表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/169

1話


「うっ……!」


次に意識が浮上した時、悠斗はひんやりとした土の感触と、濃密な植物の匂いに包まれていた。

瞼を開けると、視界いっぱいに広がるのは鬱蒼とした木々の緑。見慣れた公園の風景はどこにもなく、自分が全く知らない場所にいることを悟った。


「……マジで、来ちまったのか、異世界」

呆然と呟き、ゆっくりと体を起こす。

その瞬間、驚くべき変化に気づいた。あれほど長年苦しめられてきた腰の痛みが、完全に消え去っている。夜勤明けの疲労感も嘘のようだ。体が軽い。

まるで十代の頃に戻ったかのような、痛みもだるさもない爽快感に、思わず「おお……」と声が漏れた。


「すげぇ……本当に腰痛が治ってる……!」

精霊神の言葉は本当だった。

これだけでも、異世界に来た価値があったかもしれない、と一瞬思う。

いや、給料ゼロなんだった。ぬか喜びは早い。



気を取り直して、自分の身なりを確認する。

着ていたはずのTシャツとジーンズは、ざらりとした肌触りの麻のチュニックと、動きやすそうな革製のズボンに変わっていた。足元は頑丈そうな革のブーツ。そして、肩にはシンプルなマントがかけられている。

腰には、革帯で小さなポーチと、小ぶりの短剣が吊るされていた。背中には、程よい重さの背嚢。まさにファンタジー漫画の冒険者のような出で立ちだ。

「さて、持ち物チェックと……鑑定、だったか」

悠斗は意識を集中し、精霊神から与えられたギフト【識別の眼】を使ってみる。まずは、腰の短剣に意識を向けた。

——【鉄製の短剣】:一般的な鉄で作られた短剣。護身用、あるいは簡単な作業に用いる。特筆すべき点はない。

「まあ、初期装備だしな」

次に、腰のポーチ。

——【革製のポーチ】:丈夫な革で作られた小さな袋。中に少量の貨幣が入っている。

——【銀貨】:グランディア王国で流通している銀貨。1枚で銅貨100枚分の価値がある。現在、5枚所持。

——【銅貨】:グランディア王国で最も一般的に流通している銅貨。現在、87枚所持。

「銀貨5枚と銅貨87枚……これが当面の生活費か。多いのか少ないのか……」

背嚢にも鑑定を使う。

——【革製の背嚢】:一般的な冒険者が使用する革製のリュックサック。

——【硬いパン】:保存性を高めたパン。そのままでは硬いが、水やスープに浸せば食べやすくなる。3つ所持。

——【干し肉】:塩漬けにして乾燥させた肉。保存食として重宝される。5枚所持。

——【革製の水筒】:水を入れるための革袋。現在、きれいな水が満たされている。

「食料と水は数日分ってところか。早めに補給手段を見つけないとまずいな」

最後に、もう一つのギフト【無限の収納】、インベントリを確認する。意識を向けると、頭の中に別の空間が広がる感覚があった。そこには、背嚢の中身とは別にいくつかのアイテムが見える。

——【ヒーリングハーブの包帯】:ヒーリングハーブを織り込んだ布。軽い傷の治癒を早める効果がある。5つ所持。

——【清潔なガーゼ】:傷口を保護するための滅菌された布。10枚所持。

——【高濃度蒸留酒(消毒用)】:非常に度数の高い蒸留酒。傷口の消毒に効果を発揮する。飲用には適さない。小瓶1つ。

——【止血草】:傷口に塗布することで出血を抑える効果のある薬草。3つ所持。

「応急手当セット……これはありがたい。特に消毒用の酒と止血草は重要そうだ」

介護士としての知識が、これらのアイテムの価値を即座に理解させた。

持ち物と状況を確認し終え、悠斗は改めて周囲を見渡した。どこまでも続くかのような深い森。木々は高く、見たこともない植物が生い茂っている。太陽の位置から方角を推測しようとするが、枝葉が密集していてよく分からない。


「とりあえず……人里を探さないと始まらないよな」

道なき道を進むのは危険だ。だが、ここに留まっていても状況は変わらない。【識別の眼】で周囲の植物を鑑定し、毒がありそうなものや、明らかに危険そうな場所を避けながら、比較的歩きやすそうな方向へと進み始めた。

ブーツが落ち葉を踏む音だけが響く、静かな森。時折、鳥や小動物らしき鳴き声が聞こえるが、姿は見えない。不安がないわけではないが、体の軽さと痛みのなさ、そして未知の世界へのわずかな好奇心が、悠斗の足を前へと進ませた。



どれくらい歩いただろうか。一時間ほど森の中を彷徨った後、不意に木々の密度が薄くなり、前方が明るく開けていることに気づいた。

「お……?」

期待を込めて足早に進むと、そこには人が踏み固めたような道が続いていた。

わだちの跡もある。間違いなく、街道だ。

「助かった……!」

森の中で完全に迷子になる前に道を見つけられたことに、悠斗は心底安堵した。

どちらに進むべきか迷ったが、ひとまず轍がより深く見える方向へ歩き出すことにした。


街道沿いは森の中より視界が開けており、少し気分が楽になる。早く町か村にたどり着きたい。情報を集め、今後の身の振り方を考えなければならない。なにしろ、無給なのだから。


そんなことを考えながら歩いていると、不意に、風に乗って甲高い声が聞こえてきた。

「——いやぁぁぁっ!」

それは、明らかに恐怖に満ちた、若い女性の悲鳴だった。

「!?」

悠斗は足を止め、声がした方向——街道の少し先、森の方へ視線を向けた。心臓がドクンと跳ねる。

(……悲鳴? 誰か襲われてるのか?)

助けに行くべきか? しかし、相手が何者か分からない。魔物かもしれないし、屈強な盗賊かもしれない。自分にあるのは、ただの鉄の短剣と、応急手当の知識だけだ。下手に首を突っ込めば、自分がやられる可能性の方が高い。

(……やめとけ。俺はただの元介護士だ。戦いなんて……)

脳裏に、合理的な判断が囁く。だが同時に、夜勤明けの公園で精霊神に言われた言葉が蘇った。


『君のその優しい心で、困ってる人を助けたり、傷ついた人を癒やしたりしてほしいかな』

そして、介護士として働いていた日々。助けを求める利用者の姿。見て見ぬふりは、できなかった。

「……くそっ!」

悠斗は短く悪態をつくと、腰の短剣の柄を強く握りしめた。迷いはあった。恐怖もあった。

それでも、足は自然と悲鳴が聞こえた方向へと走り出していた。

「誰かいるかー! 大丈夫かー!」

状況は分からない。無謀かもしれない。

それでも、悠斗は声を張り上げながら、茂みを掻き分けて突き進んだ。彼の異世界での最初の「仕事」は、給料ゼロどころか、命の危険すら伴うものになろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ