私の右手が私を殺そうとする
夜中、眠っていると不意に喉に苦しみを覚えた。胡乱な意識の中、これは夢なのだと思った。誰かに首を絞められる夢を見ているのだと。
が、気道が締まる感覚には夢を超えたリアリティがあり、肺が空気を欲しがって収縮している。流石にこれは夢ではない。私は何者かに襲われていると思い目を覚ました。すると、暗闇の中、私は確かに誰かに首を絞められていた。右手は何故か動かせない。私は咄嗟に左手で私を締めている何者かの手を振り解いた。
が、それでも直ぐにその何者かは私を襲おうとする。私は左手でそれを防ぎながら、なんとか立ち上がる。右手で電灯のスイッチを押したかったが、やはり右手は動かなかった。いや、そもそも右手が“ある”ような気がしない。仕方なしに私は後頭部で電灯のスイッチを押した。私を襲っている何者かの姿がこれで分かる。そう思った。
が、明るくなった部屋には誰の姿もなかったのだった。そして、その明るい光の中で、存在が消えてしまったかのようだった右手が、私の首を絞めようとしているのを私は見たのだった。
私の意思とは関係なく私の右手が勝手に動き、私を殺そうとしている。
「きゃー!」
私は思い切り悲鳴を上げた。
その日以来、夜中、寝ていると右手が勝手に動き、私を殺そうとするようになってしまった。幸い、力はあまり強くはない。お陰で殺されずに済んでいる。恐らく、これは悪霊の仕業だろう。そんな馬鹿なと私自身も思ってはいるが、それ以外に何か説明が可能なのだろうか?
そう思ってみると、まだ思い当たる節があった。実はちょっと前に私は交通事故に遭っている。自家用車が突っ込んで来て、激しく頭を打ってしまったのだ。目立った外傷はなく、後遺症もなかったので特に気にしてはいなかったが、あれももしかしたら悪霊の仕業だったのかもしれない。私を殺し切れなかった悪霊は、右手に取り憑いて、私を殺そうとしているのだ。
私はこの信じられない事態に頭を抱えていた。
誰かに相談しても、こんなオカルトめいた話を信じてくれるとは思えなかった。霊能者の類を頼ろうかとも思ったが、どれもこれもインチキ臭くて、いまいち決断し切れない。相談するだけで高額の料金を請求されてしまいそうだ。
そんなある日、私はこんな話を聞いたのだった。
「鈴谷さんっていう大学の民俗文化研究会サークルに所属している女の子が、奇妙な事件を簡単に解決しちゃうんだって」
それは友達が大学の後輩の小牧なみだという女の子から聞いた話らしかった。商売にしている訳じゃないからお金もかからないし、こういった不思議な話をその鈴谷さんという人は好む性質らしい。私はその友達に頼んで、鈴谷さんを紹介してもらった。
「――結論から言うと、あなたの症状は悪霊によるものではありません」
喫茶店。
鈴谷さんは私に向かってそう言った。
「でも、手が勝手に動くなんて、悪霊だとしか……」
事情を友達伝手に伝えてもらって数日後、詳しく内容を聞きたいと連絡が来たので私は会ってみる事にしたのだ。私が抗議をすると淡々とした口調で、
「落ち着いてください」
と、彼女は言った。そして一呼吸の間の後に続ける。
「聞きたいのですが、あなたが交通事故に遭ったのは、その症状が出る前の事で間違いないですか?」
「はい。それで私を殺し切れなかったものだから、私の右手に取り憑いて殺そうとしているのじゃないかと疑っています」
「いえ、それは恐らく違います。その事故は単なる偶然で、そしてその事故が原因となって右手が勝手に動くようになってしまったのだと思います」
「事故が原因? どうして?」
「あなたはその事故で頭を激しく打ったのですよね? その後、病院で検査をしましたか?」
「いいえ、特に後遺症もなかったので」
「後遺症がない? いいえ、違いますね。後遺症はあったのです」
そう言われて私は少し混乱した。だが、直ぐに察する。
「……まさか、私の右手が勝手に動くようになってしまったのって」
「はい。恐らく、脳に損傷を負ってしまったのだと思います。詳しくないので確証は持てませんが、運動準備野という箇所ではないかと思われます」
「運動準備野?」
「はい。そこを損傷すると、エイリアン・アーム・シンドロームという症状が現れる場合があるのだそうなんですよ」
エイリアン? なんだって?
私は首を傾げた。
「あの…… その、エイリアン・アーム・シンドロームというのは?」
「手が勝手に動くようになってしまう状態を言います。詳細は私も専門分野ではないので知りませんが、中には手が勝手にその人を殺そうとしてしまうようなケースもあるらしいのですよ」
私はそれを聞いて目を大きく見開いた。
「それって……」
「はい。あなたが体験している症状そのままですね。あなたの場合は眠りに就いた後限定で症状が起こる訳ですが。きっとだからこそ直ぐに病気だとは思わなくて、悪霊の所為だと勘違いをしてしまったのじゃないでしょうか?」
私はそれを聞くと赤面してしまった。
「お恥ずかしい。事故で頭を打っているのだから、まず疑うべきなのは悪霊よりも脳の損傷ですよね。どうして、思い付かなかったのでしょう?」
鈴谷さんは淡々と語った。
「民俗学などの社会科学系の学問を勉強していると、人間がいかに先入観によって世界を歪めて捉えてしまうのかがよく分かります。それはきっと今見えている世界を人間はなかなか疑えない性質を持っているからなのでしょう。
あなたが特別愚かな訳ではなく、誰でもそうなのですよ」
“誰でもそう”
私はその言葉に大きく頷いた。
そして、彼女に大いに感謝をした。何にせよ、早く病院に行って検査をしなくてはらない。
なんだか安心をしてしまった。
ホッと息を吐き出す。
症状がなくなった訳でないが、少なくとも悪霊の所為じゃないと分かったお陰で気が楽になった。
……もしかしたら、世界を歪め、無意味な不安の中に人を陥れてしまう先入観こそが、悪霊の正体なのかもしれない。




