2話
「誰かいるかー! 大丈夫かー!」
声を張り上げながら茂みを掻き分け、悠斗は必死に走った。息が切れ、心臓が激しく脈打つ。
どれくらい走っただろうか、不意に視界が開け、目の前に緩やかに流れる川と、そこに架かる簡素な木製の橋が現れた。街道はこの川にぶつかり、橋を渡って続いているようだ。
そして、悲鳴はその橋を渡ったすぐ先から聞こえてくる。
「いたっ!」
橋を駆け抜け、その先に広がる光景に悠斗は息をのんだ。立派な幌付きの馬車が一台、道の脇に止まっている。馬はひどく怯えた様子で嘶き、手綱を握る御者らしき男性は肩から血を流してぐったりとしている。
馬車のそばには、同じように武装した男性が二人、地面に倒れ伏し、苦痛に顔を歪めていた。
明らかに重傷だ。
そして、馬車の陰で、まだ10代半ばほどの、上等そうな服を着た少女が恐怖に顔を引きつらせ、身を固くしている。彼女を守るように立ちはだかっているのは、残った最後の一人であろう、剣を構えた護衛の男性。彼は必死の形相で、二つの異形の影と対峙していた。
「……サハギン……だと!?」
悠斗は思わず声を漏らした。
緑がかった鱗に覆われた体、カエルのようなぬめりとした肌、鋭い爪と牙を持つ半魚人。それは、悠斗がファンタジー漫画で知識として知ってはいたが、決して序盤に出てくるような雑魚モンスターではなかったはずだ。
(ゴブリンとかスライムじゃないのかよ……! いきなりハードモードすぎるだろ、この世界!)
内心で絶望が渦巻く。
相手は明らかに手練れの護衛を複数人戦闘不能に追い込むほどの強敵だ。自分にあるのはただの鉄の短剣のみ。しかも戦闘経験など皆無。今すぐ踵を返して逃げ出すのが賢明だろう。
しかし、視界の端で怯える少女の姿と、必死に彼女を守ろうとする護衛の姿が目に焼き付く。
ここで逃げたら、彼らは間違いなく殺される。精霊神の言葉、介護士としての矜持、そしてなにより、目の前の命を見捨てることへの抵抗感が、悠斗の足をその場に縫い付けた。
(やるしかない……のか? 俺に、何ができる?)
護衛の男性は、二体のサハギンの攻撃を必死に捌いているが、明らかに劣勢だった。
じりじりと後退し、馬車に追い詰められつつある。このままでは時間の問題だ。
悠斗は息を殺し、そっと茂みに身を隠しながら回り込むように移動した。
幸い、サハギンたちは目の前の護衛に集中しており、悠斗の存在には気づいていないようだ。
(不意打ち……やるなら、それしかない!)
恐怖で震える手を叱咤し、腰の短剣を引き抜く。
冷たい鉄の感触が、わずかに覚悟をくれた。狙うは、護衛から見て奥、悠斗に近い位置にいるサハギン。
(頼む……! 一発で……!)
悠斗は地面を蹴り、茂みから飛び出した。サハギンのぬめりとした背中が目の前にある。狙いは首筋。渾身の力を込め、短剣を突き立てた!
「グギャァッ!?」
緑色の鱗を貫き、肉を裂く鈍い感触。
サハギンは奇妙な悲鳴を上げ、振り向きざまに悠斗を薙ぎ払おうとしたが、体勢を崩して地面に倒れ込んだ。完全に仕留めたわけではないが、致命傷に近い一撃を与えられたはずだ。
突然の乱入者と仲間の悲鳴に、もう一体のサハギンが一瞬、動きを止めた。その隙を、歴戦の護衛は見逃さなかった。
「うおおおおっ!」
気合一閃、護衛の男性の剣が閃く。
サハギンの胴を深々と切り裂き、緑色の体液を撒き散らしながら、二体目のサハギンもどうと地面に倒れた。
「……ぜぇ……はぁ……」
戦闘は、ほんの数秒で終わった。あたりには、倒れたサハギンの生臭い匂いと、荒い息遣いだけが残る。悠斗は、短剣を握りしめたままその場にへたり込みそうになるのを必死でこらえた。アドレナリンが切れ、全身から力が抜けていくのを感じる。
「……た、助かった……のか?」
護衛の男性が、警戒を解かずに悠斗を見据えながら呟いた。