四章《街》は少女から生まれる 二話
「シャガは、おれの弟は、体は女性ですが心は男性なんです」
ユリオプスは穏やかな面持ちで語り始めました。
自己紹介の折、ユリオプスはマグとハイドランジアにこう言いました。
『キッカの《マチビト》のユリオプスです。そしてこちらが、キッカを支配する《街》の《少女》のシャガ。――おれの弟です』
実は、この時ユリオプスは、密かにマグとハイドランジアを試していました。二人の率直な反応を注視していました。
マグとハイドランジアの反応はいたってシンプルでした。
『そうか。オレはカサトトの《マチビト》のマグだ。そんでこっちが、見ての通り、仮解放中の《少女》ハイドランジア。オレのねーちゃんだ。よろしくな』
《よろし、く》
シャガが男性であることに驚く様子もなく、友好の握手を求めてきたのです。
これには逆に、ユリオプスが面食らってしまいました。
『シャガのこと、事前に知らされていましたか?』
『うんにゃ、初耳だ。正直言って気になるよ。けど、ひとまずはキッカについて教えてほしい』
『はあ……それは構いませんけど』
ユリオプスは若干拍子抜けしていました。もっと、根掘り葉掘りシャガのことを聞かれるかと思っていたのです。
『ありがとう、助かる。しばらく滞在させてもらう《街》だ。不測の事態にも対応できるようにしておきたいんだ。どこにいたってオレは《マチビト》のマグだから。……シャガのことは、気が向いたら話してくれ。とーぜん、気が向かなかったら話さなくてもいいからさ』
ニカッと笑ったマグを見た瞬間、ユリオプスは決めていました。
(……一段落したらシャガのことを話してみよう。マグさんになら打ち明けられる……!)
そうして、キッカの街の説明や、《マチビト》同士の情報交換、散歩へ出ていたハイドランジアとシャガの帰還を経て、冒頭のユリオプスのセリフへつながりました。
ちなみに、ユリオプスが決心した時、ニカッと笑っていたマグは内心でこう思っていました。
(……これたぶん話してくれるヤツだな!)
おそらくは今も、可憐な少女の幼い顔の下で「しめしめ」と思っていることでしょう。マグは割合、老獪です。
《マ、グ。しめしめってして、る? マ、グ。悪がしこい》
「おねーちゃん、いい子だからお口キャンディーしててな」
「――はぷぶっ」
蓋でもするように、マグはハイドランジアの口を棒キャンディーで塞ぎました。
「……えっと?」
「何でもないさ! さあ、続きをきかせておくれ。ユリオプス」
マグはやけにハキハキとした口調で言いました。加えて、意味もなく胸の前で拳を握って、安心感を与えようとしています。
長いつき合いのロジー・リリーやフキからすれば、マグの言動は非常に胡散臭いとわかるのですが、素直なユリオプスは額面通りに受け取りました。
ユリオプスは《マチビト》としてのキャリアがまだ二十年と浅く、実年齢も三十代後半です。キャリア・実年齢ともに、八十を超えるマグ相手に太刀打ちできるはずもありません。
よって――「はい、わかりましたっ」と清々しい二つ返事で応じました。
「おれとシャガは海辺の村で育ちました。父は腕のいい漁師でした。母は体が弱く病気がちでした。ですが、まるで自分の身を削るように家族へ愛を注ぐような、愛情深い人でした」
ユリオプスの実年齢を考えれば、二親が健在していてもおかしくはありません。しかし、彼の語り口には、過ぎ去った戻れない日々への悲哀が込められていました。
「父は大しけの日、無謀にも海へ出た仲間を救い、そのまま海へと還りました。おれは父の後を継いで漁師になるつもりでしたが、母に反対されて……。断念する他ありませんでした。しかし、母だけでは、育ち盛りの子供二人を養うなんてできません。ですからおれとシャガは、母を生家に残し、父方の親戚筋を頼って街へ出ました。郵便配達の仕事をしないかと誘われたんです」
その親戚がかなりの性悪で、ユリオプスとシャガの生活は厳しいものになりました。
ユリオプスは早朝から晩までクタクタになるまで働かされ、シャガも親戚の家でいいようにこき使われてしました。
父の死後、目に見えてやつれた母に心配をかけぬよう、兄弟は辛抱強く耐え、月に一度、母に宛てて送る手紙には不自由のない生活だとしたためていました。
回顧に浸っていたユリオプスの耳に、首を占められた雌鶏のような「おごっ」という声が届き、ふと我に返って顔をあげるとそこには――
「オマエだぢ、ぐっ……ぐろうじだんだなぁぁぁあ」
ダバダバと涙と鼻水をこぼすマグの汚い顔がありました。
「マ、マグさん⁉ え? あ、あのっ、え?」
《マ、グ。悪がしこ、い。け、ど。情にあつ、い》
《あぁー、ほだされちゃうタイプなんだ?》
《う、ん》
ハイドランジアとシャガの会話を他所に、ユリオプスはわたわたとハンカチをマグに手渡していました。
「ず、ずまん~ユリオプズ~」
「ふふ。いーえ、お気になさらずですよー」
ふんわりと微笑んだユリオプスが、声のトーンを落とし、マグだけに聞こえる声で呼びかけました。
「マグさん、そのまま聞いてください」
マグはハンカチに顔を埋めたまま耳をすまします。シャガとハイドランジアは楽しそうにおしゃべりを続けていました。
「シャガは、心と体それぞれの性の尊厳を、悪意持つ無寛容な人達に傷つけられました。そして、心身ともに男性になる願いと引き換えに《街》となってしまったんです……」
マグは黙っていました。《マチビト》にとって《街》化の話は、誰よりも、何よりもまず、自分の無力さが呪わしく、許せない感情を引き起こすとわかっているからです。
ややあって、自責の念を脱したユリオプスが、ハイドランジアへ目を向けながら言いました。
「他の《街》の核にいる《少女》はみんな女の子で、ドレスを着ているんですよね。ですが、シャガは男の子で、燕尾服を着ています。――だよね、シャガ?」
《おお?》
「シャガはオシャレでカッコイイ、黄色の燕尾服を着ているんだよね?」
《おおよ!》
ユリオプスが問いかけると、シャガはオオフエヤッコダイの姿で元気よく跳ね回りました。ハイドランジアもぴょんぴょこと跳ねて追いかけます。
《しゃ、が。おとこの、こ。えんびふ、く。かっこいい、ね》
《ありがとう、ハイドランジア。よかったらハイドランジアも、ぼくのガールフレンドになってみるかい?》
《うう、ん。ならな、い》
《きっぱり断るなんて素敵だ。もっと好きになった!》
ハイドランジアとシャガがはしゃぐ一方で、マグが不服そうにつぶやきました。
「……気に入らねー」
「すすっ、すみません、マグさん。シャガは筋金入りのプレイボーイでして、可愛い女の子を口説かずにはいられないんです……!」
「いや、そっちじゃない」
「へ?」
ペコペコと頭を下げていたユリオプスが顔を上げました。「といいますと?」
マグはユリオプスの肩を掴んで引き寄せました。
「オレが気に入らないのは、願いを叶える存在だ。元々ロクでもない詐欺師でペテン師でイカサマ師で山師でコンコンチキのあんちくしょうだけどな、シャガの願いに関してはペテンもペテン。叶えてすらいない。なぜなら、もし本当に男になっていたら《街》は生まれないからだ。ヤツはシャガを少女のまま《街》化させておいて、核たる《少女》の姿を男性体にしてみせて、《少年》だなんておためごかしで騙してるだけなんだよ、ドチクショーめ!」
「……わかっています。でもシャガは……」
ユリオプスの顔が苦悶に歪むのを見て、マグは己の過ちに気がつきました。
自身を犠牲にして叶えた願い。願いの果てに大勢の命が奪われ、これからも奪われる危険に晒されている。そうまでして叶えられた願いがマガイモノだったなんて残酷を、シャガに、ユリオプスに突きつけても、責めても、もうどうしようもありません。ただ絶望を産むだけです。
「悪かった。オマエ達の気持ちも考えずに……」
「……いえ。ありがとうございます、シャガのために憤ってくれて」
儚く微笑むユリオプスを見て、マグは思いました。
「責めるべきは願いを叶える存在。いや、願いを叶える存在なんかじゃない。願いと引き換えに人を誑かすクソイカサマペテン師だ」
「――クック! クソイカサマペテン師とは、これまた散々な言い方をしてくるものデスね」
突如としてかけられた声に、マグとユリオプスは勢いよく背後を振り返りました。
陽が落ちて伸びた影のように不意を突いて現れたのは、奇妙な存在でした。
容姿は端麗です。男性とも女性ともつかない、むしろ男女が持つ色香を押し固めたかのような美の結晶の持ち主です。
着ている服も、美貌に相応しい上質なマオカラースーツなのですが、どういうわけかその模様は、アイデンティティを抑制する白と黒の横縞模様でした。
髪型はうなじで束ねた一本結び。透明感のある黒髪は、光の加減によって時折、銀色に輝いて見えます。瞳の色は幻惑的な艶を帯びたアメシスト。声は男声でした。
向かって右側の頬に、天秤をモチーフにしたタトゥーがあり、どことなく魔術的な雰囲気をかもし出しています。
マグの第一印象としては、油断ならない胡乱系美人に分類されました。なぜ油断ならないのかというと、言い知れぬ存在感を植えつけられたからでした。
彼だか彼女だか定かではありませんが、その人物が現れたことによって、不安的だった世界が安定したような、奇妙な均衡を感じました。
(どう考えても人間……なんてことはない!)
しかしマグは念のためユリオプスに訊ねました。
「知り合いか?」
「いえ、存じない方です」
「そうか。――おい、オマエ! ナンパか? 立ち聞きとはスマートなじゃないな、出直してこい!」
マグはチャクラムを構えます。ユリオプスは武器である鎖つきの大楯――ヤマトタマムシの翅に似た形状と色――を構えました。
それから二人は、背後にそれぞれの守りたい者を隠しました。
「おっと。まあまあそんなに警戒なさらずともよいでショウ。あ、そうだ。コーヒーでもいかがデスか?」
胡乱系美人が手品よろしく、コーヒーカップを出現させました。芳ばしいコーヒーの香りが、マグとユリオプスの鼻孔をくすぐります。
「オレはコーヒーは飲めない。苦くて苦手だ。コーラに変えてくれ」
「ナンセンス! シュガーとミルクを入れるならまだしも、コーラに変えてくれなどとは、まったくもってナンセンス。ワタシは大いなる失望をしマシたよ、マグさん」
胡乱系美人は仰々しい身振り手振りを交えて言いました。コーヒーカップはその最中に露と消えてしまいました。残り香さえも嘘のようになくなっています。
「名を名乗った覚えはないが」
「名乗らずともワタシは知っていマス。そちらはユリオプスさん、シャガさん、そしてハイドランジア様」
「……様ぁ?」
マグの眉がピクリと跳ねました。
それには構わず、胡乱系美人は、ハイドランジアにだけ向かって一礼をしました。そして舞台役者のように胸に手を当て、
「申し遅れマシた。ワタシの名はヤジロー。世界より遣わされし者。あなた方の言う、《願いを叶える存在》デス」
と、甚だ美しく微笑を振りまきました。
しかし次の瞬間には、その甚だ美しい微笑は、まるで爆ぜるように明後日の方向へ向けられました。
理由は簡単。マグが力いっぱい殴ったからです。
「………………クック。いきなり殴るなんて、酷いことをしているとは思いマセんか?」
甚だ美しい微笑はそのままに、目だけを見開いたヤジローが問うてきました。その身の毛のよだつ凄然さに、ユリオプスは身が竦みます。
そんな中、マグの声が場違いに響きました。
「思わん! どころか殴り足りん!」
「……デスか。これまたとんでもない乱暴者がいたものデスね」
「ハイドランジアの分。エランティスの分。フキお師匠の分。ネリネの分。ロベリアの分。それから、犠牲になった人達の分。合わせて一万発でもまだ足りない! 死んで贖いやがれよクソイカサマペテン師!!!」
マグは前後を忘れて飛びかかりました。
「クック! 戯れをご所望デスか……、であれば実力の一端をお目にかけまショウ」
ヤジローは一歩、二歩と後ろへ飛び退き、マグの拳を躱していきます。風車塔の端まで下がり、もう後がないかに思われました。
するとヤジローは、臆することなく足の踏み場のない宙へと身を躍らせました。おそらくは宙に浮くのだろう。そう考えたマグが後を追うと、ヤジローはすぐ真下で待ち受けていました。
「いただいた一発、お返しいたしマス」
「……っマグさん!」
ユリオプスがやっとのことで叫びました。
「来るなユリオプス! シャガを連れて避難して――ろ?」
黒い糸状の線に乗ったヤジローが、華麗に右ストレートを決めました。マグの小さな体は小惑星のごとくすっ飛んでいきます。
「おっと、あのままではこのキッカを出てしまいマスね」
ヤジローは足の裏にある黒い糸をしならせると、反動を使って飛び出しました。いとも簡単にマグを追い抜くと、その先で再び黒い糸を張り、足場とします。スピードを殺すため、ヤジローは黒い線の上を、氷上を舞うスケーターのように滑りました。すると黒い糸は、弦楽器のような音を立てました。
ややもして飛んできたマグの頭を、ヤジローは片方の手のひらで受け止めます。
「他愛もない。これくらいにしマセんか? ワタシはあなたには興味がないんデスよ、マグさん」
勢いをいなされたマグの体が、重力に従い落下し始めました。
「……くっそ……」
マグの鼻血がキッカの上空に点線を描いています。
《ま、ぐ。だいじょう、ぶ?》
テレポートしてきたかのように、ハイドランジアがマグの傍らに現れました。わざわざマグの頭の下で正座して、膝枕の様相を作っていました。
「ねーちゃん。アイツ、つえーわ」
《しゅくふ、く。す、る?》
「うん。おねがいする」
ハイドランジアがマグの額に唇を寄せ、キスをしました。触れた唇からハイドランジアはマグの中に溶け込み、マグの全身に線状の光が幾重にも走ります。
光が全身を満たすと、マグの体は滞空しました。やがて光は下腹部へと集中し、マグの下腹部から膝にかけてのエリアから、レーザー砲の砲身が顔を見せます。
マグはヤジローの元へと急上昇しました。
「……その祝福は品性を疑われるのではありまセンか?」
待ち受けていたヤジローが、しかつめぶった顔で言いました。
「生存本能のシンプルな表れだろ。ギャグか下ネタとでも思ってるなら、それこそゲスの発想。逆に品性を疑うってものだ」
マグは可憐な少女の幼い体で、やれやれと肩を竦めてみました。
「見解の相違デスね」
「ああ、オレはオマエとは相性最悪だ。とっとと消えてもらう」
「ええそうでショウとも。ワタシも現実を見ようとしない者など嫌悪の対象でしかありまセン。あなたにこそ消えてもらいたいものデス。ワタシが用があるのは、ハイドランジア様だけなのデスから」
ヤジローが凄烈な侮蔑を露わにしました。
「《願いを叶える存在》が、今更、願いを叶え《街》となった《少女》に何の用があるってんだ!」
「あなたなどには関わり合いのないことデス」
「ハイドランジアのことでオレに関係ないことなんてない!」
「関係があるとおっしゃるなら、ぜひお答え願いまショウ! あなたはいったい誰なのデスか?」
「オレはマグだ。ハイドランジアの、ねーちゃんの弟――」
「ハイドランジアという少女に弟など存在しマセん!」
「そんなことあるか!」
「いるのはマグオートという名の妹! しかし彼女は死にマシた!」
「なに?」
「《街》化したハイドランジア様が一番に死なせたのデス!」
「それは!」
「つまりマグと名乗るあなたは、マグオートの皮を被った赤の他人!」
「は? ちがう、オレは」
「その正体は真っ赤な偽物!」
「オレは――!」
「――あなたはマグオートではありマセん、マガイモノのマグです! ……その証拠にほら、祝福が消えていくではありマセんか」
ヤジローに指し示された自らの体を見ると、光が、ハイドランジアの祝福が弱まっていました。
「なっ……んで……? ハイド、ランジ……ア?」
気がつけば、動揺したハイドランジアの顔がマグの目の前にありました。
「ああ、大変だぁ……。なにせ祝福を失ったマガイモノのあなたは、まっさかさまの真っ赤なトマトになるのデスからね。クック」
ヤジローの言葉を待っていたかのように、マグの視界が反転。そして、
「――ぇ?」
急転直下に落ちていきました。
「サヨウナラ、マグさん。それとも、ハイペリカムさん? いえいえ、自身が誰であるかも忘れた愚か者さん」
ヤジローが言い終えたまさにその時、まるで返事をするかのような音が届きました。
小気味よく、そして皮肉に。
――グシャ(愚者)。
っと。
+++
闇の向こうから響く声をマグは聞きました。それは、走り出した止まれない何かへ、切に訴えかけるような声でした。
――「お姉ちゃん! お姉ちゃん! 心が痛いよね、傷ついてるよね! でも流したその涙を、感じた苦しみと後悔を、痛みを手放さないで! お姉ちゃん、どうか忘れないでいて! お姉ちゃん! お姉ちゃん、お姉ちゃぁぁぁん!」――
続いて聞こえてきたのは、失うことを決断した、否、失ったことを承知した上で、更に喪失を受け入れるかのような勇敢な声。
――「いいよ。ハイペリカムにあたしの体をあげる。その代わり約束して? お姉ちゃんを絶対にひとりぼっちにしないって!」――
最後に聞こえてきたのは、祈るような、願うような、小さく泣いているような声。
――「ハイペリカム、思いに託し……たしを……けてね。ハイペリカム、うちのお父……もお母さんも、ハイ……カムのお父さん……母さんも、村のみん……消え……ったけど、だからお姉ちゃんとハイペ……ムだけは……でいてね……! 大勢の人を死な……しまったからこ……きて……! 未来をつ……」――
目を覚ますと、知らない天井がマグの視界の先にありました。ずいぶんと高く、闇が凝っているように見えます。どこからともなく、油と埃の臭いがしていました。
「……いまのは……?」
半覚醒状態の意識からこぼれた率直な疑問を口にした時、かつて胸の奥で咲いた小さな蓬の花が揺れた気がしました。
マグはなぜだか酷く感傷的な気分になりました。
「……マグ、オー……――」
蓬の花に手を伸ばそうと、そっと確かめるように紡がれた言葉はしかし、底抜けに能天気な声にかき消されてしまいます。
「あゃあゃ⁉ やあやあ、目が覚めたようだにゅんマギュきゅん! よかったよかった~。じゃ改めて、おっはよーーーーうにゅーーん!」
起き抜けに聞きたくない声ランキングが存在すれば、初回にして殿堂入りしそうな騒々しさです。
マグは思わず身を起こしました。顔を顰め、両耳を手で覆うと、呻くように言います。
「誰だが知らないが、ちょっと勘弁してくれ」
「ぁそかそか! 自己紹介がまだだったにゅん! ソニアさんの名前はサンダーソニアさんだぞー!」
サンダーソニアと名乗ったその人物は、少々へんてこりんでした。というのも、青いヒヨコの着ぐるみを着込んでいるのです。
「にゅーにゅっにゅっにゅっ! ソニアさんだぞー!」
よくわかりませんが、サンダーソニアはますます調子に乗った様子で両手を突き上げていました。
そこへ今度は、ユリオプスの声が飛び込んできました。
「――ソ、ソニアさぁん⁉」
すぐさまユリオプス本人もやって来て、青いヒヨコの着ぐるみを羽交い絞めにします。
「マグさんのメンテナンスが完了次第、速やかにぼくを呼んでくださいって頼んだじゃありませんか! 何を騒いでるんですかぁ!」
「なんだいなんだい、何すんだいユリきゅん! ソニアさんは挨拶をしてただけだい! 離せにゅん! 離すんだにゅーん!」
「離しますから暴れるのをやめてください! まず!」
目覚めた時にあったマグの感傷的な気分は、すっかり鳴りを潜めてしまいました。
現在マグがいるこの場所は、キッカの《街医者》であるサンダーソニアの自宅兼研究室で、マグが寝かされていたのは施術台でした。
誰からの説明もありませんが、何となく状況が呑み込めてきたマグは、靄がかかるような頭を軽く振ります。そこで初めて、自分が赤裸であることに気がつきました。
「サンダーソニア、オレの服は――」
と、マグが訊ねるより先に、《マチビト》のマントを背後から被らされました。
《ま、ぐ》
名前を呼ばれずとも、マグにはわかっていました。
「サンキューな、ね……っ――」
ねーちゃん。そう言いかけた刹那、閃光のようによみがえる。
『ハイドランジアという少女に弟など存在しマセん!』
まるで熱いものに触れたみたいにマグの体が跳ねました。それを皮切りに、ヤジローの言葉が次々と思い出されます。
己の存在を否定する言葉の数々に、マグは焦燥に駆られました。誰彼構わず弁明したくて、弁明を聞いてほしくて堪りませんでした。
「オレはマグだ、マグなんだ! そうだろ?」
ねーちゃん。言いかけたところで、マグは背中から抱きしめられました。
《あなた、は……ま、ぐ。ま、ぐ。だ、よ》
ハイドランジアの言葉にマグは安堵し、目を閉じました。
マグはこの時、ハイドランジアの顔を見なかったことと、祝福が解けた話をしなかったこと、それから自分自身と向き合わなかったことを後々悔みますが、それはまた別の話です。
マグとハイドランジア。サンダーソニアとユリオプス。双方がともに落ち着いた頃、改めてキッカの《街医者》であるサンダーソニアから説明がありました。
「グシャってなっちゃうところだったマギュきゅんを、シャガきゅんから祝福を受けたユリきゅんがキャーッチしたんだけどにゅん。高さが高さだったから結局グシャっちゃってだね、ソニアさんだー秘蔵の《街異物》で処置っといたんだにゅーん」
サンダーソニアがパタパタと手(着ぐるみの羽)を動かす度、臭気がマグの鼻を掠めました。濃いブルーなので目立ちませんが、よく見れば大分薄汚れています。
《マチビト》や《街医者》は老廃物を出しません。とはいえ、活動すれば相応に汚れもしますから、体の洗浄や衣服の洗濯は必須なのですが、
(……全く洗っちゃいないな、この着ぐるみ)
マグは察すると同時に半眼になりました。ユリオプスは「もう慣れっこです」と言わんばかりに達観した表情をしています。
ハイドランジアはあまり嗅覚が利いていないのか、無の表情からは心情を読み取ることができませんでした。
「そうか。それは世話になった。ありがとう、サンダーソニア」
マグはスメルのことは脇に置き、感謝だけに留めました。
「にゅんのにゅんの。マギュきゅんのボディーいじくり倒したいと思ってたから、渡りに船だったにゅん。にゅーにゅっにゅっにゅっ!」
元よりクレイジーな性質の者が多い《街医者》ですが、サンダーソニアのクレイジーさは群を抜いている気がしたマグでした。
「……ユリオプス、オレどっか変じゃない? ちゃんと可愛い? ちゃんといつものキュートなマグ?」
「はぁい、大丈夫ですー! いつものキュートなマグさんですよ!」
お花畑の会話を繰り広げた後、マグはユリオプスに確認しました。
「ユリオプスは大丈夫だったのか? グシャってなったオレのせいでグシャってなんなかった?」
「ええ、シャガの祝福を受けてましたので」
シャガから祝福を受けたユリオプスは、全身を黄色の光の線が巡り、やがて体が一回り大きくなように鎧に包まれた姿となります。
「シャガの鎧をまとったおれはどんな衝撃にも耐えられます。だからマグさんを受け止められると思ったのですが、マグさんの方が耐えられなかった次第でして……。面目ありません!」
決まり悪そうに後頭部に手を当てていたユリオプスが、勢いよく頭を下げました。
しかしマグは低身長を利用し、ユリオプスの顔を下から覗き込みました。
「いや、そんなことはないぞ。ユリオプスが抱き留めてくれなかったら、もっとグシャってたはずだ。違うか、サンダーソニア」
問われたサンダーソニアが「にゅんにゅん」と首肯しました。
「ほら。そういうわけだから、ありがとう、ユリオプス」
「……ふふっ。じゃあ、どういたしまいしてです、マグさん!」
「よし。ところで、シャガはいないのか?」
「シャガきゅんはソニアさんの研究室には寄キッカないんだにゅん。不思議だにゅーん」
口を尖らせるサンダーソニアを他所に、マグとユリオプスは確信していました。
(ソニアさんのせいです~~)
(臭いのが嫌なんだろ)
サンダーソニアの臭気に慣れつつあったマグは、無言で窓を開けに行きました。
「シャガには後でお礼を言うとして。さてユリオプス、ヤツは――ヤジローはどこへ消えやがったかわかるか?」
遅ればせながら、マグは本題に入りました。あまりに遅すぎるその確認は恐らく、無意識の忌避だったのでしょう。
人の心の機微に敏感なユリオプスは、あえてマグが触れるまで黙っていました。
「……いえ。ですが、言伝を預かっています」
聞きますか、とユリオプスが眼差しで問うてきます。
「――聞かせてくれ」
ユリオプスは頷き、そして告げました。
「〝次見える時は、ハイドランジア様を頂戴する〟」
「……上等だよ」
マグは低く唸り、それから吠えました。
「帰るぞ、ハイドランジア! 検証なんてやってる場合じゃない。カサトトでイカサマペテン師を迎え撃ってやるんだ!」
打って変わった雄々しい姿に、しかしユリオプスは一抹の不安を覚えずにはいられないのでした。
(おれは不安です、マグさん。マグさんも本当はおれと同じ不安を感じているんじゃありませんか? だからこそ、慣れ親しんだカサトトへ一刻も早く帰りたいんじゃありませんか? マグさん、あなたは本当は全部わかっているんじゃありませんか?)
問いかければ、きっと追い込んでしまう。そう判断したユリオプスは、弟のことを話しました。
「マグさん。何かあったら、ぜひシャガを思い出してください」
「んあ? どうした急に?」
「弟は、体の性も心の性も受け入れて、それが自分なのだと認めて生きてきました。誰に認められなくとも、誰に受け入れられなくとも、自分だけは自分を認めて受け入れてあげなくちゃいけませんよ――」