第8章 錬成国家が織りなす未来—平和宣誓国家の実現へ
ここまで本書では、さまざまな課題に対して、自分なりに「制度としてどんな答えがあり得るのか」を検討してきた。
「何ができるのか」「どうすれば改善できるのか」。その観点から、一つひとつ可能性を探り、制度としての技術を積み上げてきたつもりである。
もちろん、わたしは政治家を目指しているわけではない。
それでも、あまりにも場当たり的で、無責任な国家運営がまかり通っている現実を前にすれば、制度という言葉を用いてでも改善可能性を探るほかない、という思いに至った。
進まない議論。繰り返される問題。
そして、なぜこの時代にあって税制の議論ばかりが熱を帯びるのか。
本質的なところを考えれば、それは「政府がだらしないから」という一言に集約されるのではないだろうか。
税金が高いか安いかという論点も重要である。
しかし、国家に誇りが持てるのであれば「この国をより良くするための税金なのだから」と、国民にも一定の理解は得られるはずだ。
ところが現在の国政は、信頼と誇りを失わせる方向に作用してしまっている。
にもかかわらず、その声に耳を傾けようとする兆しは乏しい。
現実を見渡せば、目に入るのは再選のために政策を掲げる政治家ばかりだ。
「どの政策が好まれるか」「どんなキャッチコピーなら票が取れるか」。
そんな思考が先に立ち、本来あるべき国家の在り方や政治家の責任が、すっかり置き去りにされているように見える。
政治家の判断や倫理を、個々の「自律性」に委ねる──こうした制度設計のもとでは、国家としての資質や、議員に求められる責任の基準が制度上明示されないまま放置され続ける。
「国民のため」という言葉は、本来選挙用の飾り文句ではないはずだ。
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【8.1 理想からかけ離れた現実】
――棄権という「意思表示」が、なぜ無視されるのか
選挙のたびに取り沙汰されるのが、「低すぎる投票率」という現実である。
だが、それは単に“無関心”へ還元できる問題なのだろうか。
仕事の都合で投票に赴けなかった者、支持したい候補が存在しなかった者、政治そのものへの不信から距離を取る者──事情も動機も異なる中で、棄権とは沈黙ではなく、むしろ一つの民主的意思表示として読み取ることができるはずだ。
すなわち棄権とは、選挙制度そのものへの不信を示す制度的メッセージと見る方が自然ではないだろうか。
ところが現行制度において、「投票しなかった人の声」は制度的に不可視化される。
民主主義の根幹を選挙に置く以上、投票しないという行為もまた政治的意思表示であるはずだが、そこに制度的視野は向けられていない。
結果として生じた“空白”は、特定の勢力や利害団体に利益として吸収される。制度の沈黙が利益分配へと転換される構造が存在するのである。
本来、主権者が「この選挙そのものにNOを突きつける」という行為は、より重く扱われてしかるべきだろう。
にもかかわらず制度的には黙殺される現実──これは民主主義国家として誇るべき姿なのだろうか。
この点にこそ、理想として掲げられてきた「国民主権」や「民主的制度」が形骸化しつつある兆候が現れているのではないか。
この指摘は、わたし自身が棄権という意思表示を行いたいと考える本心からの願いでもある。
■ 欧州諸国における白紙票制度
これは棄権とは異なるが、投票所に赴き意図的に意思表示を行う制度的手段として確立された例である。
1)フランス
空封筒を投票箱に投入することで「白紙票(vote blanc)」として扱われ、棄権とは区別される。2017年大統領選では白紙票・無効票が合計約11.5%に達した例が報告されている。ただし議席配分には直接反映されない。
2)オランダ
記入のない投票用紙が「白紙票」として扱われ、有効票・無効票と区別されつつ集計される。制度上“存在”として認識される点に特徴がある。
3)スペイン
白紙票(voto en blanco)は制度的に認められ、無効票と区別される。象徴的扱いにとどまらず、議席配分に反映すべきだと主張する市民運動も存在する。
4)ギリシャ
白紙票(λευκό)は公式に集計され、消極的拒否ではなく積極的意思表示として扱われる点が注目される。
5)ブルガリア
選挙によっては「None of the Above(誰も選ばない)」の選択肢が示され、候補者全員の拒否手段として制度化される場合がある。
6)ノルウェー
白紙票が標準的投票形式として存在し、統計データとして扱われる。投票行動の一形態として制度的に位置づけられている。
■ 日本における白紙票制度の可能性
では、白紙票制度が日本に導入された場合、どのような変化が生じるだろうか。
当然ながら、その実現には選挙制度そのものの見直しが伴う。とりわけ現在の小選挙区制には構造的問題が内在する。
典型例は候補者が二人のみの場合である。
報道の儀礼的演出によって「激戦」「辛勝」と描かれるが、票差が51%対49%であれば、ほぼ半数の意思が切り捨てられたことになると考える方が自然だろう。
この仕組みに、どれほどの民主性や代表性が宿っているのだろうか。
こうした論点こそ、民主化の深化に向けて熟議されるべきである。しかし現実にはほとんど議論されない。
批判や罵倒の応酬を政治活動と誤認する風潮の中で、制度改善の余地は看過され続けている。
より多くの主権者の意思を拾い上げることこそ、議会に課された使命であるはずだ。
多数決は政治制度における有効な技術の一つである。
しかし民主主義とは単に数を集計する制度ではなく、主権者の意思を最大限に汲み取り制度として反映させる営みである。
そうであるならば、白紙票や棄権票にも視野を向けるべきではないか。そこには「誰にも託さない」という意思や、「選挙そのものを拒否する」という感情が含まれている。
これらの意思を制度の外側に置き続けることこそ、民主主義の本質に矛盾を孕む。
国家は誰の手によって導かれるのか。主権者とは誰なのか。「清き一票」とは何を意味するのか。制度はそれをいかに受け止めるべきなのか。
ここに民主主義の核心に触れる問いがある。
熟議とは本来、議員同士が政策を論じ合う営みではなく、主権者の意思を制度に反映させる技術であると位置づけられるべきなのだろう。
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【8.2 公民の融合化した未来】
――奉道公僕の実践化――
この節ではまず、第4章で提示した「準公共庁」「国家オンブズマン」の設置構想について補足しておきたい。当初、この構想を検討していた段階では、宗教団体や公益法人を特段意識することなく、準公共機関という新たな制度枠を設計しようとしていた。しかし、準公共機関の範囲を定めるうえで最も重要となるのは、「どこまでを対象とするのか」という線引きである。この判断次第で、当該機関が担う役割や社会的責任の範囲は大きく変わりうる。
ここで宗教法人についても同様の視点が必要となる。宗教団体が有する公共性は、精神的支えやコミュニティ形成という社会的役割を担う一方で、制度的責任や透明性については、公益法人や教育・医療機関以上に曖昧なまま放置されてきた。その結果、宗教法人は国家でも市場でもない第三領域でありながら、準公共領域として扱われることなく、“制度の外側”という巨大な領域として温存されてきたのである。
この“制度の外側”は、国家の統治構造や倫理体系と摩擦を起こすと、制度的対応が極めて困難になる。現在問題となっている旧統一教会の扱いは、その典型例である。国家は信教の自由を守らなければならないが、公共の安全や主権者の保護については介入の責務を負う。しかし宗教団体が制度外に置かれてきたため、どの制度によって扱うべきかが明確ではなかった。宗教法人法、消費者保護、民法、刑法、国際協力、外交、行政指導──いずれも部分的には作用しうるが、核心に迫る制度が存在しなかった。この“制度的齟齬”こそが、問題を長期化・複雑化させた最大の理由である。
国家再編の観点からすれば、宗教法人もまた公共性を持つ準公共領域として扱い、制度の内部に組み入れ直す必要がある。税制優遇だけを受け、公的責任を負わず、倫理規範も自己完結するという枠組みは、もはや時代に適合しているとは言い難い。
宗教は個人の信仰の自由であると同時に、公共空間に作用する社会制度でもある。であれば宗教法人を準公共領域として制度再編の対象に組み込むことは、宗教弾圧ではなく、公共性の再整理であり、国家の倫理基盤を整える行為にほかならない。
ここで「奉道公僕」という理念が立ち上がってくる。
奉道公僕とは、
「人間が本来備える普遍的な構造に基づく道を、
判断および行為の基準として引き受け、
主権たる公のために権限を行使する公職者」
と定義した。この理念における“公”とは何を指すのか。国家のみを指すのではない。準公共領域は含まれるのか。宗教法人や公益法人はどこに位置づけられるのか。さらには自治体、公民社会、教育、医療、福祉、NPO、そして市場にまで広げるべきなのか。
公共性とは、もはや国家の専有物ではない。
“公民の融合化”とは、公共性の担い手を複層化し、再定義し、制度化することである。奉道公僕は、この複層化した公共圏における倫理的かつ制度的担い手として構想されている。
さらに、第3章で取り上げた「官民連携型ファンドと合弁モデル」および「利益を生む国家構造」は、民間単独では担い得ない規模の巨大投資を政府主導で行い、それを国家関与型ファンドや分野別官民合弁会社の創設によって循環させ、補助金や単発的な財政投入に依存しない限定的・循環的な歳入補完構造を形成しようとするものだった。
そこでは当然巨額の利益が発生する。それらを名目上、国家財政の歳入として公共目的に組み入れたとしても、“公共性の担い手は誰か”という問題は解消されない。利益の分配、意思決定、資金の流路──いずれも倫理的基準と制度的責任を求められる領域である。ここでも「奉道公僕」という理念が不可避となる。
平和宣誓国家の実現に向けて考えるべきは、平和が生み出すものは安息であって、決して休息ではないという点である。休息は停止だが、安息は維持のための能動を前提としている。つまり平和とは、維持し続ける技術であり、制度であり、倫理であり、労働によって支えられる状態なのである。
であれば、平和を支える担い手は軍事領域に限定されない。準公共機関、公務員、その実務を担う専門人材、さらには民間企業や市民もまた、異なる位相から平和を支えうる。平和宣誓国家とは、平和の担い手を国家内に閉じ込めるのではなく、公共空間全体へと分散させる国家構造を意味する。
生死を賭した最前線から、平穏な日常の只中にいる人々まで、すべての層が各々の位相で平和に寄与する。平和とは感情ではなく、構造であり、制度であり、社会的努力の総合的成果である──それが本計画が提示する平和観である。
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【8.3 どんな未来国家像があるのだろうか】
――国家が担うべき役割、戦略性が問われる未来形成――
前節では、国家と民間、そして準公共領域が共通の理念を抱くことでより大きな成果を得られる未来について触れた。しかし、その延長線上にはさらに大きな問いがある。すなわち、そもそも国家とはどのような未来像を持つべきなのかという問題である。
国家はいまも領土、統治、安全保障、財政、通貨、外交といった領域を担当している。だが21世紀以降、これらの領域は市場、技術、市民社会、宗教、倫理といった国家外部の要素と深く重なり合い、境界が曖昧になりつつある。国家だけで未来を形成できる時代ではなくなり、同時に市場だけに委ねても未来は形成できない時代になった。むしろ“未来とは誰が設計するのか”という問いそのものが、国家再編を促しているとも言える。
英国エコノミスト誌の年次予測レポート『The World Ahead 2026』は、世界が直面しつつある未来像の断片を「深刻な不確実性と既存秩序の崩壊(地政学的漂流)」として描いた。
1)アメリカ建国250周年は祝祭ではなく、歴史解釈によって分断が拡大する
2)国際秩序は崩壊し、目先の利益を優先する“取引的な多極化”へ移行する
3)金融領域では債券市場とFRBを巡る政治介入が最大リスクとなる
4)AIは実装段階へ移行し、労働市場に制度的影響が出始める
5)紛争は戦争でも和平でもないグレーゾーン化へ移行する
これらは国際政治、経済、技術、歴史認識、軍事、資本市場が互いに干渉し合いながら未来を形成することを示している。いずれも国家単独では制御できず、市場単独でも整理できず、理念のみでは対処できない領域である。
予測そのものは難しいことではない。実際、わたしは国際社会は次のような方向へ向かう可能性が高いと考える。
・軍事領域:均衡によって戦争は局所的・限定的な衝突として残存する
・経済領域:ドル基軸が弱まり、通貨体系はブロック化とトランザクショナル化へ向かう
・環境領域:気候不安定化は食料・水・移民を通じて地政学へ接続する
これらは、“複合的な分断化”であり、“ブロック化した未来”の兆候である。
しかし、問うべきは予測そのものではない。その予測に基づいて“誰がどのような行動を起こすのか”である。未来は自動的に形成されない。行動と選択によって形成される。とすれば次に問うべきは“行動主体は誰なのか”という問題である。
未来を予測し、それが利益を生むものであると知った個人は、投資や事業を通じて利益確保に向かうだろう。それは資本主義において自然であり、説明可能である。では国家が同じことを知っていた場合はどうなるのか。とりわけ権威国家や独裁体制が未来を“先に知る”権利を独占したとき、その利益は誰の利益なのか。国家なのか、支配者なのか、公共なのか。
資本主義において利益とは市場における合理的な報酬である。しかし国家の場合、利益には常に「正統性」「分配」「倫理」が伴う。国家の行動は単なる取引ではなく、主権者に対する説明責任を前提とする。したがって未来予測を国家が用いる場合、そこには避けられない制度的・倫理的課題が生じる。
ここに未来国家像の核心がある。
未来が予測可能であり、かつ利益を生むものであるなら、国家はそれをどう扱うべきか。市場に委ねるのか、国家が独占するのか、公共へ分配するのか、それとも民と国家の共有財とするのか。この選択こそが国家の性格を決定する。
現代の国民意識において、国家財政に関する関心は「税金」へと極端に集中している。しかも関心の多くは、増税か減税か、緊縮か削減かといった“引き算”の領域に固定されている。しかしもし国家が未来価値を扱う主体であるなら、税とは削減の対象ではなく、未来への投資装置となるべきだろう。国家財政とは赤字や黒字ではなく、未来への再投資回路として評価されるべきである。
さらに、先進的な技術や領域に国家が主導し、制度的に支援し、国際的にバックアップするのであれば、そこに莫大な利益が生まれることはもはや疑いようがない。ならば国家とは、それをもって何を求めるのか。利益そのものを目的とするのか、国家財政の補完とするのか、民の富の源泉とするのか、外交・安全保障・技術覇権の手段とするのか、あるいは公共財として未来世代に残すのか。
このとき国家の利益には必ず正統性、分配、責任、そして倫理が伴う。市場における利益は合理性によって正当化されるが、国家における利益は説明責任によって正当化される。利益とは制度と理念の両方を通過したものでなければならない。
国家が未来に関与する以上、そこには詳細な未来地図が置かれなければならない。さらに正確な羅針盤も必要である。そして誰がそれを読み取り、どのように行動し、誰の利益として配分するのかという“行動主体の問題”も避けられない。未来とは偶発的に訪れるものではなく、戦略的に形成され、制度的に管理され、公共的に共有されるべき対象になっているからだ。
少なくともこれまでは、復興国家の延長でよかったのかもしれない。しかし今は違う。変わらなければならない時である。気付き、変わり、一歩前に出るべき時である。だが問題は意志ではなく未来地図であり、国家も政治も制度も、その地図を持っていない。誰も未来の描き方を知らず、誰も未来を形成する主体として振る舞っていない。
だからわたしは渾身の力を振り絞っている。力の限り叫んでいる。
未来は偶然に訪れるものではない。
国家が沈黙する限り、国家は未来を持てない。
そして未来を持てない国家は、国民に夢を与えることもできない。
必要なのは、実現可能性を備え、国民の心が同じ方向を向く――その程度に強靭な未来地図である。
それをわたしは夢と呼ぶ。
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【8.4 理想郷とは何か】
―― 本質に向き合う覚悟と、その先にあるもの――
第7章で示した言語理論の発展系譜を、いま一度振り返っておきたい。
そこでは、言語は単なる記号や解釈の領域から離れ、語と語の織りなす制度作用を対象とし、境界を跨ぎうる秩序構築――すなわち制度再生工学の可能性を描いた。
【第一世代=ラベル】名称・指示・分類という古典的言語観
【第二世代=分節/差異】ソシュール記号論に基づく切断・定義・境界
【第三世代=構造】差異・体系・配置を対象とする構造主義的段階
【第四世代=分布】語彙/構文/概念の頻度・位置・分布を扱う段階(計量・統計・コーパス)
【第五世代=予測】言語モデルが次の語/文を確率的に予測し生成する段階(生成AI)
【第六世代=作用】語と語、語と制度、制度と制度が相互に反応し、閾値・摩擦・誤認・疲弊を伴う“作用”を扱う段階(言語ケミストリー)
【第七世代=容態】制度・国際秩序・平和・戦争といった“容態”を記述し、診断し、再生しうる段階(制度再生工学)
第六世代や第七世代は、いわば私の理想論なのかもしれない。
しかしそれは荒唐無稽な空想ではなく、少なくとも“未来像”の一つとして成立しているはずだ。
重要なのは、これらが単に言語の進化を描いたものではないという点である。
第一世代から第四世代までは言語そのものを対象としていたが、第五世代の確立以降、言語はもはや“思考と制度の介在装置”へと役割を変えている。
そして第七世代では、言語は制度を診断し、制度は秩序を再生し、秩序は平和に接続し得る。
どのような未来も、どれほど理想的な世界も、思考と想像によって描くこと自体は自由である。
それは希望であり、信念であり、未来を前に進める原動力である。
しかし現実は、未来像を一気に出現させることを許さない。
制度と技術と倫理と時間と労力を通じて、少しずつ、まるでブロックを積み上げるようにしか形成されない。
理想は宣言することはできても、それ自体が具現化の装置にはなりえないのである。
もしこの計画が――わたしの制度が――未来に受け入れられ、制度として実装される時が来るのなら、
それはおそらく平和への道を照らすだろう。
いや、国家を超えてなお――世界平和への道筋となる可能性すらある。
理想郷とは、突然完成するものではない。
未来とは、宣言ではなく、積層によって成立するのだ。
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【8.5 現実社会に内在すべき更新的構造】
――揺れる社会構造の変化への対応
理想的な未来像を提示した、その直後である。
報道は、米ミネソタ州ミネアポリスで起きた事件を伝えていた。
移民・税関捜査局(ICE)の捜査官による発砲によって、37歳の女性が死亡したという事実は、家族や地域社会に深い悲しみと怒りをもたらしている。連邦政府は発砲を「正当防衛」と説明し、州政府や市長はその説明に異議を唱えている。映像や目撃証言をめぐって評価が分かれ、抗議の声は市内外に広がっている。
私は国家再編計画を構想しながら、同時に世界との接続を訴えてきた。なぜなら国家の平和を制度によって成立させるためには、国際社会との接続は必須だからである。平和は国内問題ではなく、制度と制度、社会と社会が交差する地点で生まれ、維持されるものだ。それゆえ平和法や平和宣誓国家の構想も、必然的に国際的文脈を含まざるを得ない。
——民主主義とは何たるか。
——平和は訪れるのか。
——国家とは誰のために存在するのか。
私はこれまで、何度も何度も考え続けてきた。
しかしこれが現実である。
この計画を書いている私は恐らく思想家の類に属するのかもしれない。だからこそ、暴動や抗議に対して慎重な立場を取るべきだと考えてきた。しかし、この痛ましい事件が人々の心を動かし、抗議や追悼の行動につながっていることに、私は少なからぬ理解を覚える。
被害者の身に起きた不幸は、権力と制度が個々人の生活と直に交差する地点で起こった。この衝突こそ、現代社会と国家制度が抱える問題点を露呈しているのである。
では、日本が目指すべき真の国家の在り方とは、どのような形なのだろうか。
アメリカでは——
ヨーロッパでは——
アジアでは、あるいは世界のどこであっても、制度は必ず現実と衝突する。
そしてこの種の事件は、どの国においても起こり得る問題である。「現時点が制度の最高到達点である」と受け止め、制度改革に踏み出さないことは、同種の惨事の再来を黙認することに他ならない。
現実と理想のはざまに生まれる矛盾や隙間については、歴史を振り返れば数多くの思想家や政治家が指摘してきた。
「自由とは、法が許す範囲で欲しいことを行うことである。」
――モンテスキュー
「自由を放棄することは、人間としての資格を放棄することである。」
――ジャン=ジャック・ルソー
「政治とは、暴力ではなく言葉によって人々が共に行うことである。」
――ハンナ・アーレント
「自由が必要とされるのは、国家ではなく人間である。」
――アレクシ・ド・トクヴィル
「人間は、すべてを奪われても、自分の態度を選ぶ自由だけは最後まで残されている。」
――ヴィクトール・E・フランクル
「私は、自分の手で稼いだパンを自分で食べる権利において、彼(黒人奴隷)が私や他の誰とも対等であると信じる。」
――エイブラハム・リンカーン
「平和とは、暴力が存在しない状態ではなく、暴力が必要とされない状態である。」
――ヨハン・ガルトゥング
制度が抑圧の名のもとに従属を強制する装置とするならば、人類が積み重ねてきた努力や叡智は一体何のためであったのか。
自由を獲得するために革命が起こり、国家の再設計が行われてきた。
フランス革命も、アメリカ建国も、制度の刷新と自由の再獲得をめぐる歴史的闘争であったはずだ。
制度とは、本来、個人の権利と自由を最大化させるために生まれ、民主主義とともに抑圧からの解放を求めてきた。
だが現在の国際社会では、民主主義はすでに限界を迎えたと語られ、理想を失いつつある。
民主主義は、本当に行き止まりなのだろうか。
少なくとも、私には一つの答えがある。
民主主義は国家という境界によって、その可能性に境界限界を課された思想である。
市民の自由を求めるのなら、市民の権利を求めるのなら、その自由には本来、地理的境界は存在しない。
あるのは、国籍ではなく、自由という権利であるはずだ。
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【9.99 月に導かれ理想を詠う】
本計画を締めるにあたり、最後に私個人の理想を述べておきたい。
生存基盤という理念を地球規模へと広げ、
人とあらゆる生命が共に調和しうる生存権を形成し、
そこには平和法という規範が据えられる。
生命を守ろうとする心こそ、この規範の根底にある。
夜はかつて恐怖と不安の象徴であった。
しかし夜を照らす月は、
人類の未来を照らす唯一の光にもなり得る。
月は国境を持たず、
憎しみも持たない。
ただ遍く世界を照らし続ける、
人類共有の象徴である。
その月の光に導かれるように――
私たちの両手は、
誰かを傷つけることもなく、
守り、
支え、
生かすために差し伸べられている。
過度な拘束や強制によって
脅かされることなく、
自らの創意と選択に基づき、
一定の充足を継続しうる状態こそ、
平穏と呼ばれる恩恵を成立させる環境になる。
そして生活世界に生きる私たちの暮らしが、
声なきものとも織りなし合えたなら、
生存基盤はそっと全てをまるごと包み込むのだろう。




