第5章 防衛ドクトリンー平和宣誓を成立させる抑止戦略構造
第二次世界大戦末期、終戦直前の日本全土は、すでに長期間にわたる飽和的な爆撃に晒されていた。その実態は、現在では多くの記録によって、比較的容易に確認することができる。
では、そうした状況の中で、日本軍の幹部たちは、どのような判断を重ね、どのような過程を経て追い込まれていったのだろうか。あわせて本節では、当時と現在の安全保障をつなぐ視点として、今日においても議論を停滞させ続けている核兵器が、いかなる影響を与え、いかに異常な性質を持つ暴力装置であるのかについても、改めて検証していく。
1945年3月以降、都市焼夷爆撃は日常と化し、アメリカ軍によって継続的に実施された。絨毯爆撃で都市は焦土と化し、補給線は寸断され、軍民の区別は実質的に無効化されていった。爆撃の総量は約14万トン、被爆した都市数も67都市に及んだとされる。この圧倒的な量と継続性は、被害の甚大さ以上に、「防衛すれば状況を改善できる」という前提そのものを、国家と社会の認識から奪い去っていった。
日本軍の基本戦略は「漸減邀撃作戦」であった。しかし本来、日本が構築すべきであったのは、アメリカ本土に対して実効的な抑止を与えうる攻撃態勢であったはずである。経済的制約と慢性的な資源不足は、開戦の時期を自ら選ぶ余地を奪い、本来は時間をかけて整えるべき戦略を、未完成のまま前倒しさせた。ハル・ノート(1941年11月26日提示)が、その判断を加速させたとも言われている。
日本は資源確保のため、広域的な領土拡張へと踏み出した。南方作戦において、東南アジア諸国の文化的背景や途上的な経済事情は、進出を直ちに阻む要因とはならなかった。その結果、領土拡張が相対的に順調に進んだことが、むしろ裏目に出た可能性がある。広大な防衛戦線の拡大によって、必要以上の戦力分散を招いたのである。
一方アメリカは、日本本土攻撃のための前線基地を次々に確保していった。マリアナ諸島、硫黄島、沖縄へと至る過程において、兵站を切らすことなく戦力を前進させ続けたことは、日本側から見れば、自国の前線拠点が段階的に失われていく過程でもあった。日本軍には、アメリカ本土を直接脅かす手段が存在しなかった。航空戦力、航続距離、補給能力のいずれにおいても不利な条件が積み重なり、アメリカの航空戦力と補給体制は、ほとんど無限に再生され続ける攻撃装置のように映っていたはずである。
そのような状況下において、日本にとって、核兵器の実射ほど恐ろしい出来事はなかったであろう。
当時の時代背景を踏まえれば、核兵器に関する確立した情報は、ほとんど開示されていなかった。そのような状況下で、未知の破壊が突如として現実に突きつけられた。それが数発で終わるのか、あるいは何十発、何百発と続くのか。次はどこに落とされるのか。こうした予測不能性そのものが、核兵器の殺傷能力を、さらに大きな恐怖として増幅させたのであろう。
中枢である首都東京が核爆撃を免れたことについても、それを単なる偶然として片づけることは難しい。広島・長崎への原爆投下は、核の威力を誇示する「見せしめ」であると同時に、日本の統治機構を温存し、戦後統治を円滑に進めるといった、極めて政治的な判断が作用していた可能性を否定できない。
この時点において、核兵器はすでに戦場の兵器を超え、国家の判断と秩序そのものを直接操作する存在として機能し始めていたのである。
ここで描かれるのは、個々人の動揺ではない。国家という集団意思決定装置が、極限の圧力の下で追い込まれ、最終的に「服従」という選択へと至っていく過程である。合理的判断へ至る選択肢は次々に奪われ、時間は圧迫要因へと転じ、意思決定そのものが正常性を失っていった。回避し得ない次の投下に、いかに対応するのかという問いだけが、残されていた。
核兵器が示した超破壊力は、もはや単なる戦場の兵器としてではなく、国家の判断や国際秩序そのものを左右する存在として立ち現れた。核がもたらした変化の本質は、破壊の規模そのもの以上に、「暴力の性質」が根本から変質した点にあったと言える。そして核は「理論」ではなく、「実在する絶対的暴力」として記憶されたのである。
情報公開される社会で生きる私たちは、すでにその暴力の構造をすでに知っている。核兵器はいまなお圧倒的な破壊装置であるが、もはや未知の恐怖ではない。知識は恐怖を消し去ることはないが、それを備えうる対象へと変え得る。もしかすると今日において核は、暴力への理解を通じて、恐怖を秩序へと転化させる作用を、なお加速させているのかもしれない。その一方で、物理的な対抗手段はいまだ確立されておらず、国際制度や精神的抑止の枠組みも、依然として不十分なままであると言えるだろう。
未来を展望する際、「悲観的に考えることこそが現実的である」という見方は、しばしば支配的に語られる。最悪の事態を想定し、そこから逆算して対策を講じる構想は、一見すると慎重で合理的に映るからだろう。
しかし、荒廃へと向かう世界を前提に描かれた未来像と、平和が継続する可能性を含み込んだ、いわば理想的な未来像とのあいだに、果たして論理的な優劣は存在するのだろうか。いずれも、まだ到来していない未来に対して、異なる可能性を仮定して描き出しているにすぎない。悲観も楽観も、ともに仮説である以上、一方だけを「現実的」とし、他方を「理想論」として退ける必然性はない。むしろ、構想を練り上げる過程においてこそ、感情的な傾きや先入観を排し、前提条件と可能性を冷静に比較・検討する視点が求められているのではないだろうか。
国際政治をめぐって、フランスの歴史家 アルベール・ソレル(1842–1906) は、それを「世界を自らの政策に適応させようとする人々と、自らの政策を世界の現実に合わせようとする人々との間に存在する、永遠の論争」と評した。核廃絶論が直面している現実も、まさにこの構図の延長線上にある。
現在の国際社会における「平和」は、核廃絶を掲げながらも、その実態においては MAD(相互確証破壊)という、核使用を前提とした構造に依存している。この構造を正当化する便宜的な論理が常態化している限り、真の意味での核廃絶に至ることはない。なぜなら核抑止論とは、「核を使わせないために、核を使う準備を整え続ける」という自己矛盾を内包した、きわめて不安定な均衡の上に成り立っているからである。
MADの正当性は、「核が使用されないこと」によってのみ保たれる。しかしそれは同時に、一度でも核が使用されれば、世界が瞬時に破滅的な連鎖へと転落する危険を常に抱え込んでいることを意味する。「平和」という言葉を用いながら、その実態は、薄氷の上に世界を築くかのように、核という物理的強制力に過度に依存してはいないだろうか。言い換えれば、紛争を平和的手段で処理するという、本来磨くべき能力を、私たちは放棄してしまっているのではないだろうか。
仮に、すべての国家が核廃絶に合意したとしても、完全廃絶に至る過程において、最後に核を手放す国家が「信用の置けない国」であった場合はどうなるのか。その不安とリスクは、決して消えることはない。結局のところ、核兵器がこの世に存在する限り、「他国が保有するのであれば、自国も保有せざるを得ない」という論理的帰結から、国際社会が容易に抜け出すことはできないのである。
こうした核抑止構造の限界を踏まえたとき、私たちはあらためて「平和とは何か」という問いに立ち返らざるを得ない。破壊へと至る悲観的な未来像のほうが直観的に理解しやすく、平和を維持し続ける構造のほうが、はるかに複雑で困難であるという事実が、議論そのものを遠ざけてきただけなのではないだろうか。
歴史が示す「カルタゴの平和(注1)」は、徹底的な破壊によって強要された和平が、決して恒久的な安定をもたらさず、むしろ次なる争いの火種を内包することを雄弁に物語っている。私たちはしばしば、「争いはいつか必ず起きる」という言説によって、未来を悲観的に捉えがちである。しかし、この言葉が持つ説得力の正体は、“いつか”という曖昧な時間設定によって、時間軸を無限に引き延ばしている点にある。そうすることで、この言説は、一見すると反証不能な命題として成立しているに過ぎない。
だが、その論理構造は同時に、「平和が続く可能性」を原理的に否定しきれないという矛盾を、静かに抱え込んでいるのではないだろうか。だとすれば、その反証は理論の内部ではなく、現実の積み重ねの中でのみ示され得る。もしかすると、その一例となり得るのは、敗戦国家である日本が、長期にわたって平和を制度として維持し、積み上げてきた過程そのものなのかもしれない。
結局のところ、平和とは単に「争いが起きていない状態」を指す言葉ではない。
それは、秩序や抑止といった構造を意図的に国際社会へ組み込み、その結果として成立する状態である。武力に訴えることなく、対立や衝突を収束させるための、現実的かつ持続可能な仕組みを、社会の中にどれだけ組み込めるのか——その点こそが、いま私たちに真正面から突きつけられている問いなのである。
この問いから目を背けたままでは、私たちが「平和」と呼んでいるものは、いつか再び争いが起きるまでの、単なる猶予期間に過ぎない状態にとどまり続けるだろう。
平和をユートピア、すなわち理想郷の実現として捉える考え方がある。それは、全世界が望む姿であるはずだ。理想論に立つならば、そこには差異や誤解、まして争いなどは存在しないのだろう。しかし同時に、ユートピアリズムとは「説得によってのみ戦争を止めることを前提とする」という指摘には、反論したい衝動とともに、否定しきれない納得も覚える。
戦争や暴力を否定することは、ある意味で、人類史そのものを否定することでもある。それほど深く人間の営みに根ざした現象に対して、「あなたの考えは間違っている」と唱えるだけで、世界中の人々の判断を一斉に、即座に反転させることのできる力を、誰一人として持ち合わせてはいない。
だからこそ、堅牢平和主義は、理想の正しさだけに依存しない。人間の判断が揺らぎ、恐怖や誤算が避けられないことを前提に、それでも破局に至らせないための物理的防衛と制度設計を、国家構造の中に組み込む。非武装や受動的な平和主義とは一線を画し、倫理に基づく厳格な原則と、現実的な抑止力を併せ持つ、新たな平和主義の形である。それは、流れる時代、移ろう国際情勢とともに、常に精錬的に提示され続けるべきものだ。
それはまた、力の行使に対して明確な条件と制限を設けることで、武力の暴走を抑えつつ、真に平和的な国際関係を構築しようとする姿勢にほかならない。願わくば、この堅牢平和主義と防衛ドクトリンが、核兵器を含む破壊兵器が段階的に姿を消していく「減少過程」の、確かな第一歩となることを期待したい。
※ 注1 ー 古代ローマがポエニ戦争後、カルタゴを徹底的に破壊・屈服させた事例に由来する比喩。
軍事的勝利による強制的和平が、長期的秩序を保証しないことを示す用語として用いられる。
【日本社会における議論の停滞】
では、日本国内に目を向けたとき、防衛や抑止といった必要性は、果たして国民の間でどれほど共有されているのだろうか。
私たちが「日常」と呼び、当たり前のものとして過ごしている平穏な毎日は、決して自然に与えられたものではない。制度の積み重ねや人々の不断の努力、そして意識されることのない備え――そうした無数の前提と支えの上に、かろうじて成り立っている。さらに過去へと視線を向ければ、その日常が、献身や犠牲、時には尊い人命の上に築かれてきたという歴史的事実が浮かび上がる。
その重みを、自らの暮らしの前提として、どれほどの人が自覚しながら日々を生きているのだろうか。
「護憲派」と「改憲派」。
この言葉を、あなたも一度は耳にしたことがあるはずである。
日本では、こうした対立構図のもとで、安全保障をめぐる議論が長らく二項対立的に語られてきた。近年ではさらに、「護憲的改憲」「積極的平和主義」「加憲案」など、多様な立場や表現が加わり、議論は一見すると多層化し、成熟に向かっているかのようにも見える。しかしその一方で、立場や解釈が過度に細分化された結果、論点そのものの整理がかえって困難になっているのが現状である。
加えて、「護憲か改憲か」という構図が長年にわたり固定化されたことで、議論はしばしば感情的な応酬や、立場の自己正当化に終始してきた。より深刻なのは、こうした表層的な対立の陰で、安全保障の実態や憲法運用との整合性といった、本来議論されるべき核心的な論点に、いまだ十分に到達していない層が少なからず存在しているという点である。
では、順を追って、この対立の中身を整理していこう。
まず、護憲派の人々は、なぜ憲法改正に反対しているのだろうか。
護憲派が改正に反対する背景には、戦争に対する強い拒否感や、改正の目的、さらには政治的意図に対する漠然とした不信感がある。また、「現行憲法の解釈の下でも自衛隊は違憲ではない」という政府見解が存在するため、現状維持で十分だとする認識も、その抵抗感を下支えしている。
一方で、改憲派はどうだろうか。
改憲派は、憲法九条が掲げる「戦力不保持」と、自衛隊という現実の存在とのあいだに生じている法的な矛盾を問題視している。彼らにとって改憲とは、現実と憲法との乖離を是正し、自衛隊の存在を明確に位置づけるための、必要かつ正当な手続きなのである。
こうして見ると、この対立は、根本的に「観点」そのものが噛み合わないまま続けられてきたことがわかる。互いの主張は異なる前提に立脚しており、それぞれが自らの正当性を主張し続けているに過ぎない。その結果、いずれも日本の安全と平和を願っているにもかかわらず、議論は平行線を辿り、前進のための共通基盤を見出せずにいる。
そこで本章では、「憲法を変えるべきか否か」というゼロサム的な二択から一歩距離を置き、改憲を前提としたうえで、「いかにして日本の主権と平和を守り抜くのか」という問いに主眼を置いて考察を進める。その上で、防衛ドクトリンが備えるべき「即応体制」の必要性について、理念にとどまらず、具体的な施策に至るまでの過程を含めて解説していく。
あわせて、核兵器を含む非人道的破壊兵器の漸進的廃絶を構想する際、「核兵器」という存在そのものが、再び私たちの判断基準を歪ませかねないパラドックスであることについても、あらかじめ確認しておきたい。
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【5.1 憲法改正は可能な制度である《憲法第96条》】
日本国憲法 第九章 改正
〔憲法改正の発議、国民投票及び公布〕
第九十六条
1 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
本国家再編計画構想は、憲法改正を前提とした制度設計に基づいている。
したがって、ここであらためて確認しておきたいのは、憲法第96条が明確に示しているとおり、憲法とは“国民の意思によって更新可能な制度”であるという点である。
憲法は、不変の絶対法ではない。時代の変化や社会の要請に応じて、主権者たる国民の判断によって見直すことが可能な、「可変の制度基盤」である。この点こそが、憲法第96条の存在そのものが示している、憲法の根本精神である。
現在、国際情勢は大きく変動し、安全保障をめぐる現実も、かつてないほど複雑さを増している。こうした状況の中で問われているのは、憲法の理念を否定することではない。むしろ、その精神をいかに損なうことなく、現実の国際環境や安全保障の課題と結びつけていくか――その具体的な方法である。
本章で提示する「堅牢平和主義」および「防衛ドクトリン」も、まさにこの問いに応答するための試みである。現代の国際環境と安全保障の現実を踏まえつつ、国家として必要な原則を、理念にとどめるのではなく制度として実装しようとする構想である。
その意味においても、まずは憲法第96条を土台としながら、議論を進めていきたい。
■ 補足:なぜ憲法改正は進まないのか
憲法改正が進まない背景には、政治家個人の利害や、政党間の思惑が複雑に絡み合っている現実がある。
憲法改正は、国民の間でも意見が大きく分かれるテーマであり、政治家にとっては支持を失うリスクを伴う。その結果、改憲・護憲という立場表明は繰り返されながらも、制度上の必要性を真正面から議論するのではなく、選挙対策や支持率維持のための政治的道具として消費されてきた側面が否定できない。
とりわけ、自衛隊がすでに実在し、一定の安全保障が維持されているという現状認識が、「今すぐ改憲をしなくても困らない」という空気を生み、議論を先送りしてきた。
こうした状況こそが、憲法をめぐる本質的な議論を停滞させ、民主主義の理念そのものを空洞化させている一因であると言えるだろう。
■ 提案:国民投票による判断
そこで、ひとつの提案を示したい。
それは、憲法改正の具体的内容を国会が議論する前段階として、まず
「憲法を改正するか否か」
という一点に絞り、国民投票によって意思を問う段階を設けるというものである。
1954年に自衛隊が発足して以降、憲法改正の是非については、幾度となく議論が重ねられてきた。しかし、いまだ明確な結論には至らないまま、国際情勢は大きく変化し、「平和の時代が終わった」とさえ語られる状況に至っている。
だからこそ、制度設計の細部に踏み込む前に、
「そもそも憲法を改正すべきなのか否か」
という国家の方向性に関わる根本的判断を、主権者である国民自身の手で示す機会を設けるべきではないだろうか。そうした民主的取組みを導入することで、改憲をめぐる議論は、政党間の駆け引きから解放され、民意に基づいた議論へと転換される。
結果として、より民主的で、より合理的な制度設計へとつながっていくはずである。
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【5.2 平和を護持するため憲法】
《憲法前文(抜粋)》
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、
……(中略)……
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、
……(中略)……
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
第二章 戦争の放棄
〔第9条 戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
日本国憲法の前文および第九条に貫かれているのは、きわめて明確な平和主義の意思である。そこでは、日本国民が「恒久の平和を念願」し、「戦争を放棄」し、「戦力を保持せず」、「交戦権を認めない」ことが、疑いようのない言葉で宣言されている。
とりわけ前文にある、
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
という一節は、国家運営の根幹に平和を据えるという強い意思を示すものであり、この理念そのものに対して、私自身も深い敬意と共感を抱いている。
日本は、戦後の出発点において、
「人と人との関係は、正義と誠実さによって築かれるべきである」
という理想を掲げ、世界の国々が公正に、誠実に振る舞うという信頼のもとで、自国の安全と生存を委ねようとする道を選んだ。
それは、歴史の惨禍を踏まえたうえで到達した、極めて高い倫理的決断であったと言える。
しかし、この美しい理念は、その根底に大きな空白を抱えている。
それは、「では、その平和をいかにして維持するのか」という問いに対する、具体的な手段や仕組みが、憲法の条文上には明示されていないという点である。国際社会の現実は、必ずしも正義や信義が常に尊重される世界ではない。力による現状変更、軍事的威嚇、条約や国際ルールの軽視が、現実には繰り返されている。そうした環境の中で、「他国の善意に全面的に依存する」だけでは、国家の安全も、国民の生命も守りきれないという厳しい現実がある。
それにもかかわらず、現行憲法は「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を明記している。
条文を文字どおりに解釈すれば、自衛隊の存在も、日米安全保障条約も、違憲であるという結論に至らざるを得ない。
極論すれば、万が一武力侵攻を受けた場合、法理上は「即時降伏」以外に選択肢が残されない――
そのような矛盾を、憲法は内包しているのである。
実際には、この矛盾は、政府解釈と判例によって辛うじて調整されてきた。
砂川事件をはじめとする判例や政府見解では、「主権国家として、自国を防衛するための必要最小限の実力を保持・行使することは否定されない」とされ、自衛隊は憲法が禁ずる「戦力」ではなく、「自衛のための必要最小限の実力」と位置づけられている。
また、日米安全保障体制は、自衛隊を「盾」として直接的な侵攻を抑止し、アメリカ軍を「矛」として打撃力と抑止力を補完する、相互依存的な安全保障構造として説明されてきた。
さらに、「武力攻撃事態対処法」による有事対応の制度化や、2015年の「平和安全法制」による限定的集団的自衛権の容認といった法整備によって、現実の安全保障体制は拡張されてきた。
しかし、これらはいずれも、現行憲法の枠内で合憲性を確保するために積み重ねられた「解釈」と「補助線」に過ぎない。
前文と第九条に示された平和主義の原則――
すなわち「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」という三つの柱そのものは、いまなお明確に残されている。
根本的な矛盾は、解消されたわけではないのである。
私たちは、理想を掲げることそのものを否定すべきではない。しかし同時に、「その理想を、どうすれば現実の中で守り抜くことができるのか」という問いから、目を背けることもできない。
さらに言えば、この憲法が本当に守ろうとしている「本質的な価値」は何なのか――
その点を、改めて見極める必要がある。
理想と現実の間に横たわる溝を埋めるためには、理念を制度へと具体化する意思と、そのための明確な設計図が不可欠である。
平和を願うだけでは、平和は守れない。
平和を「維持する構造」そのものを、国家の中に組み込むこと――
その試みは、1955年の「保守合同」によって自由民主党が結成された時点で、すでに始まっていたのかもしれない。立党宣言に明記された「現行憲法の自主的改正」という言葉は、現代に至るこの問題の根深さを、当時から示唆していたとも言える。
現在、日本の平和は、いったい誰によって守られているのだろう。
この問いに向き合うなら、まず一つの事実を認めなければならない。日本の安全は、現に自衛隊という組織によって支えられている。そこには、否応なく軍事力という実体が存在している。
自衛隊の役割は、戦うことそのものではない。攻撃すれば不利益を被るという認識を相手に与え、武力行使という選択肢を思いとどまらせること――すなわち抑止である。日本の平和は、現実としてこの抑止の構造の上に成り立っている。
MADが「自ら核を保持することで成立する抑止」であるのと同様に、自衛隊による防衛もまた、実体としての力の保持を前提とした抑止である。これに対し、「平和には自衛隊は不要だ」という主張は、抑止そのものを否定しているというより、抑止の担い手を自国ではなく、同盟国や国際秩序に委ねている点に特徴がある。そこに、理念と現実のあいだのずれが生じている。
多くの国家が軍事力を保持する国際社会において、日本だけが一気に軍事的抑止を放棄することは、理想の実現というより、抑止の空白を生みかねない。結局、「相手も軍事力を持っている以上、どう安全を確保するのか」という問いへと立ち戻らざるを得なくなる。
重要なのは、軍事力を持つか否かではない。抑止という現実を直視した上で、その力をどのような条件と制限のもとで管理し、何のために用いるのかを明確にすることである。抑止を否定するのではなく、抑止を制御し、将来的に不要なものへと移行させていく――その過程を設計することこそが、現実に立脚した平和戦略なのである。
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【5.3 誰かが止めるべき軍拡競争】
今日なお、世界各地で紛争が連鎖し、内乱が終わることなく、軍拡競争が煽られ続けているのは、単に一部の国家や指導者の野心だけが原因ではない。より深い次元において、従来の国際秩序の形成方法そのものが、戦争を「例外」ではなく、「秩序を獲得するための手段」として肯定しうる構造を内包してきたからである。
近代以降の国際秩序は、理念や道徳から立ち上がったものではない。「カルタゴの平和」という比喩が示すとおり、戦争の勝敗によって領土や資源、発言権が再配分され、勝者がルールを定め、敗者がそれを受け入れる――そうした力の結果として形成されてきた。条約や国際協定、安全保障体制といった形式は、その後に整えられるが、根底には常に「力を持つ者が秩序を定義できる」という暗黙の前提が残り続ける。
ここに、秩序形成が「力=正義」あるいは「力=正当性」から始まってしまうという、根源的な歪みが存在する。
この歪みは、必然的に軍拡競争を誘発する。
秩序の正当性が軍事力によって担保される世界では、各国は自国の正当性を維持するために、軍事力を持たざるを得なくなる。力の不足は、単なる軍事的不利にとどまらない。外交交渉での軽視、国際的発言権の欠落、さらには主権や体制そのものへの脅威として認識される。
現場の論理に置き換えれば、指揮官が部下に「守れない戦場」への突入を強いることを避けるように、国家もまた、自国民に「守れない国家」であることを許容できない。こうして、各国が合理的判断を積み重ねた結果として、全体では終わりのない軍拡の連鎖が生まれる。
アイゼンハワー大統領が退任演説で警告した「軍産複合体」の台頭は、まさにこの構造を示している。政府と軍事産業の結びつきが強まるほど、軍事力は安全保障の手段であると同時に、政治的・経済的利益の源泉となり、軍拡を抑制する動機は弱まっていく。
冷戦以降に顕著となった代理戦争や長期化する内乱は、この構造を効率よく延命させる装置として機能してきた。大国は正面衝突を避けつつ、他国の紛争に介入し、武器・資金・訓練・情報を供給する。そこでは「支援」「抑止」「民主化」「安定化」といった言葉が用いられるが、結果として戦場は固定化され、停戦と再燃を繰り返す環境が維持される。
戦争が終わらないことが悲劇であるという事実は、誰もが知っている。
それにもかかわらず、武器が消費され、軍事予算が正当化され、影響圏が調整され続けるという意味で、秩序形成が「戦争の継続可能性」に依存してしまっている。紛争が終わらないのではない。終わらせきれない構造が、先に置かれているのである。
ここで、核兵器がもたらした決定的なパラドックスに触れなければならない。
核兵器の絶対的破壊性は、人類の倫理と判断の基準そのものを歪めた。
本来、通常兵器であっても単体で十分に恐ろしい存在である。
しかし、核兵器という「絶対的な悪」が存在することで、それらは相対的に軽く扱われるようになってしまった。核抑止論(MAD)を秩序の根拠に据えた結果、人類は恐怖の基準を見失い、本来は絶対的であるべき秩序や倫理を、「核よりはましか否か」という相対的な比較の問題へと引きずり下ろしてしまったのである。
つまり、核という「究極の恐怖」を秩序の天秤に載せ続ける限り、その他の惨禍はすべて「些末なもの」へと格下げされてしまう。これこそが、核兵器が生み出したパラドックスである。
だからこそ、秩序形成においてまず認識すべきなのは、「力が正義や正当性を示す」という発想が、秩序の起点そのものを汚染しているという事実である。力は必要な局面がある。しかし、力を“正当性そのもの”に接続した瞬間、秩序は常に戦争へ回帰する。秩序が戦争で更新されるという経験則を持つ世界では、最終局面で戦争を排除できない。戦争が残る限り、軍拡は合理的となり、代理戦争は温存され、内乱は外部から燃料を注がれ続ける。
では、開戦が人の判断に過度に左右されない制度設計を目指すためには、何が必要なのか。
第一に、秩序の正当性を「勝敗」から切り離すことである。
戦争の結果がルールを生むのではなく、ルールが戦争の発生を制度的に封じる仕組みへと転換しなければならない。
第二に、判断を個人の善悪や政権の気分に委ねないよう、透明性を高めた制度によって拘束することである。
武力行使の可否、反撃の範囲、停戦への移行条件、第三者監視の導入、違反時の自動的制裁――これらを国際的に明文化し、さらに開示を義務づけ、国際機関と連携することで、説明責任によって例外を最小化する必要がある。
第三に、軍事的誘因そのものを抑制する構造を作ることである。
軍需産業や政治的利益が紛争を「使える環境」に変えてしまう以上、武器の生産・移転・在庫・使用に国際的な監査と制限を組み込み、戦争が制度的に「割に合わない」ものとなるよう、その方向性を固定しなければならない。例えば、武器生産によって生まれる産業構造を、災害救助、平和維持、インフラ復興といった「地域の安定化」や「防衛的安全構築」へと転換させることが考えられる。
そして最終的に、核廃絶は理想論ではなく、「比較軸の破壊」として位置づけ直されるべきである。
核が存在する限り、人類の倫理は核に引きずられ、他の非人道的手段を相対的に正当化しやすくなる。このベクトルは、核を制御しようとする過程で、核以上に非情な破壊や殺戮を求めてしまう危険性すら孕んでいる。
核をなくすことは、単に恐怖を減らすことではない。
人類の判断の尺度を正常化し、戦争を「段階」の一つとしてではなく、「越えてはならない線」として再び重く位置づけるための、制度的な修復である。そこには、これまでとは真逆の方向へ踏み出す勇気が求められる。
秩序とは、力による強制ではなく、対話と叡智の結晶として設計されるべきものである。 「力=正当性」という旧来の前提を内包した秩序は、一時的な安定をもたらしたとしても、必然的に次の軍拡と紛争を再生産する。
ゆえに我々は、この無意識の前提を解体し、国家という「不完全な人工物」にふさわしい制度設計へと移行しなければならない。 それは、個人の善悪や権力の恣意に委ねるのではなく、人の揺らぎや暴走をあらかじめ織り込み、破局を構造的に回避する仕組みを構築することだ。
戦争を「歴史を更新する手段」から「割に合わない選択肢」へと転換させる。これこそが、新しい秩序の出発点である。
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【5.4 国家平和宣言から始まる、新たな国家像】
■ 平和宣言を行うにあたって
日本国憲法の精神である「平和主義」は、単なる理想であってはなりません。それが国民一人ひとりの生活の中で、現実の恩恵として実感されるためには、制度設計と運用の双方において、具体的かつ検証可能な裏付けが不可欠です。
問われるべきは、その宣言を通じて、日本という国家がどのような姿勢と責任をもって国際社会に存在しようとしているのかという、明確な国家像そのものです。
世界的な軍拡競争が常態化する現代において発せられる平和宣言は、時代の潮流に対する静かな挑戦であると同時に、国際社会から厳しく真価を問われる行為でもあります。だからこそ、「はったり」や「見掛け倒し」は決して許されません。平和宣言は、単なる意思表明に留まるものではなく、最大限の実効性と国益を同時に引き出すための戦略的構想として構築されるべきものなのです。
本計画では、日本を「平和宣誓国家」として国際的にブランド化することを目指します。
戦後日本が積み上げてきた平和的思想や実践の蓄積は、この試みに対して大きな相乗効果をもたらすでしょう。しかし、それだけでは十分とは言えません。
まず必要となるのは、モンテビデオ基準および国連憲章における「平和」という概念との整合性を、制度的に裏付けることです。
1、外交的適格性の証明
他国に対して脅威とならない存在であること、そして対話を通じた関係構築が可能であることを、行動と制度の両面から明示する。
2、実効的統治の質の提示
武力に依存することなく国内を安定的に統治し、国際社会の一員としての義務と責任を果たし得る能力を有していることを示す。
3、不承認原則の回避
国連憲章第11条の趣旨に抵触しない、クリーンで透明性の高い国家であることを国際社会に訴求する。
これらは、モンテビデオ基準が国家に求める要件として想定されるものです。しかし同時に、それらはすでに「国家再編計画書」において進められている改革内容と本質的に重なっており、いずれも抵触するものではありません。
問題は、ここから先にあります。
平和宣誓国家としての承認には、必然的に附帯するものがあります。それが、防衛ドクトリンです。防衛ドクトリンは、国家としての即応性や実効性を担保する一方で、その提示の仕方次第では、国際的な反発や誤解を招きかねない側面も併せ持ちます。
すなわち、平和宣誓国家の承認を得るという行為は、防衛ドクトリンそのものの承認をも同時に目論む、極めて戦略的な行動であると言えます。防衛ドクトリンの内容自体に問題がないとしても、極端な解釈や乱暴な理解がなされた場合、意図せぬ誤解を生む可能性は否定できません。
だからこそ、国家としての軍事的行動は、常に国際機関との連携のもとに置かれ、透明性と正当性が第三者によって担保され続けなければならないのです。
そして重要なのは、平和宣誓国家という地位が可逆的である以上、その地位を自ら放棄する場合には、同時に防衛ドクトリンの効力も消滅させるという判断を、あらかじめ制度上の重要事項として定めておく必要がある、という点です。
平和宣誓国家とは、理念にとどまるものではなく、その開始と終了の双方において、明確な責任と覚悟を伴う国家選択です。
本節で触れた内容については、第六章「国際機関への働きかけ」において、さらに詳しく掘り下げていきます。
■ 「ソフトパワー」と「平和宣言」のコラボレーション
私たちは、どのようにすれば「平和宣言」を単なる理念にとどめることなく、国家戦略の中核として機能させることができるのだろうか。
その鍵を握るのが、「ソフトパワー」の戦略的活用である。
武力による威嚇や抑止ではなく、価値観、文化、制度、技術力、そして発信力(CM力)といった非軍事的資源を通じて、国際社会に対する信頼と影響力を築き上げていくこと。これこそが次世代の抑止の中核であり、「戦わずして守る力」の本質である。
第3章「経済主権の確立」で述べたように、日本が目指す新たな国家像においては、「平和宣誓国家」という理念的ブランドにとどまらず、圧倒的な技術力や制度設計そのものが、外交的な影響力として機能し得る。たとえば、GX2040やミッション8など、2025年に 経済産業省 が公表した「第4次中間整理」では、産業構造を複数のカテゴリーへと再編する構想が示されている。
これらはいずれも、実現可能性を見据えつつ、同時に未来志向を内包した政策構想であり、達成に至るまでには高い技術的・制度的ハードルを伴う分野ばかりである。しかし、こうした技術獲得の積み重ねが、日本の将来にとって重要な希望の材料となることは間違いない。
ただし、国家戦略という観点に立つならば、リスクを分散・軽減するための選択肢は、多ければ多いほど望ましい。単一の成功シナリオに依存するのではなく、複数の可能性を並行して構想しておくこと自体が、国家の耐久性を高める行為だからである。
以下に挙げる構想は、私自身の視点から提示するものであり、技術的成熟度や実現時期を直ちに問うものではない。現実からの飛躍が感じられるものも含まれるが、あくまで「思考実験」として、将来の選択肢を拡張するために紹介しておきたい。
未来型医療の一つの候補として、ここでは「未来予防医療」という構想を挙げる。対象は、これから誕生する子どもたちに限定されるが、出生時に母体から胎盤細胞を採取・保存し、それを基に個々人に最適化された血液構成を解析するという考え方である。解析には、ホヤなどの海洋生物が持つ再生・分化機構の知見を応用することを想定している。
こうして得られた最適化データおよび血液情報は、専用のブラッドセンターによって長期保管される。このブラッドセンターは、地上ではなく、月という政治的・軍事的介入が極めて困難な領域に設置され、同時に医療・生命情報を扱うデータセンターとしての機能も担う構想である。
この構想と連動するのが、「LUNAブースト計画(Linear–Unit for Non-explosive Ascent Booster)」である。これは従来の爆発的な点火方式に依存しない「滑走加速型打ち上げ」を目指す構想である。
本計画では、地上に設置された約20kmのリニアレール上に、ロケット本体およびリニアタービン推進装置を搭載したリニア滑車ユニットを配置。加速と上昇を同時に達成するための非爆発型アシスト装置として設計されている。
リニアタービン推進装置とは、リニアモーターによる直線加速と、非接触電磁誘導によるタービン回転を組み合わせ、ファンによる前方排気推進力を付加するハイブリッド型推進ユニットである。
この装置は、リニア滑車ユニットに固定されており、ロケット本体とともに水平状態から加速し、約60度の上昇角まで到達したのち、ロケット本体のみをスキージャンプ方式で「射出」し、直後にエンジンを点火することを想定する。
さらには、洋上プラント、国家発行型ステーブルコイン、公共性の再設計を伴う新たな経済圏構想――これらはいずれも、単なる経済政策にとどまるものではない。経済的自立性を高めると同時に、日本が「軍事ではなく、創造と制度によって世界と関わる国家である」という姿勢を、具体的な形として国際社会に示す手段でもある。
こうした取り組みは、産業政策やエネルギー政策の枠を超え、「軍事に依存しない防衛」――すなわちソフト抑止力へと昇華されていくのである。
もっとも、ソフトパワーだけで平和を維持できるほど、現代の国際情勢は単純ではない。だからこそ、もう一方の柱として、「堅牢平和主義」と「防衛ドクトリン」を制度的に整備し、現実的な防衛体制とのバランスを確保する必要がある。
すなわち、新たな国家像とは、「非軍事的影響力としてのソフトパワー」と、「非核兵器・専守防衛・不侵略を原則とする軍事的抑止(堅牢平和主義)」とのコラボレーションによって支えられる構造なのである。
いま世界は、軍拡とブロック化へと急速に傾斜している。そうした潮流にあえて抗い、「平和」と「創造的交流」を軸に影響力を発揮する国家戦略を掲げることは、もはや空疎な理想論ではない。それは、経済停滞からの脱却を図る現実的な突破口であると同時に、国際社会に対する明確なオルタナティブの提示であり、軍事覇権を追求する権威主義国家に対する、日本なりの平和的な逆襲でもある。
この構想を冷笑するのか、それとも本気で受け止めるのか――その“温度”ひとつで、この平和戦略の意味はまったく異なるものになる。
一見すれば、理想論にすぎないようにも映るかもしれない。
しかし、軍事力への依存こそが「現実的」とされがちな時代において、あえてこの困難な道を選び取ること。それ自体が、日本国憲法に則った「平和的覚悟」の表れなのである。
■ 「非核兵器」「専守防衛」「不侵略」の三原則
ここでは、「非核兵器」「専守防衛」「不侵略」という三つの基本原則が、憲法第9条に掲げられた
「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」という理念を、いかに継承し、同時に現代の安全保障環境に適合させるかを整理する。
これら三原則は、単なる理念の言い換えではない。憲法9条の精神を空文化させることなく、現代的な平和戦略として制度化するための再構築である。
● 非核兵器
戦力の不保持 ⇒ 非人道兵器の不保持へ
憲法が掲げる「戦力の不保持」は、現代において単なる軍備の全面放棄を意味するものではない。むしろそれは、「非人道的破壊兵器を国家として保有しない」という、より本質的な原則として再定義されるべきである。
とりわけ核兵器は、人類史上最も破壊的かつ非人道的な大量破壊兵器であり、その保有を明確に否定することは、憲法9条の精神の核心に位置づけられる。
日本は、いわゆる非核三原則――「持たず・作らず・持ち込ませず」を厳守し、いかなる状況下においても、核兵器の保有・製造・受け入れを一切認めない。これは、被爆国としての歴史的責任であると同時に、「非核による抑止モデル」という新たな選択肢を国際社会に提示する、倫理的かつ戦略的な国家姿勢でもある。
その一方で、非核国家としての安全保障を現実に成立させるためには、通常兵器による堅牢な防衛体制が不可欠である。とりわけ、ミサイル迎撃能力や局所的侵攻に対する即応体制の整備は、「非核」という選択の信頼性を裏付ける現実的な備えであり、将来的な国際的軍縮の流れを後押しする基盤ともなり得る。
● 専守防衛
交戦権の否認 ⇒ 先制攻撃の否定へ
「交戦権の否認」とは、国家が自ら戦争を始める権利――すなわち先制攻撃を行う権利を放棄することとして、現代的に読み替えるべきである。
ここで明確に区別されなければならないのは、「交戦」と「防衛」は本質的に異なる行為であるという点である。防衛とは、外部からの明確な武力攻撃に対し、主権と国民の生命を守るために行われる行為であり、それ自体が戦争を開始する意思に基づく「交戦」とは異なる。
したがって、日本は「専守防衛」の原則――いかなる場合においても、武力行使を先に開始しないという立場を明確にする。その一方で、攻撃を受けた場合には、直ちに必要かつ相応の反撃を行う能力を保持する。
この立場は、「交戦権の否認」を空文化させることなく、現代の国際法および安全保障環境において持続可能な形で再構築するものである。
● 不侵略
戦争の放棄 ⇒ 攻撃的戦争の否定へ
従来、「戦争の放棄」は、すべての戦争行為を否定する絶対的平和主義として理解されてきた。しかし、現実の国際環境を踏まえるならば、これを「戦争を開始することの放棄」と再定義することのほうが、より合理的である。
すなわち、日本は国策としての戦争――自国の利益や主張を実現するために、武力を用いて他国を攻撃する行為を、明確に否定する。
この再定義によって、「戦争の放棄」は、現代的平和戦略における「不侵略」の原則として位置づけられる。不侵略とは、いかなる軍事的・経済的理由があろうとも、他国の主権や領土を侵害しないことを、国家として制度的に誓約することである。
それは単なる受動的な「攻めない姿勢」ではない。国際秩序を尊重し、国際協調の枠組みの中で自制を貫くという、能動的な平和構築の意思表示なのである。
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【5.5 防衛ドクトリンの効果とその狙い】
近年の国際情勢は著しく変容し、もはや日本国憲法が掲げてきた「平和理念」だけでは、現実に顕在化する脅威に十分に対処し得ない局面が生じていることは否定できません。
いま、わたしたちはその厳しい現実を、希望的観測や過去の成功体験によって覆い隠すことなく、正面から引き受けなければならない段階に立っています。それでもなお、日本が憲法に宿る平和理念を放棄することなく、それを制度と覚悟をもって「誓う」国家であり続けるためには、理念を抽象的な標語として掲げるだけでは不十分です。その理念が、どのような国家運用として具体化されるのかを、内外に明確に示す必要があります。
本計画において、その第一の柱となるのが、第3章で掲げた「経済主権」です。これは、日本が独自に構築する経済圏・技術圏・信頼圏を通じて、軍事力に依存しない非軍事的抑止効果を生み出す試みです。
第二に、「平和宣誓国」という国家像そのものが持つブランディング効果があります。日本が中立的かつ高い信頼性を備えた国際ハブ国家として機能することで、その安定性を損なう行為が、国際社会全体の秩序や利害関係に深刻な影響を及ぼす構造が形成されていきます。
そして第三の柱として、本章で論じる防衛ドクトリンが位置づけられます。本ドクトリンは、軍事力を否定するものではありません。むしろ、軍事力が不可避となる現実を引き受けたうえで、それを無制限に拡張させるのではなく、制度によってエスカレーションを管理・制御することを目的としています。
具体的には、第7章で論じる国際協定および国際機関との連携を前提としつつ、防衛行動の事前通知、目的、適用範囲、発動手続き、ならびに停止条件を可能な限り制度化します。さらに、その運用過程を可視化し、事後的な検証が可能な形で管理することによって、国内外に対する正統性を担保します。
防衛ドクトリンとは、単に武力行使の指針を示すものではありません。それは、国家判断が極限状況に置かれた場合においても、恣意や感情によって逸脱することのないよう、意思決定と行動の範囲をあらかじめ拘束・制御するための、国家としての運用装置です。
この誓いは、単なる理想的宣誓ではありません。
すなわち「平和宣誓国(Peace-pledged Nation)」とは、次世代を見据え、秩序と制度を通じて主権と国民を守り抜く国家像を、具体的な設計として描き出す試みです。
堅牢平和主義に基づく「非核兵器・専守防衛・不侵略」という三原則は、軍事力の放棄を意味するものではありません。それは、軍事力の使用目的と行使範囲をあらかじめ限定し、無制限な報復や先制的暴走を制度的に抑制するための原則です。
永世中立国家であるスイスも抑制的な防衛姿勢を採っていますが、日本はそれとは異なり、日本国憲法に内在する平和理念を基軸として、自国の立場をより明示的な制度構造として定義し、世界に示そうとする試みです。防衛ドクトリンとは、日本の平和理念を対外的に発信するだけでなく、それを空文化させることなく、現実の国家行動として機能させるための制度的補完枠組みです。
すなわち本ドクトリンは、制度的な即応性と実効的な抑止構造を統合し、判断遅延や過剰反応といった有事のリスクを低減させることで、混迷する時代においても持続可能な国家運用を可能とする、柔軟かつ進化可能な国家戦略として設計されています。
■ 風林火山を旗印として
その疾きこと風の如く
その徐かなること林の如く
侵掠すること火の如く
動かざること山の如し
日本の歴史において、戦略思想の象徴として知られる「風林火山」。
これは戦国時代の武将・武田信玄が旗印に掲げたことで広く知られていますが、その源流は中国古代の兵法書『孫子』にあります。孫子は「戦わずして勝つ」ことを最上の戦略と位置づけ、詭道(奇策や欺き)を肯定しました。それは、戦争そのものが国家にとって最大の損失をもたらす行為であるという、冷徹な現実認識に基づいています。
信玄が掲げた「風林火山」を、現代において再解釈することは、単なる歴史的引用ではありません。それは、かつて成し遂げられなかった理想――戦争を回避しつつ国家を守るという課題を、現代の制度と技術をもって引き受け直す試みでもあります。
■ 現代における風林火山の再解釈
「風」、敵対的動向を迅速に察知するための、情報監視・警戒体制の強化と統合
「林」、脅威に動揺することなく、冷静かつ合理的な分析と判断を行う統合作戦司令部の運用
「火」、有事に際して即応し、限定的かつ比例的に応戦する防衛行動の発動
「山」、平和理念を貫き、制度と秩序によって抑止力を築く不動の国家姿勢
このように、本防衛ドクトリンは、現代において抑止力として機能するための条件を、精神論ではなく制度として再構築しています。
それは、武力の誇示でもなければ、無抵抗を美徳とする姿勢でもありません。
備え、構え、守り、そして貫く――
その一貫した姿勢そのものが、防衛力の本質となるのです。
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【5.6 防衛ドクトリンの正式な名称とは】
■ 堅牢平和主義に基づく国家防衛ドクトリン
―― 平和宣誓国の覚悟と即応体制の構築 ――
本構想において、本防衛ドクトリンは、上記の名称を正式名称として位置づける。
この名称が示すのは、単なる軍事戦略ではない。
それは、日本が掲げる「堅牢平和主義(Robust Pacifism)」という理念と、それを現実の国家運用として成立させるための制度・体制の総体である。
本ドクトリンの中核となるキーワードは、「覚悟」と「即応」である。
ここでいう「覚悟」とは、平和を願う意思表明にとどまらず、暴力が発生し得る現実を正面から引き受けたうえで、その拡大と暴走に制度によって対抗する決意を指す。また「即応」とは、恣意的な先制行動や過剰反応を意味するものではなく、判断遅延や統制不全によって事態が悪化することを防ぐための、統治上の即応性を意味している。
特筆すべきは、本ドクトリンが、日本の「非核三原則」の理念を単に継承するのではなく、それを現代の安全保障環境に適合させるかたちで再構築している点である。すなわち、本ドクトリンは、核兵器を保有・使用することなく、通常兵器による限定的かつ比例的な反撃能力を制度として整備し、相手国に対して「攻撃すれば確実に不利益を被る」という予測可能な抑止を与える構造を目指す。
この抑止は、核抑止のような無制限の恐怖に依拠するものではない。むしろ、防衛行動の目的・範囲・手続き・停止条件を事前に制度化することで、制御可能性と持続性を備えた抑止構造を構築しようとするものである。言い換えれば、本ドクトリンが志向するのは、「何をするかわからない恐怖」による抑止ではなく、「何が起こるかが分かっている不利益」による抑止である。その予測可能性こそが、国際社会における信頼性と正統性の基盤となる。
そのため、本構想では、防衛行動の発動条件や運用原則を曖昧な解釈に委ねることを極力排し、制度として明示することを重視している。即時即応性とは、無制限な裁量を与えることではなく、裁量の範囲をあらかじめ狭めることで、危機時の暴走確率を下げる統治技術にほかならない。
さらに、本ドクトリンは、国際協定や国際機関との連携を前提とし、防衛態勢や運用方針について可能な限り事前通知・情報共有を行うことで、透明性を高める設計となっている。この透明性の確保こそが、国家による武力行使を正当化する唯一の道であり、平和宣誓国としての信頼を国際社会において担保する条件である。
以上のように、「堅牢平和主義に基づく国家防衛ドクトリン」とは、軍事力を否定する思想ではない。
それは、軍事力を必要とする現実を引き受けたうえで、その使用目的・手続き・停止条件を憲法および制度によって固定し、有事における判断の暴走確率を低減させることで、日本が平和国家としての進路を維持するための国家戦略なのである。




