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第6章 ポスト平和学ー死亡者ゼロという最上位規範

まず、誤解のないよう明確にしておきたい。

本章を通じて行う再検討は、平和を否定するためのものではない。私自身、この計画全体を通して一貫して、平和を強く希求する立場――いわば平和渇望者として思考を重ねてきた。その立場はいささかも揺らいでいないことを、ここに最初に宣言しておく。


もし本章の議論に違和感や疑問を覚えたならば、「序章3 制度を支える土台となる思想」の導入文を再読してほしい。そこで私が「真意」と呼んでいるものが、対話や言葉を媒介とする過程で、いかに容易に歪み、すれ違い、――そして互いに平和を希求していながら、なお対立へと至ってしまうのか。その構造を、改めて読み取ってもらえるはずである。



では、あなたは「平和学」という言葉を聞いたことがあるだろうか。「平和学」とは、平和を願う理想論ではなく、冷戦以降の世界が直面してきた現実的な暴力と対峙する中で生まれた、比較的新しい学問領域である。


改めて問いかけてみたい。「平和」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。あるいは、あなた自身が平和を築くとしたら、何から始めるだろうか。おそらく多くの人は、この問いに対して、即座に何らかの答えを思い描くことができるはずだ。それは、問いの対象が日本人であるからにほかならない。戦争を体験せず、しかし戦争の記憶と結果の上に社会を築いてきたこの国では、「平和」は特別な学問用語である以前に、生活感覚として内面化されている。だからこそ、「平和学など学ばなくても分かっている」と嘲笑、苦笑されても、不思議ではないのだろう。


本章題に「ポスト平和学ー死亡者ゼロという最上位規範」と掲げたとおり、ここから先で扱うのは、従来の平和学をそのまま継承する試みではない。むしろ、その前提や限界を検討したうえで、次の段階へと踏み込むための議論である。そのため、まずは平和学とは何か、そして従来の平和概念がどのような問題意識のもとで形成されてきたのかを、簡潔に整理しておく必要がある。



 ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


【6.1 平和学 ―― 従来の平和概念】


平和学とは、近現代に成立した比較的新しい学術領域である。

「平和」という語が指し示す内容については、時代や立場によって多様な解釈が存在するが、その理論的起点として、フーゴー・グローティウス(1583–1645)が著した『戦争と平和の法(注1)』を外すことはできない。


三十年戦争(注2)という未曾有の宗教戦争の渦中にあって、グローティウスは、国家間の武力行使そのものを全面的に否定する立場を取らなかった。むしろ彼は、避けがたく行使される暴力を、いかにして恣意から切り離し、法の支配の下に置くことができるかを問うたのである。


すなわち、武力行使を国家の自由裁量に委ねるのではなく、一定の規範と条件によって拘束し、制御可能な行為として位置づけるという構想であった。彼が提示した「万民法(ius gentium)(注3)」の思想は、後の国際法秩序の理論的基盤となり、近代における「平和」概念の出発点を形づくることになる。


その後、平和という概念は、単なる戦争抑止や法的規制の問題にとどまらず、人々の価値観や社会構造そのものを問い直す方向へと拡張されていく。

1999年に国連総会で採択された「平和の文化に関する宣言」は、平和を「暴力の不在」として消極的に定義するのではなく、対話・協力・相互理解を尊重する価値観や行動様式そのものとして再定義した。さらに2016年の「平和への権利宣言」は、平和を享受することを個人の基本的権利として明文化し、平和学を理念的議論から実践的理論へと一段階引き上げる役割を果たした。


こうした展開の背後には、第二次世界大戦と冷戦という二つの巨大な暴力経験がある。とりわけ核兵器の登場以降、人類は「全面戦争が起きれば文明そのものが存続し得ない」という現実に直面した。戦争を勝利や敗北の問題としてではなく、いかに回避し、あるいはいかに管理するかという問いを、学術的に扱う必要性が生じたのである。


この文脈において、平和学は決して理想主義の同義語ではない。むしろ、暴力がいかなる条件のもとで発生し、どのような形で再生産されるのかを分析し、それを抑制・転換するための理論体系として発展してきた。その代表的整理として知られているのが、ヨハン・ガルトゥング(1930–2024)による平和概念である。


ガルトゥングは、まず暴力を三つの次元に分類した。

すなわち、直接暴力・構造的暴力・文化的暴力である。

「直接暴力」とは、戦争、殺害、物理的攻撃など、可視的かつ即時的な暴力を指す。「構造的暴力」とは、貧困、差別、不平等といった社会構造そのものが人の生存や尊厳を恒常的に損なう状態を意味する。そして「文化的暴力」とは、それらの暴力を正当化し、不可視化し、日常化する価値観や言説の体系を指す。


この暴力構造の整理を前提として、ガルトゥングは平和を二つの概念に区別した。

ひとつはネガティブ・ピース(消極的平和)である。これは、直接的な暴力が存在しない状態、すなわち戦争や武力衝突が発生していない停戦状態や、抑止によって武力行使が回避されている状況を指す。

もうひとつはポジティブ・ピース(積極的平和)である。これは、直接暴力が存在しないことに加え、貧困や差別、不平等といった構造的暴力が除去され、社会が持続的に統合されている状態を意味する。


ここで重要なのは、平和が単に「戦争が起きていない状態」ではなく、「暴力を生み出す条件そのものが緩和され、再生産されにくくなっている状態」として定義された点にある。この整理は、平和概念を「戦争の不在」という消極的定義から解放しただけではない。暴力を一時的な逸脱ではなく、社会構造・経済制度・政治配置に埋め込まれた再帰的構造として抽出した点に、決定的な意義がある。


今日、国際機関やNGOが「平和構築」「紛争後復興」「制度改革」といった語彙を用いる際、その理論的下敷きには、ほぼ例外なくこの枠組みが存在している。


しかし同時に、従来の平和学には特徴的な前提が置かれている。

それは、平和が段階的かつ漸進的に達成されるものとして想定されてきたという点である。対立の解消や和解に至る過程において、ガルトゥングが提唱した「トランセンド法(注4)」が用いられること自体、当時としてはきわめて先進的であったが、それでもなお、時間を要する長期的プロセスが前提とされていた。


従来の平和学において、一定程度の暴力や犠牲は、歴史的過程の中で「避けがたいもの」として半ば黙認されてきた。戦争の被害は最小化すべきである。しかし、それを完全にゼロにすることは非現実的である――そうした現実認識が、暗黙のうちに共有されていたのである。


言い換えれば、従来の平和概念は、「死亡者数を減らす」ことを目的には含めていても、「死亡者ゼロ」を制度設計上の明確な目標として掲げることはなかった。


それは冷酷さゆえではない。

むしろ、国家間対立や内戦、抑止構造の現実を直視した結果として、「そこまでの制御は不可能である」という認識に基づいていたと理解すべきだろう。


本章が「ポスト平和学」と名付けられている理由は、まさにこの点にある。

すなわち、従来の平和学が到達し得なかった前提――犠牲を前提としない抑制理論は構想し得るのかという問いを、あらためて正面から引き受けるためである。



※ 注1 ー 1625年刊行。国家間の戦争を神学や道徳論から切り離し、法によって制御可能な行為として整理した著作。近代国際法・戦時法・主権国家秩序の理論的基礎とされる。


※ 注2 ー 1618年から1648年にかけて中欧を中心に続いた宗教・王権・領土を巡る大規模戦争。神聖ローマ帝国諸地域を中心に人口の3割以上が失われた地域もあり、宗教戦争の限界と国家主権秩序の必要性を強く認識させた。


※ 注3 ー 古代ローマ法に由来する概念で、特定の国家に属さず、人類一般に通用すると考えられた法原理。近代においては国家間関係を規律する国際法の原型とされた。


※ 注4 ー 紛争を「対立する目標の矛盾」と捉え、妥協(足して二で割る)ではなく、創造的な第三の道によって当事者双方の目標を共に達成し、対立を乗り越える(超越する)ことを目指すアプローチ。互恵的な関係に基づく「積極的平和」を実現するための実践的ツールであり、以下の3つの核心要素を重要視して矛盾の解消を図る。

・対話 (Dialogue):批判を排し、各当事者の正当なニーズや恐怖を深く聞き取る。

・創造性 (Creativity):既存の枠組みにとらわれない、新しい解決策を構想する。

・非暴力 (Non-violence):物理的・精神的な暴力を排除し、平和的な共存を前提とする。



 ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


【6.2 心理的反発ー抽象的な合言葉による合意】


本節が扱うのは、「平和」という言葉そのものが持つ、きわめて強い影響力である。それは希望や理想を喚起する言葉であると同時に、思考を収束させ、問いを未完のまま停止させてしまう力をも併せ持つ。


ここで一つ、想像してみてほしい。

もしあなたが、対立する当事者のあいだに立ち、仲介を担う立場に置かれたとしたら、どのような手段を選ぶだろうか。平和学の観点から見れば、仲介や調停の方法は一つではない。紛争解決とは、不一致や両立不可能な状態が完全に解消されることだけを意味しない。不一致が残存したとしても、相互に共存可能な関係が成立する状態も、平和の一形態として含まれてきた。


たとえば、オリバー・ラムズボサム(1943–)が提示した「砂時計モデル」は、紛争の生成から抑制、解消に至る過程を、①相違、②矛盾、③両極化、④暴力、⑤戦争、⑥停戦、⑦合意、⑧正常化、⑨和解という段階として図式化している。このモデルは、紛争が単線的に悪化するのではなく、複数の介入点と回復経路を持つことを示している。つまり、平和へ至る道筋は常に複線的であり、仲介者は状況に応じて多様な選択肢を持つ。

介入の方法、過程、結果は千差万別であり、あなたが選ぶ「最善の仲介」と、わたしが選ぶそれとが一致しないことは、むしろ自然である。


しかし、ここで注意すべき点がある。

平和とは多くの場合、「誰もが最終的に報われる状態」として語られる。その結果像が先行することで、そこに至るまでに存在したはずの選択や検討の過程が、あたかもすでに完了したものとして扱われてしまう危険を内包している。


「平和」という語に対して、否定や反対を表明することは難しい。

無意識のうちにためらいが生じ、疑問を差し挟むこと自体が躊躇される場合もあるだろう。その結果、人々は細部の不整合や未検証の前提を抱えたまま、あたかも合意に到達したかのような心理状態に置かれることがある。

しかしそれは、本当に納得が得られた状態と言えるのだろうか。

むしろ、納得に至らなかったという事実が、覆い隠されているだけではないのか。


では、あなたの平和論と、わたしの平和論のあいだに生じるであろう「心理的反発」とは、いかなるものなのか。


本節で扱う「心理的反発」とは、平和を拒絶する感情ではない。

まして、互いの優劣を競うことでもなければ、価値観や理念の完全な一致を求めることでもない。むしろそれは、平和という価値を強く信じているがゆえに生じる、防衛的な反応である。

問い直すことそのものが、平和を損なう行為なのではないか――

そうした不安が、思考継続の邪魔をして、結果として思考停止を招くのである。


ここで、仲介という立場を例に挙げた理由を、あらためて確認しておく必要がある。

平和を構築するための道筋は一つではなく、仲介の方法も千差万別である以上、その選択をめぐって「心理的反発」が生じ得るからである。


仮にこれが会議の場であり、私が先に一つの「仲介案」を提示したとしよう。

あなたの中には別の案があったが、沈黙を選んだかもしれない。

あるいは、あなたも提案したが、採択されたのは私の案だったかもしれない。


その結果、平和に至ったのであれば問題は表面化しない。

しかし、もし平和に至らなかった場合、後になってあなたの案が採択されていたとしたら――

あなたはどのような感情を抱くだろうか。


おそらく、そこには達成感や安堵、自己肯定といった感情が生じる。

この点が示しているのは、仲介者という立場そのものが、価値中立的な存在ではあり得ないという事実である。

仲介の選択には、無自覚の欲望や承認欲求が混入し得る。

この構造を見落としたままでは、「平和」という目的そのものが、別の形で歪められる可能性がある。


ここで問題としているのは、平和という目的を、共感や善意、抽象的な合言葉による合意にとどめたままでよいのか、という点である。

すなわち、異なる価値観や前提を横断しながらも理解可能であり、かつ運用可能な制度として、いかに平和を構造化し得るのか――その可能性を検討するための建設的考察である。


言い換えれば、本章は、「平和」という言葉が無意識のうちに覆い隠してきた問いを、再び思考の俎上そじょうに載せるための試みである。

合意したかのように留まるのではなく、合意に至らなかった理由そのものを、制度設計の起点として引き受けるために。



 ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


【6.3 汝、平和を欲さば、戦への備えをせよ】


「平和を望むのなら、戦争に備えておかねばならない」

この言葉は、軍備の必要性を正当化する、きわめて現実的な格言として、長く用いられてきた。


原典は、古代ローマ(4世紀頃)の軍事思想家

ウェゲティウス による

Si vis pacem, para bellum.

――「汝、平和を欲さば、戦への備えをせよ」である。


英語では通常、

If you want peace, prepare for war.

と訳される。

ラテン語後半の para bellumパラ・ベラムは、やがて抑止論や軍事的現実主義を象徴する語として、独立して用いられるようになった。


この格言が長く生き延びてきた理由は、決して複雑ではない。人類は、平和を希求しながらも、暴力が現実として存在する世界において、これに代わる有効な抑止の方法を見出すことができなかったからである。


では、この論理は、いったいどこまで「平和」を守ってきたのだろうか。


抑止論は、現在の日本の安全保障においても、多くの場面で暗黙の前提として採用されている。「国防」や「安全保障」という語の背後には、常に抑止という発想が含まれている。しかし【6.1】で確認したとおり、平和学とは、まさにこの抑止論が十分に機能しなかった現実を背景として成立した学問であった。つまり、para bellum という論理が長く用いられてきたにもかかわらず、なお「平和」を理論化する新たな枠組みが求められたという事実そのものが、この格言の限界を示している。


事実、相互確証破壊(MAD)に代表される抑止論の構造的矛盾については、第5章ですでに述べたとおりである。そこでは、「核を止めるために、核の準備をせよ」という論理が採用されている。

戦争を否定しながら、同時に世界の滅亡を前提として肯定せざるを得ない――

この危うい自己矛盾の上に、抑止論は成り立っている。


戦争は排すべきものだ。抗争は終結させねばならず、テロには屈してはならない。これらの言葉は、暴力を拒絶する意思を示すものであると同時に、暴力がいかに深く社会構造の内部に組み込まれているかを示す証左でもある。

ここで、あらためて問わなければならない。

平和とは、本来「戦争や暴力をなくすこと」ではなかったのだろうか。しかし、この問いの根底には、より深い問題が潜んでいる。それは、平和を「暴力の完全な消滅」としてのみ想定する発想そのものが、ユートピアリズム的な理想像に依拠してはいないか、という点である。


戦争、抗争、内乱、地域紛争、テロ――

私たちはこれらを日常的に並べて語るが、それぞれを厳密に区別する定義を、果たして即座に提示できるだろうか。


この概念的な曖昧さこそが、抑止論と平和論が交錯する地点に横たわる、次なる検討課題なのである。



 ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


【6.4 死亡者ゼロという目標設定 ―― 平和法の再定義】


これまで見てきたとおり――

「平和を望むなら戦争に備えよ」という抑止論は、一定の現実性を持ちながらも、戦争そのものを根絶することはできなかった。

また、平和学は暴力を構造として抽出し、平和概念の射程を大きく拡張したが、それでもなお、世界から「戦争や暴力」を消し去るには至っていない。


ここで本章は、一つの転換点を提示する。

それは、平和を抽象的な理想や、複雑化する条件を整理できない曖昧な和平状態として語るのではなく、達成可能性を検証できる目標として再設定してはどうかという試みである。


その目標とは、「死亡者ゼロ」という「平和法」の構築である。


この目標は、戦争や暴力が完全に消滅する世界を前提としない。

人間社会において対立や衝突、摩擦が不可避であることを前提としたうえで、それでもなお「人を殺さない」という一点だけは、制度として死守できないか――その問いから導かれた目標である。


従来の抑止論は、相手に耐え難い被害を予期させることで、行為を思いとどまらせる構造を取ってきた。

しかし「死亡者ゼロ」を目標とする抑制理論では、抑止の基準は「どれほどの報復を与えられるか」ではなく、「どこまで被害を制御できるか」へと移行する。


ここで求められるのは、善意や理想ではない。

完全な非暴力を掲げる道徳論でもない。

必要とされるのは、暴力が発生しうる現実を認めたうえで、その帰結――とりわけ死――だけを制度的に制限するための設計思想である。


人間は差異を抱え、他者と完全に理念を共有できない存在である。

対立や摩擦は、人間社会から排除しうる異物ではなく、むしろ関係の中で必ず発生する「常態」である。

だからこそ問題は、対立を消すことではない。対立が生じたときに、それが殺傷へと接続されないよう、選択肢と制約を制度として準備し続けることにある。


「死亡者ゼロ」という目標は、ユートピアではない。

戦争・抗争・内乱・テロといった暴力形態を一律に否定するのではなく、それぞれの局面において「殺さないための選択肢」を確保し続けるための、きわめて現実的な指標である。


本節以降では、この「死亡者ゼロ」という目標を中心に据え、

従来の抑止論が抱えてきた自己矛盾をどのように回避しうるのか、

また、国家・制度・国際秩序の中で、いかに実装可能な抑制理論として構築しうるのかを、段階的に検討していく。



 ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


【6.5 反証 ―― なぜ「死亡者ゼロ」は制度にならないのか】


「死亡者ゼロ」という目標は、直感的には理解しやすく、倫理的にも強い訴求力を持つ。

しかし同時に、この目標は、既存の安全保障制度や抑止論の枠組みから見れば、容易に受け入れがたいものでもある。


実際、これまでの制度設計において「死亡者ゼロ」が正面から採用されてこなかった理由は、感情的反発ではない。

それは、制度が前提としてきた合理性そのものに起因している。


一見すると逆説的だが、「死亡者ゼロ」という理念は、戦争や戦闘の現場において、部分的には常に存在してきた。

軍事行動において、味方の生命を最大限に守ることは、いかなる時代においても最優先事項として掲げられてきたからである。


戦闘とは本来、仲間を守り、自国を守るための行為である。

その意味において、軍事組織は内部に対しては、きわめて強固な「死亡者ゼロ志向」を内包している。


しかし、その理念は同時に、明確な限界を伴っている。

それは、「誰の死亡をゼロにするのか」という問いである。


既存の抑止論と安全保障制度は、守る対象を内部(自国・同盟・仲間)に限定することで成立してきた。

その結果、外部に位置づけられた相手に対しては、殺傷を前提とする行為が、制度的に正当化される。


つまり、従来の制度において「死亡者ゼロ」とは、普遍的原則ではなく、内部に限定された選別的原則としてのみ機能してきたのである。

この構造こそが、「死亡者ゼロ」が制度として採用されてこなかった本質的理由である。

全員の死亡をゼロにするという目標は、従来の制度が前提としてきた「内と外」「守る側と攻撃される側」という区分そのものを揺るがしてしまうからだ。


そして、問題はそれだけではない。

そもそも、その区別自体が、制度によって安定的に確定しうるものなのかという、より根源的な問いが立ち上がる。


人間社会には、差異が必ず存在する。

価値観、宗教、文化、利害、帰属――それらは不可避であり、消去しうるものではない。


加えて、差異は社会的属性にとどまらない。

どの時点で「戦争」と呼ばれ、どこからが「抗争」であり、「内乱」であり、「テロ」であり、あるいは単なる治安問題とされるのか。

その線引きは、実のところ一貫した基準を持っていない。


さらに言えば、人間は内在的な差異を抱えた存在であり、「絶対的な基準」を与えられない存在でもある。


味方を守るという名目のもとで、その機会を利用し、殺害を企図することすら想定しなければ、制度は現実に耐えられない。

戦争という制度が殺傷行為を正当化した瞬間、その制度自体が、個々人の既得権益や欲望のために利用される可能性を、あらかじめ織り込まざるを得なくなる。


この前提を受け入れたとき、「死亡者ゼロ」という「平和法」は、もはや理念の問題ではない。

それは、制度が人間の暴力性をどこまで制御しうるのかという、設計上の限界問題として立ち現れるのである。



 ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


【6.6 置き去りになった母の呼び声という物語】


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


むかしむかし、まだ世界が生まれたばかりのころ。

たくさんの命が生まれ、みんな元気に育っていきました。

けれど命が増えると、どうしてもぶつかり合いが起きます。

仲良く手をつないでいたはずなのに、つい相手を突き飛ばしたり、持っているものを奪い合ったりしてしまうのです。


そんなとき、最初に駆け寄って争いを止めるのは、だれだったでしょう。

王様でも、法律でも、強い兵隊でもありません。

それは、一人の「お母さん」の声でした。


「危ないから、やめなさい」

「その子を、傷つけてはいけない」

「それ以上、越えてはいけない――」


お母さんの声は、どちらが悪いかを決めるためのものではありません。

「勝った、負けた」を教えるためでもありません。

ただ、大切な命が壊れないように、境界を示す声でした。


やがて子どもたちは大きくなり、自分たちで決まりを作るようになりました。

賢い人たちが集まって、「争いを止めるためのルール」を本に書きました。

それでも争いはやまず、ついには「国家」という大きな仕組みが作られました。

争いをなくすためではなく、争いを片づけるための――強く、冷たい装置です。


そのとき、お母さんは反対しませんでした。

「私を敬いなさい」とも言いません。

ただ、子どもたちが一所懸命に高い塔を建てるのを、黙って見守っていました。


いつのまにか人間たちは、立派な決まりを作ったことに満足しました。

決まりを守るために武器を持つことを「正しいことだ」と言い張りました。

そして、あのお母さんの声を、どこかへ置き去りにしてしまったのです。


お母さんは城の外に追いやられました。

お母さんの言葉は、「そんなのはただの夢だ」と笑われるようになりました。

「命をそっと守る」という一番大事な指針は、いつのまにか「統べるための力」という論理に置き換えられていきました。


でも、お母さんは消えてしまったわけではありません。

今も、静かにそこにいます。

ただ、人間たちがその声を呼び出すのを、忘れてしまっているだけなのです。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


この人間ドラマは比喩ではあるが、同時に人類の秩序形成の歴史そのものでもある。

倫理から法へ、法から国家へ、国家から安全保障へ――

人類は一貫して、暴力を制御するための装置を高度化させてきた。


しかし、その過程で、最初にあった境界は、次第に秩序の外へと押し出されていった。

「殺してはならない」という単純で揺るぎない指針は、いつしか「やむを得ない犠牲」「より大きな善のための代償」という言葉によって、例外化されていったのである。


本章で提示してきた「平和法」とは、この母の声を、感情や道徳の領域に引き戻すことではない。

平和法が問うているのは、新しい力ではない。

新しい支配でも、新しい正義でもない。


それは、国家が成立する以前から存在していた、命に触れてはならないという境界を、いかにして秩序の中心に据え直すことができるのか――という問いである。


秩序は、必ず力を伴う。

だが、その力が生命を越えた瞬間、秩序は平和を守る装置ではなく、暴力を正当化する構造へと転落する。


だからこそ必要なのは、力を否定することではない。

国家を解体することでもない。

必要なのは、いかなる制度も、いかなる正義も、この境界を越えてはならないという上位の指針を、制度として記憶させることである。


平和法とは、母に戻るための法ではない。

母の声を、二度と秩序の外へ追いやらないための、制度的な境界線である。

そして、この境界が制度として確立されるとき、秩序ははじめて、

「統べるための構造」から

「命を守るための構造」へと、その意味を転換する。



 ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


【6.7 平和法――「死亡者ゼロ」から導き出された上位規範】



〔平和の定義(概念の確定)〕


平和とは、

犠牲を生まないために制度や行為を導く根源的志向である。

それは、あらゆる生命を包み込み、維持し、育てようとする方向へと世界を傾ける力である。


平和は、

受動的状態ではなく、結果でもなく、所有できるものでもない。

それは、犠牲が制度の資源となることを拒否し、犠牲を交換や代償へと変換させないための、原理的な設計知性である。


ゆえに平和とは、対立の不在や争いの終結とは異なる。

この志向は、排除や差異を拡張する力ではなく、不可侵線を越えさせないために境界を敷き、破られれば敷き直し続ける知恵である。


この意味において平和は、制度や秩序に先行する源因であり、

生命が手段とならないよう守られた状態や環境を成立させるための、絶え間ない制度的努力を導く根本原理である。



〔平和法の位置づけ(制度化の方向)〕


平和法とは、

この平和理念に基づき、現行の国際秩序の最上位に据えられるべき規範である。


それは国家を否定する法ではなく、防衛や安全保障を即時に解体する法でもない。

しかし同時に、国家主権・安全保障・抑止論が、生命を犠牲にすることによって成立することを許さない、最上位規範として位置づけられる。


平和法は、

力によって秩序を維持する法ではない。

秩序が力へと転落することを防ぐための法である。


〔平和法を構成する三原理〕

【原理1】生命非手段化原理(Non-Instrumentalization of Life)


生命は、いかなる政治・軍事・秩序目的のためにも、手段とされてはならない。

犠牲や代償の名の下に生命を運用する構造を制度の基底から排除する。


【原理2】区別非依存原理(Non-Discrimination of Life)


生命の保護は、敵味方・所属・立場の区別に依存してはならない。

区別そのものは認めるが、区別が生命を奪う理由として機能することを認めない。


【原理3】秩序上位原理(Supremacy of Peace Norm)


生命保護の原理は、国家主権・安全保障・抑止論より上位に置かれる。

いかなる制度も、この原理を例外的に停止する権限を持たない。



【補節:ヒポクラテス的原理との同型性】


歴史的に「害をなすなかれ(Primum non nocere)」という原理は、

医学において制度より以前に置かれ、先人の知恵として継承されてきた。

平和を犠牲非生成の理念として捉える立場は、この原理と同型である。

制度は原理に従属し、原理は制度を拘束し導く。



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〔Definition of Peace (Conceptual Determination)〕


Peace is a fundamental orientation that guides institutions and actions in order to prevent the generation of sacrifice.

It is a force that inclines the world toward the protection, sustenance, and cultivation of all forms of life.


Peace is neither a passive condition, nor a result, nor an object of possession.

It is a primordial design-intelligence that rejects the conversion of sacrifice into an institutional resource, and refuses to transform sacrifice into exchange or compensation.


Thus, peace is not the absence of conflict nor the termination of war.

It is not a force that expands exclusion or difference, but an intelligence that lays down boundaries to prevent the crossing of inviolable lines—and, when those boundaries are breached, lays them down again.


In this sense, peace precedes institutions and orders as their generative cause.

It functions as the fundamental principle that directs continuous institutional efforts to establish conditions and environments in which life is not instrumentalized and remains protected.


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〔Position of Peace Law (Direction of Institutionalization)〕


Peace Law is a normative framework that, grounded in this conception of peace, must be placed at the apex of the contemporary international order.


It is not a law that negates the state, nor a law that dismantles defense or security.

Yet it positions itself as the supreme norm that does not allow sovereignty, security, or deterrence to be constituted through the sacrifice of life.


Peace Law is not a law that maintains order through force.

It is a law that prevents order from collapsing into force.


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〔Three Principles of Peace Law〕


Principle 1: Non-Instrumentalization of Life


Life must not be used as a means for political, military, or order-maintenance purposes.

The institutional structure that operates life under the name of sacrifice or compensation must be eliminated at its foundation.


Principle 2: Non-Discrimination of Life


The protection of life must not depend on distinctions of enemy/ally, affiliation, or status.

Such distinctions may be recognized, but they must not function as reasons for taking life.


Principle 3: Supremacy of Peace Norm


The protection of life must be placed above sovereignty, security, and deterrence.

No institution holds the authority to suspend this principle as an exception.


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〔Supplement: Isomorphism with the Hippocratic Principle〕


Historically, the principle primum non nocere (“first, do no harm”) preceded institutional systems in medicine and was transmitted as the inherited wisdom of predecessors.

The interpretation of peace as a principle of non-sacrifice is isomorphic to this structure:

institutions are subordinate to principles, and principles constrain and guide institutions.



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


平和法とは、条約でも憲章でもない。それは国際秩序が自らの正統性を主張する以前に、必ず立ち戻らねばならない最上位の規範的境界である。


この法は、違反に対する制裁や懲罰を目的としない。しかし、いかなる逸脱も不可視のまま放置されることはない。生命を越える行為は、記録され、可視化され、国際秩序の正統性に照らして、継続的に審級化される。この記録は、平和を守るための歴史として蓄積され、その公開によって正統性は担保され続ける。

国家もまた、この法を最上位規範として据え、実現可能な制度化へ向けて不断の探索と試行を行うことが求められる。


平和法は、秩序を強制するための法ではない。秩序が暴力へと転落することを防ぐための、不可侵の境界線である。この境界が制度として記憶され続けたとき、国際秩序ははじめて「統治の構造」から「生命の絶対保護の構造」へと、その意味を転換する。


平和法は完成された終点ではない。

それは、人類が再びこの境界を見失わぬために、思考と制度の最上位に据えられる、出発線である。


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Peace Law is neither a treaty nor a charter.

It is the highest normative boundary to which the international order must return before it claims its own legitimacy.


This law does not aim to punish or sanction violations.

Yet no deviation is left unseen.

Actions that exceed life are recorded, made visible, and continuously evaluated against the legitimacy of the international order.

Such records accumulate as a history in defense of peace, and legitimacy is maintained through their public disclosure.


States are likewise expected to place this law as their supreme norm and to engage in continual exploration and experimentation toward its institutional realization.


Peace Law is not a law for enforcing order.

It is an inviolable boundary to prevent order from collapsing into violence.

Only when this boundary is continuously remembered as institution does the international order shift from a “structure of governance” to a “structure of absolute protection of life.”


Peace Law is not a completed destination.

It is a point of departure, placed at the highest level of thought and institution, so that humanity does not again lose sight of this boundary.


※ English rendering assisted by ChatGPT



 ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


【6.8 ポスト平和学――平和を求める人へ届けるために】


本章の冒頭で掲げた「ポスト平和学」という語は、従来の平和学を否定するためのものではない。

それは、平和学が長く目標としてきた「解決」「和解」「合意」「超越」といった到達点を否定するのではなく、それらを制度設計の最終目的から外し、別の位置へと再配置する試みであった。


平和法は、紛争の解消や対立の超克を最終目的とはしない。

当事者双方が納得する第三の道を探し続ける方法論――いわゆるトランセンドの再提示でもない。

むしろ、平和法そのものが、従来の意味におけるトランセンドから意図的に距離を取っている。


それは、解決を目指さない。

和解を強制しない。

理解や一致を、制度の成立条件としない。


ただひとつ、

「死亡者ゼロ」という生命保護の境界だけを、いかなる状況においても越えさせない。


それ以上の一致や善意を、制度の前提に置かないという決断――

そこにこそ、本章が「ポスト平和学」と名付けられた理由がある。


平和法は、すべての人に納得を求める制度ではない。

誰かの思想や信念を改めさせるための装置でもない。

どのような立場にあり、どのような理念を抱いていようとも、

生命だけは越えてはならないという一点を、世界に対して示し続けるための出発線である。


従来の平和論は、多くの場合、比較的平穏な場所から、混乱と暴力の只中にある地域へ向けて構築されてきた。

和解や仲介は、殺し合いが現に進行している場へ、果たして実際に届けることができるのだろうか。

銃を構える者たちのあいだに立ち、理念や教育を語ることが、現実に可能なのだろうか。


もちろん、戦争をなくすことは正しい目的である。

和解や仲介が実現するなら、それに越したことはない。

しかし、それらはいずれも絶対条件ではない。

とりわけ、和解に至ることを前提としたトランセンドは、しばしば当事者の感情や記憶を置き去りにしたまま、理想論へと転じてしまう。


歴史を振り返れば、平和という語は、ときに戦争を終わらせるためではなく、戦争を正当化するために用いられてきた。

大量殺戮の当事者であった国家が、自らを「平和を希求する側」と位置づけ、その名のもとに次の暴力を準備する――

その構造が、戦後の国際秩序の中で繰り返し再生産されてきたことは否定できない。


解決とは、本来、当事者同士が時間をかけて解きほぐしていく営みである。

外部から与えられる理念や構想によって、即座に達成されるものではない。


戦争が終わった後に物資を届けること。

復興を支援すること。

教育や医療を提供すること。

それらはいずれも重要であり、尊重されるべき行為である。


しかし、それらをすべて「平和」と一括して呼ぶことには、慎重でなければならない。

なぜなら、平和という語が、殺された生命を覆い隠し、暴力の責任を曖昧にする装置へと転じる瞬間が、確かに存在するからである。


本章が提起しているのは、救済や支援を否定することではない。

それらと平和とを、構造的に区別する必要があるという認識である。


平和とは、何かを与える行為ではない。

何かを完成させた状態でもない。

生命に触れてはならないという境界を、いかなる秩序の中でも失わないこと――

その一点を、思考と制度の最上位に据え直すことである。


すなわち、平和とは、理想郷を指し示す言葉ではない。

殺さないという最低限の境界を、決して例外化しないという、極めて現実的な規範である。


これが、本章が導き出した「ポスト平和学」の到達点である。

そしてこの規範が、平和を願う余裕すら奪われてきた場所へと届き、

せめて生命だけは奪われないという最低限の安全を支える、静かな防波堤となることを願って、本章を閉じる。


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