉も事件性のない貢の遺体を確認しており、亮が何かをしたなどと考えたこともなかった。この男は、用事があって呼ばれたのに、職員室に怯えて入る学生のような状態ではないかと、思わず表情を緩めた。

「安心してください。

板野さんの遺体に事件性はなく、あなたが何かをしたなどという疑いはありません」

折原の言葉に、胸を撫でおろしつつ、それではなぜ自分が呼ばれたのかという事が亮の頭の中へと残った。

「では、なぜここへ呼ばれたのですか」

「それは身元の確認です。

 板野さんの所持品はスマートフォンだけでした。その中からプロフィールを確認し、板野さんという名前はわかりました。

 けれどもそれが本当に板野さんであるか、知っている人に見てもらう必要がありました。

 なりすましや、色々な事を考えた上で、たまたまですが数回連絡をしてきた桜井さんにきていただいたという訳です」

 折原からの説明を聞いて、亮は何となく納得し、先ほどまで感じていた圧迫感を忘れ、少しだけ脱力した感覚であった。

「それにしても、なぜ亡くなったのか、原因はわかっているのですか」

 少しずつ自らの感覚が落ち着いてくると、貢の事が気になってきた。

「こちらで確認した上では、心不全という事でした。ただ詳しく解剖などはしていないので、親御さんがそれを望むのであれば行いますが、いきなり親御さんに連絡をして人違いであったとはいえないので、桜井さんにご足労いただきました」

「心不全……」

 外傷がないという事で言ったら、体内に原因が……という事なのだろうが、自分たちの年齢で、そのような事が起こるなどと亮は思ってもいなかった。同年代の知り合いの中で死んだ人間がいないせいもあるのだろうが、信じられないということしか脳裏には浮かんでこなかった。

「どこで亡くなっていたのですか」

 実感がわかないからか、亮は今更どうなることでもないが、折原に確認した。

「新宿の繁華街を少し離れた裏道に入るあたりです」

「繁華街の近くですか……」

 聞いても何もならなかった。ただ遊んだ後なのだろうかという想像だけはできた。

「そうです、朝から倒れていたという近隣の店の方の話もありましたので、間違いはないようです」

「……」

 そこまでのやり取りをして、亮は改めて貢が死んだという事実を胸に刻んだ。その上で、更に遺体を確認して、貢の死を実感しなければならないと思うと、亮は心労を覚えた。

「それでは確認してもらってもよろしいでしょうか」

 小泉が立ち尽くしたままの亮に、後ろから声をかけた。辛い気持ちがあることは理解しているが、先に進んでもらわなければという思いがそこにはあった。

 亮は残念そうな、力の抜けた表情のまま、首を縦に振った。

 そのまま力なく歩き、霊安室に案内された亮は、折原によって遺体の前に立った。まだ固まりきっていない貢の身体は、なんとも言えないものであった。

「貢……」

 思わず涙を流す亮に対して、折原は職務でなければかけたくない言葉を言わなければならなかった。

「板野貢さんで間違いないですか」

 亮は問いかける折原を見ることなく、大きく頷いた。拳に込められた力とは裏腹に、涙腺だけは緩んでいった。涙が頬を伝わり、そのまま地へと落ちた。その肩に小泉は軽く手を置いた。慰めになるかもしれないと思い行った行為は、更に亮の涙を誘うことになった。

 そのあと、警察署を出るまで、どのようにしていたのか、亮は全く記憶が定着していなかった。外傷もなく、ただただ寝ているとしか思えない貢……。だが、生きている肉体とは微妙に違うその身体に、何も思えることはなかった。殺人や事故であるならば、もっと死というものを実感できたかもしれないが、何もないのである。何かの病気などで入院をしていたのであれば、少なからず覚悟というものができていたかもしれない。だが何も前兆などはないのである。ただ死んだ。それが心にぽっかりと穴を開けたままに亮をさせていた。

 両親が望めば行政解剖を行うと言っていた折原の言葉を思い出した。良く聞くことのある司法解剖との違いは、殺人などの犯罪やその疑いがある場合に行われるもので、行政解剖は、犯罪性は低いが、異常死体としてみなされた場合に行われる。

 亮は、貢の両親がどのような判断を仰ぐかはわからないが、もしも調べた時に、どのようなものになるのだろうかと、思わず頭の中で考えてしまった。

 全く無傷でなくなるということを考えると、薬物という言葉が頭をよぎった。過剰摂取による心臓発作などがあると、何かの記事で読んだことがあったからである。しかしながら貢が大麻、覚せい剤、危険ドラックなどに手を出しているなどと聞いたことはなく、その考えは否定することにした。

 そんな事を頭の中で考えてトボトボと歩くうちに、亮は連絡をしろといっていたサークル仲間に電話をしなければならないとスマートフォンを力なく手にした。

「亮、貢はどうした」

 その言葉を耳にした時に、亮は再び涙が溢れてしまった。このように生きている人間の言葉を聞くことはできても、もう貢の言葉は耳にすることはできないのである。

「亮……」

 電話口の声は何となく涙を流している姿を察しているのか、名前を呼んだ。亮は涙声になりながら、言葉を発した。

「みんな、今どこにいる」

 力のない言葉に、一瞬戸惑いがありながらも返答はあった。

「とりあえず来られる人たちで居酒屋にきているけど」

 その言葉に、貢の遺体を見て一人で居たくない亮は、すぐに乗っかった。

「わかった。とりあえず合流するよ」

 亮はみんながいる場所を聞くと、再び駅から離れるように歩きはじめた。まだ夏の日差しは強く、更け切っていない時間でありながら、飲み屋へと入っていく人たちは多く見受けられた。

 亮は居酒屋に入る前に、深呼吸をした。みんなに会って、どのように貢の死を話せばよいのか、自分の中で整理が出きていなかったからである。しかしながら深呼吸をしてみても、亮自身の気持ちは晴れることなく、同じままであった。とりあえず合流するしかない。

 亮は居酒屋の中へと入り、みんなが待っている席へと進んだ。座敷の前には電話で話をした高知順が待っていた。その姿を見ただけで、亮は感情を抑えることができずに、涙を流すしかなかった。

 慰めるようにして案内された座敷には、サークルに参加したほとんどの人たちが亮を待っていた。当初の目的としては貢が警察にいる事で亮が呼ばれたということもあり、その事を気に留めていたが、今は亮の涙する姿を見て、貢の事よりも亮を心配する声のほうが多くあった。

「とりあえずビールでいいよな。誰かビールを一つ」

 高知の声に、廊下の近くに座っている学生が店員へビールを注文した。とりあえず亮が落ち着かないことには、話は先に進むことはないと思われた。そんなサークル仲間たちの気遣いもあってか、亮はビールが届く頃には、涙を止め、少しだけ落ち着きを見せた。

「亮、お疲れ」

 誰かが号令をかけた。それによってみんなが

「お疲れさま」

 と言い、あちこちで杯がぶつかり合う音がし、各々がグラスに口をつけた。亮もビールを口にし一気に半分くらい飲み干すと、グラスを置き、深呼吸をして立ち上がった。

「みんな、驚かないで聞いてくれ」

 座敷はその言葉によって一瞬で静まり返った。誰かが気をつかってか、座敷のドアを閉めた。

「さっき、貢の事で警察に呼ばれて、新宿署へと行ってきた」

 誰もが亮の第一声に固唾を飲んだ。何か悪いことでもして貢は警察に逮捕されたのではないか…そんな憶測を考える者もいたはずである。貢の女遊びなどを知っている者は、女がらみではないかと思っているかもしれない。亮も新宿署へと向かう前はそうであったくらいである。

「そこに貢がいるのかと思ったのだけれども、いや、貢は実際には居たのだけれども……」

 亮は言葉に詰まった。先ほどの何とも言えない貢の姿を思い出したからである。その沈黙に耐えられなくなった者が、グラスへ乾いた口をつけた。

「貢は居たのだけれども、死んでいた……」

 亮の言葉に誰もが絶句をした。大学生で同級生の死に直面することなど、まずもってないからである。しかも病気などで入院をしていたなど、兆候があったのであれば覚悟はできるが、いきなりであったことが、更に座敷に沈黙を誘った。

「突然死だったみたいで、救急車に乗ることもなく、警察署に運ばれたみたいで……。

 とりあえず何回かサークルが始まる前に電話をしていた俺のところへ連絡がきたんだ。

 スマホしか持っていなかったらしくて、俺に本人確認をしてくれという事だったんだ。確認した上で、これからの処置を決めると言っていた。今頃大学に連絡が来て、完全に身元が分かれば、両親に連絡をするみたいだ……」

 それを聞いて、誰も口を開くことができなかった。

両親に連絡を取り、不審な点がなければそのまま引き渡されると折原は言っていた。ただ両親が行政解剖を望めば、より明確な死因を求めることになるという。そうでなければ、心不全で終わりだとも言っていた。

 先ほどの静まり返った沈黙を破ったのは、みんなが涙を流している姿であった。どうしてよいのかわからない状態で、誰もが泣くことしかできなかった。

 突然死……。同年代でそのような事が起きるとは思ってもいなかったからで悲しみは大きかった。

そんな時に、女子学生が声を上げた。

「そういえば、今日、大学の女子寮でも、救急車が来ていた。

 私が来るときだったから、そのあとの事は知らないのだけれど……」

 その女子学生は、スマートフォンを手に、同じ女子寮に住む同級生にメールで連絡を取った。それは関係ないだろうとか、もしもその学生も突然死で亡くなっていたら、などと座敷のあちこちで、先ほどの沈黙とは異なる、推測が飛び交った。みんながあれこれと話している間に、メールの返信が届いた。

「三〇二号室、教育学部の河野さんだって……

 一昨日から食事にも来ていないというので、寮長が部屋を見に行ったら動かなくなっているというので、救急車を呼んだんだって……。

 でも死亡が確認されて、警察が来て大騒ぎだったって……」

 メール内容を告げた女子学生の言葉に、思わず高知が思い出したかのように呟いた。

「教育学部の河野って、この間貢が合コンでお持ち帰りした……」

 高知の言葉に、佐智は貢の印象が変わるような気がした。合コンくらいの話であれば大学生であればあってもと思えてしまうのだが、お持ち帰りという言葉が、貢の印象を大きく変えた。軽蔑とはいかないまでも、憧れという言葉は、佐智の中で消滅しそうであった。

「心中とかかな」

「莫迦、一緒に亡くなったわけじゃないだろう。場所だって別々だし、お互い外傷もないんだろう」

「だから、睡眠薬とか」

「何で二人が死ななきゃならないんだよ。たかが女と寝たくらいで……」

 あちこちでそれぞれの憶測が飛び交った。

「貢が女の一人や二人で死ぬことはないだろう」

 高知の言葉を聞いて、貢の女遊びを知っている男子学生たちは、その通りだと思った。女子学生たちも一部はその噂を耳にしている、もしくは一度くらい手をつけたこともあるせいか、その見解が正しいと思えた。そしてだったらなぜという思いが募る。

 高知の言葉が、更に佐智の、貢の知らなかった一面を浮き彫りにしていく。そしてまだまだ知らない貢がいるのではないかと考えてしまった。

「じゃあ性病とかかな、エイズとか」

「莫迦だな、性病やエイズですぐに死ぬわけがないだろう。潜伏期間とかもあるから、すぐに発症するってこともないし……」

 警察に呼ばれたという亮の話から、貢のゴシップの話へと周りは変わっていった。佐智は頭の中が混乱し、整理ができなくなり、思わず隣に座る聖羅へと声をかけた。

「ねえ、貢先輩がお持ち帰りとかしているなんて、信じられないのだけど」

 聖羅は急に問いかけられて、瞬時に答えることができなかった。そして自らが貢と寝たこともあるからこそ、どのように答えたらよいのか、迷いの表情を見せた。その表情に、佐智は珍しく女の勘が働いた。

「もしかして、聖羅も……」

 佐智の視線が、聖羅には痛かった。そんな刺さるような視線を聖羅は持て余した。一緒にサークルに来た時の、女として佐智に対する優越感などは微塵もなくなっていた。どこかで隠すか、弁明をしなければと聖羅は焦り、鼓動が早くなっていることに気が付いた。

 慌てる聖羅を見て佐智は自らの感覚が間違っていて欲しいと期待をした。

「いや」

 聖羅は何も言えず、佐智の視線により圧迫感を感じ、迫りくる感覚を抑えるように手を二人の間を遮るように出した。

「どうなの」

 佐智の言葉は更に聖羅を追い詰めた。もう言い逃れはできない。聖羅は思わず力を無くすように肩を落とし、小さく呟いた。

「この間、先輩たちと飲みに行った帰りに、酔っていたし、盛り上がっちゃって……」

 聖羅は弁解をはじめた。そしてそのあとにも言葉を続けようと、佐智を見た。だが次の瞬間、瞼がシャッターを勢いよくおろすかのように、視界を遮った。

 佐智には一瞬、聖羅が静止してしまったかのように思えた。

だがしゃべろうとしていた口元は力を失い、聖羅は次の瞬間、後方へと倒れた。

 佐智の悲鳴と共に、あちこちで貢やその女関係の憶測を語ったりしていた学生の視線が集まった。佐智は何もできずに、体から力が抜け、そのまま座り込み怯えるだけであった。

 救命講習を受けたことのある数人の学生たちが、聖羅の周りに集まった。

 口元へと耳を近づけるが、呼吸をしている感覚はなかった。女子学生の一人は胸へと手を当てる。上下する感覚もなければ、手に生命の鼓動を感じることもなかった。

 すぐさま心臓マッサージがはじめられた。

 亮は座敷を出ると、店員に問いかけた。

「この店にAEDはありますか」

店員たちはこのような事態にあったことがないのか、

「えっと……」

と慌てるようすを見せるが、顔を見合わせて首を横に振った。

「AEDですね。今持っていきます」

 年配の従業員、たぶん店長なのだろうか、亮に返答をすると走りさった。

 最初に口元へと手を近づけた学生が、スマートフォンから電波を急くように飛ばした。一一九番はすぐに電波をキャッチした。

「事件ですか、事故ですか」

「事故というか、知人が倒れました。呼吸していないようです」

「わかりました。すぐに救急車を要請します。そちらの場所はわかりますか」

 見えない相手とのやり取りが行われている中、女子生徒はずっと聖羅の胸をマッサージしている。そんな中、佐智は力が抜け、しゃがみこんだまま、何もできずにいた。口は力なく開き、放心状態である。その佐智を他の学生が少しだけ、人だかりになっているところから離し、水を持ってきた。しかし佐智はそのグラスを掴むだけの力はなかった。

 先ほどから混乱を招いている脳が、何も考えることを拒否しているようであった。それどころか、問いただした聖羅が倒れていく映像が、何度となく、脳裏にスロー再生されているようであった。

 亮が持ってきたAEDを見て、心臓マッサージを続けていた女子学生が、聖羅の上着をおもむろに脱がせた。ブラジャーのホックにある金属もAEDをつけている時には外さなければならない。羞恥心だ、なんだという感覚はなかった。ただ救わなくてはならないという思いだけがそこにはあった。それでも男子学生たちは気を使い、聖羅に対して背を向けた。女子学生たちも、壁を作るようにして、聖羅の裸体をなるべく隠すように行動した。

 AEDが装着され、電源の入ったAEDは聖羅に自らの力が必要なのか判断をしていく。だが心房細動などではないらしく、AEDが作動することはなかった。それなので、酸素を細胞に供給するためには心臓マッサージしかできなかった。途中女子学生が人口呼吸なども含めて救命処置をしていく。

「かわるよ」

 一人の女子生徒が、はじめに心臓マッサージを行った生徒を変わった。ずっと力強く心臓をマッサージしていた女子生徒は、額に汗をかき、荒い息をしていた。

 その間に救急隊は慌ただしく店内へと入ってきた。騒然とした中、サークルとは関係のない、店内にいた野次馬たちが座敷の方へと目を向けている。単なる学生の急性アルコール中毒を疑っている年配のグループは、笑いながら気にも留めずに雑談をしているようであった。

「どなたか、付き添いの方は……」

 素早くストレッチャーに乗せた救急隊はみんなに向かい声をかけた。その声に反応するように亮は佐智の手を取った。

「友達だろう、行ってこい」

「でも、私一人じゃ」

「わかった、俺も行くから

 付き添います」

 救急隊へと答え、亮は佐智をせかすように言うと、荷物を手にした。佐智は兎に角行かなければならないと思い、自分と聖羅の荷物を手にし、亮が待っている座敷の入口へと向かった。

 救急車の中に運ばれた聖羅に、救急隊は心臓マッサージを続けた。

自分が聖羅を問い詰めるような事を言わなければ、聖羅が倒れることはなかったかもしれない。救急車を前にして佐智は一瞬歩を止めた。

「付き添いはお二人でいいですね」

「はい」

 亮が応えると立ち尽くしている佐智の手を取った。

「行くぞ」

 亮に引かれるように、佐智は一緒に救急車へと乗り込んだ。

サイレンを鳴らして病院へと向かう空は、いつの間にか積乱雲が、立ち上るように育っていた。

 病院へ着くと、医師や救急隊は慣れたように聖羅ののったストレッチャーを処置室へと運んでいく。佐智は何が何だかわからない思いのまま、亮の背中を負った。

 そこから佐智は何を考えていたのか、自分でもわからなかった。ただこの場に一人ではなく、亮がそこにいてくれるだけで、少しずつ平静を取り戻していった。だが、足が地についている感覚は未だになかった。

「横山、砂原の家の連絡先はわかるか」

「はい」

 佐智はスマートフォンで聖羅の連絡先を調べた。中学校からの知り合いでなければ携帯電話の番号しか知らなかったのかもしれないが、そんなことはなかった。だが、聖羅の実家に連絡をして何を伝えればいいのか、佐智の頭の中は混乱していた。

「あの、どうすれば」

「とりあえず砂原が倒れたことと、この病院に搬送されたこと伝えるしかないか」

 亮も救急搬送された人に付き添ったことはないので、どうすればよいのか正確にはわからなかった。ただ自分たちだけがずっとここに居ても意味がない事だけは理解していた。

「あの、佐原さんのお宅ですか……」

「さっちゃん、あれ、今日聖羅と一緒じゃなかったっけ」

 電話口に出たのは聖羅の母親であった。ナンバーディスプレイのせいか、すぐに相手が佐智だとわかったのだろうか、母親は明るい声を出した。

「あの、聖羅が倒れて、今病院にきているのですが」

「えっ、聖羅が……」

 少し動揺をしている佐智の言葉を聞いて、母親も口調が変わった。

「はい、サークルの後の飲み会で……、ええと……」

 そんな佐智に気を焼いたのか、亮は手を出し、佐智にスマートフォンを渡せという合図を送った。佐智は頷き、亮にスマートフォンを渡した。そしてすぐさまスピーカーへと変えた。

「すみません同じサークルの桜井と申します。

 聖羅さんが急に飲み会で倒れてしまいまして、今病院に搬送されました」

 亮の声に一瞬母親は戸惑うような間を作ったが、すぐに言葉を返した。

「もしかして急性アルコール中毒とかですか」

 母親は飲み会と聞いてそのくらいしか思い浮かばなかった。それでも自分の娘が搬送されたという事もあり、言葉は焦っているように早かった。

「私も聖羅も未成年なので飲んでいません。だからそれはないです」

 佐智が挟んだ言葉は、少し動揺のためか震えているようにも感じられた。

「えっ、じゃあ」

「私たちも詳しいことはわかりません。ただ心停止しているようで、今処置室に運ばれました」

 亮はできるだけ平静を保つようにしていた。だが貢の死を見た後という事もあり、いくら気持ちを落ち着けようとしていても、口調は足早になっていた。

「わかりました。今どこですか」

「新宿です。えっと、病院の名前は……」

 亮は病院の名前を探そうとしたが、近くにそれがわかるようなものはなかった。

「わかりました。とりあえず新宿に向かいます。あとでメールでもいいので場所を教えてください」

 母親はそれだけを言うと電話を切った。

 二人は途切れたスマートフォンをしまい、処置室の前にある椅子に座った。

聖羅が今どのような状態なのか心配で、二人はヤキモキする以外、どうしようもなかった。佐智は先ほどと同じように、貢の事で聖羅を問いただした自らを責めた。もっと何か違う方法があったのではないか……。しかし今となっては遅いことも理解をしていた。

 ただ聖羅が無事でいてくれればいい。ちゃんと帰ってきてくれればいい。それしか今は考えが及ばず、ただただ手を胸の前に組んで祈るばかりであった。

 冷房の風が、二人の前を通り過ぎた時であった。処置室から医師が出てきた。二人はその姿を見て勢いよく立ち上がり、医師へと駆け寄った。

「あの聖羅は……」

「砂原は……」

 佐智と亮の声が重なった。医師はその二人を交互に見て、首を横に振った。

「残念ですが」

 そのような言葉を言いなれているのか、医師は感情を込めながらも、淡々と出した。

 それを聞いた途端、佐智の膝から力が抜けた。そのまま床へとしゃがみ込んだ。亮もそこまでではないが、肩の力を落とした。

【なんという日なのだろう。知っている人たちが二人も亡くなるなんて……】

 亮は今まで考えたことのない、人間の生き死にというものが、あっけなく過ぎ去っていく様を見て、何もできずにいる自分を、ただただ虚しいとしか感じられなかった。

 佐智と亮は、その後、何も考えられずに、ただただ外気とはかけ離れた気温の中で、聖羅の母親を待つことしかできなかった。

 聖羅の母親は、亮が佐智の携帯を使って地図を送っていたせいか、迷うことなく病院へとたどり着いた。そして佐智たちを見つけて、足早に近づいてきた。

 亮は聖羅の母親の顔は知らなかったが

「おばさん」

 と足音を聞いて、佐智が立ち上がった事で認識できた。

「すみません、私たちがついていながら」

 亮は上級生という立場もあり頭を下げた。母親はそんな亮に軽く頭を下げると佐智へと近づいた。

「あの、聖羅は……」

 その言葉に佐智は感情を抑えることはできなかった。涙が頬を伝い、目を開けていることができなかった。その替りに、口を開いたが、その言葉は涙声で聞き取りにくかった。

「聖羅は、聖羅は……」

 その佐智の姿に母親は察することしかできなかった。

 たまたま近くを通った看護士を捕まえ、母親は

「砂原と申しますが、娘は……」」

と声をかけた。聖羅の後に搬送されてきた患者がいなかったからか、すぐに看護士は応えた。

「あちらです、今案内をしますので、少々お待ちください」

 看護士は他にも仕事があるのか、待つようにお願いをして処置室の中へと入っていった。

「今日はありがとうございました。あとはこちらで引き取りますので」

 母親は亮に頭を下げた。佐智はそんな母親へと声をかけた。

「すみませんおばさん」

「そんな、さっちゃんが悪いわけじゃないでしょう。もうここは私がやるから、気をつけて帰って。今日はわざわざありがとう」

 母親は自らの悲しみを抑え、佐智の肩に軽く手をやり、感謝を述べた。

「砂原さんのお母さん」

 先ほど通り過ぎた看護士が用事を済ませて、母親へと声をかけた。

「はい」

 と答える母親を看護士は

「こちらです」

 と先に立ち案内していった。母親は再び二人に頭を下げ、看護士の後を追った。その母親の姿が視界から消えるまで、二人は見送った。

「横山、帰ろう」

 亮は下を向いて、まだ涙が止まらない佐智に声をかけた。佐智は頷くが足が前に出なかった。そんな思いをある程度理解しているのか、亮は軽く肩に手をかけ、佐智がゆっくりと歩く出す手助けをした。

 病院の自動ドアを抜けると、壁になっているかと思えるような暑さが二人を押し戻すようであった。外はいつの間にか真っ暗になっていた。完全に今日は熱帯夜である。だが心の中は冷たくなっているようであった。二人が病院にいる間に降った雨が、湿度を上げ、更に不快感は増していた。

 二人はトボトボと、何も言えずに、駅に向かうことしかできなかった。


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