10話
翌朝、悠斗は心地よい微睡みの中で、控えめなノックの音を聞いた。
「ユート様、朝でございます」
セーラの穏やかな声だった。
悠斗が身を起こすと、セーラは静かに入室し、窓のカーテンを開けた。朝日が部屋に差し込み、新しい一日が始まったことを告げる。
部屋の隅にある小さなテーブルの上には、見慣れない形の時計が置かれていた。金属製の盤面には、悠斗が知っているアラビア数字が刻まれ、二本の針が7時30分を指している。
(時計……あるんだ。しかも、時間の読み方も同じ……!)
異世界に来て初めて感じる、ささやかな「共通点」に、悠斗は妙な安堵感を覚えた。最低限の時間感覚は共有できるらしい。
「旦那様がお待ちです。その前に、簡単な朝食をご用意しておりますが、いかがなさいますか?」
「あ、はい。いただきます」
セーラに案内された隣の小さな部屋には、焼きたてのパンと温かいスープ、そして果物という軽い朝食が用意されていた。昨夜の豪華な食事とは違うが、シンプルで美味しく、空腹を満たすには十分だった。
朝食を済ませると、セーラは悠斗を昨夜と同じ応接室へと案内した。
扉の前で深呼吸を一つして中へ入ると、ハーネット商会の当主が、既に応接セットに腰掛けて悠斗を待っていた。
昨夜とは違い、彼の表情は落ち着いており、精悍な顔つきが際立っている。リリアの姿はなかった。
「おはよう、ユート殿。昨夜はよく眠れたかな?」
「はい、おかげさまで」
「改めて、自己紹介させてもらおう。私はダリウス・ハーネット。この商会の主で、リリアの父だ」
ダリウスは立ち上がり、悠斗に右手を差し出した。
「昨日は本当にありがとう。君がいなければ、今頃どうなっていたことか……。言葉では言い尽くせないほど感謝している」
悠斗は差し出された手を握手で応えた。ダリウスの手は大きく、力強かった。
席に着くと、ダリウスは穏やかながらも探るような視線で悠斗を見た。
「差し支えなければ、いくつか聞かせてもらってもいいだろうか? 君は一体、何処から来たのかね? そして、何を目的に旅をしているのかな? 君のあの見事な手当ての技術も、どこで身につけたものなのか……正直、興味は尽きない」
予想していた質問だ。悠斗は事前に考えていた答えを口にした。
「俺はユート。……かなり遠い、東の方の国の出身です。訳あって故郷を出て、今はあてのない旅をしている最中です。昨日は森で道に迷い、偶然あの街道に出たところで……。手当ての技術は、故郷で必要に迫られて覚えたもので、特別なものではありません」
できるだけ曖昧に、しかし不自然にならないように答える。
ダリウスは悠斗の言葉を黙って聞いていたが、特に追及する様子はなかった。
「そうか、遠い東の国か……。苦労も多かっただろう」
「あの、俺からもお聞きしたいことが……」
悠斗は切り出した。
「昨夜は泊めていただき、本当にありがとうございました。実は、この辺りの土地勘が全くなくて……。もしよろしければ、このアルテナの街や、近隣の状況について少し教えていただけませんか? 魔物の危険度なども……」
「ふむ、なるほど。君にとっては未知の土地だろうからな。いいだろう」
ダリウスは頷き、アルテナが交易で栄える街であること、周辺には農村が点在していること、街道沿いでもゴブリンや、稀に今回のようなサハギンなどが出没するため、護衛なしの旅は危険であることなどを丁寧に説明してくれた。悠斗は真剣に耳を傾け、情報を頭に叩き込んだ。
話が一段落したところで、ダリウスは本題に入った。
「さて、ユート殿。昨日の謝礼についてだが……」
彼はテーブルの上に、革袋を二つ置いた。
「まずは、君の勇気と、我が娘と従業員たちの命を救ってくれたことへの感謝の印だ。そして、君が治療に使ったであろう物資の費用も含めて……金貨2枚と、銀貨50枚。これで受け取ってはくれまいか」
「き、金貨2枚……銀貨50枚……!?」
悠斗は息をのんだ。金貨1枚が10万円相当なら、金貨2枚で20万円。銀貨1枚が1000円相当なら、銀貨50枚で5万円。合計25万円。
昨日ライオスたちが提示した額とは比べ物にならない大金だ。
「君のその手当ての技術に関しては、我々も未知数な部分が多い。正直、その価値をどう評価すべきか決めかねている。だが、命の恩人であることに変わりはない。これは、我々の精一杯の感謝の気持ちだ」
ダリウスは真摯な目で悠斗を見た。
悠斗は一瞬迷ったが、ここで正直に話すことにした。
「ダリウス様、そのお申し出、大変ありがたく思います。実は……昨夜、ライオスさんたちが部屋に来てくださって、治療に使った物品代として銀貨3枚と銅貨9枚、鉄貨5枚を提示されたんです。俺がこの辺りの物価に疎いと伝えたので、一旦保留という形になっていましたが……」
ダリウスは少し驚いた顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。
「そうか、ライオスたちが……。彼らなりに、君に礼を尽くそうとしたのだろう。分かった。では、彼らの気持ちも汲んで、この提示した金額で、今回の件の精算は終わりということにしよう。君は彼らの申し出を気にする必要はない」
「ありがとうございます。では、ありがたく頂戴いたします」
悠斗は頭を下げ、二つの革袋を受け取った。ずしりとした重みが、異世界での確かな「対価」を感じさせた。
「さて、今後のことだが」ダリウスは続けた。「君が望むなら、この屋敷に気の済むまで滞在してくれて構わない。もちろん、無理強いはしないがね。何か必要な物があれば、できる限り手配しよう。遠慮なく言ってくれ」
「本当によろしいのですか……?」
予想以上の厚遇に、悠斗は戸惑いを隠せない。
「当然だ。君は我が家の恩人なのだから」
ダリウスは穏やかに微笑んだ。
感謝の言葉を述べ、悠斗が部屋を出ようとした時、ふと思い出してダリウスに尋ねた。
「あの、ダリウス様。一つお願いがあるのですが……ライオスさんから少し伺ったのですが、この屋敷には魔法を使える方がいるとか……もしご迷惑でなければ、少しお話を伺うことはできませんでしょうか?」
ダリウスは少し意外そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「ああ、そのことか。構わんよ。では、後でセーラに案内させよう」
悠斗は改めて礼を述べ、応接室を後にした。大きな対価と、当面の安全な居場所、そして魔法使いとの接触の機会。異世界での生活が、少しずつ動き出そうとしていた。




