85話
昨夜報告書の作成に没頭しすぎたせいか、朝少し遅めに目が覚めた。
体を起こすと、僅かに腰が軋むような感覚があるが。介護士時代では癖のようなものだったが、異世界に来て健康体になってからほとんど感じたことのない感覚だ。きっと、慣れない報告書作成というデスクワークによるものだろう。
「…これは、明後日から体を動かした方が良いな」
ユートは小さく呟き、簡単な身支度を整え、自分の執務室へ向かった。昨夜の報告書を仕上げるために。
執務室で少し作業を進め、空腹を感じて食堂に出る。時間はすでに朝というよりブランチの時間帯に近い。食堂では、すでに朝食の提供は終わっており、セーラが手伝いのメイドと共に片付けをしていた。
ユートの姿に気づいたセーラが、すぐに近づいてきた。
「ユート様。遅かったですね。やはり報告書に追われていましたか?」
ユートは苦笑いした。
「ああ、少し…昨夜、ついつい書き始めてしまってな」
セーラは少し呆れたような、しかし心配するような目でユートを見つめた。
「ですから、あまり夜更かしは良くないとお伝えしたでしょう?せっかく体調が良くなったのですから、崩してしまっては意味がありません」
ユートはセーラの心配する言葉に、たじたじとなって頷いた。セーラのこういう部分は、まるで世話を焼いてくれる元職場の同僚や家族のようで、つい弱みを見せてしまう。
「すみません、ついつい…」
セーラはそれ以上咎めることなく、メイドに指示して、ユートのために朝食替わりの軽い食事を用意させた。焼きたてのパンと新鮮な果物、それに温かいスープ。簡素ながらも栄養バランスが考えられた食事だった。
「これを召し上がってください。ちゃんと休んで、明後日からの任務に備えないと」
セーラは食事をユートの前に置きながら言った。
ユートは「ありがとう、いただきます」と言い、食事を始めた。温かいスープが疲れた体に染み渡るようだ。
セーラはユートの隣に座り、優しく尋ねた。
「今日のユート様の予定は?報告書の続きですか?」
「ああ、この後、報告書の残りを仕上げようと思っています。それが終われば、とりあえず今日の仕事は終わりかな」
ユートは答えた。
セーラはその言葉に、パッと顔を明るくした。
「では…それが終わりましたら、もしよろしければ、一緒に街に出かけませんか?お散歩がてら、少し街を見て回りませんか?」
セーラの誘いに、ユートは少し驚いた。
任務で皆と一緒に出かけることは多いが、セーラと二人だけでプライベートな時間を過ごすことはほとんどない。だが、疲れていた気持ちが、その誘いに乗ってみようかという気分になった。
「良いね。報告書ができたら、セーラを誘って街に出ようと思っていたところなんだ」
ユートは笑顔で答えた。それは半分冗談だったが、満更でもなかった。
セーラはユートの言葉に、嬉しそうに微笑んだ。
「本当ですか!では、楽しみですわ。ユート様が報告書を書き上げられるまでに、私も片付けを済ませておきますね」
そう言うと、セーラは足取り軽く片付けの作業に戻っていった。その姿からは、先ほどまでの心配する部下という顔から、誘いを快く受けてくれたことへの喜びが伝わってくる。
ユートも、セーラの様子を見て、自然と心が軽くなった。報告書を早く仕上げて、セーラと二人で街に出かけよう。軽い食事を済ませると、ユートは改めて気合を入れ直し、報告書の残りを急いで片付けるため、執務室へと戻った。
執務室に戻ったユートは、集中して報告書の作成を続けた。今回のポートベストルとミストヴェイルへの連続任務は、特別調査部として初の本格的な活動であり、成果と課題をしっかりとまとめる必要があった。途中苦労した部分もあったが、なんとか報告書を完成させた。
「よし、できた!」
達成感とともに、ユートは完成した報告書を積み重ね、机の上の時計を見た。時刻は昼下がり、午後2時を過ぎている。約束通り、セーラを誘って街に出かけるにはちょうど良い時間だ。
提出する報告書を手に取り、ユートは執務室を出た。ダリウス会長に直接提出することもできるが、先にセーラと落ち合う方が先だ。ユートは一階のリビング兼広間へと向かった。
広間に降りると、セーラが使用人用の通路から出てくるところだった。彼女は今日の昼間の片付けを終え、身支度を整えているのだろうか。彼女の傍らには、偶然通りかかったのか、エルザの姿もあった。二人は何か楽しげに話しているようで、セーラはエルザの言葉に小さく笑っている。
ユートは二人の姿を見て、近づいていった。
「セーラ。エルザ」
二人はユートに気づき、顔を向けた。
「ユート様。もう報告書は済みましたか?」
セーラが尋ねた。
「ああ、書き終えたよ」
ユートは手に持った報告書を見せた。
「お疲れ様でした。無事に完成されたのですね」
セーラは安心した様子で言った。
「リリア嬢とリナ嬢の楽しかった思い出が、書類になったというわけですな」
エルザが表情を変えずに言う。彼女にとって報告書は無味乾燥なものだろうが、ユートの報告書は、ある意味でリリアたちの楽しかった旅の記録でもある。
ユートはセーラに改めて尋ねた。
「報告書はこれから会長に提出するけど…街に出かけるのは、このまま大丈夫かな?」
セーラはすぐに顔を輝かせた。
「はい、大丈夫ですわ! 私も支度はできています」
「分かりました。では、エルザ。私たちはこれから街に出かけるが、何か用事でもあったら商会に連絡を入れてくれれば分かるようにしておく。留守番は任せた」
ユートはエルザに軽く声をかけた。
「承知いたしました。お二方とも、気を付けて行ってらっしゃい」
エルザは軽く頭を下げ、彼らを見送る体勢をとった。
ユートはエルザに別れを告げ、セーラと共にダリウス会長の執務室へと向かった。報告書の提出は最後にして、まずはセーラと二人で街に出かけたい気持ちの方が強くなっていた。




