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第1章 国家理念の再構築—六つの原理群

現代日本の国家運営において、最も深刻な問題の一つは、「国家理念」が実体を失い、制度や政策を方向づける構造的な軸が機能不全に陥っている点にある。

制度や法律、予算、外交といった行政機能は、今日もなお機械的に稼働し続けている。だが、それらを束ね、進むべき方向を与えるはずの価値体系――すなわち理念構造は、著しく空洞化していると言わざるを得ない。


そこで本章では、失われた国家理念をいかに再構築するかを検証していく。


国家運営の第一歩とは、制度を設計することでも、利益を算出することでもない。

まず行われるべきは、この国家を形づくっている「人」という存在の質と量を、正確に見極めることである。


人々が暮らし、関係を結び、時間を積み重ねることで、人間社会は形成され、国家は成立する。

人はどのような暮らしを送り、何に幸福を感じ、何に不安を抱き、何を失うことを恐れているのか。

価値観の分布とその変化、希望と疲弊の度合い――それらは、経済指標や国力指標によって代替できるものではない。国家の実質を示す、最も基礎的な情報である。


そして「平和宣誓国家」としての国家戦略性もまた、この人の質量を前提とした上でのみ検討されるべきであることを、ここで明確にしておきたい。


個々人の資質と現実を踏まえたうえで、全体として国家が追求すべき国益が導き出される。本来、国益とはこの「人」という基盤の上にしか成立し得ない。

人の質量を無視して算出された国益は、制度上の整合性を保っていたとしても生活の実感から乖離し、やがて国家と社会の分断を生む。


「平和」とは、現代世界において最も多くの人々が渇望する、いわばユートピア(理想郷)であろう。だが同時に、その困難さゆえに、思考と設計が先送りされてきた概念でもある。

この平和をいかに再定義し、国家の内部に抱合させるのか。それを国家像としていかに具体化するのか――その問いに対する答えは、慎重であると同時に、大胆でなければならない。


ゆえに、国家運営における計算の順序は、決して逆転してはならない。

まず人を測り、その上で制度を組み、最後に、その制度がもたらす結果を国益という目的と照らし合わせ、評価・分析する。守るべきは、この順序である。


人という基礎を欠いた国益計算は、国家を能動的に見せる一方で、人の生活を置き去りにした空転を生みかねない。

国家が進むべき方向を誤らないためには、人の質量を起点とした国家運営こそが、最初に据えられるべき原則なのである。


国家理念の再構築は、以上の主旨に沿って行う。あわせて本計画において、それらがどの位置を占め、どのような意味を成すのかを、「人」を基軸とした六つの原理群の提示とともに、順を追って明らかにしていきたい。



 ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


【1.1 理念構造を導く手掛かり】


この理念構造を再考するための手掛かりは、どこに求められるだろうか——


必ずしも新たな理論や概念に限る必要はない。私たちの祖先が生きた歴史の中にも、その一端を見出すことができるのではないだろうか。戦国時代、天下に名を轟かせた武将の一人に、武田信玄(注1)がいる。彼が遺した次の言葉は、今日においても、国家と人との関係を考える上で示唆に富んでいる。


「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」


ここに示されているのは、単なる精神論でも、戦術論でもない。城とは国家を指し、石垣や堀とは制度や防衛、経済といった国家を支える仕組みを意味する。すなわちこの言葉は、人そのものを国家の中軸に据えるという、明確な国家観を示している。


また「情けは味方、仇は敵なり」という一節は、人の内に相反する感情が常に併存することを前提としている。

信じることと疑うこと——

温かくも寄り添うことと、時に冷徹な判断をもって距離を取ること——

そうした相違や感情の揺らぎを抱えながらも、人と人との関係を断ち切ることなく、諦めずに引き受け続ける姿勢が、ここには読み取れる。


現代社会においても、こうした古き言葉は数多く残され、いまなお用いられ続けている。それは単なる懐古ではなく、時代がどれほど移り変わろうとも、人間の本質そのものは大きく変わらないという事実を、私たちが無意識のうちに受け止め続けていることの表れではないだろうか。また、今もなお生き続ける古き言葉には、無数の人々の承認を受け、長い歴史を通過してきた理念としての強さが備わっている。


現在という一瞬もまた、やがて過去となる時間の流れを俯瞰するならば、このような人間観に立ち、理念を固定化された理想として掲げてはならない。むしろ、揺らぎを含んだ現実の多様な人間社会を基点として国家を捉え直すことこそが、制度を絶対視することなく、未来へ向かうための重要な手掛かりとなるのではないだろうか。



※ 注1 ー (1521〜1573)甲斐(山梨県)を本拠とした戦国大名。「風林火山」の旗印を掲げ、最強の騎馬軍団を率いて上杉謙信や織田信長を脅かした。内政にも長け、信玄堤の築造や領国経営で「名君」としても評価が高い。


 ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


【1.2 国家理念の構造的役割—制度を貫く価値体系】


このような人間観を基点として国家を捉えるとき、理念はもはや抽象的な精神論として扱われてはならない。理念とは、制度全体を方向づけ、国家運営の一貫性を支える構造そのものである。


本来、国家とは単なる統治機構ではなく、社会全体を導く理念的枠組みを内包した存在でなければならない。理念は、制度の目的を明示し、社会の進むべき方向性を定め、個々人の帰属意識や連帯感の根拠となる。理念を欠いた制度運用は、やがて惰性と自己目的化に陥り、国家が本来目指すべき姿を見失っていく。


憲法が掲げる「基本的人権の尊重」や「平和主義」といった理念は、本来、教育・福祉・外交・防衛など、あらゆる政策分野において具体化されるべき指針であったはずである。しかし今日、その理念が制度の内部で生きているとは言い難い。多くの制度は理念ではなく、利害調整や既得権の維持を軸として運用され、政策の優先順位もまた、選挙対策やメディア受容性に大きく左右される傾向を強めている。


この状況は、国民と国家のあいだに深刻な信頼の断絶をもたらす。理念なき制度に従うことは、理念なき服従にほかならず、そこに自律的な納得は生まれない。すなわち、理念構造の空白は、制度の「正統性の根拠」を失わせ、国家に対する国民の主体的な関与意識を著しく低下させる。それは、従来の理念が役割を終えたまま、再定義されることなく放置されてきた結果とも言える。


理念を失った国家は、変化に対する耐性もまた失う。制度改革は本来、理念を軸としてこそ進められるべきものである。しかし理念なき制度は、外的要請に場当たり的に反応するしかなく、国家全体としての一貫性を維持することができない。理念への敬意とともに、その指針を不断に見直し、精錬し続けること――それこそが、制度と国家を結び直す営みである。それが欠けた改革は、常に「誰かにやらされているもの」として受け止められ、内発的動機を欠いたまま空転し、制度疲労をさらに深めていく。


理念とは、制度運用に方向性と意味を与え、社会に統合の根を張る構造そのものである。

国家が生きた存在であり続けるためには、まずこの理念構造を再建することが不可欠である。

国家にとって理念構造とは、制度の方向性を定める不可欠な土台であり、その空白は、正統性の喪失と社会の分断を招く。


ゆえに国家の再設計においては、制度を論じる以前に、それを貫く価値構造――すなわち理念の再構築こそが、最優先されなければならない。理念は制度の上位構造であり、国家を支える「見えざる骨格」なのである。


では、「理念が制度を貫く」とは、いかなる構造を指すのか。


それは、理念が個別制度の外側に掲げられる標語として存在するのではなく、制度の設計・運用・改変のすべてに先立つ、最上位の構造として内在している状態を意味する。


国家理念が最上位構造であるということは、それが法体系の最上位にも位置づけられていなければならないことを意味する。すなわち国家理念は、単なる政策文書や基本方針に委ねられるべきものではなく、国家の法秩序全体を統べる枠組みの中に、明示的に位置づけられる必要がある。


この点において、憲法は決定的な意味を持つ。

憲法とは、国家における最高法規であると同時に、制度設計の前提となる価値構造を固定化し、社会全体で共有するための装置である。もし国家理念が制度を貫く最上位構造であるならば、その理念が憲法の中でどのように位置づけられているかは、国家運営の実質を左右する根本問題となる。


現行の制度運用において理念と制度の乖離が生じているとすれば、それは単なる運用上の問題ではない。理念が法体系の最上位において、十分に内在化されていないことの表れでもある。この乖離を解消するためには、制度の細部を修正するだけでは不十分であり、理念と制度の関係そのものを、法体系の最上位から再定義する必要がある。


すなわち、国家理念を最上位構造として内在させるという構想は、必然的に憲法の在り方そのものを問い直す。少なくとも、憲法が国家理念をどのように受け止め、制度全体をいかなる方向へ導こうとしているのかについて、再検討を避けて通ることはできない。


理念をいかに制度内部へと内在させるのか、その具体的手法については、第6章「国際機関への働きかけ」において、制度設計工学の観点から詳述する。特に同章では、「平和」をいかに再定義し、それを制度として実装するのかについて、より踏み込んだ検討を行っているため、あわせて参照されたい。


制度の設計とは、理念を具現化するための目的装置である。

ゆえに国家を再構築するとは、制度を積み替えることではない。理念を最上位構造として再配置し、それに即して制度を再編すること――それこそが国家再設計の本質である。


本節が示したのは、国家理念を掲げることの重要性ではない。理念を制度の内部に、そして法体系の最上位に内在させることの構造的必然性である。


この理解を踏まえた上で、次節では、人を基軸とする六つの原理群を提示し、国家理念を具体的な構造として明確化していく。



■ 捕捉:理念なき法治が導くもの

ここで、「理念などを法体系に内在させる必要はない」という一定の反論について、あらかじめ触れておく必要がある。


この立場は、一見すると秩序と安定を重んじ、合理的かつ実務的な法体系こそが社会に不可欠であるとする、現実的な考え方のようにも映る。しかし、その前提には、しばしば見過ごされがちな含意が潜んでいる。それは、「国民には定められた法を与えればよい」という発想であり、国民を法の意味を問う主体ではなく、従うべき対象としてのみ捉える視点である。


理念を欠いた法治とは、突き詰めれば「なぜその法に従うのかを問う必要はない」という態度を、制度的に正当化することに等しい。そこでは、法は人の理解や納得を前提とせず、形式的な強制力としてのみ機能する。その結果、国民に残されるのは選択や参加ではなく、服従だけである。


本来、法とは人のために存在する。

まして国家憲法ともなれば、その法意は最上位に位置づけられるべきものである。ゆえに、法が持続的に機能するためには、「何を守ろうとしているのか」「どのような社会を目指しているのか」という価値的指針が不可欠となる。その指針こそが理念であり、理念は法に意味と方向性を与える。


そして重要なのは、この理念が、国家を構成する「人の質」を基点として導き出されなければならないという点である。

人々がどのような生活を送り、何に不安を覚え、何を守りたいと願っているのか。そうした人の質と現実を無視して定められた国家指針は、制度として整合的であったとしても、生活の実感から乖離し、やがて空転する。


理念を法体系の最上位に内在させるとは、国家指針を人の質に基づいて定め、その指針に沿って制度を設計・運用するということである。それは、国民に単なる遵守を求める国家ではなく、理解と参加を前提とする国家像を選び取ることにほかならない。


したがって、理念なき法治は、国家運営を簡素化するように見えて、実際には人の質を測る回路を失わせ、国家が進むべき方向を見誤らせる。

国家理念を内在させることは理想論ではない。人を基軸として国家指針を定めるための、不可欠な前提条件なのである。


 ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


【1.3 従来の原理の分解】


理念構造を再建するにあたり、本計画ver1.0では「自由」「共存」「調和」という三つの原理を中核として据えてきた。これらは国家運営において普遍的な価値であると同時に、制度設計や統治の方向性を定めるための基準軸である。


しかし再検討の結果、これら三つの語彙は、日常語として広く流通しているがゆえに、制度設計へ直接適用できる原理としては、内部構造が十分に分化していないことが明らかとなった。概念が曖昧なまま運用されることで、理念と制度のあいだに乖離が生じ、結果として制度の正統性や一貫性を弱めてきた可能性がある。

したがって本計画では、これらを一括して理念として掲げるのではなく、それぞれを独立した原理目的としていったん分解する。そのうえで、制度や社会構造に応用しうる思考の枠組みとして再配置し、具体的な設計原理へと昇華させることを試みる。あわせて、それらの原理が互いに矛盾するものではなく、むしろ相互に補完し合う関係にあることを検証し、分解された原理を再び統合することで、より精緻で実装可能な理念構造として再構築する可能性を探る。


■  自由の分解


これまで「自由」という言葉が国家理念として用いられてきた背景には、民主主義が西洋文化の中で形成されてきた歴史的経緯がある。

自由とは、もともと完成された制度原理ではなく、抑圧からの解放という歴史的要請に応答するために生み出された、変革のための理念であった。


身分制や専制政治のもとで、人々は生まれや立場によって固定的に位置づけられ、意思決定から排除されてきた。そうした社会構造を瓦解させるためには、既存の統治主体ではなく、かつて支配の対象とされていた民衆そのものへと視座を移す必要があった。その転換を正当化し、推進する理念として提示されたのが「自由」である。


この語彙は、解放・独立・革命・民主化運動において、圧倒的な象徴性を帯びて機能してきた。自由は「抑圧に対抗する正しさ」そのものとして受け止められ、その語を掲げること自体が倫理的正当性を伴うかのように扱われてきた側面がある。

その結果、自由という理念は強度を保った一方で、内部構造の検討が十分になされないまま、国家理念として継承されてきた。


しかし、国家理念として自由を制度設計に接続するためには、この語彙を歴史的象徴としてではなく、構造的原理として再定義する必要がある。

すなわち、「自由とは何からの解放であるか」という問いから、「自由はどのような構造を通じて維持・更新されるのか」という問いへと、視点を移さなければならない。


・自立——外部の命令や庇護に依存せず、自らの判断で生を営もうとする姿勢。

・主体——制度や国家の客体ではなく、意思決定と責任の担い手としての人。

・責任——自由な判断と行為が、結果への引き受けを伴うという倫理的前提。

・民主——自由が個人的感覚に留まらず、集団的意思決定へと接続される構造。

・開放——身分・属性・固定的役割からの解放、ならびに制度へのアクセス可能性。

・無限性——人間の可能性を事前に限定しないという前提。対象設定や可変性を閉じない態度。

・承諾——支配や制度が正当性を持つためには、被支配者の同意を必要とするという原理。


自由を制度設計における原理として位置づける場合、その目的は明確である。構造的に見たとき、自由とは単なる選択の多さや行動の制限の少なさを意味しない。それは、人を管理・動員・保護の対象としてではなく、制度を構成し、更新する主体として扱うことにある。

この意味において、自由は「国家に与えられる権利」ではなく、国家が制度を設計する際に、必ず出発点として引き受けるべき前提条件である。


■ 共存の分解


共存とは、単に多様性を容認する態度や道徳的要請を意味するものではなく、多様性を前提として社会が機能し続けるための制度的柔軟性を、あらかじめ組み込む設計思想を指してきた概念である。


立場・価値観・文化・能力の異なる存在が、それぞれの違いを消去することなく、同一の社会空間の中で生き続けるためには、個々人の善意や成熟度に依存するだけでは不十分である。共存は、他者への思いやりを期待する道徳ではなく、人間の不完全さや関係の摩擦を前提としたうえで、それでも社会が破綻しないための構造要件であった。


しかし現代において、「共存」や「共生」という語彙は、しばしば別の意味合いで受け取られている。それは、既存の生活空間や秩序を侵食する、外部から押し付けられる要求としての共存である。

「多様性」は負担であり、「配慮」はコストであり、「包摂」は譲歩である――

こうした認識が広がるとき、共存は理念ではなく、対立や分断の火種として扱われる。だがこの反転は、多様性そのものに原因があるのではなく、共存という概念が制度原理として誤って理解されてきたことに由来する。


現代の制度設計は、多くの場合、暗黙のうちに「標準的な人間像」を前提とする構造が常態化していた。すなわち、健常で、成年で、常勤労働者であり、一定の家族形態に属する存在を中心に制度が組み立てられてきたのである。その結果として、障害者、高齢者、シングル世帯、非正規雇用者、外国籍住民といった存在は、制度の周縁へと追いやられてきた。しかし、人生の時間軸を考えれば、誰もが病を抱え、高齢となり、立場を変化させる可能性を持つ。にもかかわらず、制度が「一時点の理想像」を固定的に前提とするならば、共存は常に後付けの調整にとどまり、持続可能な構造にはなり得ない。


・多様性——生き方・価値観・能力・文化の違いが常態であるという前提。

・包摂——排除ではなく、制度の内側に組み込むという設計姿勢。

・声なき存在——政治的・言語的に自己主張できない存在への制度的配慮。

・未来世代——現時点では不在だが、制度の帰結を引き受ける存在。

・配慮——個人の善意ではなく、制度として組み込まれる調整機構。

・客観力——特定の立場に寄らず、社会全体への影響を俯瞰する視点。


さらに重要なのは、共存が人間同士の関係にとどまらないという点である。そこには、言葉を持たない生き物、自然環境、そして未来の人々が含まれる。共に在るとは、現在ここに声を発する者だけで社会を完結させないという選択であり、空間と時間を超えて影響を受ける存在を、制度設計の射程に含める意志を意味する。共存とは、現在世代の利便や快適さを最大化することではなく、社会という構造を、長期的に持続可能なかたちで維持するための原理である。


共存を制度原理として位置づける場合、その目的は明確である。それは、社会の構成員を「標準」と「例外」に分断する前提を解体し、不確実性と変化を、誰もが引き受け得る現実として制度の出発点に据えることにある。共存とは、弱者を特別扱いするための理念ではない。むしろ、人が誰しも脆弱性を抱える存在であるという事実を、制度が先に引き受けるための原理なのである。



■  調和の分解


近代以降、国家理念における第三の原理として、しばしば「平等」が掲げられてきた。人間の尊厳に基づく「自由で平等な社会」の確立は、民主主義思想の中核的スローガンとして繰り返し語られてきた理念である。

しかしながら、「平等」という概念が、国家運営や制度設計の原理として十分であるかについては、すでに多くの限界が指摘されている。人は能力、環境、立場、時間軸のいずれにおいても等しくなく、完全な平等を前提とする制度設計は、現実との乖離を避けられない。結果として平等は、実現不可能な理想として空洞化するか、あるいは形式的な同一処遇を強制することで、新たな不公平や抑圧を生み出してきた。

こうした問題意識と、私自身の構想における「多層的調和思想」を踏まえ、本計画ver1.0では第三の原理として「調和」を採用した。


調和とは、差異を消去することではない。また、対立や不均衡を一時的に覆い隠すことでもない。


調和とは、矛盾や緊張を内包したまま、それでも全体が壊れずに存続し続けるための構造的な知恵である。それは静的な均衡ではなく、揺れやズレを抱えながらも動的に安定を保つ仕組みであり、自由と共存という二つの理念を同時に成立させるための要となる原理である。


平等が「同じであること」を要請する理念であるとすれば、調和は「違ったままで在り続けること」を可能にする理念である。調和原理とは、対立する関係性や不均衡を排除するのではなく、それらが必然的に生じることを前提として、制度の内部に組み込み、制御し続ける構造を指す。


・包摂——対立要素や周縁的存在を排除せず、制度の内側に保持する姿勢。

・相互性——一方的な負担や犠牲を固定せず、影響が相互に循環する関係性。

・均衡——完全な一致ではなく、破綻しない範囲に保たれた動的な安定状態。

・緊張管理——利害衝突や価値対立を解消せず、制御可能な状態に保つ能力。

・時間軸——短期的成果と長期的持続性、現世代と未来世代の利害を調整する視点。

・多層性——個人・社会・制度・国家といった異なる階層間を同時に調整する構造。


構造的に見たとき、調和とは「衝突が起きない状態」ではない。むしろ、衝突や緊張が生じることを前提に、それでも破綻しない制度構造を備えている状態である。

調和を国家理念の原理として位置づける場合、その制度的目的は明確である。それは、社会の中に不可避的に存在する緊張や矛盾を、一時的に解消するのではなく、継続的に調整・管理する能力を制度に与えることにある。


調和原理は、制度を「壊れにくくする」ための原理であり、変化・不確実性・対立を排除せず、それらとともに更新し続けるための基盤となる。


 ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


【1.4 理念構造の再設計_六つの原理群とは】


本節では、新たなる原理となる六つの原理群「実存」「自律」「民主」「相互」「慈愛」「錬成」という六つの理念を、単なる理想の標語としてではなく、制度や社会の構造と有機的に結びついた、再設計可能な理念体系として捉え直す。


◆  実存原理


実存原理とは、真理が抽象的な理念や価値判断から先に与えられるものではなく、人が置かれている具体的な〈事実〉の積み重ねによってのみ立ち上がるという認識を、国家理念の最上位に据える原理である。


ここで言う〈事実〉とは、理念や政策目的によって選別・修正された現実ではない。人が実際に生き、迷い、傷つき、選択し、失敗し、そして取り消すことのできない時間を生きてきた、不可逆の現実そのものを指す。


実存原理は、「何が正しいか」を制度の外部であらかじめ定義することを拒み、「誰が、どのような状況に置かれているのか」という事実の確認を、すべての制度設計と政策判断に先行させる。

国家や制度は、人間の生を説明するために存在するのではない。

すでに生じてしまった生の事実に対して、いかなる責任を引き受けるのかを問われる存在である。

この原理において、理念とは事実を導く光ではなく、事実を歪めずに捉え続けるための枠組みである。


ここで区別されなければならないのが、〈事実〉と〈データ〉の違いである。

数値や統計は、社会の傾向や構造を把握するうえで不可欠であり、データに基づく判断は、しばしば合理的で正確である。しかし、人間はデータによってのみ測定可能な存在ではない。

人は、数値化されない感情を抱き、記録に残らない記憶を背負い、過去の経験によって判断を歪められ、あるいは支えられながら生きている。

実存原理は、合理性の名のもとに、こうした人間の内的現実が切り捨てられることを拒否する。

数字に沿った判断が「正しい」場合であっても、その背後で失われる生の感触を見失わないこと——

それ自体を、国家の責務として引き受ける姿勢である。


ゆえに実存原理は、国家を「あるべき姿」から設計することを退け、まず「すでに起きている現実」から国家を立ち上げ直すための、最初の、そして不可欠な原理である。


◆ 自律原理


自律原理とは、人を制度によって管理・誘導される対象としてではなく、自ら判断し、選択し、その結果を引き受ける主体として位置づける原理である。それは、従来の人権尊重の理念を継承しつつ、それを宣言的価値にとどめず、国家と制度の設計を拘束する構造原理として再定義する試みである。


自律とは、他者や社会から切り離された独立性を意味しない。

人は常に、家族、共同体、制度、歴史といった関係性の網の目の中で生きている。その中にあってもなお、判断を外部に委ねきらず、自らの意思として引き受ける態度こそが、自律である。


この原理が要請するのは、国家が人に代わって「より良い選択」を先回りして決定することではない。むしろ、国家が決定を代行し得る範囲を、いかにして限定するかという問いである。自律原理は、国家権力が善意や合理性を理由に、人の判断領域へ過度に踏み込むことに対する、制度的な抑制基準として機能する。

この点において、自律原理は、自由を単なる権利保障としてではなく、制度があらかじめ引き受けるべき構造条件として位置づける。すなわち、制度は人の自律を代替するために存在するのではなく、人が判断し続けることを可能にし、その能力が失われにくい環境を維持するために設計されなければならない。


制度が過剰に人を保護し、誘導し、最適化しようとするとき、人は自ら判断する機会を失い、やがて責任を引き受ける主体であることから退いていく。自律原理は、こうした「善意による代行」がもたらす主体性の空洞化を警戒し、制度が人の判断力を侵食しないための限界線を引く。


ゆえに自律原理とは、国家が人を支配しないという姿勢を宣言するだけの原理ではない。

同時に、人が自ら決定し続けられる余地を、国家が制度として示し、守り続けるための原理である。


◆ 民主原理


民主原理とは、従来の民主主義が本来志向していた民主性の核心を捨てず、それを形式や慣習に還元することなく、国家運営の中で持続させようとする原理である。


ここで言う民主性とは、選挙や多数決によって意思を集計することそれ自体ではない。

公開された議論を通じて、人々が自らの生活環境と向き合い、何を選び、何を引き受けるのかを、自ら考え抜こうとする姿勢である。民主原理は、この「考え続ける態度」が社会から失われないことを、制度の側から支えるための原理である。


ゆえに民主は、単なる手続きや制度形式に還元されるものではない。それは、議論・修正・検証を通じて意思が更新され続ける、開かれた継続的プロセスであり、制度そのものが誤りうることを前提とした自己修正機構である。

透明性は、この過程を成立させるための条件であり、権力の判断が検証可能なかたちで社会に晒され続けることを要請する。


この原理において、国家の正統性は、「一度与えられた委任」によって固定されるものではない。

それは、影響を受ける人々の意思が、不断に反映され、問い直され、更新され続ける構造の上にのみ成立する。民主原理とは、国家の意思決定が特定の権力主体に占有されることを防ぎ、関与と参加の回路を閉じさせないための制度的条件である。


本計画書において「民主」を国家原理群の一つとして位置づけることは、敗戦によって外部から与えられた制度や価値を、無批判に受け入れることでも、否定によって拒絶することでもない。それらを引き受けたうえで、何を継承し、何を問い直し、どのように更新していくのかを、国民全体で考え続けるという、確固たる挑戦の表明である。


民主原理とは、国家が完成された正解を示すことを拒み、社会が自らのあり方を問い続ける余地を、制度として開き続けるための原理である。


◆ 相互原理


相互原理とは、人と人、集団と集団、制度と社会のあいだに生じる影響が、一方向的な負担や犠牲として固定されないよう、関係性そのものを循環的かつ可逆的に設計するという原理である。


この原理は、一見すると「平等」を志向しているように見えるかもしれない。

しかし相互原理が問題にするのは、同一の配分や同等の結果ではなく、人と人とのつながりが断ち切られない構造そのものである。

人は社会の中で、常に同じ立場に留まる存在ではない。人生の時間の中で、支える側にもなり、支えられる側にもなり、負担を担う者にも、配慮を受ける者にもなり得る。相互原理は、この立場の移ろいを例外として扱わず、制度の前提条件として引き受ける。


社会における支援、負担、責任が、特定の人々に固定されるとき、制度はやがて「誰かのための仕組み」であることを装いながら、別の誰かの犠牲の上に成り立つ構造へと変質する。

相互原理は、こうした構造の固定化を拒み、影響と責任が循環し続ける関係性を、制度の内部に組み込もうとする。


先住民社会に伝わる思想の中には、大切なものから手を放してはならない、という感覚が繰り返し語られてきた。それは所有や効率ではなく、人と人との結びつきそのものを失わないという選択である。

相互原理は、こうした感覚を情緒として消費するのではなく、社会が相互に影響し合いながら成立しているという現実を、国家制度の設計条件として引き受けるための原理である。

それは、誰かを永続的な受益者や犠牲者に固定しないための、冷静で、しかし人間的な構造的配慮である。


ゆえに相互原理とは、社会を分断する線を引き直す原理ではない。

関係が断ち切られないよう、負担と支援が循環し続ける場を、国家が制度として保ち続けるための原理である。


◆ 慈愛原理


慈愛原理とは、合理性や効率性だけでは捉えきれない人間の脆弱性を、国家理念の周縁に追いやるのではなく、制度設計の中心に引き受けるための原理である。


人は常に自律的で、合理的で、強靭な存在として生きられるわけではない。

病、老い、障害、喪失、孤立――

こうした状態は、個人の失敗や例外ではなく、生きるという営みそのものに内在する現実である。慈愛原理は、この現実を前提条件として制度に織り込み、「通常」と「例外」という線引きそのものを問い直す。

この原理が問題にするのは、支援の量や手厚さではない。むしろ、苦境に置かれた存在が、制度の視野から見落とされ、声を上げられないまま消えていく構造そのものである。慈愛原理は、こうした不可視化を防ぐために、制度が備えるべき感受性の水準を定める。


ここで言う慈愛とは、感情的な同情や道徳的美徳を意味しない。それは、合理的判断が排除してしまいがちな人間の現実を、あらかじめ想定し、拾い上げ続けるための制度的感受性である。誰かが声を上げられなくなる前に、制度の側が立ち止まり、問い直す余地を残すこと――

それが慈愛原理の核心である。


ゆえに慈愛原理とは、国家が人に「強さ」を要求する原理ではない。

人が弱さを抱えたままでも社会から切り離されないよう、制度が人間の限界を引き受け続けるための原理である。


◆  錬成原理


錬成原理とは、国家や制度が社会によって形成される以上、それらが人や時代とともに移ろい、揺らぎ続ける存在であることを前提とし、完成や最適解への固定を拒む原理である。


どれほど合理的で、完璧に設計されたように見える制度であっても、それを用いる人間の変化や、時代の文脈の変容によって、全く異なる性質を帯びることがある。制度は中立的な器ではなく、常に解釈され、運用され、意味づけられ続ける存在だからである。


錬成原理は、国家・社会・制度を「完成された成果物」として扱わない。

むしろ、失敗や矛盾、想定外の影響や副作用を必然的に内包するものとして受け止め、それらを排除や隠蔽によって抑え込むのではなく、検証し、記録し、次の設計へと反映させていく循環構造そのものを価値とする。


ここで重視されるのは、誤りを犯さないことではない。誤りが生じたときに、それをなかったことにせず、制度の側が学習し、修正され得る回路を持っているかどうかである。錬成原理は、国家運営における失敗を責任追及や断罪だけで終わらせず、次の判断へとつなげるための制度的耐性を要請する。

この原理において、国家運営とは、「正解を一度決め、それを維持する行為」ではない。

時間をかけて問い直され、鍛え直され、その都度更新され続けるプロセスである。錬成原理は、国家を静的な完成形ではなく、生成と修正を繰り返す動的な存在として捉え直すための基盤である。


ゆえに錬成原理は、他の五原理を現実の中で生かし続けるための調整原理でもある。

実存原理が事実を起点とし、

自律原理が判断を奪わず、

民主原理が問い続ける回路を保ち、

相互原理が犠牲の固定化を防ぎ、

慈愛原理が脆弱性を見落とさないためには、

それらすべてが、誤りを含んだまま修正され続ける構造の中に置かれなければならない。


錬成原理とは、国家が自らを完成品と誤認しないための原理であり、変化と失敗を抱えながらも、なお更新をやめない国家であり続けるための、最後の、そして不可欠な原理である。


 ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


【1.5 六つの原理群が示す規範的指針】


本章で提示した六つの原理は、国家の決定を代替するための原理ではない。

それは、決定が不可避であることを引き受けたうえで、なおその決定が、人間の生と社会の現実を踏み外していないかを、繰り返し問い返すための規範である。


六原理は、それぞれが独立した価値判断の基準であると同時に、相互に補完し合う関係にある。

いずれか一つを欠いた場合、理念構造全体の均衡は失われ、国家運営は容易に偏向や硬直へと傾く。

本計画が提示する国家理念とは、単一の価値を絶対化する体系ではなく、複数の原理が緊張関係を保ちながら作用し続ける、構造的かつ動的な理念体系である。

これらの原理は、抽象的な理想像を掲げることを目的とするものではない。

制度設計、政策判断、社会的意思決定のあらゆる局面において、判断がどの地点に立脚しているのかを照らし返すための、具体的な思考の軸として機能することを前提としている。理念とは掲げられるものではなく、運用され、検証され、必要に応じて修正され続ける構造である。

この意味において、理念が制度を一方的に導くのでも、制度が理念を空洞化させるのでもない。理念と制度が相互に照応し、循環的に支え合う構造そのものを構築することが、本計画の目指す新たな公共理念である。


これまで「国家再編計画書 ver1.0 」の中核を成してきた「自由」「共存」「調和」という三つの価値は、現代日本において、それぞれ歪みや空洞化を克服できていなかった。その原因は、社会の複雑化や価値観の多様化そのものではない。

これらの理念が、一過性に留まり互いに連関し、抑制し、支え合う構造として設計されてこなかったことに、より本質的な問題があった。


自由が他者との関係から切り離されれば、それは容易に自己主張の暴走へと転じる。

共存が制度として支えられなければ、理念は現実の分断や排除を覆い隠す言葉に堕する。

調和が差異や対話を伴わなければ、それは単なる同調圧力として機能してしまう。

これらの不均衡を回避するためには、理念を静的な標語としてではなく、相互依存する原理群として再構成する必要があった。


六原理とは、この再構成を具体化したものである。

実存は事実から出発することを要請し、

自律は判断を奪わない限界線を引き、

民主は問い続ける回路を閉ざさず、

相互は犠牲の固定化を拒み、

慈愛は脆弱性を見落とさず、

錬成は誤りを学習へと変換する。

これらが同時に作用することでのみ、自由・共存・調和は、理念としてではなく、制度として持続し得る構造を獲得する。


この理念構造は、憲法や法制度にとどまるものではない。

教育、福祉、経済、外交、安全保障といった国家のすべての領域に浸透し得る、統一的かつ横断的な倫理基盤である。各領域において理念が個別に唱えられるのではなく、相互に連関した構造として機能するよう、制度は再設計されなければならない。


国家の持続性と柔軟性を確保するためには、理念が制度の周縁に退くのではなく、制度そのものが理念の内部から組み立て直される必要がある。抽象と具体、理念と運用を分断せず、常に往復可能な構造として保つこと。それこそが、国家再設計における最も本質的な課題である。


人を基軸とする国家理念は、まず人間の生と社会の安定を引き受けることから始まる。

国家とは人工物であり、人の欲望や成功、歓喜や失敗を内包しながら、その営みを支えるために設計される存在だからである。

しかし、人が立っているその場所は、抽象的な理念の上ではない。

それは地球であり、大地という自然である。

私たちは常に、声を持たない存在の沈黙の上に立ち、生活と制度を築いてきた。

国家運営が成熟し、制度が人の欲望と成功を持続的に支え続けるとき、その視野は必然的に、人以外の存在へと拡張される。

私たちは、本来許されない行為を、「資源」「環境」「前提条件」という言葉に置き換えることで、日常の営みとして正当化してきた。そこには、無限に与えられるものが存在するという錯覚と、それを消費し続けてきた自らの姿が映し出されている。

この地点を、本計画では「生存基盤」と呼ぶ。それは、人を基軸として国家を築いてきた私たち自身が、

成功と安定の足元で、何を踏みつけ、何を見落としてきたのかを、あらためて引き受け直すための思想的起点である。


本章で提示した理念構造は、この生存基盤を見失わないための、国家の倫理的中枢として、以降の各章において制度的提案へと展開されていく。


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