98話
翌日、陽が暮れて間もない時間帯に、ユートとユージーンは再び例の酒場へと向かった。
まだ宵口だというのに、昨夜よりも店内の空気は張り詰めているように感じる。
扉を開けて中に足を踏み入れた途端、いくつかの場所から殺気立った視線が二人に向けられた。 どうやら昨夜の尾行者の件は、店の者や常連客たちに知られており、警戒しているようだった。
ユージーンがすぐに反応した。ユートを守るように僅かに前に出て、その殺気に呼応するかのように、瞳に宿る光で視線を向けた。
獣人としての本能が、彼を戦闘態勢へと駆り立てる。
だが、ユートはその前に動いた。
静かに、向けられている殺気の方向へ手を向ける。そして、僅かに魔力を流し込み、指先に小さな炎をチラつかせて見せた。警告。
無駄なことをすればどうなるか、無言で伝えるための威嚇だ。
その瞬間、「やめろっ!」と、マスターが怒鳴った。
火は酒場にとって一番警戒すべきものだ。特に裏通りの木造りの店など、あっという間に燃え広がってしまう。
ユートはすぐに炎を消し、マスターに向かって軽く頭を下げた。
「すみません、少し驚かせようと思いまして。ご迷惑をおかけしました」
ユートの対応に、店の空気は多少和らいだが、依然として警戒の視線はユートとユージーンに向けられたままだった。
ユートたちは気にすることなくカウンターに座る。酒を二つ頼み、グラスが置かれると、ユートはユージーンと軽くグラスを合わせた。
カチン、という音が、店内の張り詰めた空気を微かに緩める。
二人が飲み始めた頃、一人の店員が近づいてきた。
この場末の酒場には似つかわしくないほど整った顔立ちで、どこか可愛らしい、愛嬌のある見た目をしていた。
しっとりとした黒髪、白い肌、華奢な体つき。しかし、その瞳の奥には、酒場の客たちの誰とも違う、鋭い光が宿っている。
店員は丁寧な言葉遣いでユートたちに話しかけてきた。
今日の店の賑わいについて、最近の気候についてなど、他愛のない世間話だ。
しかし、ユートはその会話の中に、何か探りを入れているような気配を感じ取っていた。
ユートも店員の会話に自然と合わせながら、言葉の端々から情報を読み取ろうとした。だが、相手も手練れのようだ。
こちらの情報は探ろうとしているが、自身の情報は一切明かさない。ただ、その洗練された態度と、場末の酒場での店員らしからぬ立ち居振る舞いは、この店員が普通の人間ではないことを物語っていた。
暫く他愛のない会話が続いた後、ユートはグラスを置いた。そろそろこの場を離れる頃合いだ。
「ありがとう。そろそろ我々は帰ることにするよ。今日は助かった」
ユートは立ち上がり、ユージーンもそれに倣う。
勘定を済ませる際、ユートは店員に、皆に聞こえないように、さらに小さな声で耳打ちした。
「私には近々、別の仕事が入っていてね。しばらくこの街を離れることになる。用事があるなら、それまでに尋ねてきてほしい」
ユートは店員の目を見ながら続けた。
「ハーネット商会の調査部の屋敷…応接室で待っている。都合が良い時に来てくれて構わない」
ユートは店員に意味深なメッセージを伝え、店を後にした。外に出ると、夜の冷たい空気が肌を撫でる。
酒場から少し離れ、街の裏通りを歩いていると、ユージーンが静かに尋ねた。
「ユート様…先ほどのあの店員は、やはり…?」
ユートはユージーンの言葉に答えず、ただ静かに指を一本立て、口元に持ってきた。シー、という無言のジェスチャー。ここも街中だ。
どこで誰が聞いているか分からない。
情報を扱うということは、常にそうした用心が必要だ。
表通りまで出て、ようやく人通りの多い、街灯の明るい場所まで来てから、ユートは口を開いた。
「さっきの店の店員が、気になったのか?」
ユートが尋ねると、ユージーンは頷いた。
「はい。どうにも…違和感がありました。街の人間でも、酒場の店員でもない、気配のようなものが…それに、あの顔立ちと雰囲気…性別も…」
ユージーンは少し迷ってから続けた。
「多分、男性だったと思うのですが…匂いが、女性では無かったですが。香水を使っていたようでしたが、それでも獣人の私には…違和感があり…」
ユートはユージーンの観察力に感心した。
「さすがだな、ユージーン。俺も同じことを思っていたよ。彼は、おそらく例の情報屋…昨日、あの男が紹介してくれた一団の、誰かだろう」
ユートは続けた。
「まさか、本当に会いに来るとは思わなかったが…そして、まさか男性だったとはな」
外見は本当に女性のように見える整った顔立ちだった。ユージーンの嗅覚が正しかったとすると、外見と性別のギャップも彼らの正体を隠すための一つなのかもしれない。
「こちらが金を持っていること、ある程度地位があること、そして探りを入れていることに気づいて…直接見に来たんだろう。そして、おそらくこちらの力量も少しは探っていたんじゃないかな」
ユートは、先ほどの店での会話や、ユージーンの威嚇と自身の牽制行動、そして最後に自分が耳打ちしたメッセージ全てが、彼らにこちらの意図と力量を伝えるための駆け引きだったことを説明した。
ユージーンはユートの言葉に感心したような顔になった。
「これで、あの店員が、こちらとの接触に興味を持ってくれるといいんだけどな」
ユートは今回の試みが成功することを願った。
二人はハーネット商会の屋敷へと帰った。屋敷に入ると、ユートはユージーンにセーラを呼んでくるように頼んだ。
「ユージーン、済まないが、セーラを僕の執務室に呼んできてもらえるか?」
ユージーンは頷き、セーラの部屋へ向かった。
しばらくして、ユージーンと共にセーラが執務室にやってきた。夜遅くにも関わらず呼び出したことをセーラに詫びる。
「セーラ、こんな夜遅くに済まない。少し話したいことがあってね。悪いんだが、お茶を用意してもらえるか?」
「はい、ユート様。承知いたしました」
セーラはいつも通り穏やかに応じたが、ユートの普段と違う真剣な表情と、夜遅くに応接室に移動するらしい状況から、何か特別なことがあることを感じ取ったようだ。
「用意ができたら、配膳はユージーンに頼むから。セーラはそのまま部屋に戻って休んでいてくれて構わない。大丈夫だから」
ユートはセーラに、お茶を用意したら部屋には来ないように指示した。
セーラが不用意にこれから会う人物と接触するのを避けるためだ。
セーラは少しだけ不思議そうな顔をしたが、ユートの指示に静かに従い、キッチンへ向かった。ユージーンとセーラを見送った後、執務室から応接室へと移動した。
応接室の灯りをつけ、静かに椅子に腰掛け、来るべき客を待つ。
ユージーンがお茶を持って部屋に戻ってくる。
ユートとユージーンだけになった応接室に、再び静寂が戻った。緊張した空気の中、二人は静かに待ち続けた。
どれほどの時間が経っただろうか。
時計の針の音だけが、妙に大きく響いているように感じられる。
そして、張り詰めた静寂を破って、応接室の扉が静かに開いた。
ゆっくりと、誰かが部屋の中に入って来る気配がした。




