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オープニング


「ああ……腰、いてぇ……」


コンクリートジャングルに囲まれた、ささやかな緑のオアシス。

平日の昼前、公園のベンチに深く腰掛けた佐藤悠斗32歳は、絞り出すような呻き声を漏らした。


夜勤明け特有の、全身を覆う鉛のような疲労感。それに加えて、長年の職業病である腰痛が、今日も容赦なく彼の身体を苛んでいる。

湿布を貼った背中がじんわりと熱を持っているが、気休めにしかならない。


「はぁ……もう、マジで限界かもな……」


手には、読み古された週刊漫画雑誌。表紙には、剣を構えた勇者と、神秘的なローブを纏った魔法使いが描かれている。最近のお気に入りのファンタジー漫画だ。異世界に転生した主人公が、チートスキルを駆使して無双する、王道といえば王道のストーリー。


介護士という仕事は、決して嫌いではない。誰かの役に立っているという実感、利用者からの「ありがとう」という言葉。それらは、悠斗にとって何物にも代えがたい喜びだ。


しかし、現実は厳しい。


不規則な勤務、慢性的な人手不足、そして何より、心身にかかる大きな負担。特に、利用者の移乗介助などで酷使してきた腰は、もう限界に近かった。


「回復魔法……いや、せめて自動回復スキルでもあればなぁ……」


漫画の世界に登場する、都合の良い魔法やスキルに想いを馳せる。疲労も怪我も、ポーション一本、あるいは魔法一発で全快。

そんな夢のような力が、もし自分にあったなら。腰痛に悩まされることも、夜勤明けのゾンビのような状態で帰路につくこともなくなるだろう。

もっと楽に、もっと多くの人を助けられるかもしれない。


「……なんて、あるわけないか」


自嘲気味に呟き、雑誌のページを捲る。派手なエフェクトと共に敵を薙ぎ払う主人公。仲間を癒やすヒロイン。そんな非現実的な光景が、疲れた心には妙に沁みた。太陽がじりじりと肌を焼き、寝不足の頭がぼんやりとしてくる。

瞼が自然と重くなり、周囲の音が次第に遠のいていく。公園の喧騒、車の走行音、木々の葉擦れの音……それらが混ざり合い、心地よいような、それでいてどこか不安を掻き立てるような子守唄のように聞こえた。


(ああ、まずい……このまま寝ちまったら……熱中症……いや、もう、どうでも……いいか……)


疲労は限界を超え、思考が霧散していく。まるで深い水底に沈んでいくような感覚。意識が途切れる、その刹那。


『——ねぇねぇ、ちょっといい? そこの君!』


脳内に、直接響くような声がした。やけに明るく、妙に馴れ馴れしい、女性の声だ。


(……ん? 誰だ……? 幻聴……か?)


疲労が見せる幻覚か、あるいは夢か。

悠斗は朦朧とする意識の中で、声の主を探ろうとした。だが、目を開けることすら億劫だった。


『幻聴じゃないって! ちょっと、今ガチでヤバい状況でしょ、君?』


声は続いた。その口調は、まるで旧知の友人に話しかけるかのようだ。


「……ヤバい……状況……?」


かろうじて、言葉を紡ぐ。自分の声が、やけに掠れて、現実味がないように感じられた。


『そそ! はっきり言っちゃうと、死にかけてる! 魂、こっちに片足突っ込んじゃってる感じ?』


「……死に……かけ……?」


言われてみれば、奇妙な感覚があった。あれほど酷かった腰の痛みも、全身を苛んでいた疲労感も、今はほとんど感じない。

まるで自分の身体から意識だけが抜け出して、ふわふわと漂っているかのようだ。これが、死ぬということなのだろうか。


『ま、そういうわけなんだけど、グッドタイミング! 実はさ、私、君をスカウトしに来たんだよね!』


「……スカウト……?」


ますます訳が分からない。死にかけている人間に、何のスカウトだというのか。

新手の詐欺か、あるいは本当にただの夢か。


『あ、自己紹介がまだだったね! 私、精霊神! グランディアっていう世界の守護者をやってまーす。よろしく!』


精霊神? グランディア? まるで、自分が読み耽っていたファンタジー漫画に出てくるような単語が飛び出した。


『でね、私の世界、今ちょっと……いや、かなりピンチでさー。戦争はずっと続いてるし、最近じゃなんか異形の影?みたいなヤバいのも湧いてきちゃって。おまけに、そういうのを癒やす力も、まだまだ発展途上なんだよねぇ』


深刻そうな内容を、あっけらかんとした口調で語る精霊神。そのギャップに、悠斗はますます混乱した。


『そこで君だよ、君! なんかさっきから、すっごいオーラ出てるんだよね。"誰かを助けたい"とか"癒やしたい"とか、そういう温かい感じのやつ! そういうピュアな心、今のグランディアにちょーだい! って思ったわけ!』


「俺の……心……?」


『そ! 君のその優しいエネルギー、ウチの世界で活かしてみない? つまり、異世界転生! どうよ、興味ある?』


異世界転生。漫画の中だけの出来事だと思っていた言葉が、今、現実(?)のものとして目の前に提示されている。

死にかけているという状況、そして、心のどこかで燻っていた異世界への憧れ。悠斗の心臓が、ドクンと大きく脈打った。


「……異世界……転生……。俺が、ですか……?」


『そだよー。君みたいな人材、喉から手が出るほど欲しいんだよね!』


「具体的には……何をすればいいんでしょうか? 俺、ただの介護士で、特別な力なんて何も……」


『んー、最初はまあ、無理のない範囲でいいよ。困ってる人がいたら話を聞いてあげたり、怪我してる人がいたら……あ、そうだ、応急手当くらいはできるでしょ? そういう感じで、君の優しさを分けてあげてほしいな。追々、もっと大きなこと……もお願いするかもだけど、それはまたその時にね!』


まるでバイトの面接のような軽いノリだ。だが、内容は世界の命運に関わるような壮大な話。悠斗は戸惑いながらも、さらに現実的な疑問を口にした。


「あの……非常に聞きにくいんですが……その、お給料とか、待遇面は……?」


異世界に行くとしても、生活はしなければならない。まさか、完全なボランティアというわけにはいかないだろう。介護士だって、生活のために働いているのだ。悠斗の切実な問いに、精霊神は悪びれる様子もなく、きっぱりと言い放った。


『給料? あー、ごめん、それは出せない!』


「……は?」


予想外の、しかしある意味予想通りかもしれない返答に、悠斗は呆気に取られた。


『いやー、こっちも色々大変でさー。予算とか、そういうの? 神様業界も厳しいのよ』


「いや、あの、生活費とかはどうすれば……?」


『そこは、ほら、現地でなんとか! 大丈夫、君ならきっとうまくやれるって!』


無責任な励ましの言葉。悠斗は眩暈を覚えた。これは、もしかしてとんでもないブラック案件なのではないか?


『あ、でもでも! もちろん、タダ働きさせるわけじゃないよ! スカウトの見返りとして、特別なギフトをプレゼントするから!』


精霊神は、ぱん、と手を叩くようなイメージと共に言った。


『まず一つ目! 意識の中に、なーんでも無限に収納できちゃう「無限の収納」! いわゆるインベントリってやつね! これさえあれば、荷物の心配はナッシング!』


「無限の……収納……」


漫画でよく見る便利スキルだ。確かに魅力的ではある。


『そして二つ目! 見たものの情報が、頭の中に流れ込んでくる「識別の眼」! 鑑定スキルとも言うかな? これがあれば、知らない物が多い異世界でも安心! アイテムの効果とか、植物の名前とか、色々分かっちゃう優れもの!』


「識別の眼……鑑定……」


これもまた、異世界転生モノの定番にして強力なスキルだ。情報が命の世界では、計り知れないアドバンテージになるだろう。


『どう? この二つのスペシャルギフト! これだけあれば、給料なくてもなんとかなるっしょ?』


精霊神は自信満々に言うが、悠斗としては釈然としない。


「ギフトは……確かに、すごいと思います。でも、やっぱり、お金がないと……寝る場所とか、食べる物とか……」


『あー、細かいことは気にしない! 大丈夫だって! 初期装備として、多少のお金と食料、あと簡単な武器と、応急手当セットくらいはインベントリに入れといてあげるから! ね?』


もはや、悠斗の意見を聞く気はないらしい。有無を言わせぬ勢いで、話がどんどん進んでいく。まるで、強引な上司に新しいプロジェクトを丸投げされているような感覚だ。


「ちょ、ちょっと待ってください! まだ心の準備が……それに、俺の体……」


言いかけた言葉は、しかし、最後まで紡がれることはなかった。


『はいはい、細かいことは転生してから考えよ! 大丈夫、体は向こうでちゃんと用意してあげるから! ピッチピチの健康体だよ! 腰痛ともオサラバ! やったね!』


「え? あ……」


『じゃ、そういうことで決定! 契約成立ね! 新しい世界グランディアへようこそ! 君の活躍、期待してるよ、部下くん!』


「部下!?」


最後のツッコミも虚しく、悠斗の意識は急速に薄れていく。まるで、強い力で引っ張られるような感覚。公園の風景も、精霊神の声も、すべてが遠ざかっていく。


(うわ……マジかよ……給料なしって……ブラックすぎるだろ……でも、腰痛が治る……? 異世界……鑑定……インベントリ……)


不安と、ほんの少しの期待。そして、圧倒的な状況への諦め。様々な感情が渦巻く中、悠斗の意識は完全に途切れた。優しい光に包まれるような感覚を最後に、彼の存在は公園のベンチから完全に消え去った。


佐藤悠斗、享年32歳(?)。

彼の異世界での新たな(そしておそらく過酷な)人生が、今、幕を開けようとしていた。給料ゼロという、この上なく厳しい条件と共に。

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